加速する時間の迷宮
三人が放り出された空間は、既に狂気そのものだった。
あらゆる物体が、時間軸の加速・減速・逆転の渦に飲み込まれている。
目の前の階段が、見た瞬間には既に崩れ去り、踏み出そうとする手は老化し、戻そうとする体は逆再生される。
「これ……無理だ……!」
ジュードが呻き、カンナの頬にシワが刻まれる。
わずか数秒で、彼女の髪は白髪に変わり、皮膚は乾き、骨が軋んだ。
「酸素の減少も加速してる!もう残り……5%以下!」
呼吸すれば肺が縮み、声を出せば舌が朽ちる。
「何もかもが速すぎる……!思考も、判断も、老化すら……!」
ジュードの銃が崩れ落ち、声弾の粒子が塵となって消えた。
カンナのメモ帳も灰となり、文字すら追いつかず、消えていく。
サクヤが血の涙を流しながら笑う。
「ほらね?合理性なんて無意味なんだよ、この階層では!
何を計算したって、何を選んだって、加速する時間には追いつけない。
ねぇ、諦めたら?」
「ふざけんなああああああああ!!」
ジュードが叫ぶが、声すら時間の渦に吸い込まれて消えた。
カンナの呼吸は止まり、意識が霞む。
死が、目前にあった。
思考は追いつかない。行動もできない。法則も意味をなさない。
酸素はゼロ。体は老化し、崩れ、塵となる――。
そして――
──アラーム音が鳴り響いた。
「シミュレーション終了。プレイヤーは全員、死亡。」
全ての苦痛が、一瞬で消えた。
白髪だったカンナは、再び若々しい姿で目を開けた。
ジュードもサクヤも、傷一つない。
何もかもが、まるで夢だったかのように。
視界に広がるのは、広大なドーム型の娯楽施設。
無数のプレイヤーたちが、個別のカプセルから目覚め、興奮に満ちた声を上げていた。
「くそ、もうちょっとだったのに!」
「加速階層マジで無理ゲーだな!」
「でもめっちゃ楽しかったー!」
「またやろうぜ、あの狂気の世界!」
天井に設置された巨大スクリーンには、こう表示されていた。
【THE MAD GAME(狂気のゲーム)】
あなたの死と絶望は、最高のエンタメです!
スタッフが笑顔で言う。
「お疲れ様でしたー!全ての苦痛は解除されていますので、リラックスしてお帰りくださいねー!」
スタッフたちは談笑しながらデータを確認している。
「今回の没入率、ヤバいな。体感時間1000年超えは新記録だ。」
「メンタルダメージ、ギリギリ限界ギリギリ。危険域寸前。」
「でも、大丈夫。現実では苦痛の記憶は除去済みだから、プレイヤーには後遺症は一切残らない。」
外の世界は、全ての病気が治療可能で、全ての怪我が修復され、誰もが不老不死に近い理想郷。
「死」が消えた時代において、唯一のスリルは、自ら死ににいくことだけだった。
周囲では、別のプレイヤーたちが歓声を上げ、次の順番待ちの列が長蛇を成していた。
「死ぬほど楽しい!」
「地獄階層クリアしたら称号つくってマジ?」
「リアルじゃ何も感じないから、結局コレが一番スリルあるんだよねー!」
巨大スクリーンに流れる広告が、騒音のように響いてくる。
誰もが安全な現実を持ちながら、あえて不合理な地獄に飛び込むことが、最大の娯楽となっていた。
ジュードが溜息をつき、カンナが呟く。
「……なんて、無意味な遊びだろうな。」
その問いに、スタッフの一人が肩をすくめて答えた。
「ええ、そうですよ。
この時代、痛みも苦しみも、病も死も完全になくなった。
生きることにリスクがなくなった社会で、
唯一"死にかけたフリをして恐怖を味わう"ことだけが、最高の娯楽なんですよ。
皮肉でしょう?」
フロアのスクリーンには、広告が流れていた。
だが、サクヤだけは口元に笑みを浮かべたまま、誰にも聞こえない小さな声で呟いた。
「本当に、無意味かな?
この"無意味さ"が、君たちの存在価値だったりしない?」
誰もその言葉に気づかず、また次のゲームを求め、シミュレーターの列に並び始める。
死を忘れた世界の人間たちは、今日もまた、死を夢見る。
外の世界は、今日も晴れ渡り、
誰もが痛みも死もない理想郷で、
ただ一つのスリル、
"死にかけるふりをして、絶望する"ことだけに夢中になっていた。