9.追憶
アスクはこれまでずっと、村に下りてきた時にはひと晩宿を取り、小屋では飲めないエールを飲んで過ごすことを楽しみにしてきた。
だが、今回は少女がいた。
治癒の魔法が使える者特有の、黄金色の髪の事もある。村人の前へ連れていく訳にはいかないと決め、「小屋で待つなら、絶対に、私が帰ってくるまで小屋から出るな。それが嫌なら親の元へ帰れ」と申し付けてきた。
その際、大鍋いっぱいのシチューを作り、最後の小麦粉でパンを捏ねて焼いてやってから出掛けてきたのだ。自分の魔法で水を作る事も竈に火を入れる事できる少女が、無理に小屋から出る必要はない。
洗濯だって、一日二日サボってもどうということはないだろう。
だから、別にアスクがいつも通りに宿を取って、こころゆくまでエールを味わっても何の問題もない、筈だ。
そのはずなのだ。
にも拘らず、なぜ、アスクは暗くなってきた山道を、懸命に上っているのか。
額に汗が滲む。行きは下りで楽に引けたスレーも、乗せた生活必需品や土産の重みで行く手を阻む。
「っ」
少女は、アスクの幼馴染ノエルにあらゆる部分でそっくりだった。
姿形だけではない。表情も、仕草も。あらゆる部分で思い出の中の幼馴染に重なる。
だが、別人だ。血は繋がっているかもしれない。だが、ノエルではない。
アスクと同い年のノエルが、十歳の姿をしている訳がないというだけではない。
大抵の時間において、少女は確かに、アスクの記憶にある故郷で共に遊んでいた頃のノエルそっくりだ。本人かと思う事もある。
だが、時折自分を観察しているような様子になることもある。そんな時、少女が発するものはまったく別の存在になる。
瞳が閉じられ眠っている時の少女は、むしろ人外に感じる時もある。
確かに温かい身体でありながら、どこか冷たい人外に成り代わる。
それでも、アスクの前で笑う少女は幼いノエルにそっくりだった。
少女が現れる少し前までは、好きだった笑顔すら、おぼろげになっていた癖に。
視界に、小屋が目に入ってくる。
いつも静かで暗い生活感のない寝て暮らすだけの小屋から、灯りが洩れていた。
死ぬまでのほんの束の間、冷たい雨を避けるだけの、単なるねぐらであった筈の小屋へと灯るあかり。
あたたかな揺らぎのある光。人の暮らしがある証。
そこに自分を待っている存在がいると思うだけで、アスクは、胸の奥に沈めたそれが、熱くこみ上げてくるのを感じた。
アスクはノエルの事が好きだった。
幼い愛ではあったかもしれないが、心を捧げる相手であった。
『僕が、ノエルを守る』
単なる幼馴染みであった頃から。
『大好きだよ』
聖女となり、王族とすら会話を交わすようになったという彼女を、遠くからでも守る存在になりたいと、教会騎士になれるようになるまで精進を続けた位には。
けれど彼女はアスクを置いて去っていき、二度と戻ってくることはなかった。
死んでしまったのか生きているのかも、わからなかった。
だから。
アスクは、死んでしまいたいと何度も思った。
暗い夜、幼いノエルとの思い出を夢に見た朝も。
教会騎士になれたものの、王城へ招かれていくノエルを遠くから見守っていくことしかできない、あの誇らしいような、遠くなってしまった存在への想いに胸が焦げつくような苦しく甘やかな夢を見た夜も。
なにより、ふとした時に最も辛く苦い記憶が蘇った時には、とても、とても強く。
王の治療を拒否し消えてしまった彼女が、世界から魔法を奪った魔女として槍玉に挙げられて、その無実を訴えたアスクが彼女をおびき出す為に人質として、王城前で磔に処されたあの時。
遠くから、教会騎士として守ってきた筈の王国民の手で投げつけられる腐った卵や石礫は、実際にアスクの身体まで届くことはなかった。
怒り狂った民衆がアスクを餌食にした勢いのまま王城へと押し寄せてこないように、アスクの前には幾重にも柵が設けられ、兵士が配置されていたからだ。
なによりも、刑吏によって幾度も振るわれる鞭が、人々の溜飲を下げたからだ。
ノエルに私の事はどうでもいい、来るんじゃないと何度も叫びながら、頭のどこかで、何故誰も自分を助けてくれないのだろうと思う気持ちもあって、我ながら矛盾していると思うと、いっそ殺して欲しいと願っていた。
その内に、聖女ノエル以外の治癒魔法の遣い手たちの姿も消えており、その近親者がアスクの隣に磔にされていった。
中には幼い妹まで同じように磔にされて泣き喚く声が胸に痛かった。
そうやって、幾人ものアスク達近しい者たちを磔にして鞭で打とうと、聖女たちはまったく姿を現わさないことに諦めがでたのか、民衆たちは、その鬱憤晴らしに興味を持たなくなっていった。
近親者たちはそのまま放置されるようになった。
泣き声も呻き声も、五日を過ぎる頃にぴたりと収まる。
骨と皮になって、声を掛けられても声も出なければ、身動き一つ取れなくなった者たちは死んだと思われて、順番に王都の外にある死体捨て場の大穴へと投げ込まれた。
アスクが捨てられたのは、雨の降る夜だった。
乾いた頬を滑る雨水が口へ入り込み、湿らせる程度に口を喉を潤していく。
そうして、雲間から差し込んだ月明りの下で、アスクは再び立ち上がることができるようになった。
一緒に捨てられた同じく他の聖女の近親者たちの遺体から、まだ着れそうな服と靴を貰い受け、身に着ける。
そうしてアスクは、意味も分からず、ただ歩いた。
月の灯りに、導かれるように。
歩いて、歩いて。国中を廻った。
最初はノエルを探して。
いつしか、ノエルの話題を避けて。
真実を知りたいと思えなくなり、ただひたすら逃げた。
街を跨いで移動を続け、どの土地にいっても魔女ノエルの話題を耳にする度怖くなり移動した。隣国にも流れてみた。だが異国で耳に入る魔女ノエルの話題は、アスクの弱った心により堪えた。
そうして、国の端にあるこの魔獣の住まう山の山腹にある小屋に住み着いたのが十年ほど前だ。
自死をしたものは永遠に暗い牢獄の中でひとり閉じ込められるという女神リーシャの教えを思うと、死んでも彼女に再び逢うことができなくなるかもしれないと、実行することもできなかった。
あの日から、ずっと。
ひとりで生きていくのだと思っていた。
彼女の笑顔の輪郭が遠くなっていくほど、心は凪いで、少しだけ息がしやすくなった。
ノエルが生きていることを諦めて生きてきた。
そう思っていた方が、楽だったからだ。
そうとでも思っていないと、好きだという気持ちと同じ深さの恨み辛みで気が狂いそうだったからだ。