17
ある晴れた春の日、先触れ通りに王都に現れた伊丹くんはまるで王のようであった。
お貴族様らしいビロード仕立てのきらびやかな衣装に身を包み、隣には可愛らしい姫を侍らせている。この姫は佳奈も少しだけ面識があって、確か伊丹くんが仕えるペアル王家の末姫様だったはずである。とても可愛らしい可憐な見かけとは裏腹に、伊丹くんの料理に惚れこんで屋敷に勝手に入り浸る大変なお転婆姫であったと記憶している。
だがそれよりも更に迫力があるのが、背後に付き従うエルフの美姫たちであった。
タリアやナリャ姫といった絵画の中にしかいないような極上の美女たちが揃って伊丹くんの後ろを静々と付き従っている。
それだけでもお腹いっぱいなのに、更にその周囲を獣人の凛々しい女騎士たちがきびきびとした動作で守りを固めている。
伊丹くん以外の数十人全員が、とても美しい女性達ばかりだった。
更にはエルフたちは純白に銀糸の飾りが美しい細身のローブ、獣人騎士たちはボディラインがぴっちりと出るパンツスタイルの騎士服と、それぞれに統一された美しい衣装を身にまとっており、全員が伊丹くんのしもべである事が一目でうかがえる様相であった。
これは後で伊丹くん本人に聞いた話だが、交渉のためはったりを利かせたい伊丹くんがタリアに相談したところ、美女ばかりを集めた家臣団を引き連れて行きましょうと悪乗りをした結果だったそうなのだが、それにしても何の事前情報もなくこれを見せつけられた佳奈たちは度肝を抜かれた。
伊丹くんに喧嘩を吹っ掛ける気満々だったらしい阿久津くんなどは、大きく目を見開いて酸欠の金魚のごとく口をパクパクとさせている。
だがこれに一番驚いているのは聖王国の面々であった。
小国の伯爵になった程度の若造を迎え入れるのに大した準備も要らぬだろうと、大仰に構えていたらしい聖王国のお歴々は佳奈たち以上に度肝を抜かれ、大慌てで国賓待遇の準備を進めたようである。
急遽解放された来賓室に迎え入れられた伊丹くんたち一行に、佳奈や成美ちゃんなどの一部クラスメイトが同席させてもらうことになる。
そんな佳奈たちが見守る中、聖王国の重責、外務大臣のラッツェルと伯爵家の家老を務めるらしきタリアがなにやらバチバチと舌戦を始めた。
「ハイエルフや獣人たちが主と認めるナキニ伯に対して、随分な歓迎にわたくしは驚きを隠せません。聖王国とはいったいどれほどのものなのか、是非そのお考えをお聞かせ頂きたいものですね。」と、目を細めつつも笑ってない笑顔でニコニコとラッツェルに詰め寄るタリア。
「突然の来訪だったのですぞ? 出来れば事前にきちんとお伝えいただきたかったものですな!」笑ってない笑顔でにこやかに返答するラッツェル。
「ひと月も前に先触れをいたしましたが、大臣殿にはお話がなかったのでしょうか? 大国ともなると上下の伝達に齟齬があるのでしょうか? 共に国を治めるものとして統治の在り様について語り合う必要があるかもしれませんね。」
「お話はありました。けれども本来、加護の儀式とはしめやかに執り行われるべき秘儀なのですぞ。それをかように大勢で押しかけられては、却って神儀に憚りがあるやもしれませぬ。もっと少人数でおらっしゃるかと考えておったのです。
高名な森人どのであれば既知の事実であろうかと思ったのですが、違っておりましたかな?」
これを聞いたタリアはふふんと鼻で笑ってみせる。
「『女神の加護』が秘儀! かの建国の祖、ドザール王が耳にしたら頭を抱える事でしょう!
よいですか? 人間。そもそも『女神の加護』とは魔王を倒すための大切な儀式なれば、500年も前には国を挙げて大々的に祝われたいわば祭儀であったのですよ?
