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「そもそも異世界における植物事情というのは地球とは少々問題が異なるんだ。」
ガラガラと舗装されていない街道を進む貸し馬車に二人並んで腰かけた佳奈と浩二は、目的の大森林までの旅の間、延々とお喋りをしながらの移動となった。
基本的には浩二が一方的にべらべらと喋るばかりだが、時には佳奈が意見を言って、そから議論に発展することもある。
「植物ねぇ。だいたい地球と同じような草や木が生えてるし、異世界の植物も同じようなものじゃないの?」
「全く逆だ、いいんちょよ。同じであるからこそ地球とは異なる異常性があるのだ。
例えばライ麦という植物を考えてみよう。地球にある小麦の近縁種であるこれは、当然異世界にも同じようにある。これがすでに異常な事なんだ。」
「ライ麦パンかー。苦味が強くて癖のある味だけど、あたしはけっこー好きだなー。」
「日本で食べられるライ麦パンはかなり食べやすく作ってあるからな。この世界のライ麦パンは硬くてまずくてとても食べられたものではないぞ。
まあそんなことはどうでもいいんだ。そもそもライ麦というのは麦ではない。地球で麦の栽培が始まってから長い時間をかけ、別種の植物が人間に刈り取られずに麦と同じ土の栄養をかすめ取ろうと、麦に似せて選択進化した結果生み出されたという、麦とは全く違う草なのだ。」
「あーなんかその話、聞いた事あるかも。」
馬車は麦畑の中を泳ぐように突っ切ってひたすら真っすぐな道を進む。麦はまだ青々としており、高く伸びた茎の先端に、これから色づく前の麦穂が突き出て、ときおり吹き抜ける風に煽られ気持ちよくそよいでいた。
「だがそのようにして長い年月をかけて地球にいる人類と共に進化して生み出された『ライ麦』と全く同じものがこの異世界にある、これはとても気持ちの悪い事だと思わないか?」
「えーそう? べつにおかしくはないんじゃない? そもそも麦だって地球にも異世界にもあるし。」
「いやいやいいんちょ。そもそも麦が異世界にあることだっておかしいんだ。まあその話は置いておこう。仮に異世界にライ麦がある事が自然な事だったとして、このライ麦は異世界独自で発展、進化した植物なのか、それとも地球にあるものをそのままこちらに持ってきただけなのか、これがとても肝心な事なのだ。
いいんちょはどう思う? 異世界のライ麦は異世界で進化した結果生み出された異世界の植物だと思うか?」
「どうだろ? この世界にある以上はこの世界で進化・発展したものだと考えるのが自然だけど……。」
「いやいやいいんちょ。それはあり得ない話なんだ。なぜなら地球という環境で数千年単位の麦の栽培がおこなわれた間に、たまたま近縁種の雑草の一部が『ライ麦』へと進化に至れたのは奇跡のような偶然で、似たような条件でも少しでも初期値が違えば、もとの雑草は『ライ麦』へと至れなかった可能性の方が高いんだ。」
「ふーん? そんなもんなの?」
「ああ、進化というものはそういうものなんだ。むしろもっと別種の雑草がライ麦とは別の進化をとげて『異世界ニセ麦』に育つ可能性の方がよっぽど高いだろうな。
つまりこの世界にライ麦があるという事がどうしようもなく異常な事なんだ。この世界にある植物はどれも独自進化の結果生み出されたものではなく……」
「地球から持ち込まれた植物ってことかぁ。」
「その通りだ、いいんちょよ。」
佳奈は不思議な気分だった。攻略組はとうに別の戦地へと去っていってしまったが、佳奈は敢えてそれにはついていかず、こうして浩二と二人で旅をしている。
どうしてこんな経緯になったのか。これにはちょっとした事情があり、浩二が「唐辛子はエルフの連中がガメているようなので交渉に行く」という話を始めた際に、一も二もなく「自分もついていく」と声を上げたのだ。
もともとエルフに伝手のない浩二は佳奈に頼んでエルフの知り合いを紹介してもらう心づもりだったようなのだが、どうせなら自分も一緒に行った方がいいだろうという事でこうして浩二の旅に同行しているのだ。
亜人族の中でもエルフやドワーフといった種族は、この度の人魔大戦の中で人族よりの立場を表明しており、武器提供や魔術支援といった協力関係の中で佳奈と個人的に昵懇の仲となったエルフの一人が、南国の大森林に住んでいるという話を聞き及んでいたのだ。
