118:カオス
ロキに見送られたランスは、全速力で王立ローゼル美術館の正面入口のロビー前の広場に向かった。その間にクルエルティ・ヴィランは聖槍に触れないよう、自身の上半身を起こした。
ロキのことを八度殺しかけたクルエルティ・ヴィランだったが。
今日、初めてクルエルティ・ヴィランは、死線を超えそうになった。
ランスが投げた聖槍に、もし何もしなければ。
聖槍は、完璧にクルエルティ・ヴィランの心臓を貫いていた。ランスの的確さと腕力と予測不可能な行動力に、クルエルティ・ヴィランは肝を冷やすことになり、彼に対する警戒心は、グンと高まっただろう――そうロキは、身動き一つできない状態でクルエルティ・ヴィランを眺めながら、思っていた。
既にクルエルティ・ヴィランが言う正騎士の意味を理解したロキは、考える。
クルエルティ・ヴィランが今、何を思っているかを。
さすが聖女の正騎士。
正確に心臓を聖槍で穿とうとするとは。
それでも。
聖女は目覚めない。
蜘蛛の巣にからめとられた美しい蝶。
正騎士に対する警戒は高めるが、聖女がいなければ後はもう数で勝負だ。
つまりクルエルティ・ヴィランは、今日をチャンスと考え、これから多数の魔物をこの場所に呼び寄せる。
王都を……魔物で潰すつもりだ。そうロキは考えた。
クルエルティ・ヴィランは、あちこちに自身の魔力をまき散らしながら、ランスの後をゆったり追っている。
「さてどうするかと俺は思ったわけさ。死んだふりをしていたが、実際は本当に死にそうだった。だが俺はいい場所にいた。地上を進む魔物が多いから、『天国の門』の上部に置かれた女神像なんか、気にもしない。それでも中庭に、これだけ魔力をマーキングされたら……。そこで考えたわけだ」
昼食をララの協力を得て食べながら、ロキは昨日、自身がどんな行動をとったかを語り続ける。部屋の隅には、宮殿から派遣されてきた管理官が、椅子に座っていた。ロキの話をさっきからずっと、羊皮紙にメモしている。
「王立ローゼル美術館の屋根には、火災に備えた貯水槽が設置されている。俺の背にはまだ、二本の聖矢が残っていた。ちゃっかり聖弓も持っている。聖水ってのは、神殿で用意してもらうのが基本だ。でもな、緊急事態に聖騎士は備えている。聖なる武器を水に浸す。するとその水は、聖水になるんだ」
「まあ、そうなんですね!」
ララが目を輝かせ、ロキはドヤ顔になる。
「そこで俺は矢の羽根に自分の血をたっぷり塗り、二か所の貯水槽に聖矢を放った。聖矢は勿論、それぞれの貯水槽に命中。これで聖水は完成だ。そして血の匂いを察知した、鼠のような魔物<ファング・ラット>が反応してくれた」
「つまりファング・ラットという魔物が貯水槽を破壊し、聖水が中庭を満たしたわけですね?」
ララが食後の紅茶を用意しながらロキに尋ねると「その通り!」と嬉しそうに答える。
「クルエルティ・ヴィランの魔力の残滓を、すべて聖水で流しきれたわけではない。それでもやらないよりはマシだ。俺はまあ、これで一仕事終えた。もうこれで逝っても文句ないだろうと思ったよ。だがな、見えちまったんだよ。ランスやアリー嬢……アリー聖女がいる方角の上空に、多数の怪鳥のような姿の魔物<シャドウ・ガーゴイル>が集結し始めたのを」
私がいれた紅茶をランスは「ありがとうございます、アリー様」と微笑んで一口飲むと、ロキの言葉を受け、話を始める。管理官が慌てて新しい羊皮紙を取り出し、サイドテーブルのインク瓶に羽ペンを突っ込んだ。
「聖弓を扱えるとはいえ、自分は魔物が見えない。アンリのサポートを受けながら、シャドウ・ガーゴイルを討伐することになったが……。シャドウ・ガーゴイルは、魔物の中でも知恵が働くとは聞いていた。だが投石を始めた時には、本当に驚いてしまった。まさかそんなことをするとは……」
「だがランス、宙を岩が浮いているんだ。敵がどこにいるか、分かりやすくなっただろう?」
ロキのとぼけた顔を見て、ランスはため息をつく。
「ああ、シャドウ・ガーゴイルが投石してくれるおかげで、自分は討伐しやすくなったが……。地上では普通に大量の魔物が集結して、戦闘が続いているんだ。頭上から降ってくる岩なんて、大迷惑の他でもない」
「それであの大混乱だったのですね。それに私はそんな状況でも寝たままだった……。私を守りながら戦うのは、大変だったのでは?」
私の言葉にランスは「アリー様を守る。それは自分にとって、とても光栄なことです」と私の手をとり、甲へ口づけをする。部屋には沢山の人がいるので、これにはもうドキドキして顔も赤くなってしまう。
「ようやくアリー様の元へ戻ることができた。ペンダントをはずそうとしたまさにそのタイミングで、シャドウ・ガーゴイルが現れ……。まったなしで、シャドウ・ガーゴイルの討伐に追われ、そうしているうちに今度はクルエルティ・ヴィランが現れて……」
そこでランスは、紅茶と一緒に出していた一口サイズのクッキーを頬張り、その時のことを思い出していた。
「聖弓を扱える聖騎士は、数が限られている。手を止めず、シャドウ・ガーゴイルの討伐に集中するよう、クリフォード団長から言われた」
ランスとしては、早く私のペンダントをはずしたかっただろうに。もどかしい戦闘が続いたようだ。
「団長は、デュアルナイトの精鋭をクルエルティ・ヴィランに向かわせたが……。奴は腕を切られると、再生する。しかも本数まで増やし、短剣から大剣、槍まで、武器ならなんでも手に取り攻撃してくるんだ。魔物は討伐しているそばから増える。まさにカオスだ」