当然我らとしても大切な祀り事とあらば大勢でまいるは必然でありましょう。
それがどうして民に隠れてこそこそと隠すように執り行われることになったのか、あなた方の良識を疑わざるを得ません。いったいお前たちは『女神の加護』をなんだと考えているのです?」
「それは……。」ラッツェルは一瞬、言葉を失う。それから取り繕うように「過去のことは存じませぬが、神儀には時代に応じた決まり事というものがあるのです。始祖ドザール王の時代と同じに考えてもらっては困りますな。
ともかくこちらには事情があるのだ。出来ればなるべく従っていただけると有難いですな!」などと早口に言うと、その場からいそいそと立ち去ってしまった。
残されたタリアはやれやれと肩をすくめつつ「どうにも思ったよりもひどい状況のようです。これは少々覚悟がいるかもしれません。」と、伊丹くんへ報告をしてみせる。
「そうか。」と意味深げにつぶやく伊丹くんに口を挟んだのは成美ちゃんだった。「ちょっと! 浩二くんっ! なに企んでるのっ!?」すごい剣幕で伊丹くんに食って掛かる。
だが肝心の伊丹くんは頓着しない様子で、「おお。久しぶりだな柿野坂。元気にしていたか?」などとのんきな返事をしてくる。
「私はいつだって元気にしています! そうじゃなくて!」成美ちゃんはぷりぷりと怒りつつも、なんだかヘンテコなやりとりが始まる。
「まあそう腹を立てるな、柿野坂よ。これには少々訳があるのだ。大事にはなるだろうが決して悪いようにはしないからこの俺を信用してくれまいか?」と伊丹くん。
「あのねぇ……! 私たちは聖王国に呼び出されて従っている手前、生殺与奪を彼らに握られているのよ! あんまりおかしなことをされるとこっちの命が危ないの! そこのところ分かっているんでしょうね!」と成美ちゃん。えっ!? あたしたちの命って聖王国の人達に握られていたの? 佳奈は始めて聞く話にちょっとびっくりしてしまう。
「分かっているとも。だがこの日のためにこの俺も何年も準備を重ねてきたのだ。勝率はかなりのものだと自負があるから、ここはオレにすべてをゆだねてほしい。」
「勝率はかなりのもの!?」成美ちゃんが目を三角にした。「そこは嘘でも100%って言いなさい!」
問い詰められた伊丹くんはオロオロとなる。「いや、その。むろん心意気としては絶対に成功させるつもりではあるが、約束は出来ぬのだ……。」
「約束なさい! でないと佳奈が大変な目に合ってしまうかもしれないのよ!」更ににじり寄る成美ちゃん。
佳奈はえっとなった。えっ? あたし? あたしが何か大変な目に合ってしまうの? ていうかなんで、ピンポイントであたし?
「いや、まあ、分かっている。いいんちょの不利益にならないよう、絶対に成功させるつもりだ。分かった、柿野坂。約束する。だからここはオレに任せてほしい。」
「よろしいっ!」成美ちゃんはにっこりと笑った。
それから伊丹くんはお触れにやってきた近衛の人に呼ばれて、タリアたち美しい女性数名を伴って部屋の外へ出て行ってしまった。
来賓室にはまだ大勢の関係者が残されていたから、佳奈たちは一応聖王国側のホストの立ち位置としてその場にとどまった。
とはいえ特に接待を頼まれているわけでもないので、みんなしてぼーっと待つだけのちょっと不思議な時間がやってきた。
あっ。エルフのお姫様のナリャ様が出てきたお菓子に文句を言っている。まあそれもしょうがない。聖王国の料理は古臭いからなぁ。白い小麦にバターやクリームも使い放題、蜂蜜やメープルシロップをふんだんに使ったナキニ伯爵領の極上のケーキやお菓子と比べたら申し訳ないくらいだよ。
伊丹くんたちの所属するペアル王国は白い小麦と、これを用いた新しい料理の数々で世界に大きく名を売り出しはじめていたが、南の端にあり保守的な聖王国では大した情報も入ってこず、未だに古臭い微妙な感じの料理ばかりが食卓に並ぶ有様だった。
そんなお菓子たちが並ぶテーブルを前に、舌の肥えた伊丹くんの関係者たちの食指が動くはずもなく、誰も手を付けないままお茶だけでのどを潤す事を繰り返していた。
宮廷料理人が急な来客にもかかわらず腕によりをかけて作り上げたであろうそれらが放置されている様はどこか物悲しく、今の聖王国の在り様を象徴しているようにも、佳奈には思えた。
そんな佳奈に対し、成美ちゃんが話しかけてきた。
「どうしたの? 佳奈。考え事?」
