アーサーはじめてのおつかい
晴れ晴れとした青空の下、主人は作業に没頭していた。確か、アルムからは薪を集めてほしいとの仕事を受けたはずだったが、何故だろう、主人は目の前の大木へ斧を打ち込んでいる。しかも、次々に切り倒している。私が知る限り、これは開墾と言うのではなかろうか。
乱雑に伸びた黒髪を振り乱しながら、主人は切れ長の深い闇を湛えた瞳で、巨木を見据えた。主人の瞳はいつも澄んでいて、私は大好きだ。
アルムの古着を借りている主人は、細身で長身なので、古びた白い上衣はぶかぶかで下のズボンは寸足らずだ。斧を振りかざすたびに肩の位置がずれている服を主人は気にしているようだった。
首の包帯が痛々しいが、傷跡を隠すためだけに巻かれたものなので、主人にとって別段の支障はない。
『アーサー様、何をなさってるのですか?』
私は尾を振りながら、主人へ話しかける。私の問いかけに答えることさえもしない主人。斧が幹に食い込んでいく音だけが、何度も周囲に響いている。
幸いここには私と主人しか居ないので、「木が倒れるゾォ」の声掛けは必要はないが…。と、思っていたところ、人の足音が近づいてくる。アルムと初めて見る顔だが、近隣の村の者だろうか?
私と主人はまだ村へ降りたことがない。アルムの山小屋は一番近くの村でも、早朝から歩いて昼前に着くほどの距離だと、以前にアルムがこぼしていた。
「むっ?何だこれは!わしは薪をとってきてほしいと頼んだはずたが?」
主人は顎から垂れ落ちる汗を手の甲で拭うとボソリと呟いた。
『のんびり、薪を集めるのがかったるかったんで、この際、木を切って薪を割った方が、運動にもなりそうだし、いいかなと思って…』
そう説明したあと、頬を少し膨らませる。主人は一体どれだけの薪を作ろうとしているのか、私は些か心配だ。
アルムは主人の表情から言い訳をしていることは理解したようではあるが、主人の言葉が伝わることはなかった。
蓄えた白髪混じりの髭を触りながら、大木が無数に倒されている現状を、アルムは遠い目で眺める。しばらく、沈黙が続いた。一緒にいた男は心許ない表情で、それでも黙って様子を窺う。
「…まぁ、いい。暇を持て余しているようだから、これから、こいつと猪を退治してこい」
アルムはひょろりとして頼りなさそうな男を親指で示す。藪から棒に何を言い出すんだと私はアルムを見上げた。アルムは私の視線に気付いて、大きなごつごつとした指で私の頭を撫でる。
「えっ?この人ですか?」
一緒に連れて来られた人間も目を丸くしながら、小声でアルムへ抗議した。
「何か?この人、物騒な顔つきをしてますよ。大丈夫なんですか?俺はアルムじいさんに来てほしいって頼んだのに」
『全部、聞こえてんだよ』
主人は客人を一瞥する。彼は主人の表情を捉えて震え、目を逸らした。
「無理ですよ。この人怖いです」
男はアルムの肩を掴んで揺すった。
「まぁ、そう言うな。こいつのことはわしが保証する。悪いやつではない。それに頼りになる」
アルムは穏やかな眼差しで、男の肩へ手を置くと諭すように言う。アルムが暢気に笑うと頬の皺が更に深く刻まれた。
『じじい、勝手に決めんな』
主人の悪態はアルムに届かない。主人は言葉を発せないのだ。因みに私は精神感応で主人へ語りかけている。主人には私の言葉が届いているはずだ。だが、何故か主人は私に対して怒りを覚えているようで、返事をいただけない。それどころか、存在さえも無視されている。寂しい…。
「村人が困っとる。巨大な猪が畑の作物を荒らしているらしい。せっかく実ったのに、これでは冬が越せんかもしれん」
主人はアルムを睨みつけるが、アルムは多分幾つかの修羅場をくぐり抜けた経験があるのだろう、動じることなく鋭い視線を返す。同行してきた男は危険を感じて、アルムの背中に咄嗟に身を隠す。すいませんね、うちの主人、機嫌が悪くて…。
『分かったよ。行けば良いんだろ』
ため息を吐きながら、それでも主人は致し方ないといった面持ちで、首を縦に振り了承する。
うーん、見ず知らずの村人の生活を配慮するあたり、主人はとてもお人好しの性格なんですけどね。それを見越して、アルムも言葉を選んだんだろうし…。
だが、それは私とアルム以外に伝わりにくい。
「そうじゃ、そこの犬も同行させる。狩りに猟犬は必要じゃろう。クロ、どうせ、ついていくんじゃろ?」
アルムは私の黒々とした毛並みを優しく手で梳く。アルムは見た目から私をクロと呼ぶ。
