第三話
それから三人は急いで学校を出た。耳が生えたままでは授業を受けていられないという妥当な判断からだった。
彼らが向かったのは、学校から南に二十分ほど歩いたところにある神社だった。近くに大きな駅があり、そこを中心に街が栄えている中にこの神社があるため、空から見るとここだけがぽっかりと空いているように見える。
「とりあえずここで待ってなさい」
手水舎の前でそれだけ言うと、咲耶は社務所へと入っていく。ここは彼女の実家でもある神社だった。
「わぁ……! 街の中にこんな神社があったんですね‼︎」
「かなり有名な神社だし、毎年大きめのお祭りもやってるけど、来たことないのか?」
オカルト研究部の血が騒ぐのか、八雲は興味深そうに周囲を見回している。
「アハハ……。そうなんですよ、恥ずかしながら。家がここからかなり遠くてですね。毎日二時間かけて登校しているので……」
「二時間! そりゃ大変だな」
「いえいえ、登下校の電車の中で本が読めるのでそこまで苦ではないですよ。あとはソリティアとか。……ふふ、電車でもどこでも、私はひとり……」
また八雲の自虐が始まってしまった。なんとか引っ張り上げようと晴人が苦心していると、社務所から咲耶が出てくるのが目に入った。
咲耶の姿は純白の小袖に、左目と同じ鮮やかな色の緋袴を着ていた。それは、まごうことなき巫女装束だ。
「わあ! 本物の巫女服なんて初めて見ました!」
物珍しいのか服が好きなのか、晴人の苦心を尻目に八雲の機嫌は簡単に上向きになった。その様子に落ち込む晴人を無視して咲耶は八雲に社務所の鍵を渡す。
「とりあえず貴女は身を清めてから着替えてきなさい。中で阿智――うちの巫女長がシャワーと着替えを用意してくれてるから」
「お清め、ですか?」
「そうよ。不浄のものは出来るだけ落とした方が、祝詞も術式も通りが良くなるんだから」
「なるほど、そういうものなんですね!」
オカルトっぽいと納得した八雲は社務所へと向かった。それからしばらくして、清めと着替えを終えた彼女が出てくる。
まだ若干乾いていない髪が艶やかに光り、白と黒のコントラストを強めている。そして、用意されていた白衣と呼ばれる白い浴衣のような服を恥ずかしそうに着ていた。
「ちょ、ちょっとこれ生地が薄くないですかね……?」
決して安物の生地ではなく、むしろ高級品と言える部類の白衣だったが、それでも水に濡れれば透けてしまいそうなほどの薄さだった。
「そうね。最近の白衣って下着の用途がほとんどで、そのせいでどんどん薄く軽くなってってるのよねー」
「下着⁉︎」
悪びれずにぶっちゃける咲耶に、八雲はあわてて服をかき抱いた。主に晴人の視線から身を隠すように。
「気にすることないじゃない。別に浴衣着てるのと変わらないわよ」
「それでも気持ちの問題があるんですよぅ!」
恥ずかしがる八雲などお構いなしといった様子で話を進める咲耶。
「とにかくこれで、儀式の準備は整ったわね。本当は学校でパパッと終わらせたかったけど、ちょっと面倒そうだったのよねー」
「耳まで生やすのは妖力が強い証だもんな。神に成る前に祓っとかないともっと面倒なことになる」
狐はあくまで神使という扱いだが、これも信仰の混同というものだ。稲荷神=狐という認識が広まったせいでこっくりさんもいずれ神と成る可能性は十二分にある。
「わ、私はどうすればいいんですか……? というか、巫女さんがいるってことは儀式が何かですか? そういうのって、夜にやった方がよかったんじゃ……」
「いや、だから今がちょうど良いんだ」
「へ?」
きょとんとする八雲を手招きで参道の中央へと招く。
「今からお前に取り憑いた狐を引き摺り出す」
神社という空間は、それだけで特殊な「場」として機能する。周囲から隔絶された、妖気の満ちる空間では神はその姿を顕現させやすい。
「咲耶」
「はいはい」
咲耶が八雲の前に立つのを確認すると、晴人は反対側、八雲の後ろへとスタンバイした。
「あ、あの……引き摺り出すって、一体何をするんですか……?」