「うーん。まあ、ちょっと……。」佳奈は適当な返事をしておく。
対する成美ちゃんはやはりといった表情で、「やっぱり佳奈も浩二くんたちのことが気になるよね。」とうんうん頷いた。そして続けて恐ろしい話を始める。
「恐らく聖王国の人達とひと悶着あるわね。下手をすれば戦いになるかもしれない。佳奈も準備しておいた方がいいわよ。」
佳奈はキョトンとなってしまった。
「え……? 何の話?」思わず訊ねてしまう。
そしたら成美ちゃんのほうがキョトンとなってしまった。
「え……? 佳奈、もしかして分かってない? さっきの大臣とエルフの人のやり取りとか、裏ですごい駆け引きとかあったの、気付いていない?」
「えー? なにそれ。なんかあったの?」佳奈が恥を忍んでそう返すと、「あちゃーっ!」と成美ちゃんが片手で目を覆った。
「そっかー。佳奈も分かってないサイドの人だったかー。全然気づかなかった―。そっかー。」成美ちゃんがブツブツとつぶやき始めた。
それから真顔になって、佳奈に向かって強い口調で語り掛けてくる。
「ねぇ? 佳奈。佳奈はこの世界に来てから、おかしいとか異常だと感じたことはない?」
「ええっ?」佳奈は思わず首を傾げてしまう。
そんな佳奈の様子を前に、成美ちゃんは真剣な表情で淡々と話を続ける。
「だって私たちがこの世界に召喚されて、もう17年にもなるのよ。人生の半分をこの世界で生きてきたことになる。それって異常な事だと思わない?」
異常? そうなのだろうか。確かに気が付けばもうそんなに長くこの世界に滞在している事になる。けれども佳奈たちは魔王を斃さなければ地球には戻れないのだ。例え何年経とうとも、目的を果たすまではどうにもならない事について、あれこれ考えても仕方がないような気もする。
「異常? なのかな? ちょっとよく分からないかな?」佳奈は素直に思ったことを口にする。
「ええ。そうでしょうね。そしてそれは私も同じなの。私もこれを異常だと考えたことは一度もないわ。」と成美ちゃんもそう返事してくれる。佳奈は成美ちゃんが自分と同じ印象であることにホッとなる。
そう、全ては世界を救うまでの辛抱なのだ。
けれども続けて発する成美ちゃんの言葉は佳奈にはさっぱり不明な内容だった。
「でもね? 佳奈。これが一番肝心な事なの。異常だと思えないこと自体がとても不自然で、異常な事なのよ。
これはちょっとしたトリック問題よね。
私たちはただの一度も、異世界で魔族と争うことに対して何の不満も抱かなかった。それを当然のことだと考えてきた。クラスメイトは40人もいたのに、伊丹くんを除いた全ての人間がその点では全員が同じだった。
日本の教育制度はそれなりに充実しているから、40人もいればある程度意見にばらつきが出て、集団としてみれば多角的に物事を判断できるだけの多様性があるはずなの。
だから一人くらいはおかしいとか異常だとか、そんなふうに言い出す子がいてもおかしくなかったの。
ところが誰も異を唱えなかった。だからこれはとてもおかしい事だと、私は気付くことが出来たの。もっとも――」ここで成美ちゃんは一息間を空ける。
「私がこの異常性に気付けたのも、クラスメイトの中で浩二くんが一人だけみんなと違う雰囲気だったから、それがきっかけなの。だから浩二くんがいなければ、私もいつまでも騙され続けていたままだったでしょうね。」
そんなふうに嬉しそうに目を細めて話す成美ちゃんは、佳奈の目にはなんだかとびっきりのかわいい女の子に見えた。
訳もなく妙な胸騒ぎを覚えた佳奈は、少しだけムッとなる感情を抑えつつも成美ちゃんに言葉を返す。
「私にはよくわかんないや。でもとにかく戦闘になるかもしれないんだね? 分かった。準備しとく。」
王宮内で武器の帯同は許されていないが、女神の加護として特殊な役職を拝命した佳奈は肉体だけを使った格闘術にも精通している。
だから佳奈は、身体中に闘気を行き渡らせていつでも飛び出せるようにしておく。
脳味噌のスイッチが切り替わってあたりを見渡せば、騎士服に身を包んだ猫獣人のシャーさんなどははちきれんばかりの緊張感で、いつでも戦いに赴ける様子だった。
佳奈は自らの不明を恥じた。ここはもう戦場だったのだ。敵はすぐ近くにいるに違いない。
こんな王宮の奥深くにまで侵入してくるなんて、とんでもない相手だ。
ここで佳奈はふと疑問を覚える。
あれ? 敵って誰?