凛々しくも雄々しい私の姿から何故こんな安易な名前を思いつくのか謎だ。
『だから、私の名前はマーリンです。勝手にクロって名付けないでください』
主人は視線を巨樹に戻すと、片手で斧を大きく振りかぶって、再度、幹に大きな裂け目を切り込んだ。メキメキと音を立てて木は倒れる。
誘いに来た村人はその様子を見て青白い顔色で狼狽える。
良かったですね。そちらに倒れなくて…。
『大猪、どれだけの丈があるかと思ってましたが、横丈が寝転がったアーサー様の三倍程度の大きさですかね』
私と主人はかなり離れた遠くの樹木の上から、農作物を鼻で掘りおこし貪り食べている猪の大きさを確認する。私は犬だが、ブラックドックと言う精霊なので木登りも得意だ。何でもござれである。
『あれじゃ、近隣の村々にも被害が出てるだろうな』
主人は切なげな表情で小さく吐息をもらす。
「あんちゃん、作戦会議するんだけど、下りてきてもらえないか?」
一人の男が大猪を偵察している主人に向かって大声で叫んでいる。
暗澹たる雰囲気を醸し出している主人に、村人達は慄いているのだが、この一団を取り仕切っている筋肉隆々のこの男だけは違った。空気を読まないと言うべきなのだろうか?平気で主人に声をかけてくる。
主人はひらりと地上へ舞い降りる。私も可憐に飛び降り、主人の後へ続く。
「あんちゃん、何やっても絵になるな。頼りにしてるぜ」
主人の背中をバンバンと叩きながら、豪快に笑うこの男を、私は無粋な奴だと思っているのだが、主人は気にも留めていないようだ。
男はこの計画に集まった村人達の人数をまず数えた。
「総勢二十人」
私がいるので足す一匹ですね。
「では、猪を狩る計画だが…」
計画は何日もかけて作成した頑丈な木の格子へ囮を仕掛けて誘い込むという単純なものだった。
「猪はそのあと捌いて、燻製にするか?干し肉にするか?農作物に被害が出てるから、村のみんなで保存食として分けようと思ってる」
男は集まった衆の面持ちを一人一人確認しながら、丁寧に説明した。
主人は首の後ろで手を組んで、静かに話を聞いていたが、徐に立ちあがると手のひらをヒラヒラと舞わせる。
『話にならないな。まず無理だろう』
「こらこら、あんちゃん。ちょいと待って。各自持ち場があるんだからって、これから、配置についてって…話聞いてる?」
背中を追いかけるまとめ役の男の話に聞く耳を持たず、主人は歩きだした。
『アーサー様、お待ちください。私を置いて行かないでください』
私は主人に追従しようとした。だが、男に雁字搦めにされる。
「せめて、この犬を貸してくれ。囮になってもらいたいんだ」
『えっ⁉︎』
私は男の言葉に驚く。
「ほらっ、犬の方が人よりも逃げ足が早いだろ?」
主人は後ろを振り向くと、再度、手を振った。
『好きにしろ。オレの犬じゃない』
『えぇぇ〜⁉︎アーサー様』
私の言葉は虚しくも主人の心に響かなかった。
結局、主人は何処かに消えてしまった。
「じゃあ、犬。手筈どおり宜しく頼む」
普通の犬でしたら、この計画をここまで把握できていない思いますよ。人間の意を汲むことはあっても、人語を犬語に翻訳できるわけないですからね。私がブラックドックで良かったですね。
まとめ役の男は、私が全て理解していると確信しているようだ。馬鹿なんだろうな、この人。
「アルムがクロって呼んでましたよ。仲間なんですから、名前で呼んであげましょうよ。ねぇ?クロ」
いやいや、私の名前はマーリンです。間違った認識を広めないように。
「それにしても、あの人、見た目通りの冷たい人ですね。帰っちゃいました」
アルムのところへ誘いにきた血の気のない男が、無責任なことを言い放つ。
主人はそんな冷血漢ではない。身を潜めて動向を窺っているのは分かっている。
心配はしているのだ。…多分。
「いや、そんなことはないと思うぞ。勘だが、アイツはまだ近くにいる」
『何ですか?その野生の勘。当たっているだけにスゴい』
男は言葉を続ける。
「俺は傭兵を生業にしてたことがあるんだが、戦時中、騎士団と共に戦ったことがある。アイツの眼差しは騎士を思い起こさせる。騎士ってのは最後まで仲間を見捨てないんだ」
何と⁉︎主人が元騎士と見抜いたあたり、ただ者ではないですな。馬鹿呼ばわりして申し訳ありません。
でも、その話は騎士に寄りますよ。素晴らしい騎士に巡り会えたんですね。うーん、やっぱり、単純な人ではあるかも?
