6.朝の鍛錬
ようやく洗濯干しが終わったので、鍛錬に戻る。
結局、運足からやり直した。身体を温め、教え込まれたように、全ての型をできる限りゆっくり行う。素早く何度も行うよりも、その動きを取る為に必要な筋肉のひとつひとつをはっきりと意識して動かすことができ、よりスムーズに美しく動く為に必要な重心の置き方・移動の仕方を考えることもできる。
ひとつの動きをゆっくりとすればするほど、筋肉への負荷は高くなる。
ひと通りの型をすべて通して行っただけで、アスクの身体から湯気が上がった。
ここに移り住んですぐは、その昔教え込まれた型通りにしかやらなかった。
仲間同士での模擬戦が主な練習であったし、人間が労なく動ける範囲での攻撃に対処する為のものでしかなかったからだ。
だが今のアスクの戦闘は、魔獣が相手だ。
隊列を組んで役割を分担し補い合うという戦い方ですらなく、完全なる個人戦。
そしてアスクはまだ遭遇したことはないが個人対多数となる可能性も考えなくてはならない。
体の大きさも、可動する範囲も、人間とはまったく違う理が働く相手だ。
鍛錬にも、魔獣からの攻撃を想定することが必要となる。
全方位からの脅威を捌き切る為の動きを研究していったアスクの動きは、自然と円を描くようなものとなっていった。
そうして今、アスクの描く軌道は螺旋となった。
ゆるやかに、全ての面に繋がる線。
魔獣からの強力な攻撃を、螺旋の動きで捌くようにすると、不思議なことにアスクの動きにアスク自身の力以上のものが移り、より素早く動けるようになるだけでなく、上手くいけばその勢いを攻撃に乗せることができると気が付いたのは何時の頃だったろう。
上手に相手に置いてくることで、アスクの力と魔獣自身から得た力をすべて一点へ与えることができると分かってからは、それを意識して動くようにもなった。
やわらかに流し、受け取り、返すのだ。
相手の力を柔らかく流しながら受け取ることに失敗すれば、諸にその攻撃を自分が受けることになる。
練習に練習を重ね、弱い敵から実践に投入してきた。
ワイルドベアほどの強敵に対して実践で使ったのは、昨日が初めてだ。
「ふう」
痛めた筈の、左足を見下ろす。
爪先で地面を蹴ろうとも痛みも違和感も何もない。
「あのワイルドベアのように、私のこの足もはじけ飛んでいた可能性だってある」
元より相打ち覚悟の戦闘だった。もし倒せなくとも、山へと追い返せれば御の字だと思って挑んだのだ。
これで命が終わったとしても、それはそれでアスクは本望だったのだ。
少女が使った治癒の魔法。アスクはノエル以外の治癒魔法を受けた事がない。
故郷で暮らしていた時は、近所で怪我や病人が出ると治癒魔法の遣い手が出向いて気安く治してくれたものだが、領主の住む街や王都では、治癒魔法の遣い手に依頼ができるのはお金持ちか貴族だけだった。平民は薬草に頼る生活をするのが当たり前だと知り、厭な気持になったものだ。
だから、少女が使った治癒魔法がノエルのそれにそっくりだったとは思うものの、治癒魔法というのはそういうものだと言われてしまえばそれきりになってしまう。
わからないものはいつまで悩んでいてもわからないのだと見切りを付け、アスクは鍛錬に戻った。
その後は、可能な限り速い動きで自分の理想を求めて三セット。剣を持って素振りを行った後に、普段より多くの薪を割る。気ままなひとり暮らしではなくなったのだ。少女の為にどれくらい薪の消費が増えるかまったく分からなかったが、面倒臭いが先に立つアスクと同じではいられないだろう。
ゆっくりと丁寧に筋肉を解し、クールダウンを行なう。
この頃にはへとへとになっているのが常であるのだが、今朝は不思議なほど普段より多くの薪を割ってもまだ全然余裕だった。
やはりいつもより身体の切れがいい。それに気分がよくなり、長く動いてしまった。
全身汗だくである。
アスクは小川まで下り、冷たい川の水で汗を流すことにした。
井戸のない小屋での生活用水は、この小さな沢だよりである。飲み水も洗い場もすべて兼ねている。
ここに住むことにした時に、頼りない沢の流れで水を汲みやすくする為に、手前側の岸に穴を掘って底に石を敷き詰め、足場にできる大きな石を並べ、沢の流れを組んだ石で変えてその小さなため池へ注いでから下へと流れるように作りを変えたのだ。
動物たちの飲み水でもある。石鹸などを流す訳にもいかないので水浴びができるというだけだが、アスクには十分だった。
大して離れてはいないが、斜面を登って行く間ずっと、アスクは少女に、どう小屋から出ていくように伝えようかと考えていた。
幼い少女をひとり魔獣の住む山の中で放逐するの咎めるものがあるが、あれだけ魔法を使いこなせるならば、アスクよりずっと強いだろう。
それに、もしかしたら今も保護者がどこからかこの小屋を見張っているのかもしれない。少女に何かあった時には助け出せるように。
そうでなければ、少女がひとりでこんな山奥までアスクに会うために入ってきたことになる。
「きっと、誰か保護者が見守っている筈だ」
気配すらわからないのは悔しいが、もしかしたらアスクの知らない魔法で消しているのかもしれない。きっとそうだ。
そう考えると、少女を追い出すことに良心の呵責を感じずともいい気がしてきた。