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2階にある浩二の私室は、浩二自身がしばらく留守にしていた事情を加味しても、何もないがらんとした殺風景な部屋だった。
木板の上に藁を乗せて布を一枚被せただけの簡単なベッドが端に添えつけられ、中央にはこれまた安っぽい造りの板を組み合わせた簡単な机と椅子が一組置いてあるだけで、後は本当に何もない。
浩二に勧められるがままにガタガタの木椅子に腰を下ろすと、向かいに座った浩二が身を乗り出すようにして早速話しかけてきた。
「それでどうだった? 日本人のいいんちょから見て、ちゃんとカレーの味がしたか?」
挨拶もなくいきなりカレーの話である。
「うーん。」佳奈は少しばかり考え込んでしまう。
てっきり死んでいると思っていたクラスメイトとの思わぬ再会。本来は喜ばしい出来事で、手を取り合って感激でもすべきところなのだろうが、どうにもこの伊丹 浩二という男はそういった心ある人間同士の機微とは無縁の人物であるように佳奈には思える。
今だって再会を祝して、とかそういうのではなくて、ただ単に本当にカレーの話がしたくて佳奈を呼び止めただけであるように見受けられる。
ならば佳奈としても遠慮は不要だ。はっきりと思ったことを伝えるのが良いだろう。
「美味しかったよ。でもなんか、カレーとはちょっと違うよね。最初は全然辛くないから子供向けのそれっぽいスープみたいな印象だったし、胡椒を足してからも、まあ私は好きな味だったけどカレーとはちょっと違うかなぁって思った。」
佳奈としては割と辛辣に思った意見を口にしているつもりが、「うん。うん。」と浩二は嬉しそうに頷くばかりである。
「素晴らしいぞいいんちょ。さすが食に溢れた現代日本人の味覚に基づいた素晴らしい意見だ。」
感無量、といったていで満面の笑みを浮かべ、そう言葉にする浩二に、「えーっ……」かえって恥ずかしくなってしまった佳奈は、顔を赤らめて俯いてしまう。
そんな佳奈の様子を気にも留めず、浩二が続けて口を開く。
「少しばかり言い訳をさせてほしい。まず、どうしてもカレーもどきと感じてしまう理由は、単純にうま味成分が足りていないからなんだ。カレーに限らず日本の料理はイノシン酸・グルタミン酸を大量に追加してうま味を作るから、どうしても異世界では同じだけの味にならないんだ。
これが肉単体で調理すればまだ何とかなる。肉そのものの持つイノシン酸を肉単体の中で味わう分にはうま味は充分に足りるんだ。だからただ肉にカレースパイスをぶっかけて焼けば、まあカレー風味の旨い肉料理はいくらでもつくれるんだがな。」
ここで浩二は一息つくと、ふうっと残念そうにため息を一つつく。
「けれども正直なところ、オレが作りたいのはスープカレーなんだ。そうすると一挙に難易度が高くなる。
というのもいいんちょ、スープや汁ものといった、水の中にうま味成分を煮出す料理というものは大変難しいんだ。畜産業や養殖業が安定しない異世界では肉や魚の供給量が圧倒的に足りていないから、大量の水に見合うだけの大量のうま味の元を用意することが出来ないんだ。
むろんオレは、骨やスジといったそのままでは使えない部位をダシにする技術を持っているから、少ない肉でもそれなりにうま味を煮出すことはまあできる。
野菜をひたすら煮込んでグルタミン酸を増やす方法も知ってるし、発酵や熟成でうま味を増やす工夫も色々始めている。
それでも圧倒的に足りないんだよ。濃厚なうま味になるだけの肉も野菜も足りないんだ。
だからその分大量のスパイスを加えることで誤魔化すしかなくて、結果としてどうしても『もどき』という印象をぬぐえないんだ。
カレーに限らず、日本人が『味』だと思っている要素の大半は『うま味』なんだよ。
だからこの世界ではどんなスープも美味しくはならない。うま味たっぷりの煮込み料理というのは、肉や魚が安定供給できるだけの高度に成熟した安定した社会にならないと味わえないご馳走品なんだ。
むろんこの世界の住人だって馬鹿じゃないから、より高度な文明、より安定した社会を目指して努力している立派な人は大勢いる。
けれども今は戦時だからな。世界を巻き込む魔族との戦争の中で、うま味のもとになる肉を大量にかき集めるなんてとてもじゃないが難しいんだ。全く面倒な時代に転移させられたものだよ。」