「じゃあ、これを腰に巻くから、猪の前で威嚇したら走って、おびき寄せてな」
甘い香りのする芋を紐で何個も括り、その紐の先を私の腰に結びつける。
『走りにくいんですけど…』
私は男へ鼻先を向けて異議を唱えた。
「猪が好きな芋へ更に甘い香りを練り込んだものだ」
そんなことは聞いてないのだが、男に私の言葉が理解しようがなく…。
「クロ、お前ならやれる。俺は信じている」
『うーん、信じられてもねぇ。走りにくいものは走りにくい』
私は何度も男へ目配せをして、取り外すように催促したのだが、彼は私が慄いていると勘違いしているようだ。
「クロ、オレたちがお前を守る。大丈夫だ」
繰り返し呟くが、私にではなく、自分に言い聞かせているようだ。
餌を縛りつけなくとも、私があの猪の前に出て挑発するだけで充分だと思うのだが、致し方ない。
さて、猪退治とやらへ出発しますか。
私は一歩足を踏み出し、大猪が出現した畑へと繰りだした。
『近くで見ると、さらに大きいですね』
私は物見遊山に来たかのように、のんびりと大猪の感想を述べる。
普通の犬ならば威嚇するどころか、この大猪に対して尻尾を巻いて逃げだすに違いないだろうが、私はブラックドック。怖くも痒くも痛くもない。
さて、どうするか?
猪は既に私が近くで見物しているのを感じとり、重い瞼の下に潜んだ鋭い眼光を投げつける。脚で何度か土を蹴りあげ、いつ火蓋が切られるか、気配を探っている。
猪が動くのが早いか?それとも、私が嗾けるのが早いか?
周りでは村の男たちが、固唾を呑んで見守っている。個々に散らばり、ある者は木の上、ある者は茂みの中、息を殺して動向を伺う。
私が猪に追いつかれたときに備えて、皆、矢を背負い弓を手に持っている。援護してくれるらしい。必要はないのだが…。
猪は私が動じないのに、痺れを切らせたようだ。体を大きく振るわせ、猪突猛進。私めがけて(芋めがけてかな?)荒々しく駆けだす。
私は動かない。周りがざわつき始まる。もっと引きよせてからでも遅くはない。私の方が間違いなく速い。
「クロッ‼︎逃げてくれぇ‼︎」
誰かが堪らず声をあげる。私が怖くて動けないとでも思っているのか、やれやれ、見くびらないでいただきたい。まだまだ、距離を詰めれる。だが、これ以上待つと、誰かが矢を無駄に使ってしまいそうですね。さて、行きますか?
