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怪しい母

 夜中、ひどい寝汗に目を覚ました。

 ぼんやりとした美羽の視界に映ったのは、サイドテーブルに置かれた水と薬を飲んだ形成の跡。昨日の記憶は横浜の海までで、その後はぼんやり霧がかかっていた。怜に散々彼に苦労を掛けたことはだけは覚えている。未だに、頭がクラクラする。暗い部屋に怜が貸してくれたジャケットがハンガーがぼんやりと揺れていた。きっと母が掛けてくれたんだろう。


 何時だろう。


 美羽の頭のベッド床に昨日持っていた白いバッグが転がっていた。

 手を伸ばし中を漁ると固い感触。手に取りディスプレイを光を灯すと、午前三時と浮かび上がる。その下に怜からのメッセージがあることを告げる文面があった。


『よくなったら、連絡が欲しい』


 怜らしいシンプルな文面から溢れる優しさが美羽の目を滲ませた。

 スマホを床にポトリと落とし、布団を被る。


 悔やんでも悔やみきれない。

 あんな約束を持ち掛けた自分自身に一番腹が立った。

 どうして、あんなふうに近付こうとしたのか。あの時は、あの状況から抜け出したいという純粋な一心だったと思う。

 本当にそれだけだったはずなのに。

 怜の表の顔だけ見ていればよかった。

 そうすれば、多くの人が冷たく無表情、不愛想という鉄壁の怜のままずっといられたはずだ。

 手のあたたかさなんて、感じなければ、透き通った瞳なんて気づかなければ。

 布団の中に籠った空気は、熱くて息苦しい。涙が布団にしみこんで、不快で仕方がない。

 なのに、目から涙が次々と溢れて止まらない。

 私はどうしてこうなってしまったんだろう。体がゆっくり壊れていくのならば、心も一緒に壊れてしまえばいいのに。

何も感じなければこんな風に涙をすることも、こんな体になって悲しいと思うことも、遠からず訪れる闇の世界への恐怖も、誰かを好きになることも、なかった。

 誰を恨むこともできないこのやり場のない憤りをどこに向けることもできない。

 涙を流すことでしかこの感情を鎮める術がない自分自身が情けなかった。

 ベッドの上で丸まった美羽の布団はうっすらと空が明るくなるまで、震えていた。


 それから数日間、美羽はなかなか復調せず、しばらく布団の上で寝たり目覚めたりを繰り返してようやく普通に過ごせるようになったのはあれから十日も経ってからのことだった。スマホに怜から何度か連絡も来た。『体調はどうだ?』という内容のものばかりだったが、それに対して『全然平気。念のため休んでいるだけ』と何度か返して終わっている。


 美羽がリビングで大学へ出かける準備を進めていると「もう少し学校休んだら?」という母の声が飛んできた。

 その顔の中央に皺が寄っていた。

 そんな顔はさせたくないけれど、どうしてもさせてしまう自分がどうしようもなく嫌いだ。

 美羽はそれを見て思い返す。

 この病気を発症したのは、中学生の時。今も母はとても実年齢よりもずっと若く見える。娘の美羽からみてもかわいいと思うし、少女のような母が自慢だった。だけど、自分が体調を崩す度に目立つことのなかった母の皺は深くなっていった。若かった母は、どんどん本当の年齢の顔になっていく。ゆっくり動いていた時間が、早送りされたようだった。

 そうさせてしまったのは、自分のせいだと美羽は思う。


「今日一時間だけだからさ。このまま休み続けたら単位落としちゃうよ。今日は必修科目だし代返できないの」


 休んでいる間は、美羽は文乃に代返やノートを頼んでおいた。

 『そんなのお安い御用』と、気持ちのいい返事にありがたいと思う。でも、いつまでも頼りきりはやっぱりよくないと思うし、自分自身も嫌だった。


「大隈くんは?」


「え?」


 なぜ、急にその名が出てくるのか美羽は一瞬分からなかった。

 だけど、倒れた時に運んでくれたのは誰でもない怜で。母と一緒に私をここに運んでくれたのだ。ならば、大隈という名前が出てきても不思議ではないと思いなおす。それに、今日はゼミはないし、怜は四年生で授業が被ることはほとんどないし、たとえ重なっていたとしても言葉を交わす気は毛頭なかった。言葉を交わしたら、本当に最後だ。もう引き返せないぞ、とずっと奥深くにいるも一人の自分が訴えていた。

 ふと窓を見るとシトシト雨が降っていた。窓の隙間から入り込む梅雨のようなじめじめした空気が何だか気持ち悪かった。


「今日は授業一緒じゃないの?」


 その尋ね方が美羽の心に大きな水溜まりを作った。

 伺うように聞いてくる母の目を美羽は凝視しようとすると、母は心を読み取られまいとしたのか素早く目を逸らし後ろを向いてしまった。


「どうして、そんなこと聞くの?」


 刺ついた声が、母の背中を狙いこちらを向かせようとしたが母は頑なに後ろを向いたままだった。

 母はただでさえ嘘が下手だ。それは自覚があるらしい。

 絶対に美羽に心を読み取られたくないときは、サングラスまでかけることもある。今日はそれは出てこないようだったがそれに相当するほどの慌てようだ。


「別に~。彼がいてくれたら美羽が具合悪くなっても、安心だなぁって思って。うちの場所も知ってるし」


 軽くそういう母だが、こういうときが尚更後ろめたい隠し事をしていることを美羽は知っている。

 美羽は母の正面に回り込もうとしたが「美羽! 見て、時間よ! 遅刻、遅刻!」と叫び美羽の黒いバッグを持つ。母は美羽の背中に回り込み、背中を玄関の方にぐいぐい押してスニーカーと鞄を押し付けると「じゃ、いってらっしゃーい」と明るい声だけ響かせて、玄関の外に追いやられていた。

 パタリとしまった玄関のドアに、ガチャリと容赦のない鍵のかかる音が廊下に響く。


「休めって言ったり、行けって言ったり……どっちなのよ」


ぶつぶつ言いながら美羽は、学校へと向かった。


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