28:手を洗う◎
たった一つしか空いていないと言われた宿の部屋。
だがそこは、元々貴族の令嬢が泊まると言っていた部屋だった。よって広々としていた上にベッドは二台、つまりツインルーム!
これが分かった瞬間。
私はランスにこう告げた。
「ランス様。分かりました。この部屋に泊まらせていただきます。ただ、ランス様に野宿されては困りますわ。だってランス様は私の従者であり護衛でもあるのですから。身の回りの世話を焼いていただきたいですし、寝ずの番をしっかりしていただきたいのですが」
これにはランスは何か言いかけ、でも反論ができないようだ。最終的に「分かりました」と返事をして、自身の荷物を馬車に取りに戻った。
この宿は貴族が泊まるぐらいだから、いろいろサービスが充実している。衣類のクリーニングを受け付けてくれていたので、雨で濡れたランスのマントも含め、すべてお願いすることにした。
さらにランスはソファに座り、ローテーブルに甲冑と何やら瓶や缶や布切れを並べた。何をするのかと思ったら、甲冑に防錆剤を塗り、油を塗り始めた。
貴族の令嬢であれば、このタイミングで夕食に備え、ドレスを着替え、お洒落に余念がないのだろうが。私はその必要もないので、ランスの作業を手伝った。そうしているうちに夕食に丁度いい時間になる。
「アリー様、甲冑や兜の手入れを手伝ってくださり、ありがとうございます。……女性にこういった物の手入れを手伝っていただくなんて……。初めてのことで驚いてしまいました。何より、手際の良さにビックリしましたよ」
「それは……当然だと思います。ランス様の知り合いの女性はご令嬢でしょう。お屋敷にはメイドもいらっしゃると思いますが、彼女達はそれぞれの道のプロですから。できて当然。私の場合は……子供の頃からなんでもやらないといけなかったので」
「なるほど」と返事をしたランスは座っていたソファから立ち上がると、隣に座る私の手を取った。何をするのかと思ったら、そのままバスルームへ私を連れて行く。
洗面所に置かれたボウルに水を入れると、石鹸で私の手を、ランスが泡立てくれたのだが……。
私の背後からランスは、自身の両手を伸ばしている。
彼の体は、私の背中に密着していた。
ランスは革製のギャンベゾンを羽織っていたが、それは脱いでいる。今はシャツに革製のキュイラスを着ているが、それは金属製の甲冑と違い、彼の体によく馴染んでいた。
つまり。
背中に、ランスの体を感じてしまう。
こんな風に男性の体に触れたことがない私は、どうしたって彼の体を意識してしまった。そうするともう、心臓が火事を知らせる鐘のように、激しく鳴りっぱなしだ。
だがしかし。
甲冑の手入れをすることで汚れた手を、ランスは洗ってくれているだけだった。それなのにこんなに反応してしまうなんて……。
ランスの左手が、私の左手の甲を包み込むようにして、開いた手の平に石鹸を滑らせる。そして自身の右手を使い、私の手の平を優しく撫でた。
細く長い指が親指の付け根、手の平の真ん中、側面と、石鹸を泡出てながら、マッサージしていく。それはもうなんだか気持ちが良くて、うっとりしてしまう。
さらに指を一本ずつ、彼の細い指が揉み込みながら泡立てていくと……。何とも言えない気分になり、吐息のようなものが漏れてしまった。
するとなんだかランスの息遣いも乱れているような気がして、さらに落ち着かなくなる。しかも……ランスが陽炎のようにゆらゆらと光っているようにも思えた。
そして綺麗な水で泡を洗い流しながら、手全体を撫でられるようにされると……。声が出そうになる。それは出してしまったら、なんだかはしたない声になりそうで、我慢するために歯をくいしばった結果、少し鼻息が荒くなってしまい……。
手を、手を洗われているだけなのに!
そう考えて気持ちの乱れ、呼吸の不自然さを改善しようとするが……。
ランスが輝いている。これは私の反応を見て喜んでいる? いや面白がっているのかしら? ランスの感情が揺れ動くと、生命力はそれに連動して光っている……とか?
それも気になり、なんだかもうカオスな状態のまま、もはや限界で最後の方は、ランスに抱きつき、その動きを止めたくなっていた。その衝動は、ワンピースのポケットのロザリオの存在を思い出し、止めることになった。
「さあ、これで綺麗になりましたよ、アリー様」
耳元で囁かれるランスの声が、なぜだかとても甘く感じてしまい、ロザリオで抑えている衝動が崩れそうになる。
それでもなんとか「……ありがとうございます」と答え、両手を清潔なタオルで包んでもらう。
ようやくこの全身が落ち着かない状態から解放される。
まさに力が緩んだその瞬間。
ランスが綺麗になった私の手を取り、自身の唇を押し当てる。
洗面所に飾られた素敵なレリーフの額縁に納められた鏡で、その様子を見てしまった私は。
「あああああ……!」と、まさに叫びそうになり、自分の手で口を押えることになった。私がまさに限界であることに、ランスは気づいているのかしら!?
「アリー様の手は働き者の手をしていますね。でもこうやって洗えば、とても綺麗です。爪も真珠のように光沢があり、美しいです。保湿用のクリームがあるので、それも塗りましょう」
そう言って天使のような笑みを見せるランスは、淡い光を全身から発している。それは曇りガラス越しに街頭の明かりを見るようで、幻想的で美しい。うっとりと眺め、クリームを塗ると言う提案にも「はい。ぜひお願いします」と返事をしている。
洗面台に置かれた、彼自身も使っているらしい缶の蓋を開けると、コイン程のクリームをとり、私の手の平にのせた。
その後はさっきと同じ。
撫でるように、揉みこむように、マッサージするように。私の左手・右手と順番にクリームをつけてくれる。
ちょっとでも気を抜けば、ランスの胸に全身を預けてしまいそうだった。
ランスにこの部屋で従者として身の回りの世話をしてほしいと頼んだのは……私だ。でもまさかこんな風にしてもらえるなんて。
予想外だった。
予想外だけれど、ランスがしていることは、特別なことではない。
私の汚れた手を洗い、クリームを塗っているだけ……。それなのに私はこれまで感じたことのない気持ちを喚起され、体の芯が熱くなっている。
淡く輝き続けるランスが、私の手に触れていたのは、わずか数分のこと。
それなのにその時間は、私にとって、一生忘れられないものになっていた。






















