猪の鼻先が私の尻尾を捉えたとき、私は跳躍した。猪の罠を仕掛けた場所へ誘導するために走りだす。
「クロ〜‼︎」
だから、私はクロではありません‼︎
ある一定の距離を猪との間に保ちながら私は走る、走る、走る。
風が心地よいですね。準備運動にもならない程度と思っていただいて結構なんですが…。
ただし、胴体へ括り付けた芋が地面を跳ねて、身体のあちらこちらへ打つかるので、とても気持ち悪い。
村人たちは私が死闘を繰り広げているかのように声援を飛ばす。
「いけぇ‼︎クロッ‼︎」
「お前ならやれる‼︎」
「負けるんじゃねぇぇ‼︎」
だから、平気ですって…。
熱い声援を背に受け、私は冷静に罠へと猪を導く。
『はいっ、任務完了』
私は罠の檻の上へ飛び乗り、猪は真っ直ぐ檻の中へ一直線。檻が衝撃で大きく震える。猪を捕獲したところで、地面に打ち込まれた杭に何度も巻きついて縛っていた縄を、一番背の高い男が斧で切り裂いた。入り口の柵が上から地上へ突き刺さる。
「やった〜〜〜‼︎」
野太い声の雄叫びがこだまする。わらわらと一団が檻の周囲に集結した。肩を寄せ合い、或いは涙ぐみ、それぞれ勝利に酔いしれる。
「最初、猪をおびき寄せるのはオレの役目だったんだ‼︎ありがとう、クロ‼︎オレだったら死んでた」
私は檻から飛び降りると、体格の細い男が体当たりしてきて、私の首に腕を絡める。
うん、貴方でしたら、まず追いつかれるでしょう。
私の体に括り付けられた紐を、その男は丁寧に解いてくれた。
「クロ様様だな‼︎ほぼほぼクロだけで解決したようなもんじゃねぇ〜か?」
「アルムじいさんに感謝です。クロを差しだしてくれてありがとう」
差しだすって、私は生贄や貢物ではありませんよ。
皆、笑顔で浮かれまくっている。
「なんせ、これで村は救われたな。もっと被害が続いたら大変なことになってた」
ですけどね、皆さん。
多分これで解決ではなくて…。
猪は体を何度も地面に擦りつけて、前脚をかなりの勢いで蹴っている。いや、土を掘り起こしている。檻の各杭は深く地面へ食い込んでいるようだが…。
土埃が辺りを舞い、猪が収監された檻の中が見えなくなっている。
「最後の足掻きだな」
集団を取りまとめていた男はそう呟くと、徐ろにズボンを脱ぎ、猪に向かって自分の尻を見せた。
「ざまみやがれぇ。悔しかったらここまで来な」
ペシペシッと尻を叩きながら罵る。
いや、子供ではないんですから、無邪気と言いますか?でもね。そこ、危険ですよ。
土煙が大きくなった。地面の振動と複数の木の折れる音が重なり合い、大猪の牙が姿を現す。そう、檻が壊れたのだ。そして、男の尻をめがけて突進する。
「うえっ⁉︎」
私は尻を丸出しにした男の襟元へ噛みつき、体を引きずり寄せて、大きく跳ねる。そのまま、太い大木の幹へ男を投げつけた。少し首が締まったのと、背中に打撃が走っただろうが、死ぬよりはマシだろう。
だから、主人は無理だって言ったんですよ。
目指す獲物を失くした猪は、目の前に屯していた村人たちを標準しなおすと追いかけて行った。
その集団の中。私の同体に巻きついてた紐を取り外してくれた男の手には、放りだせば良いものを気が動転しているのか、しっかりとその紐が握られている。
「ひぃっ」
「誰かっっ」
「助けてくれぇ」
ふむっ、収拾がつかない。
私は主人の気配を探る。所在は大体感じ取っているので、右斜め上辺りにいるはずだ。見上げれば、主人はのんびりと両手を首の後ろで組み、巨木の枝で見学していた。私はすぐにその木へよじ登った。
『人間って死ぬ気で走れば、かなりの速度が出るんだな』
いえいえ、主人。貴方、皆さんを見捨てるつもりですか?足腰が追いつかなくなってきてますよ。
猪は直進して大木を薙ぎ倒しながら走っている分、木々の隙間を縫うように逃げている村人達よりも速度は劣るが、体力の差に圧倒的違いがあるようで、例の芋を所持した男の一団との距離は縮んできている。
