プロローグ
「ねぇ晴人。神様はね、信仰されるから神様なんだよ」
錦に染まったとある山の中で、晴人と呼ばれた幼い――六歳ほどの少年は、目の前の光景をただ茫然と見ていた。
腰が抜けて、服も、灰色の髪も土塗れなことなんて意に介さず、ただ茫然と。
「でもね、信仰っていうのはいつか薄れて、やがて忘れられちゃう。時代と共に必要とされなくなったり、思いの担い手がいなくなったり、薄れる原因は色々あるけどね」
その視線の先にいる年上の――十三歳ほどの少女。腰まで伸びた毛先の白い黒髪を、白いワンピースと共に揺らす可憐な少女は、目の前の怪物から晴人を守るように立ち塞がる。
「信仰を失った神様は、人々の歪んだ想いから災いを振り撒くだけの存在――荒神になっちゃう。こんな風にね」
ソレは、巨大な熊にも、モグラのようにも見えた。
全身を覆う漆黒の体毛。血走った眼はひたすら獰猛に、正面の獲物を見据えている。牙を剥き出しにした口からは唾液が滴り、ソレが空腹であると如実に伝えている。
だから、動くのは必然だった。何の装備も纏っていないひ弱な人間が二つ。巨体が隆起し、黒く鋭利な――まるで死神の鎌のような、命を奪うことに特化した爪が、少女へと振り下ろされる。
――しかし、少女は柔らかな笑顔を崩さない。
「だから、荒神になった神様は祓わなきゃいけないの」
それは一瞬のことだった。振り下ろされる爪に、これから起きるであろう惨状に、晴人が目を背けようとした、その一瞬。
少女が荒神へと手を差し出した刹那。その漆黒の巨体が圧縮される。
血飛沫すら起きなかった。まるで、世界そのものが荒神を押し固めているかのような光景に、晴人は閉じようとしていた目を見開いた。
「本当は、荒神になる前に祓ってあげられたらよかったんだけど……。実際に被害が出るまではなかなか気づけないものだね」
数センチ程度の毛玉になったソレを見下ろしながら、一瞬、少女は寂し気な顔を浮かべる。
幼い少年は、その顔を見て胸が苦しくなるのを感じていた。
「ホラ、立てる?」
「う、うん。ありがと、希明姉」
少女は――晴人の姉である希明は、彼の手を取り立ち上がらせると、髪についた土をぽんぽんと払った。
「ごめんね、驚いたよねぇ。まさか急に大きくなるなんて。びっくり箱みたいだったね」
毛玉の先、大木の根元にある壊れた祠の後を見て、希明はたはは〜と笑う。あそこに祀られていた神が荒神へと零落していたのだ。それが、二人が近づいてきたタイミングで祠を突き破って襲いかかってきて、晴人は驚きで転んで土塗れになった挙句、立ち上がれずにいた。
「び、びっくりなんか、してないし……」
「え〜〜? あんなに目丸くして腰抜かしてたくせにぃ。おかげでずっとニヤニヤしちゃってたよ。ふ、ふふ。あははは!」
強がる晴人だったが、けらけらと笑う希明に、顔をりんごのように紅潮させる。
希明はひとしきり笑って、晴人が拗ねて口を聞かなくなったところで、ごめんごめんと目尻の涙を拭いながら、肩にかけていたポーチから赤と黒の巻物を取り出した。
「さて、この神様をちゃんと祓ってあげないとね」
毛玉の前にしゃがみ込むと、希明は両手に巻物を持って小声で祝詞を唱え始めた。すると、巻物はひとりでに動き始め、毛玉を囲うように半球を描いて展開した。
やがて祝詞を唱え終え、術式――妖力を介して、特定の現象を起こす簡易的な儀式――を開放しようとしたところで、晴人がワンピースの袖を小さく摘んだ。
首を傾げる希明に、晴人は浮かんだ疑問を投げかける。
「かみさまは、元々はあやかしなんだよね? だったら、かみさまを元のあやかしにもどしてあげることは出来ないの?」
それは、純粋無垢な子どもの絵空事だった。考えてみれば当たり前に出てくる、しかし無理無謀だと、大人たちは無意識に切り捨てる机上の空論。
「うーーん。そうだねぇ……」
それでも、希明は正面から受け止めて思考した。姉として、先を生きる者の務めとして、まだ幼い少年を導くために。
無意識に、彼女は髪を留める黄色いヘアピンに触れる。それは思考をより深めるためのルーティンだった。ヘアピンをなぞりながら、ゆっくりと息を吐く。