正直佳奈には浩二が何を言っているのか半分も理解できなかったが、戦争のせいで料理の味が落ちてしまっている事情には共感出来た。
戦地が近づくにつれ土地の料理は味が悪くなることを、佳奈はほかならぬ自分自身の舌で理解させられていたからだ。中でも煮込み料理やスープは外れを引くことが多いので、佳奈は肉や魚の単品料理を頼むことが殆どになっていた。
浩二の話はさらに続く。
「それでまあ、そんなカレーもどきのスープ料理で騙しだましやるにして、一番誤魔化しやすいのが辛み成分なんだがな。
うま味がなくとも辛ければ不思議と食べたい人の欲求に応えてくれるから、じゃかじゃか辛くすればまあそれなりに食える料理になっちまうんだ。まあ、辛いのが苦手な人には大変申し訳ない味付けではあるがな。
それでいいんちょ。後からぶっかけたコショウカレー、あれはどうだった?」
「うーん。」佳奈はまた考え込んでしまう。
「悪くはないと思う。バランスを考えて上手にスパイスを組み合わせれば、好きな人にはたまらない一皿になりそうな気がする。あたしはかなり好きな味かも。創作カレーの一種として日本でも流行りそうな気がするよ。」
「まあ、そもそも昔のインド料理は黒コショウで辛味を作っていたからな。コショウはカレーとの相性が抜群にいいスパイスなんだ。」
浩二のうんちくに、思わずへえーっとなってしまう佳奈。
「ただなぁ……。」ここで浩二が遠い目になる。「コショウにはどうしようもない最大の欠点があってなぁ……。」
思わず気になった佳奈が「欠点て?」と質問すると、真剣な顔になった浩二が一言こう返事をする。
「金貨二枚。」
「え?」佳奈が重ねて聞き返すと、
「さっきいいんちょが食べた一皿分でだいたい金貨二枚くらい。それくらい高いスパイスなんだ、コショウって。」
「えっ?」佳奈はそのまま固まった。だって今の佳奈の懐には小銀貨が5枚しかない。いやさっき1枚使ったから小銀貨4枚と大銅貨8枚だ。
「えっ?」そういえば中世ヨーロッパではコショウと同じ重さの金が同等の価値をもって取引されていたような歴史を昔習ったような気がする。
「えっ?」あれ? もしかして足らない分のお金は身体で支払えとかそういう流れなのかな?
「えっ?」なんとなく出されるがままにたっぷり振りかけちゃったけど、異世界買い物事情では間違えて使っちゃった分とかも買い手側の責任で支払わされる流れだよね?
「えっ? えっ? えっ?」すっかり壊れたおもちゃのようになってヘンな声を繰り返す佳奈を心配して、「どうしたいいんちょ?」と浩二が身を乗り出して顔を近づけてきた。
「わわわっ!」思わず後ずさり、そのまま後ろに倒れそうになる佳奈。「待って! お金ならあるから! 城に戻ればちゃんとあるから! だから今は待って!」しどろもどろになりながら懸命に弁明を繰り返す。
「なんだいいんちょ。お金の心配してくれたのか? だったら気にしなくていいぞ。金貨二枚だったのはこないだまでの話だからな。」
浩二はそんな佳奈の様子を見てゲラゲラと笑いだした。
「なあんだ」と、ホッとのなる佳奈。だが続く浩二の台詞に佳奈は絶句した。
「今は値段がつけられん。なにせコショウを栽培していた畑が領軍に焼かれて村ごと燃え落ちたからな。」
ゲラゲラ笑う浩二はだが、その目は全く笑っていなかった。
「知っているか? いいんちょ。コショウは栽培がかなり難しい植物の一つなんだ。赤道付近、熱帯地域の中でも1000m以上の高地でしか育たないから、地球では大昔はインドの山間部くらいでしか収穫できず、ヨーロッパの国々は輸入するしか手立てがなかったんだ。だからバカみたいに値段が跳ね上がった。
異世界でも事情は変わらんから、このあたりの地域の山間部に住む原住民が細々と育てていたのをオレが見つけてきて、大量の借金を作ってまで国のお偉いさんを丸めこんで、コショウ栽培専用の開拓村を一つ開いたばかりだったんだ。
だから金貨二枚というのは、村を作るのに掛かった経費を計算すると時価でだいたいそれぐらいだろうという話だ。生産が軌道に乗ればもっと安くなる予定だった。
それがどこから聞きつけたかバカなお貴族様が騒ぎ立てて、魔族に通じる危険分子が開いた村だと難癖付けて来たせいで、軍が丸ごと全部燃やしやがったんだ。
バカを言うな! そんな訳があるか!