『双刃の剣があったらな』
主人は独り言ちた。残念ながら、主人の右手にはアルムから借りた斧が一本、刃を鈍く光らせているだけだ。
『仕方ない。あるものだけで何とかしよう』
服と同様にブカブカのアルムの靴を主人は脱ぎ捨てる。木の枝から飛び降りた主人は、裸足で地面の感触を確かめた。そして、上体を低くして、斧は右手にしっかりと握りしめ、静かに息を吸いこむ。
『アーサー様?』
私は傍らで主人が眼光炯々とした面持ちで獲物を捉える様子を窺う。
主人は二回ほど右足で軽く弾むと、そのまま足を踏み込み、前傾姿勢で走りだした。野生の馬のように早くしなやかな動きで大地を蹴りあげ、障害物の木々やその根を、身を翻しながら躱し或いは飛び越えていく。
砂煙りを巻きあげながら怒涛の如く猛進する猪を右側から追い越し、その前を必死になって逃げていく村人達さえも抜きでた。
私も主人を追尾する。
「兄さん、どこに行くんだい‼︎助けてくれるんじゃないのか⁉︎」
主人の姿を目視した一人の村人が叫ぶ。
その言葉に反応したわけではなさそうだが、ぐるりと方向転換して回り込んだ主人は、突進してくる猪めがけて疾走する。
そこで主人がこれからどのような攻撃を猪へ仕掛けるか、理解した私は足を止めた。つき従えば、邪魔になると判断したからだ。いとも簡単に大猪は主人に仕留められるだろう。
真っ正面からかっ飛ばしてくる主人を、男たちは赤く濁らせた涙目で確認しながら両脇に各自よろよろと避けて逃げていく。主人はそのうちの一人、一番背の高い男から、斧を奪い取った。一瞬のことで、男は自分の手から斧が離れたことに気づいてないようだ。
「兄ちゃん、死ぬ気かい⁉︎」
「やめてぇ‼︎アルムじいさんに殺される‼︎」
口々に何かを叫んでいるが、彼らの走り続けた足は震えていて、余力で前に進んでいるだけだ。皆すでに倒れかけていた。
主人は大猪の直前まで迫っていた。太陽を背に主人はしなやかに飛び跳ねる。太陽の日に照らされ、両手に握り締められた斧がギラつきを増す。そして、身体を後ろに反らすと、右足を真っ直ぐ伸ばして左足を折り畳み、低い姿勢で猪の腹下に向かって滑りこんだ。
お手本になるキレイなスライディングですね。
瞬時、猪の足元で血飛沫が散った。
「あの兄ちゃん、大丈夫か?踏み潰されたんじゃないだろうな」
疲れ果てて、地に平伏している村人の一人が落胆の言葉をもらす。
皆が注目して見守っていると、猪が駆けていった後の砂塵から、主人は忽然と姿を現した。猪の血で真っ赤に染まった顔を、手の甲で拭きとっている。
減速した大猪が前屈みに地面へのめり込みながら倒れた。主人が腹の下へ潜りこんだ際、猪の脚の腱を全て切ったのだ。
主人は私の魔力で筋肉が増強されている。とは言え、同じように私の魔力を備えている人がいたとしても誰にも真似できないだろう。天性の身体能力があるからこそ出来る技だ。また、相当な度胸も必要である。
「おー‼︎」
「すげぇーぜ」
「さすが!アルムのお墨付き」
村人が蹌踉めきながら、それでも嬉々として両手を挙げて称える。ただし、血塗れの主人とは誰も目は合わせない。
主人は村人の一人から拝借した斧を地面へ投げ捨てた。
褒め称える言葉が聞こえているのか分からないが、主人は無表情に威圧感漂う態度でそのまま猪に近づく。頭を大きく振りながら抵抗している猪の胴体へ主人は颯爽と飛び乗った。そして、首根っこを狙い大きく斧を振りかざし、頸動脈を一撃で切断する。
降り頻る血の雨。
太陽が高い位置に出ているにもかかわらず、あたり一面に赤い雫が降り注ぐ。村人達に戦慄が走った。
『血抜きしなきゃ、食べれないだろ』
主人、その意見は賛同いたしますが、この空気どうしますか?
