憑依してしまったお嬢様を助けたい
ふと気付いたら、よくわからんなんちゃって中世欧州っぽい国のおヤバイ公爵家の哀れなお嬢様に憑依していた。なお体の主導権は私だけどお嬢様と脳内で会話はできる模様。
「は? え? は?」
『ねぇあなた』
「ひぇっなに? えっ?」
『ねぇ、今すぐ額ずいて許しを乞わなければ危ないわ』
「えっ?」
いきなりのことに混乱して、頭の中に直接響いてくる声が話す内容もろくに理解することができない。
ただひたすらに現状に混乱し、知らない場所に焦り、姿の見えない声に怯えていた私は、今自分が地面に跪いたような姿勢で、目の前に知らない男が立っていることにすら咄嗟に意識を割くことができなかった。
そして振り下ろされたのは鞭だった。
のちにお嬢様の実の兄だと分かる美丈夫は、おぞましいほどの猫撫で声で私を、否、頭の中の声の主を窘める。
「かわいいマチルデ。お前は泣き顔や悲鳴まで猫のように愛らしいが、人間であるならば言葉を話すべきだろう?」
生まれて初めて味わう激痛に絶叫して泣き叫ぶ私に、楽しげに鞭がさらに振り下ろされる。
言葉? なに? 言葉? 何、何を言えば。
『ねぇ、ねぇ、あなた。お願いだからわたしの言う通りにして。お許しくださいお兄様と唱えながら地面にキスをして。マチルデが愚かでした、許してくださいとだけ繰り返すの』
気が狂いそうな痛みの中、どうにか声に従った。咄嗟にとっていた頭を庇ってうずくまる姿勢から、地面に顔を擦り付けて教えられた言葉を繰り返す。
けれど許しを乞うのが遅かったという理由で鞭は止められなかった。
『ごめんなさい、わたしのせいだわ。ねぇ、辛くてもどうにか言葉だけは止めないで。止めたらもっと痛いことをされてしまうわ』
私はただ頭の中に響き続ける、今まで聞いた中で最も可憐な声の悲痛な懇願に応え続け、何度ぶたれたか分からなくなったころにやっと気を失うことができた。
要約するとこうだ。
ここは国の宰相を代々務める由緒正しい公爵家で、父も兄も権力に取り憑かれた異常者で、お嬢様は彼らのための美しく価値のある駒もしくは愛玩動物だった。
動物なので言うことを聞かないのであれば厳しく躾をし、そのくせ人間なのだからと平伏の言葉を強要した。
私がお嬢様の体を奪ってしまったのは、ちょうどそういった「虐待」の真っ最中だったのだ。
『そういうネット小説とかタテコミ読んだことあるわ……』
『ねっと?』
『お嬢様は知らなくてよろしいのですよ』
正直気が狂いそうだけど頭の中に響くころころと可愛らしいお嬢様の声だけが私の正気を繋ぎ止めている。本当にかわいい。声だけで天下が獲れる。しかも顔も絶世の美少女ときたもんだ。こんな全身全霊がかわいいと可憐でできているお嬢様を虐待できる神経が分からない。やっぱ頭のネジ何本か生まれてくる前に落として来たんだろうな。
彼女、マチルデお嬢様は、自己申告を信じるのであれば体を奪った私をちっとも恨んでいないのだという。
『むしろ、痛い思いをするあなたに対して申し訳なく思うわ。それにわたし、お友達ってはじめてなの』
『やめて割と順風満帆に生きてきた呑気な社会人の心に被虐待児童の儚い囁きは刺さる』
『ふふ、愉快な人』
『ねぇ~なんでこんな可愛い子に暴力振るえるの? 鬼畜か? 人間じゃねぇのか?』
お嬢様に話しかける、という意思を持った言葉だけがお嬢様に伝わるらしい便利な脳内会話を繰り広げながら、何一つ前知識のない世界に放り込まれたけどなんかちょいちょい見受けられるそれっぽさ的に異世界転生系ネット小説とかタテコミの世界なのでは……? と確信を深める。公用語日本語だしな。
なお隠す気もないが私はオタクである。
お嬢様の立ち位置は不明。どう考えても家族は悪役だけど悲劇のヒロインなのか物語の開幕を彩る被害者そのイチなのか家族と同じ悪役だけど同情の余地のあるタイプなのか。
いやわからん。というか全部私の妄言かも知らん。原作もセオリーも何もないただの異世界なのかもしれん。
でもとにかく私には唯一無二の目標がある。
一秒でも早くお嬢様をここよりマシな場所へ連れていって幸せになるのを見届けたのち、絶対に元の世界へ帰るのだ。とにかくこの異常事態を切り抜けたい。こんな漫画みたいな目に遭ってるんだから漫画みたいな展開が来るでしょうたぶん。そうであれ。
私は今まで、恵まれて、幸せで、満ち足りていた。
仲の良い家族、やりがいのある仕事、気のいい友人たち、果てのないオタク活動。元の世界の私がどうなってるのかは分からないけれど、どうしても帰りたい。帰って人生の続きを歩みたいし、家族に孝行をしたい。悲しませたくない。今あちらはどうなっているのかというこの不安から一刻も早く解放されたい。