それで思わず成美ちゃんに尋ねてしまった。
「誰と戦えばいいの? 魔族が攻めてくるの? なにと戦えばいいの?」
成美ちゃんは悲しそうな顔でゆっくりと首を振った。「いいえ、佳奈。相手は恐らく、私たちが敵だとも思えない相手よ。ずっと味方だと、大切な人たちだと、そう思わされていた相手と戦わなければならないの。」
だがその意味が佳奈にはさっぱり分からない。
大切な相手?
まさか伊丹くん!?
そんな……!
だが佳奈にはほかに相手が思いつかない。
どうして私たちが伊丹くんと戦わなけれればならないのか、混乱した頭を抱えたまま、とにかく闘気だけは切らさぬように丹田に力を籠めていると動きがあった。
先に伊丹くんと出ていったタリアが一人で戻ってきて、みんなの前で声を張り上げる。
「全ての決着がつきました! みな急ぎ玉座の間へ!」
ガタガタッと音を立てて椅子から立ち上がる一同。佳奈も慌てて皆に習う。
そうしてタリアの先導の元、伊丹くんの家臣である美女軍団とおまけの佳奈や成美ちゃんはぞろぞろと玉座のある大広間へと歩を進める。
広間の中に入った佳奈の眼前には異様な光景が広がっていた。
玉座を前に一人立つのは伊丹くんだった。大柄な伊丹くんが堂々とした振る舞いでそこにいると、まるで彼自身が王であるかのような錯覚を覚える。
そして、そんな伊丹くんを前にひれ伏している大勢の人々。
それは佳奈がよく見知った人々だった。聖王国の王様に王妃様。佳奈も個人的に付き合いのある王太子様や王太子妃様。更には生まれたばかりの可愛らしい王孫達。
降嫁したかつてのお姫様やその夫である侯爵様。
大臣様方や国の中枢を担う大貴族の皆様方。
騎士団長を始めとした騎士団員の方々や神に仕える神官長さまがた。
聖王国の層々たる面々が一様にひざまずき、玉座の前に立つ伊丹くんにこうべを垂れていた。
伊丹くんの朗々と響く声が広間を支配している。
「他にも! このオレを支配しようと呪った全員をここへ連れてくるのだ! まだいるだろう! 全員だ! どんな手を使ってでもいい! ともかくここに全員を連れてこい!」
「そんな……!」外務大臣のラッツェルが声を上げる。「中には国外にいるものもおりますぞ! それを全てなどとても……ぎゃっ!」話の最中でラッツェルは叫び声を上げた。
「痛いっ! 痛い痛いっ! あ、頭が割れるようにっ……!」苦悶の表情でその場にうずくまる。
そんなラッツェルの様子を鼻で笑う伊丹くん。
「バカかこの男は。女神の加護を持つ異世界人をも従わせるような強力な呪いだぞ? 少しでも逆らえばどうなるか想像もつかんのか。」
それから伊丹くんはラッツェルの首根っこを捕まえてぶら下げるようにして皆の前に晒してみせる。
「お前たち! この愚か者を見てなおも逆らおうというのならやってみせろ! だがそのようなものには死よりもつらい痛みが待っているものと思い知れ!
