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「良ければこれを試してみてくれ。」
思わぬ人物との再会に驚きを隠せず、口をあんぐりとあけるばかりの佳奈の前に浩二はどっかと腰を下ろすと、懐から小さな陶器製の瓶を取り出してずいっと机の上に置いてみせる。その上で出たのが今しがたの一言であった。
「えっ……。えっ? えっ……!?」目を白黒とさせて声にならない声を繰り返す佳奈。情報量が多すぎて何から言葉にすればよいか分からない。
見るからに旅装束の浩二はそんな佳奈を面白そうに眺めつつ、言葉を重ねた。
「どうした? いいんちょ。いいからそいつを試してくれ。そいつがあれば多分かなりカレーに近づくはずだ。」
「えっ!」佳奈は声を上げ、小壺を手に取り蓋を開ける。鼻を近づけて香りを嗅ぐと、「あっ! コショウ!」それは粗めに挽いた黒コショウであった。
「そうだ。黒コショウだ。いいんちょはコショウは苦手か?」
「ううん。」佳奈は首を横に振る。むしろコショウは佳奈の大好物であった。
「それはよかった。ならばぜひともかけてみてくれ。」と浩二が重ねて催促をしてくる。佳奈は言われたとおりにパラパラとコショウをルーに振りかける。
最初は遠慮してちょっとづつだったのだが、「そんなんじゃ全然足りないぞ。」という浩二のあおりを受けて、最後はドバドバとたっぷりぶちまけてしまった。
「さあ食べてみてくれ!」嬉しそうにそう急かす浩二に従うまま、スプーンにひと掬いして口に運ぶ佳奈。
そのお味のほどは……。
「んんん……?」
一挙にコショウ味に染まったカレー。いわばコショウカレーとでも言える新しい料理の完成だ。創作ジャンルとして成立しそうな味である。
肝心のピリ辛要素もコショウの辛味がうまくカバーしてくれてこれはこれでアリという印象を与えてくれる。
カレーのようでなんかカレーじゃない雰囲気は変わらずであったが、コショウ好きの佳奈としてはかなり好みの食べ物となり、夢中になってスプーンを口に運んでいるうちにあっという間に皿の中は空になってしまった。
「ふわあーっ。」それなりに量も多かった一皿を全てお腹の中に納め満足した佳奈は、ちょっとだらしない感嘆の声を上げてしまい、ハッと我に返り恥ずかしくなって、慌てて神妙な顔つきを作って「ご馳走様でした」の一声とともに皿の前で手を合わせる。これはちょっとした日本人としての矜持を示す儀式のようなもの。
それから顔を上げると、ニヤニヤと笑う浩二と目が合った。
「……なによ。」バツの悪さを誤魔化すようにして、わざと怒ったふうに返事をしてやる佳奈。
だが浩二はむしろ嬉しそうな顔になり、
「いやなに、随分とうまそうに食べるものだから、作ったこちらが気持ちよい気分にさせられたぞ。」そう返してきたため、佳奈の安っぽい怒りはすっかり砕けてしまった。
それで佳奈は「あれっ?」となった。
この料理を作ったのは厨房の奥にいる赤肌色の男達ではなかったか? 何故さも浩二が自分で作ったような言い回しをするのだ?
佳奈の疑問はすぐに氷解した。先ほどの陽気な店員が浩二のもとに駆け寄ってきて「おかえりなさい、オーナー!」と声を掛けてきたからだ。
どうやら浩二はこの店のオーナーだったらしい。佳奈のあずかり知らぬところで浩二はそれなりに成功し、たった3年でカレー?店の経営者になっていたという事実に、むしろ佳奈の驚きはいや増した。
そんな佳奈の様子を気に掛けつつも、陽気な店員はえらく真剣な顔つきになって浩二に話しかけてくる。
「それで……。どうでした……? 村の方は……。」
対する浩二は苦しそうな顔で首を横に振った。
「残念だが……。全滅だ……。全て焼き払われていた……。」
「そんな……!」唖然とした顔になる店員。顔面蒼白となり今にも崩れ落ちそうになる。
浩二はそんな店員の肩をがっしりと掴むと、力強い様子でこう言葉を続ける。
「待て、チャナン! 落ち込むのはまだ早い! 起死回生の素晴らしいスパイスが手に入りそうなんだ! うまくすればとんでもない逆転劇が起こせるかもしれん! 飲食業界に革命を起こせるすごいスパイスを発見したんだ!」
えええええっ……。
横でついつい盗み聞きしていた佳奈は思わず心のうちで声を漏らしてしまう。
……それっていわゆる水物とか眉唾とかっていうやつじゃないの?
あからさまに胡散臭いんだけど……。
陽気な店員、チャナンも同じ気持ちになったらしく、「えええええっ……。」と同じく残念な声を上げてみせた。
「なんだチャナン! その疑うような目は! 本当なんだ! 信じてくれ!!」浩二はそんなチャナンの肩を揺さぶるようにして何度も声を掛ける。チャナンはグラグラと前後に身体を揺さぶられながらも、残念な顔のままじーっと浩二を見返すばかりであった。
それで説得を諦めた浩二は手を離し、「まあいい。とにかくそういう訳でオレはすぐにまた旅立つ必要が出てきた。しばらくまた戻ってこれんから、店の事はよろしく頼む。」と声を掛け、チャナンの胸をトンと拳で叩いてみせる。
「……分かりましたよ、オーナー。店の事は何とかします。その革命的スパイスってやつには期待しませんけど、オーナー自身には期待してるんだ。あんたの好きにやってくれりゃあいい。」チャナンは仕方がないといった表情になってこくりと縦に頷いた。
「すまんな、チャナン。苦労を掛ける。」大柄な浩二が小さくなって頭を下げると、
「いいってことですオーナー。もともと自分はオーナーのカレーに惚れこんでこの店に来たんです。どんな苦難もご一緒しますよ。はははっ!」チャナンはそう言って浩二の手を取り、
「……チャナン!」二人はガバっと抱き合った。
えー? なにー? ほもぉー?
一方、置いてけぼりの佳奈は湧き起こる不謹慎な妄想を振り払うのに懸命であった。
ていうかそれ以前にあまりに情報量が多すぎる。
3年の間に伊丹くんはカレー店のオーナーになって、チャナンのような腹心の店員と手を取り合って遠い南国の地で店を切り盛りし、そしたらなんか村が焼き払われてなんか全滅になって、起死回生のすごいスパイスに人生を賭けようという話になって……?
なんか濃厚なドラマがあったんだろうけど、佳奈にはさっぱり分かりません。
でもあんまり知りたいとも思わないので、さて今日のところはこのままお暇しようかなと佳奈が席を立つと、絶賛抱擁中の浩二が首だけをくるりと向け、佳奈に声を掛けてきた。
「あーいいんちょ、お帰りのところすまん。よければ少し話さないか? いくつか聞きたいこともあるんだ? どうだ?」
佳奈としては断る理由もない。
「うん。いいよ。」
こうして佳奈は浩二にいざなわれ、2階にあるという浩二の自室へと足を運ぶことになった。
このまま性的に襲い掛かられるかもしれないという危機感を覚え、少しばかり身構えてしまったのは佳奈の心の中のちょっとした秘密である。
ほもぉな抱擁シーンに中てられてちょっと高ぶってしまったなんて、口が裂けても言えない佳奈であった。