かのエルフ、タリアトーレ・アルマンド・バリャス、通称タリアが佳奈との別れ際に「いつでも好きな時に遊びに来てください」などといかにも社交辞令じみた気のいいことを言っていたのに付けこんで、直接会いに行こうという算段なのである。
「例えば逆に、この世界で生み出された植物が地球にコピーされただけっていうことはないの? 進化の偶然性・多様性の大きさを考えれば、全く同種の植物が両世界にある場合は片方がどっちかのコピーでしかないという理屈は分かったけど、地球の方が異世界のコピーってこともあり得るよね?」
「鋭い指摘だな、いいんちょよ。確かにその可能性はあり得る。だがいいんちょよ。その説は別の角度から考えれば簡単に否定されてしまうのだ。
それは地域ごとの植生の差違だ。これが地球と異世界で圧倒的に違うのだ。」
「どういうこと?」
「そうだな。例を挙げて説明しよう。南米原産といわれているジャガイモ、トウモロコシ、トマト、それから唐辛子といった植物は、どれも自力で海を渡るための戦略が取れない植物だったから、大航海時代に人類が持ち込むまではヨーロッパやアジアには存在の片鱗すら見られない特異な植物だった。
同じようにヨーロッパやアジアの植物もまた大西洋や太平洋を渡れずにいたから、麦やサトウキビといった植物はここ数百年の間で初めてアメリカに持ち込まれた植物だったのだ。
ここまでは分かるか?」
「ええっと。自力で海を超える植物っていうのがちょっとよく分からないんだけど。」
「なに簡単な事さ。例えばその実を鳥に食べさせる戦略を持っている植物や、風や海流などを通じて種を遠くに飛ばすことが出来る植物は海を渡るチャンスがあるから、こういう草木は海や山を隔てた遠い土地でも同じように繁殖している。
だがこのような戦略を持っていないほとんどの植物はアメリカ大陸とユーラシア大陸の間を行き来することが出来ないから、それぞれ独自の進化を遂げて食の多様性の礎となったのだ。」
「なるほど。ジャガイモが新大陸から輸入されたおかげで中世ドイツの食糧難が解消されたとかって話とか有名だよね。」
「唐辛子料理もそうだぞ、いいんちょよ。カレーが今日の唐辛子入りの辛いカレーになったのもコロンブス以降のつい500年程度の最近の話なのだ。まあその話は後だ。
とにかくそういう訳で、地球産の植物はそれぞれ長い時間をかけて各土地ごとに発展し、時に交わり、時に駆逐し、複雑な進化を遂げてきたのだ。そこには歴史的な経緯がある。どの土地にどういった植物があるかを調べるだけで、そこに関わった動物の事情や気候変動の影響など、様々な歴史を紐解くことが出来るのだ。
地球にはそういう学問もある。」
「へぇーっ!」
「翻ってみて、『異世界』の植生には経緯が見えないのだ! 本来原産が異なる複数の植物が混然とそこら一面にバラバラに植わっているのだ。そこには何の歴史も地理的な事情も動植物の影響も見受けられない。それこそバケツ一杯の雑多な種を土壌の上に適当にばらまいたようにしか見えぬのだ。
そこにむしろ、植生の自然な醸成ではなく作為的な不自然さが感じられるのだ。
本来、それぞれの土地固有の土壌にあった進化を遂げてきた植物同士が、こうも世界中いたる所で不自然に交わり合って育つことはない、というな。」
「うーん。自然な植生分布の地球がオリジナルで、不自然な異世界はコピーだろうっていうこと? 理屈は分からなくもないけどちょっと強引じゃない?」
「いやいやいいんちょよ。それだけの状況証拠があれば証明には充分なのだ。例えば頭上にある月を見てみよ。」
浩二は顔を上げ、東の空に昇ってきた3番目の月を目を細めて眺める。佳奈もつられて同じ月を見る。
この世界には3つの月が周期をずらして複雑に空の上をめぐっている。月の数が一つではないことがそれだけでここが地球ではないことを証明してくれる証拠となっている。
佳奈は不意に地球の真ん丸で大きなたった一つの月が浮かぶ夜空を思い出してしまい、どうしようもない郷愁に囚われ息がつまりそうになってしまった。
どうして私はこんなところにいるんだろう? どうして私は未だに帰れないんだろう? どうして……。どうして……? どうして……!
