第五話
「――晴人は字が綺麗だねぇ。あ、そうだ。お姉ちゃんのお手伝いをしてみない?」
「おてつだい?」
それは晴人が小学二年生の頃のことだった。その日習った漢字をノートに写す宿題をしていた時、希明が背後から声をかけてきたのだ。
「そう! お姉ちゃんって字がちょっと、ちょっとだけ汚いでしょ?」
「ううん、ちょっとじゃない。なに書いてあるかぜんぜん読めないもん」
「うぐ……」
子どもの無邪気な一言にわかりやすくショックを受ける希明。場を仕切り直すように咳払いを一つすると、何事もなかったかのように再び話しを続ける。
「と、とにかくね? そういうことだから晴人に字を書いてもらいたいの」
希明が机の上に広げたのは、何も書き込まれていない空白の巻物だった。しかし新品ではなく、所々に墨が飛んだ点があり、まるで文字だけが綺麗に抜け出したような不思議な空白だった。
「このまきものに?」
「そう。これはすごい巻物でね、やろうと思えば何でもできる妖具だけど、使うには文字を書き込まなきゃいけないの。それに、術式の中には文字を消費しちゃうものもあるから、そのたびに書き足さなくちゃいけなくて」
つまりこの空白は、文字通りに文字を消費した後ということだった。
硯と筆を用意してきた希明は、墨を磨りながら晴人に解説を続ける。
「お経を間違えたりすると、うまく妖術を発揮できなくなることがあるよね。それみたいに、文字もしっかりした形じゃないと術式の効力が弱くなったりしちゃうの。お姉ちゃんは妖力を過剰に使って誤魔化してるけど、晴人が綺麗に書いてくれたらもっと効率よくこの巻物が使えると思うんだ」
「わかった! 希明姉がたよってくれるなら、ボクやってみるよ!」
と、胸を張ったものの、それは簡単な作業ではなかった。
「ならってない漢字ばっかり……」
当時の彼からすれば、経なんて見たこともない漢字の羅列で、読めもしない文字はただの複雑な記号にしか見えなかった。
「最初はお手本を写すだけで大丈夫だよ。この文章の意味とかはだんだんと覚えていけばいいの」
それでも、頭を撫でながら励ましてくれる希明を喜ばせるために、晴人は丁寧に丁寧に文字を書き込んでいった。
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社務所の奥の部屋に向かうと、咲耶の言った通り筆と硯が経机の上に用意されていた。
高級な素材の座布団へと座り、硯に水を垂らし墨を磨る。それからリュックから青と黄色の巻物を机へと広げると、晴人は日焼けした和紙に文を紡ぎ始めた。一文字一文字丁寧に、妖力を込めて。
晴人自身は妖力を放出することが出来ないが、妖狐との戦いで巻物を使ったように、その道具に宿った妖力を扱うことは出来る。
この筆もまた例に漏れず妖具であり、文字から妖力を供給することで巻物の術式を補強している。
「…………」
黙々と、書き進めていく。晴人が一番集中力を発揮することが出来るのが、巻物に文字を書き込む瞬間だった。
お手本を写すことはもう何年もしていない。知識が増えたことと、希明の教えの甲斐あって、今ではその経の意味までちゃんと理解するようになっていた。だから、その経が何を対象に、どんな術式を展開するのかもだんだんとわかってくる。
「消えない耳、なのに取り憑かれてはいない……」
故に、晴人は経の内容を少し変えた。希明ならこうするだろうという感覚、あるいは信頼に基づいて。
それからしばらく墨が乾くのを待って、それから巻物をリュックにしまう。
「これが、うまくいけばいいんだけどな」
外の空気を吸うため、障子戸を開けて縁側に出ると、晴人は空を見上げた。
すっかり日は落ちており、頭の上には雲一つない夜空。月は見えなかった。