立ち竦む気持ち
外に出ると、かろうじて雨は止んでいた。美羽はところどころうっすら残っている水溜まりを避けながら邪魔になった傘を持て余すように右へ左へと揺らす。
雨は好きじゃない。どうしても、水を含んだように気持ちまで重くなっていく気がする。こんな時くらい、晴れてくれればいい。空を見上げれば、雲は重苦しく垂れこめていた。いくら睨み付けても消えてくれない雲。何もかもが今の美羽にとっては恨めしくて仕方がなかった。この天気も。荷物になった傘も。濡れているアスファルトも。雨の後に薫るアスファルトのにおいも。自分の身体も。怜の優しさも。
何もかもが胸の奥で黒い塊となって、浸食されていく。文乃はいった。自分の気持ちに素直になればいい。普通なら、普通の人ならそうなんだろう。私だって普通だった。中学三年の夏休みまでは。
うだるような青い日差し降り注ぐ真っ昼間。家で激しい目眩に襲われて、病院に運び込まれた。
当時、陸上部に所属し長距離走をしていたから、夏休みに入って気が抜けてどっと疲れが出ただけだと思った。だから、私は心配いらないからこのまま病院を出ると言っても、心配性の父と母は念のため検査しろときかなかった。両親のあまりの勢いに押されるしかなかった。まぁ、初めての入院生活だし旅行気分で満喫でもしようと軽い気持ちで私は頷いた。検査が終わったら「検査費用がもったいなかったね」と両親に皮肉でもいってやろう。
そんなの言葉を用意しながら医師から告げられたは病名は『自己免疫性溶血性貧血』
聞き慣れない長々とした病名は、当然すんなり頭に入ってくることはなく頭蓋骨が拒むように弾き返して、都合のいい『貧血』という言葉だけ切り取っていた。何だ。やっぱりただの貧血じゃないか。大したことないそう思った。
だけど、その後医師が淡々と繋いだ言葉は
「診断から十年後の通常生存率は七十パーセントですが、美羽さんの型は特殊なのでそれよりも低く五十パーセントと見ています」
そう言われた途端、骨を突き破って脳の中心に矢が突き刺さったような衝撃が襲った。天と地がひっくり返ることが起こると、人間笑ってしまいそうになることを初めて知った。涙なんて、どこか遠くに置いてきたように一滴も流れなかった。なのに、両親の嗚咽はやけに鮮明に聞こえてきて、初めて自分の首に鋭いナイフがご突き付けられていることに気付いた。その瞬間、ずっと長距離を走っていたコースは短距離に切り替わった気がした。景色がガラリと変わる。すぐ迫るゴール。その先に、死が見えた。
その途端、涙が滝のように流れた。
「ただし、まだ美羽さんは若いので自然治癒する場合もあります」
そんな淡い期待を聞かされたのは、絶望の底に落とされた後で、白い希望はあっという間に黒く塗りつぶされた。
あれから、今年の夏で六年。
何とか生存のグループに食いついた。でも、長いレースはまだ続いていて更にこのグループから選ばれた者がそのレースから脱落する。必死に走っても黒い影はいつも私に付きまとう。
そんなどうしようもなく暗い影を振り払いたくて電車の中では、無理やり明るさを作り出して美羽は一方的に喋り通しだった。それに対して、頷く怜がどんな顔をしているのかもわからない。不自然すぎる自分自身に気付けるほどの余裕もなかった。
喋りながら、頭の中では次の話題を探してゆく。以前は送ってくれた時の電車の中は、会話なんてなくても居心地がいいなんて思っていたのに、今はどこにも身を置く場所がなかった。
星丘駅に到着して、古びた改札を出る。
その先まで送ろうとする怜の背中に意を決して美羽は「あのさ」と声をかけた。
呼び止められた怜は、ゆっくりと振り返る。驚きもしていない、動じてもない。キリっとした真っすぐな目に気圧されそうになる。
美羽の瞳は勝手に揺れだしそうなのを無理矢理止めて意を決し、ほとんど叫ぶように言った。
「やっぱり、最初に交わした約束はなしにさせてください」
美羽は頭を深く頭を下げた。見ていられなかった。透明な瞳にこの黒い心を見透かされてしまえば、この数日間の思い出までもが黒く塗りつぶされそうな気がしてたまらなかった。せめて綺麗なまま終わらせるために、私はその視線から逃れる。
