10.追憶・2
磔にされていた時、アスクは目の前にいないノエルに向けて「絶対に、来るな」と叫んでいた。
祈ってさえいた。
鞭が胸を打ち、皮を切り裂き肉を抉っていく度に、「ノエルじゃなくて良かった」と思った。
灼けつくような痛みと共に、飛び散っていく血肉。
悲鳴を上げているのが自分なのか自分以外なのかもわからないほど、意識が混濁していく。
それでも、彼女が受けるよりずっとマシだと頭の中でずっと思っていた。
顔に当たって唇が裂けた時には、男の自分で良かったとさえ思った。
なのに。
誰にも見向きもされなくなり、すべての人間から、餓死するまでの時間を待たれていた時間。
朝陽が昇り、太陽が天頂から強く照り付け、陽が沈んでいき、真っ暗で長く寒く、陽の傾きで時間を推察することも何もできない長い夜を幾度も過ごす。
同じく磔にされた他の聖女たちの近親者たちのすすり泣く声や呪う声だけが妙に耳につく果てしのない時間。
幻聴が聞こえ、助け出される甘い夢を幾たびも見た。
そうして甘い夢に酔ったのと同じ数だけ、目を覚まして向き合った現実は、喜びを感じた分だけより深い絶望を生んだ。
自分を助けに来ない彼女を恨む気持ちが生じなかったかと言えば、嘘だ。
彼女が磔になっていたなら、自分に変わらせろと本気で叫び狂っていただろう。
けれどもお粗末にも、実際に人質として磔にされたアスクは、本気で守ると誓った相手を、恨んでいた。
そんなことを考えている自分に気が付く度に、惨めで、悔しくて、情けなさで胸が張り裂けそうになった。堪らなかった。
許されるのならば、今すぐにでも死んでしまいたかった。
山の中で、ひとり閉じ籠り静かに暮らしていけども、その昏い思いは心の奥底で消えることなく燻ぶり続け、幾度も夢に出てきてアスクを苛んだ。
いつかの夢では、女神の許へと召され、審判の場へと立ったアスクは叫んでいた。「ノエルに会わせろ」と。
惨めに死んだ幼馴染みの行く末を語り、後悔させてやると息巻いていた。
またある時の夢では、磔にされているアスクを、颯爽と助け出してくれたノエルから、「私が逃げ出したせいで。ごめんなさい」と誠心誠意泣いて謝られているにも関わらず、罵倒しまくる醜い自分に、飛び起きた。
そして、またある時は前国王が命を落としたのは聖女のせいだという王宮からの発表に反論して、そのまま投獄され、当時の王太子殿下より強く詰られた時の記憶をなぞる、ノエルへの想いと王国への忠誠を真っ二つに引き裂かれるような辛い時間をまざまざと見せられる地獄のような夢に厭な汗でびっしょりとなって起きる羽目になった。
けれど、目が覚めた時に一番辛かったのは、まるで自分が囚われの姫であるかのように、勇者の如き万能の魔法使いとなったノエルによって王城から救い出され、ふたりで幸せになる、そんな甘い夢を見た時だ。
独り寝の年老いた男が、子供が夢見るような甘い夢を見る。
その滑稽さに、目覚めと同時に慟哭したこともあった。
この胸から、初恋の面影が消えることはなく、けれど苦い思いも消せずに。
いつしか幼馴染みの名前を耳にすることも辛くなり、その名を口にする事もできなくなった。
誰と話すことも嫌で、けれど悪に身を堕とす事もできなかった。
今も、この胸の中には、人の為になれることを誇らしそうに喜ぶ幼馴染みの笑顔があったからだ。
『私ね、治癒魔法を授かれて良かった。だって皆にありがとうって言って貰えるもの』
その治癒魔法の強さを認められ聖女の称号を授けられることとなり、王都の教会へと向かう馬車へ乗せられていった同じ歳の幼馴染みは、あの日も、大きな瞳に涙をいっぱい湛えながら、それでも笑って言っていた。
『沢山の人の役に立ってくるね』
馬車の後ろを走って追いかけて行ったあの日の誓いは、まだアスクの胸にある。
「私は、……ぼくは、彼女を守りたかったんだ」
幼い頃のあの想いが全ての始まりで、アスクのすべてだった。
あの少女がノエルの血筋であるのか、アスクの中のノエルを映し出した悪魔なのかはわからない。
そんなことは、アスクにはもうどうでも良かった。
「あの日の想いは、少女を守る事で果たす」
小屋の灯りに、誓った。
****
「!!」
その箱の中身を見た少女の笑顔は、これまで浮かべていた形ばかりのにこにこ顔とはまったく違う、心からのものだった。
箱から取り出したワンピースの手触りを確かめるように、刺繍の入った裾や袖口まで、震える指先が撫でていく。
そうやってひととおり撫で愛でると、ぎゅっと胸元へそれを抱き寄せた。
その姿にアスクはそれだけで満足した気持ちになったが、少女が首だけこちらを向けると、こてんと傾げるようにアスクを振り仰いだ。
興奮しているのか、うっすらと頬を染め、瞳は潤んでいる。
喜びを満面に表して見上げてくる瞳へ、アスクは不愛想に頷いた。
「安くなっていた。これから寒くなる。風邪でも引かれても困るからな」
アスクは堅苦しくそう伝えると、少女の返答も待たずに他に買ってきた生活必需品の品々を、小屋の地下にある収納庫へと整理しに向かった。
多分、少女が着替え終えることができるであろう時間に、たっぷりと余裕をもって部屋へと戻ると、そこには笑顔の少女が恥ずかしそうに笑って立っていた。
何も言わないアスクの前で、くるりと廻ってみせる。
刺繍の入った裾が翻り、まるで春の花が咲いたようだ。
「サイズは大丈夫そうだな」
可愛いと、似合っていると褒めるべきだとは思ったが、アスクの口から出たのはそれだけだった。
それでも少女は満足そうに笑って、アスクが用意してくれていたシチューと、買いこんできたまだ柔らかいパンやチーズなどのご馳走をテーブルに並べ始めた。




