五話 私─僕─俺─自分─はニャチャルピル=ケコラパピオン
「はら、ほうふるしかふぁいか」
自らの頭をその拳銃で打ち抜く。脳を震わせる銃声。漂う硝煙の臭いが、全てを過去の出来事にしていく。
そして、打ち抜かれた偲は死と表現するにはあまりにも淡白だった。それはつまり軽いのである。中に詰まっているはずの内臓はなく。飛び散るはずの血液はない。その人体は腐敗することもなく、生きていた痕跡すらも残さない。
銃弾が貫いた体は消しゴムのカスみたいに崩れ落ち、さざれ砂のようにきめ細かい。雪のように降り積もり、人体の砂山が出来あがった。
「…………!?」
スクリーンに流れる物語を熱心に見る観客のように桃里は佇んでいる。それはまさしく瞬き厳禁の映画だ。画面の端から端までなめるように部屋を見渡す。桃里は観客のように俯瞰できた。不思議と冷静に、何をするべきなのか彼の思考は巡る。
桃里は後ろ手で結ばれている緩んだ縄を藻掻いて解く。椅子と足を縛っている紐に手を掛ける。手と同じようにあまりきつく縛られてはいない。
──このまま解いて逃げる。
影が差した。あけ放たれた扉から差し込む光が遮られた。桃里は周りを警戒しているリスみたいにピタリと解く手が止まった。そして、鼻を突くような異臭が漂う。
「せっかく盛り上がる演出したのに……全然狂ってないね。私は少しだけ退屈。私のキュンも星南君の心には届いていないみたい!」
桃里の脳を劈くような不快で響く声。ボイスチェンジャーとも違う。数百人の子供の声を一つにし、綺麗な声だけを抽出した声。田村の口調で話かける。桃里は一瞬で画面の中へと引きずり込まれ現実を突きつけられた。
──出来の悪い怪談に違いない。答えたらどこかに連れていかれるようなやつだ。あれ、鳥肌が立って。
「どうしてこっちを向いてくれないの? 知りたいんでしょ? 私が何なのか。人と話をする時は目を見て話す。それがマナーだよ。星南くんっ!」
「見てはいけない。見てはいけない。見てはいけない。見てはいけない。見てはいけない」
桃里の口が勝手にそうつぶやく。頭の中で狂気と理性が警鐘を鳴らす。それでも真実に辿り着かなければと、桃里は無理やり心を奮い立たせた。怪談は未知だからこそ、恐ろしいのだ。謎が分かった瞬間にその魅了は解け、恐怖は霧散する。
狂気も理性も飲み込んで体の主導権を奪い返すように、桃里はゆっくりと上体を起こし、眼前の虚無を見据える。
「俺を監禁している目的は──」
黒い流動体。細長い触手のようなものがいくつも絡みあって人の形になった混沌。蠢く悪がそこには立っていた。
真球の顔に瞳はない。ただおぞましい口と触手の鼻があるのみだ。
記号の体に手足はない。ただ、絡み合う触手が幾重にも重なりあっているのみだ。
開いた扇子のように足元は細く、肩は広がっているだけだ。
それはまさしく未知の存在。偲の行方は空よりも暗く宇宙にすら届いた。
そうして顔のない混沌はにやりと笑った。
「さあ! 混沌の坩堝は混じり合った! 宙の果て外宇宙の創世より来たりし、貌のない破滅。初めまして、桃里君。私─僕─俺─自分─はニャチャルピル=ケコラパピオン。何処にでもいる、歯医者の数より多い顔を持つただのしがない宇宙人さ。そうさ、ただ貌を沢山持っているだけのね」
見つめる瞳はなく。人ですらない。狂ってしまいそうな闇。名乗りを上げた混沌。
──痛みが欲しい。何でもいいから狂える瞳孔を鎮めるために。
桃里は確固たる意志で左の親指を咥える。ウインナーでも噛むように歯切れのいい音が響き、彼の歯が骨に当たった。その滴る血液と鈍痛が画面の外側へと彼の手を引いてくれる。
──ああ、安心する。
「ええ……正直っどんっ引きなんですけど。自分の指を噛むなんて。ニャチャルピル=ケコラパピオンでもそんな事しましぇん。あんた馬鹿ぁ!」
「……お前と偲はどういう関係なんだ」
桃里は必死に言葉を紡ぐ。今もなおその狂気を必死に抑え込んでいるのである。
「それは私、偲さんとお付き合いをしていたの。彼ってば本当に恰好よかったけれど、正義のために突っ走る性格で苦労したわ。桃里君と彼、似ている所があるでしょう? 今回も同じようになったら困ると思って黙っていたの」
声色が変わった。桃里も何度か会った事のある偲の恋人。殺されたはずの高橋早苗その本人の声。声の質、話し方、雰囲気までもが同じ。しかし、桃里には分からない。度重なる狂気と謎に、真偽を判断する力を奪われた。
「どういう事だよ!! 本当は生きてて……そもそも人じゃない……偲は、偲は今どこにいるんだ!! 答えろよ宇宙人! 何が目的な──」
