116:諦めるな!
「……!」
自分の母親が聖女アリアナなのではないか。
そして孤児院の前に私を置いたのは、クリフォード団長なのではないか。
そう思い至った瞬間。
これまで気づいていなかったけれど。
自分がものすごい力で押さえつけられていたのでは?と思った。
なぜなら。
突然、信じられないような解放感を覚えたのだ。
心と体が、突然軽くなったように感じた。
とんでもない解放感を覚えると。
この部屋がとても窮屈に感じた。
もっと広々とした場所で、両手両足を伸ばし、自由になりたい――。
ちょっとそんな風に思っただけなのに。
もうビックリしてしまう。
思った瞬間に、四方の壁がパタン、パタンと倒れていく。
勿論、壁に絵はかかったまま。
巨匠の絵が大変!と思うが、倒れた壁から、額縁に入ったままの絵が、次々と消えてしまう。
絵も消えたが、壁も消えてしまった。
壁がなくなったら、天井はどうなるの?と気が付き、顔を上に向けると。
天井が、落下してきている。
そんな!と頭を抱え、座り込む。
心臓がドキドキしている。
でも。
薄目を開け、頭を抱えたまま、上を見ると。
天井の板は、砂漠のような砂に変わり、サラサラと雨のように降ってきた。砂は、地面に触れると煙となり、消えていく。
不思議な状態にキョトンとすると共に、自分に光は当たっているが、周囲は真っ暗であることに気づいた。
ここは……クルエルティ・ヴィランの術の中だ。
でも壁も天井もなくなった。
もう、自由なのでは?
「アリー様!」
声が聞こえる。
ランスの声が、聞こえるわ!
「ランス様!」
彼の声を叫ぶとともに、まるで水の中から勢いよく飛び出した気分で、上体を起こしていた。
同時に。
「アリー様!」
熱烈に抱きしめられ、ほんのり感じたグレープフルーツの香りに、胸がキュンとしたのも束の間。鉄のような、鼻につく匂いを感知し、眉をひそめ、顔を上げ、息を呑む。
ランスのあのサラサラのホワイトブロンドの前髪には、血がべっとりとつき、片目は閉じられ、そこに血が流れている。
「まさか、目覚めさせちゃったのですか!」
クルエルティ・ヴィランの声に、ランスから目を離し、周囲を見て驚愕する。
ここは王立ローゼル美術館の正面の入口……だと思う。
だが周囲には多数の魔物がひしめき、聖騎士が必死に応戦していた。
その様子はまるで地獄絵図。
そしてクルエルティ・ヴィランと対峙しているのは、クリフォード団長。
団長専用の軍服とマントは純白だが、そこには多数の血が混じっている。
クルエルティ・ヴィランは四本の腕があり、大剣、長剣、短剣、槍を操り、クリフォード団長に、攻撃を行っていた。
クリフォード団長は聖剣一本で、四本の腕が繰り広げる攻撃を受け、流し、押し返し、自身からも斬り込んでいる。その動きのあまりの速さに、目が釘付けになっていると。
「危ないっ」
ランスに突き飛ばされ、地面に転がり、ズサッという音に凍り付く。
クルエルティ・ヴィランが投擲した槍が、ランスと私の間の地面に突き刺さっている。
「アリー様、力を貸していただけますか?」
「勿論です!」
地面から起き上がり、ランスに近づこうとすると――。
「触れるな! アリーは僕のものだ!」
クルエルティ・ヴィランの叫び声と共に、目の前に誰かが転がりこんできた。
アイスブルーの長い髪は……アラン!
アランの持つ盾が、カンッという音がして、二つに割れる。
「間一髪~っ!」
ランスの方にアランが転がり、その直前にアランがいた場所に、長剣が刺さっている。
これもまたクルエルティ・ヴィランが投げたものと分かったその時。
「貴様ぁぁぁぁ」
まさに断末魔の叫び声が聞こえ、クリフォード団長が、クルエルティ・ヴィランの左腕二本を一気に切り落としていた。
だがすぐに切り落とされた肩口から煙が出て、腕が生え始めている。
「クルエルティ・ヴィランは、再生の力を持つ。その速度も見ての通りだ。アリー様の聖なる力と自分の生命の力で、倒すしかありません」
「その通りですよ、ランス指揮官、アリー様! 頼みます!」
立ち上がったアランは聖剣を手に、クリフォード団長の支援に向かう。
「早く、ランス様!」
ランスの腕を掴み、その顔に自分の顔を近づけようとすると。
そのままランスの胸に、勢いよく頭を抱き寄せられていた。
「!?」
驚いて顔をあげるが、ランスの歯を食いしばるような表情に、ハッとして周囲に目を配る。私の頭を抱き寄せた左腕には、短剣が刺さっている。
さらに右腕は、さっきクルエルティ・ヴィランが投擲した槍をつかみ、宙に向けられていた。
後ろを振り返るとそこには、口の中に槍が刺さった状態の、狼の魔物<ウルフ・リッパー>が見える。
「うわあああぁぁぁ」
アランの叫び声が聞こえた。
クルエルティ・ヴィランに持ち上げられたアランが、鼠のような魔物<ファング・ラット>の群れに放り投げられ、クリフォード団長が駆け出す。
その瞬間。
クルエルティ・ヴィランと、ランスと私の間を遮るものが、一切なくなった。
クリフォード団長とアランの奮闘で、クルエルティ・ヴィランの腕は一本のみ。武器は大剣しかなく、他の腕は再生中だった。
なぜか時がゆっくり流れるように感じた。
どうして精鋭が揃っているのに、ここまで押されているのか?
それは……間違いない。数の差だ。
クルエルティ・ヴィランが呼び寄せただろう魔物の数が、聖騎士に対して多すぎる!
もう軍隊蟻の襲撃を受けたかのように、圧倒的な数の差による劣勢。
ランスは左腕に刺さった短剣を抜く。
血が飛び散り、彼と私の頬にしぶきが当たった。
クルエルティ・ヴィランが、ランスに向け、大剣を振り上げた。
短剣と大剣。
例え短剣を投げ、それがクルエルティ・ヴィランに命中しても、聖剣ではないから、倒せない。それにクルエルティ・ヴィランは――聖女に覚醒した今だから分かる。
クルエルティ・ヴィランは、他の魔物とは違う。とても特殊。
聖なる武器で倒すには、心臓を一撃で穿つか、聖なる力で消し去るしかない。
そして大剣が振り下ろされれば、この距離では避けきれな――。
「諦めるな!」
ロキの声と共に、風を切るビュンという音。
短剣を投げ捨てたランスの手が、私の頬を包み込む。
クルエルティ・ヴィランの左胸から飛び出した矢じりの先端。
重なったランスの唇で感じた、彼の血の味。
世界が閃光に包まれた――。