佳奈は叫び声を上げたくなるのを懸命にこらえる。大森林の少し手前、旅商人の護衛として同行する荷馬車の後ろ、隣に座る浩二はそんな佳奈の様子に気付くこともなく、楽しそうに植物の話を続けている。
佳奈にはむしろそれがありがたかった。息をするのも苦しいこの異郷の地で、昔から変わらず我の道をゆく浩二の無神経さは、却って佳奈を安心させた。
佳奈は暴れる心のうちを無理やり抑えつつ、浩二の話に適当な相槌を打つ。
「へーっ」とか「ふーん」とか「そっかぁ」とかそんな感じ。
正直、浩二の話は半分以上聞き流している佳奈であったが、ともかく延々とどうでもいい話を続けるだけで、不思議と今はとても落ち着くのだ。
それは佳奈にとってとても奇妙な、けれどもとても心地の良いひと時となった。
思えば学生時代の友人たちとのとめどないお喋りも、中身はだいたい同じようなものだった。
流行りの動画や音楽の話、美味しい料理やお菓子の話、楽しい友達の話、それから好きな男の子に関する話。
どれも大して中身はなく、直接人生に大きな影響があるわけでもなく、ただその時々で用意されたお題を元に、みんなで即興で会話を紡いでゆく。
今浩二と二人でしている、この世界の植物に関する会話もだから、佳奈にとっては学生時代のバカ話と一緒だった。
どのみち中身なんてない。なんとなくみんなが興味を持てる話題について会話を投げ合い、お互いの反応や変化を楽しむことが一番なのだ。
だから佳奈は今、3年経ってようやっと高校生だったあの頃を思い出す心の余裕が出てきて、だから浩二との会話もバカみたいに楽しくて。
だから佳奈は今、夜空に浮かぶ3つの月がどうしようもなく憎たらしくて、ただただ地球に帰りたいと、幸せだったあの頃に帰りたいと、そうどうしようもなく強く考えてしまうのだ。
隣に座る浩二はそんな佳奈の様子に気付くこともなく、楽しそうに植物の話を続けている。
佳奈にはむしろそれがありがたかった。
「……つまり月の数も違い潮の満ち欠けも異なって、地形も気候もまるっきり地球とは違うこの異世界は、本来地球とは全く異なる動植物の進化を遂げなければならないんだ。にもかかわらず地球産の生き物がこうも大量に存在している時点で、ここが地球の劣化コピーの世界である事は明白であるという事だ。
この地に限らず、あまたに散らばる無数の異世界はどれも地球産の動植物が出てきた時点でまず地球のコピーと断定して構わないだろうな。」
「ちょっと待って! まるで異世界がたくさんあるみたいな言い方じゃない!」思わぬ話の雲行きに、びっくりとなって口を挟む佳奈。
浩二はそんな佳奈に対し芝居がかった様子で仰々しく驚いてみせる。
「おや? いいんちょ。知らなかったのか? 異世界は無数にあるのだぞ? 実際毎年何人もの日本人があまたの異世界に強制召喚・転移させられている。」
「えええええっ!?」佳奈としては初めて聞く話だ。「そんな話は聞いた事もない!」
対する浩二はニヤリと笑う。
「まあそもそも日本の失踪者は全体で毎年8万人以上いるからな。そのうちの数百人程度が異世界に連れ去られていたとしても、母数からすれば微々たるものだ。なかなか一般には知られづらい話だ。だがまぎれもない事実なんだ。
オレはたまたま母親の弟であるマサキ叔父さんが異世界拉致の被害者でな。叔父さんは若い時分に奴らに拉致召喚されたんだが、2年かけて奇跡的に日本に戻ってこれて、それでまあ色々とオレに教えてくれたからこの手の話に詳しくなったんだ。
