手の温もり
怜の掛け声と共に居酒屋を出た美羽は、地獄から解放されたように安堵の空気を思い切り吸い込んでいた。
あの時、渡と怜が掛け声をかけてくれなかったら……そっと想像してみたら、ぞわりと鳥肌が立って仕方がなかった。
しかも逃げ場もないあの状況に、更に追い討ちをかけるように現れた綾。忍耐力には自信がある美羽でも、さすがに耐えきれなかった。
あのまま、あそこにいたら本当に倒れていたんじゃないかと思う。
実際、今も気分が優れなかった。
家に帰ってゆっくりしよう。
一筋の光が指すようにそう思えたのは、ほんの束の間だった。
「美羽ちゃん。二次会行こうよ」
「すぐそこに、行きつけのバーがあるんだ。酒が飲めないなら、カラオケでもいいよ」
小泉と千葉が粘着質な笑顔を浮かべて、美羽を誘ってきたのだ。
美羽の身体がずしりと重くなる。
さっき、助け船を出してくれた渡と怜の姿を探すが、他の三年生と談笑している最中でこちらに気付いてくれことはなさそうだった。怜は……と辺りを見回すが、見つけることさえもできない。
自分の身体が鉛のように重くなっていくと、鼓動も少しずつ早まっていくのを感じていた。
背筋に汗が流れ落ちる。
何でも笑顔で答えていた美羽が押し黙ったのを、不思議に思ったのか。俯き加減な美羽の顔を小泉が覗き込んできた。
「どうしたの? 大丈夫?」
美羽は見たくもない小泉の濁った目を間近に見ながら、少しも心配していないじゃない。と、声に出さずに吐き捨てていた。
「俺たち送っていくよ」
千葉がそういうと、小泉がそうだなと勝手に決めつけにかかってくる。
美羽は、息を整えながら
「いえ、大丈夫です」
美羽は何とか断るが、俺たちのことは気にしないで。と、わざととしか思えない的外れな答えが返ってくる。
しかも背中に手を当てられて押される方向は、渡たちの立っている駅へと向かう道とは逆方向。人気のない暗い道。
本来なら渡に助けを求めているところだが、数メートル先にいるところに駆け寄る気力も失せていた。ここで、騒いでやろうかとも思ったが、残念ながらそんな元気もない。
どうしたらいいのか、考えたくても上手く頭が回らない。ともかく、どこかに座りたかった。
そう思っているうちに、皆から離れるように背中をどんどん押してくる。
抵抗する力も残っていない美羽に成す術はなかった。
指先が少しずつ冷え始めていく。
美羽の視界は、どんどん歪んでいく。
その理由は情けなさの涙なのか、そうじゃないいつもの目眩なのかもよくわからなかった。
あの飲み会で、しつこく話しかけてくるこの二人を冷たくあしらっておけば、こんなことになっていなかったんだろうか。あの場の雰囲気を悪くしまいと気を遣う必要なんてなかっただろうか。
それとも、皆が嫌な思いをしない、もっと上手いやり方があっただろうか。
美羽はそんな後悔の波に襲われながら、一方でこの手が冷えきって意識が失われる恐怖とも戦っていると
「行くぞ」
そんな声と共に冷えていた手に優しい温もりが美羽の手を掴んでいた。
驚いた美羽は自分の手を握っている手の主を腕から順に辿っていくと、そこにあったのはあの端正な顔立ちの怜だった。
一見、無表情に見えるその顔に怒りの色が見え隠れしている。
人に興味のないはずの男が美羽の手を引いていく。
本来なら怒り狂う小泉と千葉のはずだが、目の前の現実に驚きのあまり怜の背中を呆然と見送っていた。
冷えきりそうだった美羽の手が、怜の手の温もりのせいか少しずつ熱を取り戻し始める。
少しふらついていた足も少しずつしっかりとしたものになりつつあった。
無言で手を引かれ、駅の方へと向かう道へと歩いていく。必然的に渡と三年生が話している真横を通ることになる。
美羽はこの辺で手を離した方がいいのではないかと思ったが、怜はそんなの気にする素振りを見せることはなく堂々と渡たちの横を手を繋いだまま通りすぎてゆく。
真横を通ったとき、渡の叫び声が聞こえたのは、気のせいだと美羽は思うことにした。
止まることなく駅まで数分の道のりを歩ききると、怜はゆっくりと美羽の手を離して、二人は向き合うと美羽が先に口を開いた。
「……ありがとうございました。助かりました」
素直に礼を述べる美羽に対して、怜は冷ややかに言い放った。
「少しくらい、警戒しろよ」
その返しにムッとした美羽は、敬語を取り止めて言い返した。
「警戒はしてたわ。でも、あんまりにもしつこくて……」
「あの素晴らしい作戦はどうした? ああいう場面で使うものじゃなかったのか?」
「……そうだけど、ゼミの新入りがいきなり『私この人と私付き合ってます』なんて、言えるわけないじゃない。あなたの人間関係がいきなり崩れ落ちるわよ」
「そんなの、どうだっていい」
「どうだってよくないでしょ。ゼミの内輪揉めって一番まずいパターンよ」
「なんとかなる」
当然だとでもいいそうな口振りに、美羽ははぁと呆れて息を吐いた。
冷静で、頭はきれそうなのに、人間関係に関してはまるで幼稚な返答に美羽の頭痛を感じてくる。
せっかく気分もよくなってきたのにまた悪くなりそうだ。
美羽は、少し俯いて額に手を当てた。
すると。
「大丈夫か?」
今までの強めの声とは違う柔らかい声が美羽の頭上に降ってきて顔をあげると、本当に美羽の身を案じている透明な瞳とぶつかった。
「さっき、手がやけに冷たかった」
優しい戸惑いの声で、そういう怜。
美羽の手に先ほどの温かさが蘇っていた。
気付いてたんだ。
美羽は目を見開いて透明な焦げ茶色の瞳を見た。
この人は濁った目を持つあの人たちとは、全然違う。
無表情で、たまに発したと思った言葉はストレートすぎて人を傷つけやすいけれど、本当の顔はとても優しいのかもしれない。
そう思ったら、重くなっていた心も軽くなるような気がして美羽はニコリと微笑んだ。
「さっきは、疲れちゃって気分が悪かったけど、今は全然平気」
「そうか。一人で帰れるのか?」
「勿論。じゃあ、今日はありがとうございました」
別れを告げようとした時。
歩いてきた道から
「おい、怜! 一体どういうことだ!?」
物凄い音量の渡の悲痛の叫びが追いかけてきた。
怜は、一瞬面倒そうな顔をするとさっと美羽の横に並んで
「……送っていく」
ぼそりと呟いた。
美羽は少しだけ驚くとふふっと笑いながら、じゃあ、お願いします。と言って、二人で改札を通り抜けていった。