だいたい奴らは既得権益を守るために新しい産業へ嫌がらせをしたいだけなんだ! それで薬師ギルドだか料理人ギルドだかがコショウを危険視してお貴族様をそそのかして、勝手な理由で妨害をしてきただけなんだ!
それが『魔族の手先』だと!? どこで尾ひれがついたか知らないが、噂に余計なおまけがついたせいで勇者みたいなヤクザな連中を呼び込んで、疑わしきは罰せよとばかりに領軍が全部燃やしていきやがった!」
佳奈は返す言葉もなかった。だって佳奈たち攻略組がこの街に来る少し前にした事といえば、この地域の山間部に巣食う魔族ゲリラたちのあぶり出しのため、疑わしい村々を一つ一つ見て回るしんどい任務だったのだ。
そういえば妙に反抗的な村が一つあったのを覚えている。
1年前に開拓を始めたばかりという事で、十数人しかいない山あいの寒村には、赤茶けた土がむき出しの畑にひょろりとツタのような植物がいくつも畝になって植えられていた。
とても貧層な畑だった。
何を育てているのかと質問した佳奈に対し「これは料理の常識を覆す新しい植物だ」と誇らしげに胸を張るボロ布をまとった村人。
「ぎゃはは」と阿久津君が笑った。「これのどこが素晴らしい植物だって―の!」
女神より与えられた加護により炎の魔術に長けた阿久津君は、息を吐くよりも簡単に対象を燃やし尽くすことが出来る。あっという間に畑は燃え上がり、あっという間にそれは消し炭になった。
がっくりと崩れ落ちる村人たちの呆けた表情が忘れられない。
だが佳奈たちは、阿久津君を責めようという気持ちにはならなかった。この3年で幾度も酷い裏切りや危険を味わってきたクラスメイト達は、直前まで善良な市民や弱々しい弱者を演じていた人々が豹変し襲ってくる恐ろしい目にも何度もあわされているのだ。
女神の加護を得て強い能力を手にした佳奈たちはだが、目の前にいる憐れな開拓民たちが本当にただの弱者であるかが分からないのだ。
佳奈は大変後味の悪い思いをしながらも、攻略組のみんなは足早に村を去った。連合軍への報告書を作成したのは佳奈だ。
――魔族の協力者の恐れあり。怪しげな植物を栽培しているところを対処。全て燃やし尽くしたため、問題は解決したものと考える。
村を焼いたのはだから、佳奈たちだった。阿久津君一人の責任ではない、クラスの皆で燃やしたのだった。
「知っているか? いいんちょ。コショウというのはな、発芽率がとても低いから、種だけあっても増やせるかどうかはとても難しい植物なのだ。
すでに育った枝葉を挿し木にして増やしていくしかない木なのだ。
だから畑を全て燃やされてしまうと、手元に種だけあっても再建は恐ろしく難しいのだ。
それを根絶やしにされたのだ。もうこの世界ではコショウを使った料理は食えんかもしれんな。
まったく勇者様様だな!」
「……ごめんなさい。」俯き、震える声で佳奈はそう絞り出すようにどうにか謝罪の言葉を口にする。
「どうした? いいんちょ。何をあらたまっている。」静かだが、よく通る浩二の声に促され、佳奈は机に額をこすりつけるようにして、深々と頭を下げる。
「ごめんなさい、伊丹くん。村を焼いたのは私達です。本当にごめんなさい。」
「……やはりいいんちょ達だったか。」浩二の返事は不思議と穏やかな声色だった。
涙に濡れたままの頬を持ち上げるようにして顔を上げた佳奈の前には、困ったふうに苦笑している浩二の顔があった。