正直、今話しているような植生の話なんかも叔父さんや先人達の受け売りなんだ。異世界拉致被害者の会という団体があってな、学者さんや政治家さんを巻き込んで政府に対策室を立ち上げてもらおうと運動をしているところなんだ。
それでまあ、オレはそんな皆さんに可愛がってもらって色々知っているんだが、まさか自分自身が異世界転移に巻き込まれるとは思わなかったがな。」
浩二は楽しそうにハハハと笑ってみせる。
「へええええっ。」佳奈としては感心するばかりである。
「だがだからこそ、この目で直接異世界とやらを目にすることが出来て、改めてその異常性を強く実感させられたぞ。はっきり言って異世界はおかしい!」
「そうなの? 私にはよく分からないけど。そんなにおかしいの?」
「ああ、異常だ。というのもな、いいんちょ。ここまで植生がばらばらに混じっているようだと、本来なら強い植物が勝ちすぎて、世界を塗りつぶしてしまうはずなんだ。例えばドクダミやミントが強すぎるため、世界中いたる所でほかの植物を駆逐してそればかりが支配してしまう、そんな世界になってもおかしくないはずなんだ。
生物の多様性は結果として強い植物と弱い植物を生み出したからな。これが交じるとどうしても弱い生き物は駆逐されてしまう。弱肉強食の掟というやつだな。」
「あーっ。ドクダミだらけの植え込みとか、ある意味都会の風物詩だよね。」
「まあそういうことだ。さらにそこから年月を重ねれば、土地ごとにそれぞれのドクダミの進化が進んで、風土に合わせた新種のドクダミアルファやドクダミダッシュが生み出される未来が予見されるんだ。恐らく数千年もかからずに我々が見たこともない新しいドクダミが出現するのではないかな?」
「げぇーっ。ドクダミが進化してもあんまり嬉しくはないなぁ。」
「ははは。まあドクダミアルファは美味しいドクダミ茶のもとになるかもしれん。まあこの話は余談だな。
ところが逆に異世界はというところは地球産の植物が残りすぎているんだ。それもほぼ地球の原種がだ。これが特に異常なんだ。
本来駆逐されるべき弱い種の多くが、どういう訳だかかろうじてまだ生き延びているんだ。これはとても奇妙な事だ。
まるで誰かが懸命に保護をしているか、失われつつある弱い種を定期的に世界にばらまきなおしているか……。
まるで人為的に保護、管理されているかのような奇妙な状態だ。少なくとも自然の成り行きに任せるだけでは、この世界の植生分布の異常さを説明することは出来ん。知性ある存在の気配が感じられるんだ。
さていったいどこの誰がこの異世界を管理しているのだろうな?」
「えーっ? それこそ女神様? とかじゃない? あたしたちの加護も女神様が用意してくれたって話だし。」
「おや? いいんちょは女神の加護を受けたのか? 強力な力や身の安全と引き換えに色々と面倒を押し付けられていそうだな。ご苦労な事だ。」
「……そういえば伊丹くんは加護を受けていないよね。よく今まで無事で生きてこれたね? 異世界は日本より不潔だし危険だし文化レベルも滅茶苦茶低いし、何より加護がないと言葉も通じないのに……。」
「まあ、オレは昔から準備をしていたからな。いつ異世界に飛ばされてもいいようにサバイバルの訓練や格闘技術の鍛錬や他言語習得の為のコツを学習したりしてきたんだ。
正直どれほど効果があるのか不安ではあったが、こうして転移に巻き込まれてみると全てが有用だったので自分でも驚いているくらいだ。
ガキの頃からの苦労が実を結んで、不思議と楽しくて笑いが止まらんな。」
そういってニヤリと笑う浩二。