けれどその悲しませたくない家族は私をそれなりに良識のある人間に育ててくれたので、お嬢様の現状を放置するという選択肢はなかった。
『お嬢様。体を奪いあなたの尊厳を侵してしまっていること、本当に申し訳なく思っています。私に何ができるかも現状不明ですが、できる限りのことはするつもりですのでよろしくお願いします』
『チハルは優しいのね。無理だけはしないでね』
そして「令和日本人にそもそも身分制度やらなんやらが肌に合うわけないんだよな」と淑女教育に内心舌を出したり、お父様やお兄様のたぶん性欲を伴っていないことだけが救いの過剰な愛情表現及び嗜虐性に耐えたり、それを少しでも緩和させる立ち振る舞いを覚えたりで、なんやかんや数ヶ月が経った。
私もだいぶマチルデお嬢様のフリが板につき、深窓の高貴な貴族令嬢らしく咄嗟に動けるようになってきたある日、お嬢様に婚約話が持ち上がった。
待て。お嬢様、おんとしじゅうよんさい。日本だと義務教育。バリバリ未成年。
いや分かる。時代柄そんなもんだと思うしかの悲劇のフランス王妃だって嫁いだのはそれくらいの年齢だって勉強しましたし。でも価値観的に無理。
私は令和日本で生きていた、いる、まだ生きてる絶対生きてるここにくる直前の記憶が全く思い出せないけどとにかく生きてる、大人らしい大人でありたい二十ウン歳社会人。一回りも下の女の子が人権侵害されている気がして儘ならない。いやもうこの家に生まれた時点で色々もう詰んでるんですけど。
鍛えた笑顔で「光栄です」と答えながら、どうにかこうにか自分を落ち着かせた。
この家を出られる可能性が浮上したのだ。心してかかる必要がある。
(仕事のできる良心があるできれば家柄と武力もある男こい! 顔はもうどうでもいい! 仕事ができなければ狡猾な公爵家を相手取れないし良心がなければお嬢様を託せない! 家柄と武力はあって困ることはないしむしろないとやや不安! お嬢様のナイト来い!)
ちなみにお嬢様は外では悪辣な公爵家で当主と次期当主に甘やかされ溺愛され我が儘放題に育っていると悪評が流れているらしい。
そんなお嬢様に来た婚約話。そして私が見聞きした最近の父兄の動向。十中八九裏がある。希望はあまりに微か過ぎる。けれど祈らずにはいられない。
現代社会だったら大人が子供に手を出したら犯罪者塀の中から出てくるなと思うけど、この際まともな全方位隙のないタイプの大人がいい。子供じゃお嬢様は守れない。それかまともな家庭の子供こい。
修行が足りないことに私の真剣な祈りと悩みが少し顔に出てしまったらしい。十四にもなる娘を膝に乗せて愛でていた気色の悪い男、お嬢様の父親がそれを不安と取ったのか、相変わらずの甘ったるい声でこう告げた。
「私たちのかわいいマチルデ。大丈夫だよ、離れるのはほんのいっときだけさ」
曰く、婚約中に花婿一族を利用するだけ利用して最終的に切り捨ててお嬢様を連れ戻す計画らしい。
知ってる。なんだったら何度かそれを繰り返してバツ4か5くらいになってさすがに再利用できなくなったら適当な理由をつけて表舞台から退場させて、その後屋敷に囲うつもりなのも知ってる。
なんとしてでも逃げねば。だってこいつら結局お嬢様の可憐な顔と従順な性格を気に入っているだけなのだ。この美貌に翳りが見えたら適当な修道院に監禁して一切の外界との接触を断たせて飼い殺すに決まってる。
この子をそんな目に遭わせてたまるか。
というか父親はともかく兄がだいぶ怪しい。一線は越えていないけど、割と深刻な歪んだ愛情をお嬢様に向けている。というのもお嬢様、本当にこの父と兄と血が繋がっているのか疑わしいらしい。
お嬢様を産んで亡くなった、父親の妾だった母親はお嬢様そっくりの美貌にあかしてそれはもう派手に遊んでいたらしく。違う種の公爵家の血など一滴も流れていない娘なのではないかともっぱらの噂なのだ。
今のところ頭を撫でる手にも鞭を振るう様子にも抱き枕代わりにされるのも、性的な意思は感じない。それこそ猫の子のような扱い(ただし虐待はする)。けれど血が繋がってない疑惑のせいか、本っ当に時々、目が変なときがある。
本当にこの家鬼畜生しかいないよ頼むからこの治安がこの世界のデフォルトとか言わないでくれよお願い善良な人も生きていてくれそしてお嬢様の婚約者であってくれ。
「貴様が公爵家の黄薔薇か」
なにそれ存じ上げない。花言葉で揶揄ってる? 嫉妬深いって煽ってんのか? お?