「私が言い出したのに、本当にごめんなさい。
やっぱり、嘘をついて他に好意を寄せてくる人を寄せ付けないようにするって、その人たちにとても失礼なことだと思った。あの時は、それでもいいって思ってけれど、よくよく考えてみたら本気の気持ちをを弄んでるみたいでよくない気がしてきて」
視線を落としたまま顔を上げながら、ずいぶん言い訳がましいといい方で滑稽だと思った。こんな時でも名も知れぬ人に責任転嫁しようとする自分は、なんてズルいんだと思う。
怜の青いスニーカーが鏡のようになったアスファルトに跳ね返る光に当たってやけに白く見えた。
本当は。本当の理由は、そんなんじゃない。この期に及んでも、嘘で塗り固めれば本当は見えなくなると信じて、口は薄ら笑いを浮かべて勝手に滑らかに動いてゆく。
「私って後々のことをよく考えないで行っちゃったり、動いちゃったりするところがあって。私の悪い癖。
それに、密かに思いを寄せてくれている人が怜のど真ん中のタイプの人で、その人は「大隈さんに恋人がいるんだったら諦めよう」とか思っちゃうかもしれない。そしたら、せっかくのチャンスをこのどうしようもない約束のために潰されることだってあるのかもしれないでしょう? 怜はさ、カッコいいし、優しいし、頭もいい。いろんな可能性が広がってる。だから、あの突拍子のない作戦はきれいさっぱり忘れて……」
といったところで、怜の息を吐くような笑みが聞こえてきて、その顔へと美羽は視線を移動させた。
そこにあったのは、滅多に見られない怜の困ったような顔。その表情の真意が見えずに美羽は何度か瞬きをして、瞳を見つめみる。でも、霞がかったようにぼんやりと見えるばかりで、いつものように考えを読み取れず、困惑していると
「よく喋るなと思って」という言葉が返ってきて美羽の眉間にぐっと皺が寄る。
「馬鹿にしてるの? 私は本気で言っているのよ」
怒る資格なんて微塵もないのに、どうしても苛ついた声が出てしまう。それに対して、いつもの動じない冷静な表情に戻って揺るがない光が点ったように見えた。
「わかってるよ。実は俺もあの約束は終わりにしようって言おうと思ってたんだ」
怜の声には淀みがない。いつも彼の言葉はいつもストレートだ。真っ直ぐに美羽の心臓を射ぬいて、息を止めていた。
別れを告げている身なのに、怜に思いを告白してきた女の子たちの気持ちを皮肉なほど理解する。
怜の言葉は、容赦なく鮮明な現実を突きつける。
美羽の退路は完全に絶たれ、一本道が現れた気がした。それが美羽が何よりも求めていたもので、そのまっすぐな平坦な一本道を進んでいけさえばいいのに、突然の落とし穴に落とされる。落ちていく身体のバランスをとるのに必死になりながら飛び出した言葉は奇妙なほどに上擦っていた。
「……そうだったんだ! なら、ちょうどよかった」
美羽は声が震えないようにするのが精一杯で音量までは気が回らなかった。人気のない駅前に、声がよく通って、自分に跳ね返ってくる。その声が馬鹿みたいに明るく、駅前の暗さに馴染んでなくて、笑いたくなる。
心に決めていたはずの覚悟だった。「終わり」の言葉を待っていたはずだった。
なのに視界が滲んでいくのは心の端で、否定してくれることを望んでいたのかもしれない。
否定をしてくれれば、ほんの少しだけ残っていた淡い期待が集まって霞がかった道が現れるような気がしていた。そんなあまりの矛盾した気持ちと自分勝手さに吐き気がする。邪な自分に腹が立つ。ぼんやりしていた視界が零れて鮮明になってしまえば、どうしようもなく汚い自分を許容してしまう気がして下唇を噛んで何とか溢れそうな涙を引き留めていた。唇の痛みと、喉の奥を締め付けられる不快さと胸の重みをもっと感じたかった。そんなことでしか自分を戒める方法を知らない美羽はじっと耐えるように俯く。
少し離れていた怜のスニーカーがゆっくりと距離を詰めて、美羽の頭上に怜の穏やかな息遣いが聞こえた。
「あの約束をするときに言っていただろ?
絶対に破ってはいけない掟。『万が一、どちらかが相手を本当に好きになってしまったら、その時点でこの作戦は打ち切り』それを破りたいから、あの約束は終わりにしたい」




