2.治癒の魔法をもつ少女
鼓動が、異様につよく耳の奥で響いた。
まさかという思いが頭の中で渦巻く。
怖くて、なかなかアスクは振り向く事が出来なかった。
自分に触れている手は、柔らかくて、とても同じ年の幼馴染みのモノであるとは思えない。
硬くなってがさついた、傷だらけになった自分の手は、彼女を失ってから自分が経てきた時間の長さを物語っているようで、アスクは嫌いだった。
ぽうっ、と患部にやわらかな温かさを感じて目を瞑る。
幼い頃は、何度も幼馴染みに掛けて貰った、それ。転んで膝や手をすりむく度に、この温かい光に治して貰ったものだった。
『もう怪我しちゃダメなんだからね』
傷を負っているのはアスクだというのに、何故か毎回その大きな瞳に涙をいっぱいに湛えた幼馴染みが、辛そうな顔で叱ってくれるのが、嬉しかった。
『私、治癒魔法を授かって良かった。暴れん坊の幼馴染みがいくら怪我しても、いつでも治してあげられるもの』
治癒魔法の遣い手特有の黄金色に輝く髪を揺らして笑う、少女の遠い記憶。
魔力が高い程輝きは強くなるが、幼馴染みのその髪はアスクが知る誰より豪奢で綺麗だ。
同じ歳の癖にいつもどこか偉そうで、泣き虫で。そんな少女を守る為に、アスクは誰より強くなりたいと思っていた。
治癒魔法。
四十年ほど前までは、この世界にもたくさんの治癒魔法を使う人間が生まれてきたものだが、ある日を境に魔法を持って生まれる者はいなくなってしまった筈だった。
治癒魔法だけはない。全ての属性の魔法自体が、消えた。
その筈なのに、治癒魔法を使える人間がまだいたとは。
感謝を口にしようとして、ようやく顔を上げたアスクの前に立っていたのは、治癒魔法を使える人間特有の、黄金色の髪をした美しい少女だった。
すっと通った鼻筋に、大きな瞳と形の良い眉。そして小さな桜貝のような唇。
そのどれもが、完璧で、アスクの記憶の中にある幼馴染みの少女にそっくりであった。
「の、え……」
彼女を失ってからずっとその名を口にするのが怖かった。
いくら呼び続けようと叫び続けようとも、二度と返ってくることのなかった返事に、彼女と二度と会えないのだと実感させられて、口にできなくなった。
にこりと笑ったその表情も、記憶にある彼女のそれと重なる。
目の前の笑顔が、瞳に溜った涙で歪んでいく。
震える手をそっと伸ばして、その手に刻まれた皺が、アスクを現実へと引き戻した。
たとえノエルが生きていたとしても、同じ年の彼女が、共に暮らしていた時と同じ年のままである筈がないのだ。
幼馴染みのノエルがその治癒魔法の強さによって教会から聖女の称号を与えられた十歳の頃の彼女にそっくりであるならば、可能性が一番高いのは、ノエルの娘か孫ということだ。
もしくは他人の空似だろう。
むしろ他人の空似であって欲しいと、願う自分の浅ましさに、目を閉じた。
治癒魔法の持ち主は、その力が表すように柔らかな黄金色の髪をしている。髪の色と瞳の色が同じだから、そっくりに見えることもあるだろう。
遠め目でしか見る事すら叶わなくなっていた彼女がいなくなって四十年もの月日が経った。
アスクの記憶もそれだけ薄く、遠くなってしまったのだと自嘲した。
傷が遺って引き攣れのある唇にひねた笑いを浮かべ、アスクは少女へ声を掛け直した。
「足を治してくれたことには感謝する。……お前の親は、どこだ?」
少女はアスクの告げた礼の言葉にも問い掛けにも、にこにことした笑顔を変えることなく、返事をしないままだった。
あの頃の幼馴染みと同じ歳の頃だとすれば、十歳前後の少女だ。まさか山へと続く森の中へひとりで入ってきた訳でもあるまい。
「何処から来た?」
近くの村ではない。アスクが山の中にある小屋に住むようになったのが十年ほど前だ。同じ頃に生まれた子供の顔は、たまにしか村へと降りてこないアスクでも、さすがに見知っている。
山裾にある村ではない更に遠い街といえば、大きな川と谷を越えた先にある領主の住む街しかない。もしくはこの山を越えた隣の国だ。
護衛がいる様子もない。齢十ほどの少女に魔獣の住む山を越えることができるとは思えない。
やはり返事をしようとしない少女に、アスクは更に問い掛けた。
「……最近、私を見ていたのはお前か」
その問い掛けにだけ、少女は目を眇めて笑みを深めることで、返事をした。
もしかしたらそんな意味などなかったかもしれない。ただタイミングよく笑みを深めただけかもしれない。
だが、アスクにはそれが間違っているとは思えなかった。
「治療の礼は告げた。あの魔獣を私が倒せたことでお前の命も助かっただろう。これで貸し借りなしだ」
声を発しようとしない少女から情報を引き出すことをあっさりと諦めたアスクは立ち上がって、大木が倒れたことでできた大穴の前へとワイルドボアの遺骸を引き摺って行く。
倒れた木を蹴り飛ばし、穴へとワイルドベアを落とし入れ、折れた枝を器用に使ってその上から土を掛けていく。
なんとか巨体にまんべんなく土を振りかけた所で、アスクは腰に着けたバッグの中から小さな小瓶を取り出した。