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12.赦しというより、解放だった



 魘されることのなくなったある朝、唐突にアスクはそれを思いついた。



 ──髪を、切り揃えよう。



 ずっと切ることもなく後ろで束ねてきた髪はゴワゴワのぼさぼさで、肩を超えて肩甲骨よりずっと下まである。


 何故だか急に、それが自分の未練の塊のような気がしたのだ。


 思いついた勢いのまま、アスクはベッドから跳ね起きると、束ねた根本でばっさりと切り落とした。更に、下を向いた鼻先で揃うように切り揃えていく。


 最初に入った領主軍で、自分で身だしなみを揃える方法を先輩に教えてもらったことを思い出しながら切ったのだが、後ろが見えないこともあり思ったより短くならなかった。


 だがそれでも、伸びすぎていた髪が肩より短かったのはもう随分と前のことで、軽くなった頭に苦笑が浮かぶ。


 前髪から耳元までを掻き上げるようにして毛の流れを整えると、自分の姿勢が伸びた気がした。


 寝室の床にばら撒いてしまった切った後の髪の汚さに、苦笑する。


「随分と、みっともない姿を晒していたんじゃないのか。アスク」


 床へと散らばっていく、自分では白髪混じりだと思っていた髪の、そのほとんどが白髪ばかりだ。

 記憶にあるアッシュブラウンの色など、見つけるのが至難なほどだ。


 掻き集める指先に刻まれた皺も深く、手の皮はぶ厚く硬い。

 だがこれが、今の自分の手だ。


 自分自身なのだと、胸に何かがすとんと落ちてきた。


 歌い出したいような、叫び出したいような。

 長い間、引きこもっていた繭に、ようやくヒビが入って、光が差したようだとでもいえばいいのだろうか。


 アスクは、まだベッドの中でまどろんでいる少女を起こさないように衝動を堪え、できるだけ静かに部屋を出た。

 



 顔の傷を隠す為に伸ばしていた髭も、ついでに剃り落とすことにした。

 髪を切っても少女は目を覚まさなかったが、だからといって終わる前に起きてこないとも限らない。

 アスクは外で作業をすることにした。


「まだ暗いか」

 日が暮れるのが早くなってきたように、日が出るのも遅くなってきている。

 冬が近付いていた。


 鏡なんて洒落たものはないので、桶に張った水に顔を映して作業をすることにする。水の入った桶とナイフ、ちびた石鹸を持って外へ出る。

「これも買い足してくるべきだったな。そういえば、香りのついた石鹸も売りに出されていたな」

 次に村へ降りた時には買ってこようと心に決める。


 ちゃぷちゃぷと音を立てる桶の中に張った水は澄んでいた。少女が魔法で取り出した水は、翌日になっても嫌な臭いがしたことなど一度もなかった。

 今も汲み立てのように澄んだままだ。


 小屋の脇にある薪割り用にしている切り株に腰を下ろし道具を並べ、細めの薪を何本か組んでその下に乾いたまつぼっくりを転がしておいた処に、火打金を使って火を着ける。

 魔法があった頃から、ひとりの人間は一属性の魔法しか使えなかったので、火打金は普及していた。だが、アスクの家ではアスクと父が火の属性を持っていたので使ったことはなかった。

 それでも、四十年経てば、易々と扱えるようになるものだ。


 薪へと火が回り、明るく辺りを照らす。その揺れる炎のあかりを頼りに、水面に映った年老いた顔を見つめる。


 顔の半分がもじゃもじゃの髭に隠れていたし、隠れていないほぼ全てに、深い皺が刻み込まれている。

 特に眉間に入った三本の皺の深さに、苦笑した。


「五十八歳という実年齢以上に、ジジイだな」


 なにより、アスクが想像していた以上に不潔に見える。たぶん髪を切る前はもっと酷かったことだろうと苦笑した。


 毎日水浴びはしていたし、最近は少女のお陰で着ている服が汗じみているということもなくなった。だからこれほど酷いとはまったく思っていなかったのだ。


「それだけ、自分から目をそらしていたということか」


 こんな姿の爺に、よくもまぁ少女が懐いたものだと嘆息する。

 同じベッドに潜り込む神経を疑うレベルだ。


 泡だらけにした顔半分へとナイフを当てて滑らせていく度に、自分が顕わになっていく。

「こんな顔をしていたのか」

 初めて見た自分の顔に、漏れていく感想は呆れの色が濃い。


 そうして、水面に映ったその顔は、なぜだか妙に楽しそうだった。



 四十年という長すぎる月日を、失ってしまった初恋にしがみつき、みっともなくのた打ち回って過ごしてきた。


 たくさんの傷が身体だけでなく心の奥深く迄切り刻まれていて、二度と笑う事などできないと思っていた。


 だが、そう思ったのはアスク自身であり、アスクが自分で自分を縛り付けた罪の鎖だ。


 自らをがんじがらめにしていたその鎖を解くことができるのも、自分だけだった。



 皺の多い頬をひっぱりあげてナイフを当てていく。

 慎重に作業を進めていたつもりだったが、最後の最後で、左の傷の近くに、新しい傷がついて血が流れた。


「ふっ。普通に平穏な暮らしをしていたって、顔に傷がつく事だって、あるんだな。当たり前か。ふはっ。ふははははっ」


 新たに顔にできた傷は、当たり前のことだが初恋を妄信した罰として与えられた罪の傷ではない。


 古傷の理由だって、本当は罰でも罪でもないのかもしれなかった。


 ノエルはアスクを助けには来てくれなかったが、アスクだって彼女が消えてしまいたくなるような羽目になっていたことすら知らずにいた。


 今だって、彼女が今どこでどうしているのか知らないし、そもそもあの日彼女に何があったのか本当のことを知らないままだ。


 髭を剃り始めた頃は白み始めた程度であった空は今、かなり明るくなっていた。

 



 不意に視界が開けたような、そんな気がしてアスクはいつまでも笑い続けた。



 


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