ああ、と佳奈は心の中で嘆息した。伊丹 浩二という男は学校では明らかに浮いていて、常に一人で奇妙な行動原理に従って活動し、皆から気持ち悪がられていた。
伊丹 浩二は特に自らの立ち振る舞いを秘密にしていなかったから、「いつか自分がここではない世界に連れ去られた際に生き延びれるようにするために訓練しているのだ」と公言していた。
佳奈を始めとする皆、浩二の説明には奇妙な気持ちにさせられたものだ。
曰く、謎の組織と一人で戦っているつもりの勘違いヒーロー。
曰く、自分が特別な存在と思い込んでいる中二野郎。
……エトセトラ、エトセトラ。
ガタイがよくて格闘技もやっているという噂のあった浩二を表だってイジメるものはクラスにはいなかったが、みんなして距離を置きつつ、影で悪く言っていたものも大勢いた。
かくいう佳奈も「ちょっと気持ち悪いな」などと勝手なレッテルを張り、なんとなくの苦手意識で敬遠するところがあった。
それが今はどうだろう? まさか伊丹 浩二の方が正しくて、本当に異世界に拉致されることがあるだなんて。
もっと伊丹くんの話を真剣に聞いておけばよかった!
だが佳奈の後悔が今さらの話であることは、何より佳奈自身がよく分かっていた。あの時異世界召喚により強制的に見知らぬ大広間に連れてこられたあの瞬間、状況を正確に把握した上で先手を取って逃げ出すような見事なふるまいなど、普通に考えておいそれと出来るわけがない。
浩二は見事にそれをやってのけたわけだが、それが幾重もの偶然に支えられた奇跡であることは佳奈にも容易に想像がつく。
満天の星明りの元、暖かな焚火を囲んで、浩二が作った素晴らしい野外料理に舌鼓を打ちながら、佳奈は横目に浩二の顔を盗み見る。
何の不安も感じていない、のんきな横顔に見える。人生を楽しんでいる幸せな男の横顔だ。
佳奈は浩二のことが恨めしくなってきた。
佳奈は女神の加護がある分、魔族との戦いには強制的に関わらなくてはいけない。そういった制約があるのだ。
今こうして浩二とひと月ほどの旅が出来るのも、制約がある限り佳奈は必ず戦線に復帰しなければいけないことが定められているからだ。どんなに嫌だと拒絶しようとも、呼びかけがあれば否応なく身体が彼らの元へと足を運んでしまう。
だからこそ、佳奈が一月ほど休みを欲しいと願い出たとき、王国の連中は快く認めてくれたのだ。
もともと異世界勇者組は個人裁量でまとまった休みを取ることは認められていた。人類軍にとっては貴重な戦力のため、使い潰さぬ程度の配慮は与えられてるのだ。
この3年の間、佳奈はずっと働きどおしだったから、かなりまとまった休みをとっても後ろ指をさされない程度の実績があった。
それで佳奈は貴重な休みを割いて、浩二の旅に同行する事にしたのだ。
一つには浩二の興したコショウの開拓村を焼いてしまった罪滅ぼしの気持ちが大きかったが、それとは別に、浩二の話を色々と聞ければ、自分の立ち位置や今後のことなどを含め、良い知見が得られるかもしれないという淡い期待があったのだ。
期待は良くも悪くも裏切られた。
浩二は知りすぎていた。
異世界の事や、異世界転移の事や、地球における異世界拉致事件の扱われ方や、異世界拉致に巻き込まれた際にどう振舞うべきかや、ありとあらゆることを知っていた。
知っていて一人だけうまく立ち回り、たった3年でそれなりに成功しているように見えた。
そうして今、新たなる香辛料を求め、意気揚々とエルフの里へ乗り込もうとしている。
女神の加護と引き換えに王国に束縛され、魔族たちと死に物狂いの抗争を繰り広げてきた佳奈の3年とどうしてこうも違うのか!