桃里の口が開かない。混沌の力によって台詞が剥奪されたかのように言葉を失った。
「駄目よ。感情に身を任せては。私はただ桃里君に聞きたい事があるだけなの。だから少しだけ静かにしていてちょうだい。私は宇宙から来た神の眷属。目的はこの地球にある邪なる神の卵たちを孵化させ育てる事なの」
──宇宙人。神の卵。隕石の欠片。銀髪の男・ジャスティ。隕石の欠片は卵を孵化させるために必要なものなのか。そんなくだらない事の為に偲が犠牲になったって言うのかよ。
「それは違います。あの欠片は邪なる神の一部」
──心を、読まれている。
「あれはね孵化した神の体、つまり神そのものなの。桃里君、ジャスティさんはなぜあなたにそれを託したの? この地球で神はまだ一柱とて生まれていないの。教えてちょうだい。あなたは何者? 彼が託したのには必ず理由があるはずなの。彼がそう言っていたから」
「偲の友達だ! お前らが巻き込んだせいで……もう、普通には生きられないんだぞ!」
「可哀そうに。それも違います。巻き込んだのは──彼らよ。そもそも私、偲に興味ないもの。彼は自分の意志で私を殺したの。それに、もう死んでいるし」
桃里にとって初めての感情だった。彼の人生でこれ以上に腹を立てる事はないだろう。それほどまでの怒り。
桃里は言葉にならない感情に支配されて、気づいた時には地面の拳銃を握っていた。椅子に縛られたまま倒れ込み、殺意を込めて銃口を向ける。
──全弾打った。もう弾は残っていない。
「残念。私の話はもう聞いてもらえないみたい。だからゲームの続きやりましょうか。あなたは何者か? 答えなければ右足のふくらはぎを私の触手で穿ちます。……あなたは何者ですか?」
発砲音と硝煙の匂い。桃里の瞳はもう完全にスクリーンの中へと溶け込んでしまった。後戻りはできないらしい。
当然のように。何事もなかったかのように。気に留める事もなく淡々とゲームを再開した混沌。自分は何者か桃里はそんな問いかけに答えるはずがない。彼の怒りは天井を知らず、混沌の言うことなど何一つとして信じるものかと意固地になった。
桃里は混沌の坩堝を睨みつける。
「そうやって色んな奴に成り済まして近づいて……くっ」
頭部の触手がドリルのように回転し桃里の右ふくらはぎを貫く。肉が抉れ血が滴る。
「次は左のわき腹。あなたは誰?」
「何度も偲に殺されたんだろ?情けないっ……な!」
上半身から伸びる触手が桃里の腹を穿つ。触手は目で追い切れないほど早く、触れる事もできない。二か所の穴から血液が吹き出し、横たわる桃里の下に血だまりを作った
──痺れるような痛み。狂気と痛みの壁に押しつぶされそうだ。けれど、絶対に目を逸らさない。
「次は左の手。てめぇはどこのどいつだ?」
地面へと投げ捨てられた邪神の欠片。広がっていく桃里の血液。それにより、鮮紅色により汚された神の一部。
桃里の怒りに呼応するように神の欠片が点滅しだす。それはまるで脈打つ心臓のように。あるいは、宇宙人のカラータイマーのように。
「ああ! これこそ邪神の躍動! 人類を進化へと導く魔王の子! しゃんと姿を見せて。それはあなたの全てじゃないでしょう? ああ、ああ、ああ! こんな甘美な鼓動、狂ってしまいそう」
数万という細長い触手を蠢かせ耽溺している異形。人型を留められないくらいに悍ましく波打つ。
桃里には確信があった。この神の脈動が自分へと向けられたものであると。そして、左手で握り込んだ。
──エネルギーが流れ込んでくる。初めてなのに安心する。そして途方もない力。これがあれば殺せる。
「無礼千万んんんんん!!」
桃里は欠片によって強化された右手で椅子を無理やり取り払うと、それを異形めがけて放り投げる。そして、同時に立ち上がり、痛みを抱えて走り出す。
人型を取り戻した混沌の坩堝は大きな触手で払いのける。すると、投げつけた椅子を隠れ蓑にして距離を詰めていた桃里が姿を現す。
「星に帰れよ! 宇宙人!」
桃里は握り込んだ左の拳を異形めがけて打ち抜いた。綿あめのような軽い感触が拳に伝って、異形の体に大きな穴が出来る。
「ああ、ああ、ああ! 魔王の子よどうして」
正拳突きで空いた穴から爆発するように混沌の触手が飛び散った。黒いインクみたいに壁にドロドロとした質感でこびりつき、藻屑となる。その跡はまるで焼死体の煤だ。
「信じるわけない……死んでいるなんて、そんなの」
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