新婚と堕胎
仁志と綺羅羅の結婚生活は思ったよりも順調だった。仁志は瀬田家の援助を得て、満足な研究環境を整え、諸外国のライバルと引けを取らない態勢を確立する。
その一方で、遊び好きの綺羅羅にもそれなりに付き合い、仲の良い若夫婦として義理の両親にも受けが良い。
綺羅羅は仁志という男とどう付き合うべきか考えあぐねていた。
彼女のこれまで付き合ってきた男はすべて医者やその子弟だっだ。
お坊ちゃん育ちの彼らは自分は特別に優遇されるべきと威張っている一方、家の力が通じないところでは周章狼狽し、器の小さいところを見せて、綺羅羅を呆れさせていた。
(いつも冷静に見えるこの男はどうなのかしらね)
綺羅羅はこのいつも達観しているような男が狼狽えるところが見たくなった。
仕事の関係で式から時期をずらせての新婚旅行先のある晩。
綺羅羅の要望で、夕食後にホテルを出て、夜の街を遊びに出かける。
夜の街など出たことがない仁志は彼女の言うがままに進んで行く。
だんだんと建物は落書きだらけとなり、道端に若者が屯して、こちらを獲物を見るように睨んでいる。
(ふふっ、そろそろびびってきたかな。
この先で金を払ったチンピラに脅してもらうことになっているのだけど、そこまで保つかしら)
隣を歩く仁志の顔は全く変わらない。
前から見るからにヤバそうな男達が来て、周りを囲む。
「いい格好してるな。
ここはお前みたいな坊ちゃんが来るようなところじゃない。
命が惜しければ金と女を置いてUターンしろ!」
ボスらしき男がナイフを見せながら脅す。
「クックック。楽しいなあ。
殺してくれるのかい」
ごく小声で呟く仁志の顔は笑っていた。
仁志が何かをヒュッと投げると男の目にメスが刺さっている。
「ギャッ」
「このヤロー!」
問答無用の攻撃に唖然とする相手の喉にまたメスが刺さり、ようやく我に帰り、ナイフを振りかざす相手には頸筋をメスで割いた。
吹き出す血飛沫に相手が怯むのを見て、仁志は綺羅羅の手を引いて言う。
「夜遊びはこの辺りでいいかな。
そろそろ帰ろう」
その口元が微笑んでいるのを見て、綺羅羅は恐れと憧れを抱く。
ホテルまで帰り着くと、綺羅羅は聞いた。
「アンタ、怖くなかったの。
殺されるかもしれなかったんだよ」
「ここで死ねばそれも一興。
僕が死んで悲しむ人もいないし、この世に生きる意味もない。
殺してくれるならそれでも構わないさ」
「アンタ、頭おかしいわね。
嘱望される将来もこんな美人の妻も貰って、人生を謳歌できるじゃない」
「はっはっは、そうだ。
僕は狂っているのかもしれない。
それでも君が子供を産んでくれればこの世界に意味を見い出せるかもしれないな」
そう言って、仁志は綺羅楽を抱き寄せた。
さっきの暴力が脳裏をよぎる。
(暴力と性欲はどちらも原始的な動物の本能ね)
その晩の部屋のベッドは長い時間軋んでいた。
仁志という男にこれまでの男にない興味を持った綺羅楽は、帰国後、仁志を誘い、あちこちに連れ回す。
仲睦まじく夫婦で遊びに行く姿が見られ、瀬田家の両親を安心させた。
その暫くあと、綺羅羅は生理がきていないことに気づく。
まだ子供を産むつもりのない彼女は避妊していたが、あの暴力に照らされた夜だけは興奮のまま中に精を感じていた。
(まさか!)と思うが、仁志はいち早くそのことに気づいていたようで、妊娠検査薬を試すように勧める。
結果は妊娠を示した。
「これは嬉しいなあ。
僕は無神論者だけど、神を信じたくなるよ。
安産の為に万全を尽くそう」
仁志はこれまで見たことのない笑顔を見せ、綺羅羅を抱き上げてぐるぐる回り、最大級の喜びを示す。
両親にも喜ばれるが、綺羅羅は予想外の展開に心がついていかない。
母親になる覚悟もなく、仕事もこれから、遊びもまだ足りない。
上機嫌で毎日早く帰って労わる仁志をよそに、綺羅羅は悩み続けた。
彼女の気持ちを決めたのは、アドバイスを聞くために子持ちの友人と会った時。
(この子、いつの間にこんなに老けて。身だしなみが疎かになって、見窄らしい!
こんなになるのは絶対に嫌!
子供を持つのはもっと後でいいわ)
綺羅羅は中絶することにした。
仁志が賛成しないのはわかっている。
仁志が出張の隙を狙い、知り合いを頼り、こっそりと中絶してもらう。
(いつでも子供なんか産める.仕事が一段落して、遊びにも満足したら産むと言えば、最初は怒ってもすぐに許してくれるはず)
事後に両親に報告すると、叱責されたものの、最後は仕方ないな、時期を見て産みなさいで済んだ。
出張から急いで帰ってきた仁志にも同じように話す。
それを聞いた彼は顔色を変えて、無言で部屋を出て自室に籠った。
そのあとに聞いたこともないほどの大きな音で、物が壊れる音と号泣する声が聞こえる。
身がすくむような思いで綺羅羅はそれを聞くが、やがて寝入ってしまった。
朝になって謝らねばと思ったその時には仁志は彼の身の回りのものとともにいなくなっていた。