佳奈は楽しそうに笑う浩二の横顔が憎たらしくなり、溢れ出る嫉妬をこらえるだけでも精一杯になってしまう。
そんな佳奈の心のうちも知らぬ様子で、浩二の一人語りはまだ続いている。
「女神などの超常の存在には諸説あってな。例えば叔父の転移した世界には明確に神と呼ばれる類の存在はいなかったが、代わりにステータスだのレベルだのアビリティだのといったおおよそ不自然なゲーム的要素が与えられ、現地の異世界人はこれに振り回されていたそうだ。
叔父は強力な能力値を与えられ魔神討伐に無理やり駆り出されたそうだが、とても気持ち悪かったと嘆いていたよ。現地の人々がステータスボードに記載されたよく分からない数字や文字に一喜一憂し、お互い無意味に競い合い、時には殺し合いにまで発展する様子を見るにつれ、憐れでならなかったそうだ。
だってその数字や文字は自分以外の誰かが勝手に与えた付加価値であって、当人の人間性や経験によって得た実力とは全く関係がないものなのだからな。
これは異世界あるあるなんだが、とかく転移・転生先の異世界では自分以外の誰かが与えられた力に振り回され過ぎるきらいがあるんだ。加護、魔法、超能力、スキル、ギフト、職業、アビリティ、ステータス。それがなんであれ、どれひとつとっても自分で獲得したものではないんだ。
叔父の転移した異世界におけるステータスも、あるいは別の異世界で目覚める魔法の才能や超常の力も、あるいはこの世界の女神が与える加護もだから、本質的には同じものなのだろうと言われている。
神、女神、超常の存在、世界そのもの、システム、様々な謂れはあるが、ともかく不明の第三者という存在があって、これが人になにがしかの力を与え、人類がその力をもってどう生きるのかを試しているのではないか、とな。
まったくびっくりするほどたくさんの試練があるものなのだ。流行りの魔王退治に始まり、聖女として国の結界を張る謎の仕事を押し付けられたり、謎の恋愛ゲームの悪役令嬢にさせられたり、参加者全員のデスゲームに巻き込まれたり、ただ単に現地のビンボー貴族の小せがれとして自由にやってよいことになったり、まあとにかく色々あるようだ。
うまく日本に戻ってこれない事の方が多いから、実際にはもっと奇抜な転移、転生がゴロゴロしていることだろうな。
まあ、中身についてはどうでもいいんだ。大切なのは『意志ある存在』がわざわざ地球に似た世界を用意してまで、あらゆる方法で人類を試そうとしている今の状況があるっていう事なんだ。
これは本当に意味不明な事態だ。
人類はいつの間にか人類以外の知的存在と関わり合いを持つようになり、彼らはとても奇妙な方法で人類に何かをしようとしている、そうとしか考えられない状況なのに、その目的が何であるかがさっぱり分からないんだ。
例えばある学者先生は「宇宙人からのとても不器用な愛の告白ではないか?」とそう評するし、別の研究者の人は「人類が死滅した遠未来の果てで、残ったAIが構築した疑似世界で、我々自身が電子的にエミュレートされているだけなのかもしれない。これはそんなAIが我々人類もどきを諭すための前日譚のようなものなのだ」なんて仮説を立てていた。
まあどのみち証明できない事柄だから、どんな説も推測の域を出ることはないんだがな。
だがまあ、実際問題として不明の第三者による異世界拉致は現実にある。我々はいつだって思わぬ事態をきっかけに、地球とは全く異なる世界へ強制的に連れ去られる危険性がある。それが今の日本や世界、地球の現実なのだ。まあ、交通事故に遭うよりはよっぽど低い確率だが、ともかく巻き込まれてひでえ目に合う危険性はいつでもある。
オレもいいんちょも不幸にもその危険に巻き込まれてしまったが、これも立派に現実の一つではあるから、後はどう生きるかを考えるだけだな。」
焚火に照らされた浩二は佳奈の方へと顔を向け、ニカッと大きく笑顔を作ってみせた。
佳奈にはその顔がまぶしかった。