――そして出会った婚約者は、融通の利かなそうな顔から体つきから何かと厳つい軍人だった。目算二十代後半。ただ私の目算は当てにならないので結論・不明。でも私の感覚ではお嬢様に手を出したら犯罪者扱いをしてしまいそう。
しかし勤勉ではありそうだ。武力もありそう。名誉と権力ある騎士団の若き団長補佐らしい。ゆくゆくは副団長を経て団長になる予定なのだとか。へぇ。
ところであなた正義感とかある? 頭はいい? 悪巧みと権力闘争だけは天才的な宰相と公爵家次代相手取って生き残れそう?
「まぁ、お恥ずかしいことに友人は少ないのですけれど……。マチルデ・ランソルと申します」
「ロベルト・ヴェルディだ。マチルデ嬢、……マチルデ。きさ、……あなたをヴェルディ侯爵家の次期夫人として、丁重に扱おう。俺の持ち得る全てでもって、あなたを守ると誓う。だが、あなたが俺の大切なものに害を為すのなら、許すことはできない。それをどうか承知してほしい」
少ないどころかお嬢様に友達は本人曰く私だけらしいけども、すっとぼけて別の花言葉である「友情」を持ち出してみるが華麗にスルーされ何なら釘を刺されてしまった。
まぁ、ですよね。むしろ彼の大事なものに手を出さない限り冷遇はしないと宣言してくれたので驚いた。どこまで信じていいかは分からないけれど。外見詐欺の嘘吐きクソヤロウの可能性は否めないし、普通にお嬢様の悪評でロベルト様にその気はなくても家人に敵意があるかもしれない。というか普通、ヤバイ評判の女が大事な御曹司に嫁いで来たら警戒はする。
結婚は一年後。なぜすぐに結婚しないのにお嬢様の身柄がここにあるのか。それはまぁ、様々な政治的だったり何だったりの理由による。最たるものは宗教・法的理由で、実はここヴェルディ家、隣国の侯爵家である。
そちらの国と戦争するつもりはありませんよ。戦争したわけではないので和平の証に王族の子女は差し出せませんが、王族に準ずる高貴な乙女を送りますから睨まないでね。がお嬢様が嫁ぐ主な理由。
しかし、実は隣国、こちらと信じる宗教が違う。
めちゃくちゃ違うわけではなく、同じ神様を仰いではいるのだけど、宗派とか教義が違うので国を跨いで嫁ぐには改宗の必要がある。どちらの国も同じ宗派同士でしか結婚できないし、改宗して一年は経たないと国民として認められない。
私には馴染まない感覚だけれど、まさかお嬢様の人生をただでさえ奪ってしまっているのに身分制度だの宗教だのの改革の狼煙になんてさせられるわけもなく。そもそも私にそこまでの才覚はないし。なるほどねと従うだけである。
そして過ごし始めて二ヶ月。ロベルト様、たぶん、合格。
いや何様という話なのだけど。こちらも切羽詰まっているので勘弁願いたい。私のエゴでしかないけども、お嬢様をあのクソッタレランソルから連れ出したいのだ。
そして、とりあえず二ヶ月を過ごし、ロベルト様がおそらくは誠実で厳格、しかして腹芸もできる、結構理想のお嬢様のナイト役候補らしいことが分かった。いや所詮貴族のお嬢様、しかも警戒対象が見聞きできる範囲の判断だけども。とりあえずランソル家よりは百倍マシそうなのでこのまま結婚してしまいたいところ。
しかしその障害になるのが、お察しの通りそのランソル家。
確実に一年後婚約を反故にできるよう、お嬢様にヴェルディ家に嫌われるよう厳命を下している。詳しくは分からないけれど、この一年で何やら画策する気らしくすぐに破棄はせず、期限ぎりぎりにお嬢様を連れ戻す算段らしい。
何するつもりなのかな……戦争の下準備とかかな……マジでやめてほしいな……。
ただこれが清廉潔白な婚約だなんてランソル家というかどちらの国も信じてないと思うので、平和主義な人々に頑張ってほしいところだ。いや私にもできることがあるならしたいけどこれお嬢様の体と人生だし。
