105:偶然
「エルンスト伯爵様。実は奥の席に、ファーブル公爵がいらっしゃいます。エルンスト伯をお見かけになり、ご挨拶をしたいとのことですが」
小切手にサインするランスに、給仕がそっと耳打ちをした。
挨拶をしたいと公爵が言っているのであれば、それは伯爵家であるランスが、その席に向かうことになる。私が正式な婚約者であれば、ランスも同伴するだろうが、そうではない。それに身分的には平民で修道女。そしてランスは聖騎士という立場。
「ランス様。間もなくロキ様も戻ってくると思います。私はここで待っているので、ファーブル公爵の席へ、ご挨拶に行っていただいて構いませんわ。待たせてしまうのは、失礼になりますよね?」
そう伝えるとランスは「アリー様、お気遣いありがとうございます。すぐに戻りますね」と、とても愛情のこもった瞳で私を見た。さらに私の手を取り、甲へとキスをしてくれる。書き終えた小切手を給仕に渡し、ランスは立ち上がり、彼について店内へと入っていく。
視線を中庭のオブジェに戻した私は、そこにある人物の姿を発見する。
ブラック!
まさかここでも見かけるなんて。
でも王立ローゼル美術館は、この王都を代表する美術館。彼がここを見学していてもおかしくない。広い館内で出会ったなら今以上に驚くが、カフェと中庭、遠くでその姿を見つけてしまった偶然には、なんだか微笑ましくなる。
そう思った時。
少し早足で歩くブラックが、何かを落とした。
あ、あれは手袋だわ!
ブラックは手袋の片方を落としたが、それに気が付かず、歩いて行く。
見るからに、上質な革の手袋だった。
まだロキもランスも戻って来ない。
支払いは済んでいるから、席を立っても食い逃げとは思われない。
そこで椅子から立ち上がると、中庭に早足で向かい「ブラック様!」と名前を呼ぶ。
「マドモアゼル!」
ブラックが黒い瞳をこちらへ向けた時、そう言えば私は名乗りもしていなかったわと、自分の非礼に今さら気が付く。でも今はまず、革の手袋だ。
「ブラック様、偶然ですね。また会えました。そして私はあなたが手袋を落とすのをみましたわ」
ブラックは「!」という顔になり、自身が歩いてきた方角を振り返る。
「本当ですね! マドモアゼル、わざわざ知らせてくださり、ありがとうございます」
そう答えるとすぐにブラックは、落ちている手袋を拾うため、今歩いて来た方角へと戻っていく。
後ろを振り返り、カフェの自分が座っていた席を見るが、そこにロキとランスの姿はまだない。そのままブラックの方へ歩み寄る。
「ありがとうございます、マドモアゼル。この革手袋はアトラス大公国に行った時に購入した羊の革の手袋なんですよ。柔らかくて暖かくて、重宝しているのです。牛革の手袋はよく見かけますよね。でも羊は珍しいので。教えてくださり、助かりました」
そう言うとブラックは拾い上げた手袋を左手につけ、マントの下の上衣のポケットから右手の革手袋を取り出した。
「つけてみますか? 手にフィットしますよ」
「そうなのですね。では試しに」
右手に薄く柔らかい羊の革手袋をつけると、よく馴染み、温かい。
するとブラックが白い歯を見せ、快活に微笑み、手袋をつけた自身の左手で、私の手袋つけた右手を握り締めた。
「あなたはとても美しいですよ、アリー・エヴァンズ」
ブラックがそう言った次の瞬間。
景色が一変した。
「え!?」
王立ローゼル美術館の中庭にいたはずなのに。
国内外の巨匠の絵が所狭しと展示されている「出会いの広場」の一つの部屋にいることに気づいた。多くの巨匠の絵があるので、そこは沢山の来館者がいて、係員もいるはずなのに、誰もいない。
部屋の中央には、休憩用に置かれた長椅子がある。
そのそばにいるのは、私とブラックだけだ。
何が起きたのか分からず、キョトンとした表情で、ブラックを見てしまう。
「第102代聖女であるアリー・エヴァンズ……いえ、アリー・アリアナ・シアラー、それが本当のあなたの名前でしたね。お会いできて光栄ですよ」
ブラックは落ち着いた様子で微笑み、ソファに腰をおろす。私にも隣に座るよう、すすめた。
「しかし今回は本当に驚きました。三千年に一度と言われる星回りが、巡ってきていたのですね。しかも三年前に、一度二人の仲は、キッチリ引き裂かれたはずなのに。また出会ってしまうとは」
「あ、あのブラック様、何の話ですか? そして中庭にいたはずですが、どうしてここに……?」
少し距離を置き、ソファに腰をおろし、ブラックに尋ねる。
「本当に。聖女として目覚めていないと無知ですね。でもそのままでいいです。そのままのあなたを愛せば、あなたは聖女として目覚めることはないですから」
「!? ブラック様、先ほどから聖女、聖女とおっしゃられますが、私は聖女ではありません。それに名前もアリー・アリアナ・シアラーなんて名前でないですから」
「まあ、僕はどちらでも構わないですけどね」
そう言うとブラックは、手袋をつけていない右手で、私の頭を撫でた。
「まさか聖女にこうやって触れることができるなんて。他の三王が見ていたら、驚くことでしょう。僕だけに許された力ですよ」
「ブラック様、さっきから本当に、何を言っているのですか……?」