こんな場末の異世界の片隅で、地球とは違う星々が夜空を埋め尽くす中、浩二は平然と笑ってみせるのだ。
佳奈は直前まで溢れていた怒りや嫉妬の醜い心が消し飛んでしまい、ただただ自らが惨めな存在であるかのように感じられた。
途端に佳奈は浩二の顔を直視できなくなり、力なく項垂れるようにして顔の向きを地面の方へと落とした。
そんな佳奈の横顔に向かって浩二の話は続けられる。
「まあそんなわけでオレは、このクソッたれな異世界でも変わらずいつも通りカレーを作ることにした。傍から見ればバカみたいに見えるかもしれないが、地球だろうが異世界だろうが、オレはどこでもカレーを作ると最初から決めていたからな。
人は誰しも生きる目的を求める生き物だし、目的が見つかれば人生は誰にとっても楽しいものとなることはあまたの先人たちが証明してくれているからな。
オレはたまたま早い段階でカレーという食べ物にそれを見い出すことが出来た。とても幸せな事だと感謝している。
異世界だろうが仮想世界だろうが空想世界だろうが何だろうがオレにとっての現実は変わらん。女神の意図だろうが世界の目的だろうがそんなものはどうでもよい。
とにかくカレーがあればいい。
いいんちょから見ればバカのたわ言に聞こえるかもしれないが、ともかくこれがオレの行動原理なんだ。だから異世界に転移させられようと、カレーさえ作れれば特に何の不満もなかったんだ。」
っていうか、そもそもなんでカレー?
佳奈にはそもそもの根源的な疑問が湧き起こったが、なんか口を挟める雰囲気ではなさそうなので黙っておくことにする。
「だがそんなオレに立ちふさがるバカどもがいる。」
ここで浩二の声は怒気を孕んだものへと変わった。
その真剣な声色に佳奈も思わず顔を上げた。
「エルフの馬鹿ども。奴らは本当に度し難い。よもや唐辛子を独占していようとは!」
「えええええっ?」佳奈は話の落差に思わず腰砕けになった。
「あいつら! おかしいと思ったんだ! そもそも唐辛子はコショウなんかに比べて滅茶苦茶栽培が簡単なんだ。日本でも春先に種を蒔いときゃ勝手に育って夏には収穫できる。だから地球でもコロンブス交換以降あっという間に世界中に広まって、コショウの価値を暴落させる原動力になったんだ。
異世界でもターメリックやコリアンダー以上にすぐに見つかるスパイスだと目論んでいたのに、全然見当たらないからどういうことかと首を傾げていたのだ!
まさか奴らが人為的に独占していたとは!
エルフ! 何様のつもりだ! 女神の代弁者でも気取っているのか! きゃつらめに人類の至宝たる唐辛子を独り占めにする権限などないだろう!
エルフ! 許すまじ! 今から会ってギッタギタにのしてやる!!」
怒りに拳を固く握りしめ、ブルブルと震えながら声を上げる浩二。
えええええっ……。
思わず声を失う佳奈。
伊丹くんの怒りポイントってそこなんだ……。
佳奈は浩二からもたらされた様々な情報に翻弄されながらも、最終的に「伊丹くんはやっぱりちょっと残念な人だな」と、学生時代と変わらぬ結論を下した。
一夜明け、田舎道を進む荷馬車越しに、うっそうと茂るジャングルの端が見えてきた。
エルフたちの住む大森林はもうすぐそこである。
佳奈は一抹の不安を覚えながらも、迫りくる世界樹の大木を目を細めゆっくりと見上げた。
ちょっと勉強してみて知ったのですが、大航海時代に動植物が人の手によって移動して、各地の食生活が大きく変化、破壊される現象って『コロンブス交換』っていう名前がちゃんとあるんですね。
理屈は知っていても言葉として知らん事、いっぱいあるなぁ。
日本を含む世界の料理の歴史って、実際のところこの500年くらいで急速にいろいろ変わってしまったので、どれも実は振興の新しい味ばかりなのだなあとしみじみと思います。
イタリアのトマト料理も四川の唐辛子料理もついこないだ生み出されたばかりの最近の味なんですよねぇ。