あの家から出たいかもちゃんと聞いたうえで一応は実行しているのだ。さすがに「虐待家族捨てたくない?」とは聞けても「戦争したくないので好き勝手動いていい?」とは聞けない。あと繰り返しになるけどそもそも私にその才覚はないし、この世界の常識すら付焼き刃とお嬢様というカンニングペーパーで乗り切ってるのだから土台無理な話です。
というわけで、私のこの一年の目標はどうにかしてロベルト様にお嬢様の生家での扱いを知らせて同情してもらってこのまま結婚してもらうなり別の形で保護してもらうなりすることになった。
けどこれ、結構難しかったりする。
お優しいロベルト様はお嬢様に不自由がないよう結構な人数の使用人を実家から連れてくることを許可したので、周囲は監視の目だらけなのだ。
私が父兄の命令通りランソル家に嫌われるような我が儘な言動をしなければ即家に報告が飛ぶだろう。嫌すぎ。無理すぎ。こわすぎ。国を跨いでいるのですぐに折檻とはいかないだろうけど、何をされるか分かったもんじゃない。ので、ロベルト様が完全な味方と分かるまでは父親たちは欺いていないといけない。
じゃあどうするのか。こうするのだ。
「マチルデ、あなたはまた、」
「っ! ……なにかございましたか? 私はただ、食事が口に合わないので下げてほしいとお願いしただけですわ。作り直せとも、料理人を罰してほしいとも申しておりません」
「あなたの立場ならば、口に出さずとも周囲が勝手にそうする。それを理解したうえで、言っているのだろう?」
「そんな……私、そんな酷いこと考えたこともありません」
もちろん理解してるし考えてる。分かりやすく醜悪な我が儘はお嬢様のただでさえ割とよろしくない評判に障るので、貴族的で性質の悪い、しらを切ろうと思えば切れそうな範囲の、しかし大変に印象の悪い我が儘をかましていく。これでうちの使用人も枕を高くして眠れるというものだ。
そして一番重要なこと。それは、ロベルト様が苛立たしげな様子を見せたり、叱責しようと口を開こうとすると、普通なら見逃してしまいそうなくらい細やかに怯えて見せることだ。
『チハル、どうしてあの人が近付くとわざと一回怯えたふりをしてから罵倒するの?』
『違和感を植え付けるためですよお嬢様』
というか最早、父兄を思い出させる男性全てにさりげなく怯えて見せている。息を詰まらせたり、表情を強張らせたり。使用人の目がなければ大袈裟に肩を跳ねさせたり、咄嗟に頭を庇おうとしたり。
使用人は基本的に私の後ろに控えていることが多いし、主人の顔を直接見ることは失礼にあたる。これまた現代人の私には馴染まないマナーだけれど、存分に利用させてもらう。
私の表情は、大抵の場合高貴なロベルト様にしか見えないのだ。だから些細な表情の変化なら、いくらでも見せられる。
全身全霊で、疑惑と同情とできれば愛情を得るべく演技しまくる私です。
令和に生きた身としては男に依存する人生とか真っ平だけど世界観的に難しいし今そんなこと言ってられないので私は全力で愛されにいきます。
庇護者を獲得せよ。与えられた条件で最もお嬢様の人生に良い結果を勝ち取るのだ。
そんなある日、朝の支度をしている最中なにやら扉の向こうが騒がしくなった。ほのかな期待を胸に抱きつつ、顔には怪訝そうな表情を乗せる。
「どうしたの?」
「お嬢様、大変です。ロベルト様がこちらへ向かっているそうで」
「えっ?」
白々しく驚いたふりをして、慌てたように隠れる場所を探そうとして、けれど「夫」が望んでいるのに「妻」が応えないのは貴婦人のすべきことではないと狼狽える。
結局、お嬢様これを、と差し出された大きなショールをシュミーズの上に羽織る。着替える前にやってきた彼が何を考えているのか。待ち望んだことが起こるのが今日なのか。指先の震えは、演技でもなんでもなかった。
「脱げ」
「は?」