状況を飲み込めず、震える八雲に咲耶はにっこりとした笑みを顔に貼り付けてにじり寄る。後退ろうと振り返った先には晴人が控えていて逃げ場がなかった。袋の鼠とはまさしくこのことだと、現場を見た人間が納得できるような光景がそこにはあった。
「ちょおっとビリっとするけど、我慢しなさいよねっ!」
そして、宮司や神主の振るう、ジグザグの紙をつけた棒――大幣を袂から取り出すや否や、その先端を八雲の額へと勢いよく突き付けた。
シャンッ、という紙同士が擦れることが空気を揺らす。
「痛っ!」
「――其の御身に宿り給ひし大神へ、恐み恐み白す。さぁ、とっとと出てきない!」
咲耶が祝詞と共に叫ぶと、大幣の先、八雲の額に接する部分が光り出した。次の瞬間、ずるりと八雲の体から飛び出したのは、くすんだ白い体毛を持つ、体長二メートルに迫る巨体の狐。
そのまま意識を失い、地面へと倒れ込もうとしている八雲を受け止めると同時に、晴人は彼女の頭の耳が消えていることを確認した。つまり、あれが取り憑いていたものの正体、妖狐だ。
「よーし、出てきたわね! それじゃ、晴人はしっかり八雲さんを守りなさいよね!」
「ああ。任せろ! だから任せた!」
互いの実力を信頼しているからこその言葉だった。『戦えない妖師』。それは無能を意味する言葉では決してない。適材適所、互いに足りない部分を補っていることの証明だ。
晴人は八雲を抱え上げて十分な距離を取る。あの付近にいては命が幾つあっても足りないだろう。それだけの暴虐がこれから起ころうとしているのだ。
「ちゃっちゃと終わらせるわよ。たかが学生のおまじないから生まれた妖なんてアタシの敵じゃないんだから!」
暴虐を起こすのは妖狐ではなく、咲耶の方なのだが。
「富士の浅間の大神に恐み恐み白す。夜の守、日の守に守り幸え給え」
大幣を水平に構え祝詞を唱えると、今の春の季節にふさわしい若葉色の妖力が先端から溢れ、咲耶の全身を覆った。洗練された、無駄のない妖力の流れ。単純な身体強化の術式だからこそ分かるその正確無比な様子は、他の妖師が見ればその美しさにため息を溢すだろう。
『カルルル……‼︎』
応じるように妖狐も鳴く。喉を鳴らすような軽い音だが、それだけで威圧感を感じさせる迫力。咲耶の妖力の強大さを感じ取ったのか、それとも本能的に敵と見定めたのか、彼女に対し地に臥せるような臨戦体制をとった。
――ッ‼︎
両者が踏み込み、打ち合うのはまさしく一瞬の出来事だった。鋭い爪と若葉色の妖気を纏う大幣が交錯し、轟音と共に衝撃が境内を薙いだ。
少しの沈黙があって、
「――ま、こんなものよね」
砂煙の中から響いたのは、呆れるように呟く女性の声。やがて煙も収まると、そこには傷どころか、服にも汚れ一つ付いていないままの咲耶がそこに立っていた。足元には二メートルに及ぶ純白の巨体が力なく倒れ伏している。
「いつ見ても流石、の一言しか出てこないな。妖力の出力といい無駄のない流し方といい」
一撃。これが、咲耶の実力。彼女はこの町に留まらず、日本でも有数の力を持つ妖師と言っていいだろう。あの妖狐も決して弱い妖ではなかった。むしろこれから神に成ろうとすらしていたのだから、普通の妖師では十分苦戦していたのは想像に難くない。晴人にとってとても頼りになる存在だった。後は――
「これで性格もよかったら言うことはなかったんだけどなぁ……」
「聞こえてるわよ。悪かったわね、八雲さんみたいに大人しい性格じゃなくって!」
聞こえない程度のトーンで話していたはずなのにばっちり聞かれていた。妖力を開放しているときは聴覚も鋭敏になる。下手なことは言うもんじゃないなと晴人は肩をすくめる。
「それにしても。なんで八雲を引き合いに出すんだよ。オレこの子に会ったのつい最近だぞ?」
正確には入学当初から会ってはいるのだが、知り合った時期ということで自分を正当化するダメ人間がそこにいた。
「うるさい! いいからさっさと封印しちゃいなさいよ‼︎」
「へいへい」
女心はわかりそうもないなぁ。なんて考えながら、ダメ人間は近くの木に八雲を寄りかからせ、背負っていたリュックから青と黄色の巻物を取り出した。
「封式――『縛』」