さあもう一度命ずるぞ! 今すぐこの俺に愚かな呪いを目論んだすべてのものをこの広間に連れてくるのだ! いかなる方法を用いても最速にだ! 転移魔法、竜騎兵、国際魔導通信、軍事行動、どんな手を使ってでもよい! お前らに出来る最速で全員を呼び寄せろ!
呪の主たるコージ・イタミが命ずる! 疾くと動け!」
それで人々は一斉に動き出した。ひれ伏す一同は立ち上がり、あるものは飛び出すようにして広間から出てゆき、あるものはその場で近しいものを捕まえてあれこれ相談を始めた。またあるものは先のラッツェルと同じように、苦悶の表情を浮かべながら頭を抱え、その場に蹲った。
そんな中、とても奇妙な行動を取る一団があった。
国王様はその場でぐるぐるぐるぐると回り出し、近くに立つ王太子様も右へ一歩足を進めては、困り果てた様子で左に戻る。かつてのお姫様に至っては「あ、あ、あ……」などと呆けた声を上げながら、懸命に両手を上げ下げしている。
まるで道化のような間抜けな仕草であったが、佳奈にはすぐに分かった。あれは、命令の意味が分からずに苦悶している様なのだ。
とにかく命じられたことを実行しようとしても、そもそもどうすればいいかすら分からないのであんな風にヘンテコな動きを続けるしか他にないのだ。何もしないでいると頭が割れるように痛くなる。だからともかく何でもいいから動かないといけないのだ。
その苦しみを佳奈はとてもよく知っている。だって転移の直後の佳奈は、同じ苦しみを何度も味わったのだから。
酷い!
佳奈は怒りに脳味噌が沸騰しそうになる。佳奈が同じような状態になったとき、お城の偉い人達みんなに笑われたものだ。バカだ愚かだとなじられて、見世物のようにされて、とっても辛い思いをしたのだ。
だから佳奈は必至になって覚えた。人の殺し方や、恐ろしい罠の張り方。にっこりと微笑みながら平然と嘘をつき相手を騙す悪知恵や、男の人を喜ばせるためのいやらしい腰遣いまで。
だが佳奈は同じ辛さを他の皆が味わうべきではないと強く思う。あんなひどい思いをするのは自分一人で十分だ。だから佳奈はみんなのためにも人一倍努力をして、全ての苦労を買って出たというのに、今また王様たちが同じ苦しみを味わっている。
酷い!
佳奈の身体は自然と動いていた。このような凄惨な状況を生み出した犯人はすでに目星がついている。ならばその元を断てばいい。
佳奈が『女神の加護』によって得た役職は『暗殺者』。人殺しに特化した優れた能力はこの場においても十全に力を発揮し、一直線に敵の首魁へと鋭くとがった殺人拳が伸びる。
「伊丹くん! 死ね!」
初撃を躱されたのは奇跡のような偶然だった。たまたまその場でふらりと首を動かした伊丹くんによって、命を狩るための正確無比な佳奈の手刀は空を切り、佳奈はそのまま身をよじるようにしてその背後に回り込むと、素早く二撃目の態勢へ移ろうとして、ここで獣人の女騎士たちに取り押さえられた。
「離せ!」佳奈は声を張り上げるが押さえつけられた身体はピクリとも動かない。
もともとアサシンは素早さ特化で力そのものはそれほど強くない。だから優れた筋力を持つ獣人にこんなふうに押さえられてしまうとどうすることも出来ない。そもそもアサシンは初撃で相手を倒せなかった時点で半分以上負けなのだ。
だから佳奈は本来まずはいったん引いて戦略を練り直さなければならなかったのだが、いかんせん今回は突発的な戦闘行為であり、佳奈に指示を出す騎士団の人もいない以上、ただの殺人機械でしかない佳奈は引き際すら分からず足掻くぐらいしかない。
「び、びっくりしたにゃあ。」猫獣人のシャーが心底驚いた様子でそう呟くのが聞こえる。
「まさかカナちゃんが敵に回るなんて……。」
佳奈はそんなシャーに向かって悲しそうな笑みを浮かべて辛そうな声で話しかける。
「痛いです、シャーさん。手を緩めてください。」
だがシャーは冷徹だった。「そんなふうに可愛く言ったってダメだにゃぁ。後で回復魔法を掛けてあげるから、今は大人しく痛い目にあっておくのだにゃあ。」そんなふうに言いながら、ギリギリと佳奈を抑え込む両手に力を込めてくる。
糞っ!