私達はその後、戦々恐々とした村人達を残して、捌いた猪肉の一部を分けて貰い、アルムの山小屋へ戻った(もちろん、その前に主人は川で血を洗い流し、身体を禊いだ)。アルムは山で農作業中なのか、まだ小屋には戻っていなかった。
『焼くか…』
誰かに問いかけたわけでもなく、主人は貰った肉の調理方法を独断で決める。台所で香辛料を探したのだが、すぐに見つけだせず、何者かに荒らされたかのように物が散在した。
ようやく、塩を発見した主人はそれを豪快に肉にまぶす。
『アーサー様。塩ってこんな山奥では貴重な品ではないですか?そんなに使って良いんでしょうか?』
もちろん、主人が私の言葉に耳を傾けるはずもなく、珍しく楽しそうに料理を続け、太い木棒に肉を紐で巻きつけて準備に取り掛かる。
『火を起こさないとな』
主人は忙しなく、小屋の前の少し広い場所へ薪を集めて、肉を括りつけた棒を固定した。火を起こしのための丁度良い板と木の棒を見つけようと周囲を物色する。
『私、すぐに火を吐けます。お任せください』
こんなことお茶の子さいさいですよ。
主人の返答を待たずして、活躍する場を見せつけようと、私は勢いよく、本当に勢いよく火を吐いた。
『あっ』
『あれっ』
一瞬で肉だけでなく、その後ろのアルムの小屋までもがバリバリッと大きな音を立てて燃焼している。主人は慌てて叫んだ。
『みっ水‼︎水は何処だ‼︎水を出せ‼︎』
混乱している主人の怒号と同じくして、小屋へ何処からともなく大量の水が押よせる。
『…きっ消えた。って、この水。何だよ⁉何処から来た︎⁉︎』
全身を水で濡らした主人は、唖然として疑問を投げかけた。恐る恐る私は答える。
『私、アーサー様と契約したときに、アーサー様と魔力を共有しまして、勝手に自分の意思で魔法は使えなくなってしまい、アーサー様のご命令ならば魔法を発動することができるんですよね』
『おっオレの命令?』
『はい、水を出せと仰ったので…』
釈然としない顔で更に主人は問いかけた。
『オレの指示なしで火は吐けるのに?』
『はいっ、それは私にとって呼吸するのと同じで魔法とは関係ないですから…。意識しないと火の方は吐けないですけど』
呆然として小屋の前に立ち尽くす一人と一匹。
「なんじゃこりゃ‼︎」
事態に気付いたアルムが顔面蒼白で小屋へ駆け戻ってきた。いつも泰然としているアルムが慌てふためく。
「何が‼︎何があったんじゃ‼︎」
膝から崩れ落ちる人、久々に見た気がします。アルム、申し訳ない。
『はっ…はっハハハッ』
この惨状の中、場にそぐわない破顔で主人は腹を抱える。
『ありえねぇ。なら、本来なら猪も魔法で一撃できたわけだ』
しかし、森ですし、村人の畑も近かったわけですから、魔法を使えば、今回のように災難に見舞われたかもしれないので、主人が倒した方法が結果的に一番良かったと思いますよ。
目尻に涙を溜めて、笑い続ける主人を見て、灰になりかけたアルムは気を取り留める。
「何笑っとんじゃ!」
主人は炭となった肉の塊を指差す。肉だったか?どうか?原型を留めていない程の炭化だったのだが、アルムは理解したらしい。
「肉を焼こうとしたんか?」
絶句するアルムを見て、深々と頭を下げる主人。私の首部も無理矢理抑えて、アルムへ謝罪の意思を示す。
全て私が悪いんです。
私達をしばらく眺めてから、アルムは深く息を紡ぐと静かに微笑んだ。
「仲直り出来たんじゃろ、クロ?」
元々、喧嘩ではないのだが、アルムの声音には優しさが滲んでいた。アルムの言葉を聞いた主人が地面に木の棒で文字を書く。
「何々?『オレはアーサー。こっちはマーリン。宜しく…』今更のような気はするが、クロじゃなかったんじゃな」
ここに来てから三月、何も言わずして主人を介抱してくれて、私達を住まわせてくれているアルムに私は万謝しかない。
「やれやれ、アーサーが倒した丸太も沢山あることじゃし、明日から小屋の再建に取りかかるとするか…。今日は天幕を張って、川の字で寝れば良いじゃろ」
アルムの言葉に耳を立てて反応する私。
『川って私が真ん中ですか?』
『マーリンは犬だから、暖とりやすいしな』
『えっ!私、アーサー様の抱き枕なら言われなくても立候補しますが、アルムのはちょっと…』
抗議する私に、主人はまた笑いはじめる。
「今度は何を笑っとるんじゃ?まぁいい」
アルムは腑に落ちない顔をしているが、小屋の中へと天幕に必要な頑丈な布地を探しに行った。
『じゃあ、オレたちは骨組みに必要な木の棒でも拾いに行こうか?』
『はいっ、アーサー様』
こうして、私の失態のせいで、主人が私へ話しかけてくれたのだ。アルムには大変恐縮してしまうのだが、私はそれがとても嬉しくて嬉しくて、尾を振りながら、天幕に適度な枝を主人と探しに行くのだった。