「そう、だね。信仰だけを、うまく取り除いてあげられれば出来るかもしれない。信仰さえなければ、力を得ることも、歪んだ解釈をされて零落することもなくなる」
「じゃ、じゃあ!」
「――でも、でもね」
期待に目を輝かせる晴人の頭に手を置き、制する。目を伏せ、子どもの夢を否定することを謝るように、希明は言葉を続ける。
「一度広がった信仰を綺麗に取り除くのは、ほぼ不可能なの。それは神様をどうにかすれば解決するものじゃなくて、神様を信仰する人に働きかけないといけない」
それは、ゴールの見えないマラソンに近い。信仰とは絶えず生まれては形を変えて広がっていく。予想外のアプローチから信仰が結びついてしまうこともある。信仰とは不確かで、漠然としたものだから。
さらに言えば、それは人の自由を奪う行為でもある。人の思考に介入して信ずるものを取り除くのは、人が行うには有り余る、まさしく神の御業に等しいものだ。
「それにね、もし仮に、信仰を完全に取り除けたとしても、その神様が元々の妖に戻るとは限らないの。諸行無常、万物流転。この世のものは変わっていってしまうものだから」
リセットして、なかったことにしようとしても、時間が巻き戻るわけではない。そこに変わったという事実が残っていれば、そこを起点に変化は起こりうる。ましてや妖という、人間によって生まれ、人間の感情によって容易く姿を変える存在が、元に戻るということの方が希少なのだ。
「うう、むずかしくてわかんないよ」
「そうだね。晴人にはまだ早――」
頭を抱える晴人の髪を撫でようと希明が手を伸ばすと、彼は頭をブンブンと振って胸の前で拳を握った。
「っでも! できるかもしれないんでしょ? なら、いつかボクがやってみせるよ! そしたら希明姉もかなしい顔しなくてすむでしょ‼︎」
鼻息を荒げて啖呵を切る弟の様子に、希明は目を丸くする。
「かなしい、顔?」
それは、自分で自覚していなかった表情への驚きだった。ずっと弟の、腰が抜けたかわいい姿に笑みを溢していたはずなのに、いつそんな顔をしていたのだろうという驚き。
しかし、少年は確かに見ていた。荒神を倒したあの一瞬。荒神へと堕ちてしまった神への憐憫と、被害者を悼む気持ちが混ざったあの寂しげな表情。いつも痛快な笑みを浮かべていながらも、どこか温かい彼女があんな顔をするなんて、彼は許せなかった。
「だから、希明姉がずっと笑ってられるようにボクがんばるよ! 希明姉に追いつけるぐらい、希明姉になれるくらい!」
興奮した様子で高らかに宣言する弟を見て、希明はクスリと笑って、伸ばしかけたままの手を灰色の髪の上に置いた。
「そっか、晴人は優しい子だね。ちょっと向こう見ずというか、視野が狭いところはあるけど」
髪を撫でながら、眩しいものを見るかのように希明は目を細める。
「じゃあ、楽しみに待ってるね。お姉ちゃんがずっと笑っていられるの」
「うん‼︎」
◼︎◼︎◼︎
晴人が大きく頷き、希明も頷き返す。他愛のないやり取りだった。姉弟の、なんてことないただの会話。
しかし、少年の、弟の、彼の運命はここで確定した。これが全ての起点。それは祝福であり、呪縛であり、歓声があり、批難があった。だがそれを今の彼は知ることはない。幼き日の、無邪気な約束だった。
◼︎◼︎◼︎
希明は晴人を撫で終えると、再び毛玉とそれを囲む巻物へと向き直った。
「それじゃあ、今はこうするしかないから……ごめんね」
祝詞はすでに唱え終わっている。柏手を打ち術式を開放すると、赤と黒の巻物が周囲をぐるぐると回り、中心の毛玉と共に輝き始めた。やがて輝きが強まると、花が開くように巻物で作られた半球の上部が展開し、光の粒子がそこから宙へと舞い消えていった。
「今までありがとう。お疲れ様」
粒子が消えると、毛玉はもうどこにも残っていなかった。
「さ、帰ろっか! アイス買ってってあげるね」
――それが、晴人が初めて希明の仕事に同行した時の出来事だった。
零落したとはいえ、神だったものを容易く祓えるほどに強く、そして聡明な彼女は、数年後のある日、突然姿を消してしまったのだ。