佳奈は心の中で悪態をつく。せめて口に毒針でも含んでいればここからさらに反撃の手段もあったろうが、今の佳奈は何の準備もないままに戦いに突入したのだ。
対する猫獣人のシャーはさすがに戦闘のプロであった。的確に佳奈の関節を取り、身動きが取れぬように完璧に佳奈を抑え込んでいる。
だがどういう訳だかシャーは佳奈を殺そうとまではしてこない。そこにつけ入る隙があると佳奈は考える。死の直前まで出来る事を全てやる。佳奈は静かに闘志を腹奥にたぎらせた。
そんな佳奈からは少し離れた場所で、佳奈と同じように取り押さえられた成美ちゃんが大声を張り上げた。
「浩二くんっ! なにボケっと突っ立っているの! 今すぐ私たちの呪いを解きなさい! 何やってるのっ! いいから佳奈を救いなさいっ!」
そこから先の事を佳奈ははっきりとは覚えていない。伊丹くんが何事かを命じると、何やら司祭様らしき人物が佳奈の元にやってきて、この男が長い詠唱を唱えると、佳奈の頭の中にある奇妙なこわばりが溶けるように消えてなくなった。
次の瞬間、佳奈の頭の中に大量の情報が流れ込んできた。いや、正確にはそれは佳奈の中にもともとあったはずのものだった。
佳奈が異世界に来てから18年。その間にずっと見て見ぬふりをしてきたこと、本当は気付いていたはずなのに何故か心の奥底にしまい込んでいたもの。それらが一斉に溢れ出て、佳奈の心を埋め尽くした。
善良な人々に嘘をついて騙したり、殺したくもない人々を殺したり。好きでもない男の人達を好きだと信じたり、そんな彼らを喜ばせるために全身を使って尽くしたり。
気持ち悪い、気持ち悪い、気持ち悪い。
偽りの感情に支配され聖王国に尽くしてきた18年。佳奈はずっとそれが正しい事だと信じてきた。
いや、本当は心の奥底ではずっとおかしいと感じていた。だがその心は呪術だかなんだかのせいで封じ込められていた。それが今、一挙に溢れ心の中を嵐のごとく吹き荒れていた。
気持ち悪い! 気持ち悪い! 気持ち悪い!
佳奈は吐き気がこらえきれなくなり、その場で吐いた。猫獣人のシャーに押さえつけられたまま、どうにか首を横に向けて、とにかく腹の中にあったものをその場にぶちまけた。
「どどど、どうしよう……!」なにやら困り果てた様子のシャーの声が聞こえる。
「離してあげて。佳奈も私ももう大丈夫だから。」成美ちゃんの声も聞こえる。
「で、でも……。」なおも逡巡するシャーに対し、
「離してやってくれ、シャー。俺のことはもう心配しなくてもいいから。」どこか悲し気な伊丹くんの声。
それから佳奈を拘束するシャーの腕が緩んだ。
もちろん佳奈は今さら伊丹くんをどうこうするつもりなど微塵もない。
それどころか……。
ごめんなさい伊丹くん……! あなたは私を助けてくれようとしていたのに、私はあなたを殺そうとしてしまった……! なんという恐ろしい事を! なんという大変な過ちを!
私は……! 私は何という事を!
いつまでも収まらぬ吐き気に何度も戻しつつも、佳奈の心の中を罪悪感が埋め尽くした。
脳が燃えるように熱くなり、混乱する思考の中で佳奈を取り巻く世界がゆっくりとブラックアウトしていき、佳奈はそのまま沈むようにして意識を手放した。




