16.盲信する者
唾を飛ばして指示を出す王子に、副官が諦めの溜息をそっと吐いた。
「仕方がありませんね。……今からでも、投降しませんか? 元教会騎士アスク・リシャス殿。そうすれば貴方と彼女の安全をお約束しますよ」
リシャスは教会の騎士となる際において受ける名字のようなものだ。女神リーシャへ祈りを捧げるものという意味がある。
教会騎士は女神のお傍近くで女神の教えを守り女神に命を捧げる者として、嘘や欺瞞は許されない。敢えて剥奪された名前で呼ばれたのだろう。
まぁ今のアスクは悪逆騎士とまで呼ばれる元教会騎士だ。破門された今となっては、元を名乗る事すら本来ならば許されない身である。
「申し訳ございません。あの日にあった出来事すら正確に教えて下さるおつもりのない方の言葉を、信じる訳には参りません」
それでも、アスクを元とはいえ教会騎士として扱ってくれる相手に礼を尽くさないという選択は取れない。
元騎士の平民と貴族であろう騎士様として、相応しい対応をアスクは心掛けた。
胸元へ手を当て、頭を下げたまま会話を進める。
「なるほど。では私が、実際にあの日あの場所で見た物を正確にお伝えしたなら?」
その言葉に、ぴくりとアスクが反応する。
効果ありだと笑みを浮かべた副官に、アスクはそれでもできるだけ興味なさげに答えた。
「内容を、聞いてから考えさせて頂きましょう」
「おい。老いぼれ同士で会話を進めるんじゃない!」
ふたりの会話の成り行き先が気に入らないのか、ようやく立ち上がった王子が唾を飛ばして割り込んだ。
「まあまあ。大変申し訳ありませんが、殿下もご存じのとおり私も見た目どおりの老体でしてね。できることなら部下の命も大事にしたいですし、老骨に無体を強いることもしたくないんですよ。えぇ。この方を相手に生きて残るのは、なかなか骨が折れそうですからね」
ゆらりと前に出てきた副官の男の気配が変わった。
突然の威圧。
先ほどまでの特筆すべき点など何もないといった態は演技だったのだろう。
柔らかな声音と言葉遣いがより一層、その男の底の知れなさを知らしめているようだった。
王子を背後に庇い、アスクの視線から完全に隠すと、軽く顎を動かして、兵士たちに王子の前に防御の陣を取らせる。
「前王国軍騎士団長トラン・ドイルと申します。まぁ今は……あぁ、名乗られていませんでしたが、このアーベル第三王子のお目付け役として聖女探索の任を王より命じられております。以後お見知りおきを」
トランが優雅に騎士の礼を取ると、首の後ろで纏めていた銀色の髪がさらりと肩に掛かる。
体幹のしっかりとした優美な動き。単に美しい動きというだけでなく、鍛え上げられた強さを感じる。この男は、強い。アスクはそう確信した。
「銀狼将軍がこのような山奥へおいでになるとは」
自然、アスクの背中に震えが走る。寒い訳ではないのに、ぞくぞくした。
「今は魔法が使えなくなりましたからね。その旧き二つ名で呼ばれるのは些か面映ゆくありますな」
人々の中で魔法の力が少しずつけれども確実に失われていき、ほんの少し生活を楽にすること以上のことは出来なくなってしまっていたこの世界で、風の魔法を剣に纏わせ、大群の魔獣をひと薙ぎで壊滅させることができた王国最強の騎士。
アスクが領主軍の一兵卒であった頃に起きた魔獣の夜、魔獣の異常発生による王都襲撃という最悪の一夜を城壁の一部破壊程度で乗り越えられたのも、彼の活躍があってこそだと言われている。
『銀色の長い髪を靡かせて剣を握った彼が駆け抜けた後には、立っていられた魔獣は一頭も残らなかった』と、吟遊詩人たちがこぞって歌う『魔獣の夜の騎士』は、王国で最も人気のある曲のひとつだ。
対魔獣戦における王国の守護神。
髪の輝きは魔力の強さと比例するといわれている。彼の白銀色に輝く髪の色を取って庶民たちが囁き出したのが、銀狼将軍の二つ名だ。
歴代最強魔法師としても剣士としても名高い彼の騎士は、美丈夫としても有名であった。実際にこうして本人を前にしてみると、それが単なる誉め言葉などではないことがわかる。老境に入って尚、若い頃にはさぞかし女性を泣かせたのだろうと思わせる、色を感じる。年齢を重ね頬に走る皺すらも様になっていた。
かつて王都で行なわれたパレードで先頭を進む銀狼将軍をアスクは見ていたことがある。
その頃、銀色にも見間違う明るいアッシュグリーンであった髪色は、年齢と共に色が抜けたのか今は煌めくような白銀色になっている。今この時の姿の方が、彼の二つ名に相応しく見えた。
丁寧な口調に柔らかな仕草。しかし、感じる圧は魔獣にも勝るものがあった。
あの日、王の護衛の任につきながら、謀反を起こした聖女ノエルを取り逃がし、王の命を守れなかった責を負い、自ら一介の騎士への降格を申し入れたという噂は、アスクも聞いたことがある。
なるほど本当にこの副官が銀狼将軍トラン・ドイルであるとするならば、あの日の顛末を知っていて当然だろう。
「この場で銀狼将軍とお会いできるとは。女神リーシャの巡り合わせというものでしょうか。……すでにご存じのようですが、私も自己紹介をさせて頂きましょう。破門教会騎士にして、今はただの平民アスクです」
引き攣れた唇を皮肉気に持ち上げ、アスクはただの平民として名乗りを上げる。
「存じております。聖女ノエルをおびき出す為の人質として王城前に磔にされたあなたを、見ていましたから。ふふ。完全に骨と皮になって、餓死したものだと思ったものです。だってそうでしょう? あなたはあそこで日に何度も鞭に打たれ、一週間も飲まず食わずで磔にされていたのです。死んで当然じゃあないですか! 絶対に死んだと、そう思ったんです。えぇ、えぇ。私だけでなく医者もそう判断しました。なのに、こうして生きている! そうですか、やはりあなたがそうだったのですね。あの磔でも死ななかったのは、聖女様の御力によるものなのですね! なんと素晴らしい!!!」
トランの声が、段々と高く大きくなっていく。
話している内容も、誰かに説明するというよりは自身が納得する為に情報を整理しているようで、聞かされているアスクにはわからない箇所がある。
それでも納得いくまで言い切れたのか、トランは大仰な所作を取り、目の前にいるアスクに対してではない、誰かに向かって頭を下げた。
そんなトランに、アスクが目をすっと眇める。
「……馬鹿らしい」
つい、本音が零れた。
だがそんなアスクの呟きは、興奮しきったトランの耳には届かなかった。
そうしてついに、アスクはあの日のノエルに何が起こったのかを知る事になった。




