鬼の村へ行く
「なるほど。君はここがどこかわからないし、どこから来たのかわからないわけだね。ここはハルヤの森といってね、人間の居住圏からはるか遠くにあるんだ。人間にとって毒となる魔気に満ち溢れているし、凶暴な魔物がたくさんいる。人間の子供が一人で来ることができる場所じゃない。誰か大人と一緒だったんだと思うけど、やっぱりそれも覚えてないんだよね?」とフィカスは続ける。
「ええ、覚えていません」と俺は答える。
すっとぼけているとかじゃなくて、その時の俺は、何も覚えてないような気がしていた。大事なものはすべて遠いところに置いてきた感覚。
山形で生まれ、大学からずっと東京で暮らして、それから山形に帰る途中で、この森に来たことは確かに理解できてはいたが、そんな記憶はすべて遠いところにあった。
「うん。わかった。とにかくこの森は君にとって非常に危険な場所なんだ。まもなく夜になる。夜は魔物たちの食事の時間だ。君はこの森で朝を迎えることはできない。わかるね?」
確かにそうなのだろう、と思い俺はうなずく。
「うん、なので君を僕たちの村に連れて行こうと思うけでいいかい?鬼の村なんて君にとっては恐ろしいものかもしれないけど、君はきっと村で快適に過ごすことができる。知ってるかな?今の鬼は人間の食事と変わらないんだよ。耕作もしているし、ワイン用のブドウ畑もある。」
彼は人間の子供は鬼を警戒するものだと思っていた。警戒を解いてなんとか安全な場所に連れて行こうとしていた。いいやつだなあ、と俺は思った。
「フィカスさん、僕はあなたの言葉を信じます。あなたの村に連れて行ってください」
「よかった。これで一安心だ。さあ、とにかく行かないと。君の足だと夜まで間に合わないから、抱えていこうと思っているんだけどいいかな?」
「ありがたい申し出です。大変恐縮ですが、どうぞよろしくお願いいたします。」
「よかった。さあさあ急がないと」
フィカスは、すぐに俺を小脇に抱えて、走り出した。
すごいスピード。ロードバイクくらいはありそう。
こんなに速く走れるなんてすごい。俺はめちゃくちゃ感動した。
「フィカスさん!すごい!めちゃくちゃ速いです!すごい!」
「ありがとう!でも。しゃべらないで!舌かむよ!」
それからフィカスは1時間くらいぶっ通しで走り続け、日が完全に落ちて夜がはじまる頃に、俺たちはフィカスの住んでる村にたどり着いた。
フィカスは村の入り口で俺のことを下すと、草むらに入ってゲロをはいた。
全速で一時間走ったのだ。俺は申し訳ない気持ちになった。