試練
「きゃあああーっ!!」
侯爵令嬢の耳を劈くような悲鳴が上がる。
「ば、化け物…!」
「カトリーヌ様!危険です!こちらへ!」
「衛兵!衛兵は居るか!」
騒然とする中、人魚の身体は明滅し、アデルの姿にとって変わる。
かと思うと、次の瞬間には、フリーシアの姿に変わる。
「化け物!」
「下女に化けて、紛れ込んでいたのか?!殺せ!」
ロナウは混乱の中、何もかもが信じられず、まるで夢遊病者のようにフリーシアの元に近づこうとした。
だが、それを止める者があった。
「危険です!近づいてはなりません、殿下!」
ロナウは、それこそ化け物を見るような目で、近衛兵を見詰めた。
何を言っているんだ。
化け物なのは、お前らだろうに。
敵は侯爵家だけでは無かった。
侯爵家が毒を盛り、その混乱の隙を突いて、他の者が弓矢を放った。
ロナウが護衛の殺気を感じ攻撃を防いだのと同時に、矢を放ったのだ。
兄か、それとも他の血族の息のかかった者か。
「離せ!」
「なりません!殿下!」
今は、そんなことはどうでもいい。
フリーシアだ。
フリーシアが、目の前にいるのに。
忌々しい近衛兵が、数人がかりで、行かせまいとロナウの身体を押さえ付ける。
「伝説の人魚だ!」
「不老不死になれるぞ!」
「王に献上すれば、どんな褒美がもらえるか!」
「人魚の血肉は俺の物だ!」
衛兵らの無情な槍が振り下ろされる。
こんな時まで、透き通る程透明なフリーシアの瞳と、目が合った。
「フリーシア!」
ロナウは剣を抜き放ち、自分にまとわりつく有象無象を、切り捨てた。
最初からこうすれば良かった!
何故俺は躊躇ったりしたのだ!
「殿下がご乱心だ!お止めしろ!」
衛兵が其処ここから湧き出て、ロナウの足止めをする。
何処までも鬱陶しいごみ虫が!
「フリーシア!」
ほんの数メートルの距離が永遠の様に遠い。
もう手が届きそうな所に、誰よりも愛する人がいるのに。
ロナウの周囲だけ時がゆっくりと流れている様に、酷くもどかしく感じた。
思う様に身体が動かない。
行く手を阻まれ、ロナウの声がかき消される。
ロナウは必死にフリーシアに手を伸ばす。
今すぐ君を…
「人魚は俺の物だー!」
衛兵の槍が、フリーシアを貫いた。
その瞬間、ロナウを見たフリーシアが笑ったように見えた。
…いいや、気のせいだ。
そう思いたかっただけだ…
「フリーシア!」
「殿下!どうか、お収めを!」
「邪魔だ!」
ロナウが剣を振るうと、衛兵が血飛沫を上げて倒れ込む。
侯爵令嬢の悲鳴が上がる。
「なんておぞましい…!」
ロナウは一瞥して、視線を反らす。
醜悪な者から視線を移すと、フリーシアのなんと美しいことか。
痛ましい姿になってさえ、尚も美しと思う。
そんな身勝手な自分が嫌だった。
「フリーシア…」
「殿下!危険です!」
ロナウとフリーシアを引き離そうとする者を切り捨てる。
「誰も、誰も触れるな!」
ロナウはフリーシアを抱きかかえ、厩舎へ向かった。
その身体の冷たさにぞっとするが、フリーシアは人魚だ。
もしかしてどうにかなるのではと淡い期待をする。
「魔女が怒る。魔女が怒る~」
羽の生えた小さな人の姿をしたものが、ロナウの周りを飛び回る。
何処からか、妖精が現れた。
「魔女とは何だ?」
「人魚の母親。皆、魔女って呼んでる。人間が大嫌いなんだ。」
「海に居るのだな?」
ロナウはフリーシアを抱きしめ、海へ向かって馬を駆った。
冷たくなった頬を撫でる。
その瞳は開かない。
言葉を紡ぐことも無い。
どうしてもっと早く、抱きしめる事が出来なかった?
どうして躊躇ったりしたのだ。
アデルがフリーシアに見えたのに。
どうして自分を信じることが出来なかっんだ。
後悔ばかりが押し寄せる。
せめて、側に置いておけば良かった。
下らないことに煩わされて、一番大切なものを失ってしまった。
何よりも大切なのに。
どうして手放してしまったんだ。
今になって気づくなんて、なんて愚かなんだ。
「魔女!魔女は居るか!」
海に着くと、声の限りに叫んだ。
海が泡立ち、黒いベールと黒いドレスに身を包んだ魔女が現れた。
魔女が両手を掲げると、ゆらゆらと海水が生き物のように、立ち上る。
魔女がその手を振ると、無数の水の刃がロナウを襲った。
「愚かな人間よ…」
突如として襲い来る攻撃に身を屈めた隙に、腕の中のフリーシアは、魔女の手の中にあった。
「貴方の怒りは尤もだ。だが、どうかフリーシアを助けて欲しい!」
「助けたとして、どうする?また殺すのか?」
「ー!!」
氷の刃が降り注ぎ、ロナウの身体を切り裂く。
そんなことはあり得ないと、何故言えない?
儚くなったフリーシアを見遣る。
あんな姿にしてしまったのは誰のせいだ?
また俺は同じ過ちを繰り返してしまうのか?
嫌だ。
もう、決して失いたくない。
「待ってくれ!魔女!誓ってフリーシアを傷つけたりしない!だから、どうか!」
魔女は、もう興味を失ったかのように、ロナウに背を向け海に身体を沈める。
「使命を果たせ。」
頭に直接響くような声が聞こえる。
ロナウは魔女を追いかけ叫ぶ。
「使命?!使命とは何だ?!」
しかし、魔女の姿はもう海の中に消えていた。
ー運命を受け入れろ。
「運命?運命だと?」
ロナウは膝を付き、砂を握りしめる。
魔女は消え、答える者は居ない。
「玉座に…大陸を平定しろということか?」
ロナウは、魔女が消え凪いだ海を見詰めた。