窘める使用人の言葉にも耳を貸さず、ずかずかと部屋に入ってきたロベルト様は、開口一番そう言い放った。思わずガッツポーズを心の中で決めつつ、いつもよりさらに大袈裟な怯える演技をしてみせる。
嫌がるフリをする私を庇うように、実家から連れてきた使用人たちが口々にどうにかロベルト様を失礼にならない範囲の拒絶の言葉でお帰り願おうするも、全て黙殺される。
彼女たちも必死だ。なぜなら、家族がきっと祖国で公爵家で人質に取られている。お嬢様に何かあれば、そして公爵家の計画に支障をきたせば、彼らはみな容易く命を刈り取られるだろう。
私が性悪な我が儘を言って罰されてもせいぜいが多少の罰金かそれに類するもので済むこの家と違い、あちらはそんな生易しい場所ではないのだ。
いや、罰金だけでも心苦しいけど。さすがに路頭に迷うほどはされてないと信じてるけど最悪のタイミングだったりした場合何があるか分からないし。本当に申し訳ない。あなた方よりお嬢様を選ぶ私をどうか許さないで。いやどちらかというと私たちをこんな目に遭わせている神様的な存在を恨んでほしいけども。
とにかく。十数分の攻防の末、すべての使用人は部屋から叩き出された。
「もう一度言う。マチルデ、服を脱いでくれ」
「……婚約者と言えど、まだ結婚もしていないのに肌を見せるわけには、」
「俺は子供に欲情はしない。裸になれとまでは言っていない。そうだな……少しはだけさせて、背中辺りを見せてくれ」
「!!」
表彰物の恐怖に引き攣った顔で後退る。たぶん血の気が引いて肌は真っ白だろう。それは演技ではなく、緊張からだった。
ここだ。ここが、正念場だ。
嫌です、と震える声で返せば、未来の夫となる予定の人は、眉ひとつ動かさずにお嬢様との距離を詰めてきた。咄嗟に逃げようとするが、本職に敵うはずも無く簡単に捕まえられ、壁に顔を押し付けるように押さえつけられる。十四の割に発育の良い胸が潰れて少し痛い。
暴れる間もなく、うなじ部分の布を掴まれ破く勢いで引き下ろされた。実際、少し服は破れた。
そして晒されたのは、何年にも渡る惨たらしい折檻の痕が残る背中。鏡越しに私も見たことがある、あまりに痛ましい少女の体だった。
やっとだ。やっとここまできた。彼に、マチルデは暴力を振るわれていて、その痕が体に残っているのではないか? という疑念を抱かせて、それを丁寧に丁寧に育ててきたのは他ならない私なのだから。少しでも肌を晒すような展開は徹底的にあからさまに回避してきたし、危ないときは連れてきた使用人に助けを求めたりもした。
だから彼は今、使用人を追い出して、お嬢様の肌を暴いている。
「放して! 放してください!!」
ひび割れるような声で訴えれば、彼はあっさりと手を放してこちらから距離を取った。私はショールをかき抱くようにして身を縮め、どうにか肌を隠そうとする。けれどそうするほどに、「意図せずに」、ふくらはぎなどの痕すらも見られてしまう。
もう隠せない。そう覚った顔を作り、次に私が取った行動は、きっとロベルト様にとって予想外のものだった。
慣れたようにその場に額づいて、はらはらと泣きながら訴える。涙は、今までの痛みを思い出せば簡単に流すことができた。
「お願い申し上げます。私の使用人とその家族を守ってあげてください。見なかったことにしてください。このことが父や兄の耳に入れば、皆の命が危ないのです。お願いします。何でもします。私にできることなら、何でも致します。だから、だからどうか!」
父親たちはお嬢様を一生誰かの褥に侍らせるつもりはなかった。だからこそ、ここまで痕の残る虐待を平気で行ったのだ。
それがバレたとあっては、法で裁けなくとも、権威が揺らがずとも、それでも公爵家の醜聞にはなる。そうなれば、秘密を守れなかった使用人とその家族はただでは済まない。