「正直、店にいいんちょがいるのを見た瞬間にそうだろうとは気付かされていた。開拓村の若い衆から、勇者と噂される一団は黒目黒髪の化け物みたいな連中だったと話は聞いていたからな。
まあ、いいんちょたちも王国の飼い犬みたいな立場で仕方なかっただろう事情もおおよそ見当はつく。
だがうまく担がれたな、いいんちょよ。勇者の力は対魔族の最高戦力ではあるが、人族相手でも恐ろしい兵器として充分に効力を発揮する。
このあたりの南国沿岸部の商業国家群には魔族、人族のいずれとも取引をしている食えない連中が大勢いるからな。王国を始めとする連合国としてはいっそ全て叩き潰したいと考えている噂は商人どもから話を聞いている。
商業国家群への脅しとして勇者の力を見せつけたい王国サイドの思惑と、現地国家内における下らぬ利権争いの道具としてこれを利用しようとする逞しい地元貴族どもの思惑に乗せられて、いいように使われたといったところだろうな。
いいんちょたちがこの地でつぶした街や村は、都市部を仕切る評議会議員たちにとって邪魔な地方豪族どもの拠点だったのではないかな?
人間同士の下らぬ争いに勇者を使ってはしゃいでいる馬鹿どもの間抜け面が透けて見えるようではないか。」
話を聞いて佳奈は唖然となった。浩二は正確に状況を把握しているように見える。少なくとも、勇者として王国に担がれて言われるがままに従うばかりの佳奈たちより、よっぽど多角的に物事を理解しているように見受けられる。
わたしたちは「言われたとおりにすれば地球に帰れる」という王国の人達を信じてここまでやってきたが、本当にそれは正しかったのだろうか。
自分たちが死に物狂いで戦ってきたこの3年が、実際にはただ異世界人どもに都合のよい道具として使われるだけの全く無駄な3年だった可能性に気付かされ、佳奈は言葉を失った。
そんな佳奈の胸のうちも知らず、浩二は再び饒舌に語り始める。
「だがまあいいんだ。正直3年でいきなりなんでもうまくいくとはこっちも思っていなかったからな。貴族同士の下らぬ争いに巻き込まれる可能性も織り込み済みだ。
なにより、いいんちょ達は村人は殺さないでくれたから開拓村自体は続けられそうなんだ。ヘンに領軍が出張って人死がでなかったのはむしろ感謝している。
コショウについてはまあ、駄目もとで頑張って種から育ててみるさ。うまくすれば5年後くらいには何とかなっているかもしれん。
だが代わりとなる打開策を見つけたんだ。だからコショウについてはもういいんだ。
それよりいいんちょ! おかしいとは思わないか!? なんで最初からコショウなんかで苦労しなけりゃならないんだと! そもそも栽培難易度が高いコショウより、もっと最適な辛味が地球にはあるではないか! だったら最初からそれを探すべきではなかったのか!? そうは思わないか!? いいんちょよ!!」
えええええっ?
佳奈は浩二の突然のハイテンションに別の意味で言葉を失った。浩二が何を言わせたいのか、佳奈にはさっぱり分かりません。
だから返す言葉も何もないので、佳奈がとにかくただ黙っていると、
「そうだ! 唐辛子だ! 赤い悪魔だ! レッドホットチリペッパーだよ、いいんちょよ!」
と、浩二が勝手に自分で正解を口にした。
あー、そうー、ふーん。とうがらしねー。
佳奈にとっては割とどうでもいい話だったので、佳奈は心の中で適当に返事をした。
浩二は何故か満足した表情になり、一人で大きくうんうんと何度も頷いてみせた。
ようやっと荒筋で提示した感じっぽい話になってきました。