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綾の怒り


 授業のない溝口ゼミ四年の怜以外の面々は、一足早く研究室に入っていた。


 最後方の席に小泉。一つ前に千葉。その前に綾。

 そして二つ開けた前に渡。怜がいれぱ、渡の前に怜が座るのだが、今は不在。

 渡はいつもの定位置の教室中央の席で黙々とパソコンに向かいながら、怜にくだらないこと案件で詰め寄ったことを後悔していた。

 あの時あんな態度をしたのは、ただ少し悔しかったんだと渡は、思う。

 大学に入って丸三年。無口でなかなか自分のことは話さない怜ではあるが、それなりに自分には心を開いてくれていると思っていた。

 渡が溝口ゼミ入ろうか迷っていたとき、


「お前に向いていると思うし、俺も渡がいてくれたら心強い」


 ぼそりとそう言って背中を押してくれたのは、紛れもなく怜だった。

 それまで、自分に対して怜はどう思っているのかよくわからなかったが、この時俺は怜の信頼を得られているのかもしれないと思えた。

 それは、親友の証を得られたようで純粋に嬉しかった。

 だが、蓋を開けてみたらどうだ?


「美羽ちゃんと付き合っているのか?」とただ親友として喜ばしいくらいの面持ちでその疑問を投げ掛けただけなのに

「お前には答えると必要はない」

 と一蹴された。

 そんなこといつものことだ。大したことじゃない。とわかっているのに、煙たい心は晴れることはなかった。

 黒い煙はまだ渡の胸に燻っていた。

 そんな中、小泉と千葉の声が耳障りに響いてきた。



「絶対におかしい。あの怜が急に美羽ちゃんと付き合うなんて、あり得ないだろ」


「俺もそう思う」


 そんな話で盛り上がる二人。

 渡に、更なる黒い煙が立ち込めてゆくのにそれを助長するかのように綾の甲高い声も響いてきた。


「私もそう思うわ。絶対におかしいわよ」


 歓迎会の夜、綾もまた店から遅れて出てきた時、二人の姿を目撃していた。

 その時の光景は、綾の胸に赤く黒く焼きついて離れない。悪夢のように事あるごとに思い出していた。

 元々つり目がちの目を更につり上げていた。


「怜、誑かされているのよ。何か絶対裏があるに決まっているわ」


 赤い唇を曲げてそういう綾に、小泉たちも同調していた。

 そんな不快にやり取りが、渡の燻っていた煙の下に火が灯った。


「もういいだろ。怜にだって好きな子の一人や二人いたっておかしくないし、いちいち詮索するなよ」


 遇えて振り向くことなく、渡は前を向いたままそういうと、綾がコツコツピンヒールをならしながら渡の視界に入り込んできた。


「渡はずっと怜と仲いいんでしょ? なら、当然あの子と付き合ってるって知ってたのよね?」


 腕を組み、長い黒髪が揺れる度にキツイ香水の匂いが漂う。

 何もかもが不愉快で無視を決め込む渡に、綾はバカにした口調で言い放った。


「知らなかったのね? あんたもそれだけ、信用されてなかったってわけか。かわいそうに」


「お前に言われる筋合いはない。綾はいい加減怜をあきらめろよ。いつまで経っても追いかけて、どれだけあいつに迷惑かけているのかわかってんのかよ?」


「あんたに関係ないでしょ!?」


重くピリピリした空気が張り詰める教室に三年生の面々がぞろぞろと入ってきた。


「おはようござまーす」


 淀んだ空気を一気に吹き飛ばすのように文乃の元気な声が響いた。

 その後ろから、文乃を中心にわいわい話しながら美羽を含めた三年生が入ってきた。

 一番前に色白眼鏡。川口男子を最前列に、ボーイッシュ三原、文乃、美羽という順で座っていった。


 文乃と話をする美羽を吊り上がった目で綾が

睨みつけていると、怜と教授が話をしながら部屋に入ってきた。

 綾は、不機嫌な顔のまま自分の席につくと授業開始の教授の声が響いた。


 ゼミは滞りなく終わりを告げると、教授は早々に教室を出て行った。

 それぞれ、片付けの準備をしている中、座っていた綾がコツコツヒールを鳴らし始めていた。

 まっすぐ美羽の方へと足先が向いていることにいち早く察知したのか「何しでかそうとしてるんだよ」と綾を咎めに入ってきた渡。

 だが、それを完全に無視してヒールを鳴らしながら座っている美羽の横に立ち、黒髪を後ろに流しながら美羽を見下ろした。



「怜があんたなんかの相手するわけないのに、怜のどんな弱みを握ったの?

 何を企んでいるのよ!?」


 憎悪を色濃くした低い声を美羽に激しくぶつけ始めていた。

 教室の空気が一気に綾のどす黒い雲に覆われる。

 歓迎会の夜、遅れて店を出た綾は、ちょうど目の前を怜と美羽が手を繋いで夜道を消えてゆくの目の当たりにして目を疑った。きっと嘘よ。何かの間違いよ。そう思おうとしていたのに。

 渡の『あいつら、付き合ってんのかよ!?』 というバカみたいな大声と一緒に、あの夜の光景が頭の中心にこびりついて離れない。

 もう耐えられなかった。憎くて仕方がない。この感情をぶつけなければ、気がおかしくなりそうだった。

 美羽のことが憎くて仕方がない。こんな女が、どうして怜の近くにいる?

 美羽の目が綾の黒い目をじっと見ているのに気づいて、更に綾の目は吊り上がってゆく。

 また、何か言おうと綾の赤い唇が歪み始めたとき、美羽の声がそれを遮った。


「何も企んでいません。

 それに、私がどんな返答をしても、綾さんを傷つけることには変わりない。

 なので、敢えて私は何も言いません」



「あんた、喧嘩売ってるの?」


 ドン! と、美羽の机の前に綾は自分の両手を叩きつけた。

 手には何の痛みも感じない。あるのは怒りそれだけだ。

 綾は白目の面積を多くさせて赤く薄い唇を戦慄かせる。

 どうして、お前は怜の手を取れる? 

 私が何度も望んでも手にすることができなかったその手をどうして、この女が。

 怒りのあまり動悸がする。目がちかちかと赤く点滅する。体中の体温が上昇するのと比例して、憎悪もより一層深く激しく湧き上がってくる。

 血が滲むほど唇を噛んで、キッと再度美羽を睨むと、目を逸らすことない凛とした美羽の瞳が映った。


 その瞬間。抑えていたストッパーが壊れる音がした。

 美羽の頬に狙いを定め、綾は手を振り上げていた。


 だが、振り下ろそうとした寸でのところで、痛いくらい強い力で手首を捕まれた。

 誰が邪魔するのよ!? と綾を阻む手の主の方へと勢いよく振り返るとそこには、いつも感情を出さない顔に、静かな怒りを湛えた怜の顔が飛び込んできた。


「いい加減にしろ!」


 絶対に声を荒げない男の声が、教室いっぱいに響く。感情を表に出さないはずの男が怒りの表情を浮かべていて、そこにいる人間すべてが驚愕していた。

 怜の手に掴まれていた綾の手首が乱暴に投げ捨てられると、綾の目にうっすらと膜が張り出していた。


 怜は綾の顔を一瞬でも見ることなく、バッグを手にすると教室から足早に出ていった。美羽は戸惑いを見せながらもトートバッグに荷物を詰め込んで、怜の背中を追った。




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