深く深く息を吸う。涙のせいでひっひっ、と、引き攣れるような嗚咽になってしまったが、哀れさをアピールできたのでよしとする。
私の視界は床だけで相手の足先すら見えないが、それでも頭上でロベルト様が息を呑むのが分かった。
(ああ、お願い、お願いです、ロベルト様)
どうか私に、お嬢様に篭絡されてください。
ここからだ。ここから、私は絶対にこの男を篭絡しなければならない。
哀れな少女を庇護しなければと強く決意させなければ。
けれど実家の奴らのように歪んだ愛もどきなどにならないように。あくまで健全に。お嬢様が自由と幸福を謳歌できるように。
私からすれば、どうしても不自由で抑制されて権利を侵害されているようにしか思えないこの世界で。それでも、お嬢様が望む形で、しあわせになれますように。
帰りたい。家に帰りたい。私が私の顔で、私の体で、私の意思と権利を行使できる場所へ帰りたい。それが本当。
でも、この祈りだって、嘘ではないのだ。
「……マチルデ、マチルデ。泣かないでくれ。頼む、俺にあなたを、守らせてくれないか」
そっと肩に手を置かれて、上体を起こされる。彼は目線が同じくらいになるよう、床に膝を突いていた。侯爵家の、次期当主が。高貴な家の者とはいえ、ただの小娘のために。
そして必要以上は触れないように、けれど心から労わるように、背中を少しだけ撫でた。
この体に暴力を振るわなかった手によって撫でられたのは、この世界に来て初めてのことだった。
『お嬢様』
『なあに』
今までずっと黙っていたお嬢様は、私の呼びかけにすぐに答えてくれる。
やさしいかわいい、私が全てを奪ってしまった女の子。
『あなたはこの男に興味などないかもしれませんが、どうか彼で手を打ってください。たぶん悪い人じゃありません。あなたの夫を勝手に決める代わりに、必ずやこの男をあなたの尊厳を絶対に侵さない、侵させない存在にしてみせます』
『そうなの? 好きにすればいいわ』
お嬢様に対してもロベルト様に対しても無礼極まりないことをほざきながら、私は打算と計略に塗れた思考のまま目の前の体へ抱き付いた。
泣き声や悲鳴は心地がいいからと許されたけど、あまりにうるさければ打たれたので躾けられた通り小さく小さく嗚咽をもらす。全ては、この人を篭絡するために。
そんなお嬢様を。……私を、ロベルト様はただ優しく、抱き留めた。
――やさしいチハル。かわいいチハル。あなたはいつも、色んなことを心配してる。
そして格別に、わたしを心配して、優しくしてくれる。
チハルは気にしていたけれど、同情だっていいのだ。こんなにも真っ直ぐで温かな心をくれたのは、チハルが初めてだったから。
これは内緒の話なのだけれど。チハルはわたしの体を掌握したけれど、わたしは、チハルの記憶と感情を掌握していた。だからチハルの今までの人生を、わたしは彼女が覚えている限り、全て知っていた。
あたたかで、こうふくで、みちたりたじんせい。わたしにはなかったもの。
羨ましいと憎む前に、この記憶と感情を味わえたことに感謝した。それを与えてくれたチハルに感謝した。
なんにも知らないふりをして、チハルに優しい言葉をかけてもらって、素敵な、本当はもう知っている物語とかを語り聞かせてもらって。
チハルが何を考えているかも全て分かっていたけれど、聞こえないフリは簡単だった。彼女がわたしを呼ぶ声は、いつも特別やさしかったから。
チハル、チハル。わたしの将来を、世界で一番、心配してくれているあなた。
本当はなんだっていいの。あなたの好きにしてくれていいの。
だってわたし、あなたがいればそれでいいの。でもこれは我が儘だから、言わないの。
かみさま、かみさま、どうか。
この優しい、お姉さまのようなこの人が。
いつかちゃんと帰りたい場所へ帰れますように。
そしてできれば。もし、できればでいいから。
一度だけ、この人と手を繋ぐことができますように。