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優しいあなた

 少し前をゆく大きな背中を追いかけるようにして、ゼミの校舎を抜けてゆく。

 いつもの中庭に出たところで、怜がピタリと立ち止まった。その肩にかけられたバッグが重そうな背中を見ながら美羽の足もそれに合わせて止めた。

 怜は振り向くことなく


「……すまない」


 とだけ告げると、ゆっくりと美羽の方へと向き直った。

 美羽に向けられた透き通った瞳。

 その目を美羽はじっと見つめてみると、よく目を凝らさないとわからないくらい細かく小さな傷がたくさあったことに気づいた。

 

 この人はそうやって、少しずつ傷ついていたのね。大事には至るほどの傷じゃないけれど、痛みは感じるくらいの小さな傷口。たった今も、小さな傷が一つついたことを知る。

 その痛みに、誰か気付いてくれた人は今いたのだろうか。人を拒絶することでしか、自分を守ることしかできなかったこの人に手を伸ばしてくれた人はいたのだろうか。時間が経てば、その傷は癒えてはくれるのだろうか。

 美羽の胸はぎゅっと掴まれたかのように、軋んだ。


「綾は俺一年の時から、授業が一緒の事が多くて、俺が断る度にヒステリックになる。いつもなら、その矛先はあのゼミの中でぶちまけるんだが、今回は美羽に向いた」


 一瞬見ただけではわからない怜の苦しそうな顔に、美羽の心臓が跳ね上がった。

 怜は私のせいで、二倍傷ついている。本当は傷つかなくてもよかった分を余計に。

 美羽は顔を歪ませながら、言葉が零れる。


「私は大丈夫。そもそも私が言い始めたことなんだし。こういうことも、あるとは思ってた。

 綾さんも混乱しているんだと思う。

 ずっと思いを寄せていた人に突然恋らしき怪しい人物がふと沸いたように現れて 。心の整理もなかなかつかないんだと思う。

 私への怒りは、私が嘘をついて綾さんを傷つけた代償。だから全然平気。私があの作戦を持ち掛けた時点で、そんな覚悟はとっくにできているわ。

 ……だけど、私のせいであなたまで傷つけるのは嫌。そっちの方がよっぽど辛い」


 美羽は熱っぽく怜にそう語る。

 それを見た怜は、少し驚いたような顔をしていたが、何度か瞬きをすると


「俺は、そんなことで傷ついたりしないよ」


 といって、ほんの少しだけ口角を上げて笑った。

 それは嘘だと美羽は瞬時に悟る。

 あなたは誰かを傷つけるたびに、罪悪感を砂のように降り積もらせていく。

 普通なら時と共にその罪悪感は風に流されて少しずつ減っていくけれど、不器用なあなたはそうじゃない。少しずつ少しずつ高さを増してゆく。雪のように溶けることもなければ、飛んでいくこともない。高さと重みは増してゆくばかり。

 せめて、その重みを少しでも軽くすることはできないだろうか。私に何かできることはないのだろうか。

 だけど、いくら頭を巡らせても何一ついい考えなんて浮かばない。

 もどかしい思いばかりが募ってゆく。


 美羽がそんな逡巡の波にのまれていると、急に手に温かさを感じた。

 ハッとして現実に引き戻されて、自分の手を見ると、怜の大きな手が重なっていた。


 驚いて、怜の顔を見ようとした直前。


 美羽は、握られた手を引かれて怜の腕の中に包まれていた。

 あまりに突然の出来事で、思考は完全停止。

 ドキドキと心臓の音が響く。

 殻に入ったように固くなった体に、怜の鼓動と腕のぬくもりが少しずつ染み込んでゆく。

 すると、少しずつ心音はもとの位置に 落ち着のうとしていた。頭の回転も戻りはじめる。

 緊張なあまり失っていた感覚も取り戻されると、包みこんでくるその手と腕は泣きたいくらい温かく感じた。


「ありがとう」


 耳元で、小さくつぶやいた柔らかい怜の声は、美羽の胸の中心に溶けるように染み込んでいった。




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