呪文と共に術式を開放すると、両手に持っていた巻物が意思を持ったかのようにひとりでに動き出し、妖狐の周りを半球形に囲むように広がった。そして、巻物に書かれた草書の文字がプルプルと震え、やがて剥がれ落ち妖狐へと張り付いた。
白い毛並みを覆う文字はどんどん数を増し、妖狐が見えなくなるほどに真っ黒になると、次は圧縮でもしているみたいに小さくなっていく。そしてそれは手のひらに収まるほどの黒い八面体で固まった。
これが晴人の適材適所。咲耶が戦闘を行い、晴人が封印をする。妖力を持った道具――妖具である巻物を駆使して咲耶をサポートするのが晴人の役割だ。
巻物を戻し、黒い八面体を拾い上げる。これで封印も完了した。これで八雲も元に戻るだろうと、八面体をポケットにしまい、彼女の方へと向かおうとした時。
「――‼︎」
誰かが晴人を呼ぶ声がして。
「え」
振り返った彼の目の前には、黒い刃のような影が目と鼻の先にまで迫って――
「――ぼさっとしてんじゃないわよ‼︎」
刃先が晴人へと触れる刹那、咲耶の大幣がその腕を弾き飛ばした。その余波で吹き飛ばされた晴人だが、なんとかギリギリで受け身を取って咲耶の方を見る。
襲い掛かってきていたのは、黒い風のような妖力を全身に循環させた、刃で出来た腕を持つ細身な人型の妖。
『…………』
妖は咲耶へと顔を向けると、腕に風を集中させた。
すると、膨張した風が鍔迫り合いのように腕を抑えていた大幣を弾き、そのまま咲耶のバランスを崩させる。追撃しようと腕を振る妖から、咲耶は倒れる勢いを殺さずハンドスプリングをするようにして距離を取った。
「ごめん! 助かった!」
気を引き締めて妖へと向き直る晴人。丁度妖と八雲の間に立つ位置取りだ。
それを見て咲耶は頷くと、再び大幣を目の前に掲げた。
「富士の浅間の大神の、高き尊き御神威に依りて、悪しき風の無き事を仰ぎ奉り恐み奉り白す!」
咲耶は先ほどと同じ、いや、それ以上の出力で若葉色の妖力を身に纏った。つまりは、あの咲耶がそれだけのことをしなければいけない相手だということ。
足に妖力を集中させた咲耶はその強化された膂力で妖に迫り大幣を振りぬいたが、妖の纏う風によって狙いを逸らされダメージを与えるには至らない。
「この風……こいつ結構厄介っ! 晴人もさっさと手伝いなさい!」
「わかってる!」
「うぅ……?」
その時、晴人の背後で声がした。
「八雲⁉︎ 目を覚ましたのか!」
「え、今……何が」
「悪い! 説明してる余裕がない。そこでなんとか身を守っててくれ‼︎」
口の中が急速に乾くのを感じながら、晴人はリュックから今度は白と赤の巻物を取り出した。『戦えない妖師』にも出来ることはある。封印だけでない適材適所を発揮するタイミングだ。
咲耶は妖気を足へと集中させ、黒い妖の頭上へと飛び上がった。晴人は同時に巻物を妖へと放り投げ、両手を打つ。
「封式――『陣』!」
術式の解放と共に、宙を舞う巻物がまた意思を持ったかのように動き出す。それは妖を中心に蜘蛛の巣のように広範囲へと展開し、そのまま空間を囲うように空中に固定される。
「さあ――最初からトップギアでいくわよ」
飛び上がった咲耶は、空中へ無数に広がる直線の一本に着地した。術式によって強化された巻物は破けることなく、まるでリングロープのようにしなり、反動で咲耶を加速させる。
妖は、常人の目では追えないほどに加速した咲耶になおも反応して見せるが、躱そうとした先で巻物が絡まり思うように身動きが取れないでいた。その隙を突いて、咲耶の大幣が妖の肩を鋭く抉った。
『~~~~ッ‼︎』
そう。この陣は足場であり檻。獲物を捕え、蹂躙する一方的な狩場をこの術式は作り出す。
「まだまだぁ!」
強烈な一撃を与えてもまだ咲耶は止まらない。速度を殺すことなく、それどころか足場を巧みに使いさらに加速してみせる。その度に赤黒いツインテールと純白の袖が宙を舞い、緋い左目と袴が空間を彩った。その流麗な動きは、さながら神楽のようで。改めて彼女は巫女なのだと晴人は場違いな実感を抱いた。
黒と白と緋、そして若葉の四色の閃きが妖を捉える度に、強烈な一撃が叩き込まれ、妖の声にならない苦悶の声が上がる。
「まぁ所詮こんなものよね。風で逸らせないだけの一撃を一瞬で打ち込まれたら手も足も出ないでしょ」
