はじめは名前がなかった
額にごつごつしたものが触れて、それで目が覚めた。
目を開けると俺の顔を覗き込んでいる鬼と目が合った。
時刻は夕暮れ時で、真っ赤な光が森を照らしている。
額から二本の角をはやしていて、肌が緑色の鬼が真剣な面持ちで俺の顔を覗き込んでいる。
額に触れていたのは大きく角張った鬼の手のひらだった。
またもや異世界の化け物。
だけどまた、俺は恐怖を感じなくて、鬱状態で刺激にうまく対処できなかったのもあっただろうけど、鬼の顔が優し気で、そして美しかったからだと思う。
その鬼の名前はフィカスといって、俺がこの世界ではじめて会った「人」である。
今思い返すとフィカスはこの世界での一番の恩人だし、俺の冒険はフィカスとの出会いからはじまった。
フィカスは鬼の吟遊詩人だった。
彼は、古い鬼の戦争についてよく歌っていた。
彼からは多くのことを学んだが、それはまあ後で話そう。
目を覚ました俺にフィカスは語りかける。とても優しく美しい声で。
「人間のこどもよ。目を覚ましたので安心したよ。どうして森の中にひとりでいる?君は誰かと一緒だったのかな?」
まず俺は、フィカスの話す内容を聞いて俺は理解できたので「ははあ、こんな感じか。便利でいいや」と思う。
それから、フィカスが俺のことを「こども」と呼んでいることに違和感を感じて、それから自分の体を見ると、子供の体であることに気づいた。
身長150センチくらいの12歳くらいの体だ。
それに気づいて俺は「ははあ、異世界転移じゃなくて、異世界転生ってわけか。後で鏡で顔見てみよう」と思う。
最後にフィカスの問いかけに答えるために考える。
しかし、この世界のことを何も知らない俺は、彼の質問になんて答えるべきか皆目見当がつかなかった。
何て答えようかと考えて、押し黙っている俺にフィカスはまた質問する。
「ああ、鬼を見るのは初めてかな?君たちの物語では鬼は人を食べるみたいだけど、今の鬼はそんなことはしないよ」
フィカスが答えやすい質問をしてくれたので、俺はようやく口を開く。
「ええ、鬼を見るのは初めてです。でも、僕はあなたのことが怖くて押し黙っていたわけではありません。恥ずかしながら、僕は自分の状況をうまく把握していません、なぜ、森の中にいるのか分からないのです。どこか遠くから来た気がしますが、そこがどこか思い出せないのです。」
結局ある程度正直に話すことにした。
「なるほど。それは混乱してしまうね。君は自分の名前はわかる?ちなみに私の名前はフィカスというのだけれど」
「フィカスさんですね。よろしくお願いいたします。せっかく名乗っていただいたのに恐縮ですが、僕は自分の名前がわかりません。確かに名前はあったかと思うのですが、今は思い出せないのです」
この体の坊やには、ちゃんとした名前があって、両親と暮らしていたのかもしれないと考えると、自分の名前を名乗るのがはばかられた。
俺の異世界の冒険は、まずは名無しとしてはじまった。