3.女神リーシャの聖なるしずく
女神リーシャの聖句を唱えながら、縦に二回、横に二回、小瓶の中身を振りかけ、アスクは両手を組んで祈りを捧げた。
魔獣の餌として生態系の下位にあった人間に、魔法という神の力を分け与えてくれた女神リーシャ。
雨上がりの雲間から虹色の光が差す時、若草に溜った雨水には、女神リーシャの御力が宿る。魔獣が発する瘴気を消す力を持っている。
女神リーシャの聖なるしずく。庶民からは女神のしずくと呼ばれている。
これは先週の雨あがりの朝、アスクが山に入って集めた物だった。
魔法が消えてしまってもなお、この雨水からその力は失われなかった。
まだこの世界には女神リーシャの御力が満ちているという証だろう──今となっては、それだけが人々の心の拠り所だ。
女神リーシャに感謝の祈りを捧げ終わったアスクは、山を下りることを諦めて、小屋へと戻る事にした。
大丈夫だとは思うが、このまま魔獣を倒した自分が村へと下りていくととで他の魔獣に襲われることを恐れたのだ。自分一人が死ぬことは構わない。だが村を道連れにすることにだけはしたくなかったのだ。
まだ食べるものも塩もある。二、三日下山が遅れようとも死ぬことはあるまい。
ため息と共に久しぶりに飲むつもりであったエールを諦めて、アスクは慎重に気配を探りながら、来た道を戻った。
魔獣の気配はしない。そう、魔獣の気配は。
「なぜ……」
小屋の鍵は掛けて出た。雨戸も鎧戸も閉めて出たにも拘らず、部屋の中から明かりが盛れていることに気が付いたアスクは迷い込んだ旅人でも入り込んだのか盗人かと緊張しながら小屋へと入った。
しかし、小屋の中央で立っていたのは先ほどの少女だった。
ランプの灯りかと思ったそれは、彼女の掌の上に生じた、小さな炎だった。
魔法だ。
ゆらゆらと揺らめきながら辺りをあたたかな光が照らし出す。
驚きを隠せず、アスクは自分の小屋の中を見回した。
この世界から取り上げられた魔法という力。その不思議な炎の揺らめきに、胸が締め付けられる。
火魔法はアスクが失った魔法でもあった。
あの日まで、確かに使えた炎の魔法。寒い日は身体を温めてくれ、暗くて寂しい夜を照らしてくれた。魔獣との戦いには、力強い相棒とも武器ともなってくれた、アスクの魔法。
今は、どんなに願おうとも、枯れ葉一枚燃やすことも叶わない。
アスクだけではない。水の魔法の遣い手も、川や井戸から汲み上げねば咽喉を潤すことも出来なくなったし、風の魔法の遣い手も、手紙を飛ばして誰かに思いを使えることができなくなり、大きな高い木に生っている実を魔法で収穫することも出来なくなった。
勿論、魔法を使って魔獣と戦うこともできなくなった。
人々は知恵を絞って魔獣から命を守る方法を探し続け、人口を減らしつつも、細々と生活を、幸せを守っていた。
そんな魔法を易々と、しかも先ほどは治癒を使っていたという事は最低でも二種類の魔法を扱えるということだ。アスクはこれまでそんな人間の話を聞いたことは一度もなかった。
治癒魔法のみならず、火の魔法も使える少女。
不法占拠された被害者が犯人に対して掛ける言葉にしては呆れが滲むその問いに、少女は言葉ではなく魔法の行使で答えることにしたらしい。
アスクの目の前で、少女は勝手知った様子で戸棚から薬缶を取り出して簡素な竈の上に置く。
少女が蓋を開けて手を翳すと、薬缶の中に水が満たされ、竈には火が入った。
湯が沸きだすと共に、小屋の中の空気も暖かくなっていく。
それはアスクが忘れていた便利さだった。
四十年前までは当たり前であったその光景に目を眇める。
やはり魔法としか思えないが、少女が詠唱をしていたようには見えなかった。
実際のところ、アスクはいまだに少女の声を聞いてすらいない。
治癒の魔法と火の魔法、さらに水の魔法まで使いこなす少女。
たぶんきっと、風の魔法も使えるのだろう。
この世界から魔法が消えた時、教会と国の連名にてお触れが出た。
『この世界から治癒の魔法が消し去られた。火・水・風・治癒の四つの属性魔法は、人がこの世で栄える術として、女神リーシャが下さった加護である。だが、我等が聖女と信じた者は心に悪を抱く者だった。仲間と共にその力を自らの特権とするべく、この世界へと、全ての魔法が消し去る呪いを掛けて逃げおおせた。なんとしても探し出し、その呪いを解かせるべし』
少女が治癒魔法を使えるならば、女神リーシャの怒りは解けたということになる。
だが、小屋への道を戻る最中、思い付きでアスクが唱えた詠唱に反応はなかった。そして今も。
「情熱の炎」
掌の上に浮かぶ炎をイメージしてちいさく呟く。
しかし、やはり何も起こらず、アスクは苦笑した。
やはり、アスクには魔法が使えない。この世界に魔法が戻ってきた訳ではないようだった。
もし魔法が戻っていたならば、きっとまだ明るい空の下、誰も彼もがその喜びに浮かれ派手に魔法を使って喜びを表さずにいられないだろう。
山から見下ろした風景が、いつもと同じ静かなものであったこと。それ以上に確かな証明となるものはない筈だ。
当たり前のように、アスクの小屋にあった取っ手付きのカップと茶碗を棚から出した少女が、二人分のお茶を薬缶から注ぐ。いつの間に入れたのか、薬缶には前もって茶葉が入れられていたらしい。どこか懐かしい香りが鼻を擽った。
くいっ。
躊躇うことなく口を付ける。
別に少女が毒などを入れないと信じている訳ではない。
少女がアスクを殺してくれるなら、それでも構わなかったというだけだ。
アスクはあの日からずっと、誰かに自分を殺して欲しかった。
飲んだ後に軽い渋味が残る。
「……」
けれどもそれは別に嫌なモノではない。むしろ食事の後に呑んだなら口の中をスッキリとしてくれそうな心地の良い渋味と爽やかさを感じる。
ベイツリーの葉茶。故郷で飲んでいた、アスクが忘れていた味だった。