『~~~~~~‼︎』
咲耶は身を翻し、一段と強く踏み込んだ。
「アタシと張り合いたかったら不死にでもなってくることね‼︎」
今までの最高速度で繰り出される若葉色の一閃が、妖の額へと迫り――
『ア、マリ……アナドルナ‼︎』
「! こいつ、喋って……⁉︎」
循環する黒い風の奥で、爆発したかの如く妖力が膨張した。最初の妖狐との打ち合いに匹敵する衝撃波にも似た暴風が巻き起こり、周囲の陣と共に咲耶も吹き飛ばされる。
「きゃ⁉︎」
「咲耶‼︎」
自身の方へと飛んできた咲耶を晴人はなんとか受け止めた。突然の事態に驚いているのか、少し顔の赤い咲耶を抱き起こし、妖へと向き直る。今、妖の身に起きたのは、
「変化……!」
それは、妖やその発展系である神に稀に起こる、自身の肉体が急速で変質していく現象。
噂に尾鰭がついて果てにはまったく別物の話になってしまうのと同じように、人間の信仰あるいは空想の産物である彼らにも同じことが起こる。
今あの妖に起きた変化は、今までの声にならない声から打って変わって人語を喋り出したことと、纏う風の質が変わったこと。例えるなら、清流が大雨によって濁流になるように。纏っていた強風は、ただの人ならば撫ぜるだけで皮膚が粟立ち悪寒がするほどの邪気を孕んだものへと変質していた。
『……ニンゲン、ジャマは、アマり、しなイでもらいたいンだがな』
――こいつ、段々しゃべり方が流暢になってる……?
『まったク、おもしろい妖気をかんジてちょっかいを出させてみれば……随分と立派な側近を置いているじゃあないカ』
流暢どころの話ではない。話し方どころか仕草までがどこか紳士然とした様子に変わっていた。
「こいつ、なんなのよ……?」
咲耶の困惑も尤もだった。暗記を得意とする彼女の記憶にもこのような変化の仕方は該当するものがなかった。
「というか、これは変化じゃない、のか?」
『変化、変化か。ククク、まぁ好きナように解釈するといいさ。ワタシはアレさえ手に入ればいいかラな』
そう言って妖は、二人の背後にいる八雲を見た。風に覆われて顔は見えていなかったが、それでも確実に八雲を見ていた。
「わ、私が……?」
「なんで……なんで八雲なんだ⁉︎ 八雲は妖師でも何でもないただの人間だぞ⁉︎」
『ただの人間、か。ハハ! ハハハハ‼︎』
何がおかしいのか、妖は高らかに笑いながらゆっくりと歩き始めた。
ただ歩く。それだけの動きなのになぜか異様な威圧感があった。妖から目が離せない。喉が圧迫されるような錯覚に呼吸が浅くなる。晴人はそんな異様な感覚に襲われる。
巻物は破れてこそいないものの、先の暴風で遠くに飛ばされてしまっていた。それでもせめて、背後の八雲だけでも守ろうと晴人は傍のリュックへと手を伸ばし――
『――フ。まぁ今日はここまでにしておこウ。そこの娘が厄介な術式を練っているようなのでな。今の風では無事では済むまい』
妖はぴたりと足を止めるとその場で踵を返し風を起こして浮き上がった。
『また来るさ。アレは遊ばせておくには惜しい存在だ。次はちゃんと準備を整えて、な』
風は徐々に勢いを増し、やがて神社を覆う枝葉の向こうへと飛んで行ってしまった。
「このッ、待ちなさいよ‼︎」
咲耶はすぐさま追いかけようとしたが、それまでに組んでいたらしい術式の反動か、飛び上がろうとした姿勢から膝をついてしまった。
「もうっ! 逃げられた‼︎ 一体なんなのよあの妖……」
あの妖は、二人が今までに感じたことのない妖気を発していた。どこまでも異質で、不気味な妖気を。
「いや、今そのことは置いておいて、とにかく八雲を――」
「うぐ……あああっ‼︎」
「「⁉︎」」
突然、悲鳴が境内に響いた。その声を発したのは、二人の背後で身を守っていたはずの八雲。
「なんで、妖狐はちゃんと封印したのに! まさか、あの黒い妖の妖気に当てられて……」
慌てて駆け寄り、その場にうずくまる八雲を抱き起こした。
「……!」
「そんな、……どうして?」
晴人に続いて駆け寄った咲耶も困惑の声を漏らした。なぜなら、そこには本来あり得ないはずの光景があったから。それは――
「……なんで、八雲にまた、耳が?」