誘いの唄、導きの妖精
「待てこら、深野!」
少年が息をぜいぜい吐きながら、冷たい夕日が照らすアスファルトを忙しく駆けている。彼は、槍のように尖がったビルの立ち並ぶ都会の中で追いかけっこをするほどの年齢でもなければ、そんな勇気もない。
いじめっ子の忠岡勝也という少年たちから逃げていたのだ。そんな彼らは、高校二年生。放課後になれば必ず、深野優斗は、ロッカーの中に閉じ込められたり、物を盗られたり、酷い時は、お金まで盗られたりしていた。抵抗すれば殴られる。
そんな日々が嫌になって、今日初めて彼は必死に逃げていたのである。
(あそこの信号を渡ったら、もうすぐで家だ!)
歩く人にぶつかりながら、我が家へと向かう少年の目の前に見えたのは、赤信号。彼は絶望した。止まれば掴まる。止まらなければ車やバイクに轢かれてしまう。
優斗はガクッと肩を落として降伏した。ぜいぜいと息があがる。
「へへっ深野。逃げたって無駄だぜ?」
一足先に少年のもとにたどり着いた勝也は、彼の胸ぐらをつかんで握りこぶしで威嚇をする。そして、「千円出さなきゃ、一発くらわすぞ」と笑いながら言った。
「どうして。お金が無いの? だったら相談に乗るよ。だから暴力は止めよう」
「うるせぇ、金なんかどうだっていいんだよ。いじめるのに理由なんてあるか?」
「僕を殴っても勝也君の心の苦しみは癒えないんだ。だから」
「……うぜぇ! 殴る」
数多の車が素知らぬ顔で駆け抜けていくその瞬間、甘い香りのする虹色の粉が都会のど真ん中にキラキラと降り注いだ。まるでイルミネーションにも見えるそれを、優斗は不思議がっていた。
すると、問いかけるような透き通った唄声が都会の交差点に鳴り響く。
私の声が聴こえるか
穢れなき強き心の持ち主よ
呼びかけに答えたならば誘おう
異界の名はファンタジア
「ファンタ……ジア?」
優斗は、不思議な声と共に、この世の者とは思えないほど美しい妖精を見た。それは、全身が虹色に輝き、赤トンボほどの大きさの羽根で浮遊している。顔はまるで、彫刻画のように堀が深く、女神のようだった。
「あなたは、私の声が聴こえるのね」
不思議なことに、彼女と話している間は、時が停止しているようだった。その証拠に、振り上げられた勝也の拳が、優斗の頬の寸前で止まっている。
「妖精さん。君は僕を助けに来てくれたの?」
「私は使命を果たしに来ただけです。女神フォルトゥナ様の開けた、異界への門から参りました。どうか私たちの世界、ファンタジアをお助けください」
呆然と立ち尽くす少年。
これは何かの悪い夢。夢なら醒めろ。そう思い、頬を引っ張る優斗。痛みを感じることから、これは夢ではないと確信し、それでも混乱している。
「僕には無理だよ。知らない世界を救うなんて。だって、何かと戦わなくちゃいけないんでしょ。そんな力も気持ちも湧かないよ。それに、絶対的な悪なんてこの世に存在しないんだから」
「デーモンはファンタジアの全てを奪い、支配しようとする悪です。魔物には心がありません。私の声が届いたあなたなら……あなたの純粋な心のフォルスなら、デーモンを倒せるかもしれません」
「きっとそのデーモンっていうのにも、理由があるんだよ」
「んー! もう!」
妖精は自身のことをエルフィンと名乗り、髪に射した黄金のかんざしを引き抜くと、剣で突くかのように、目の前の空気を刺した。すると……。
異界の門がズズッと開く音がする。
どうやら、無理やり連れていくつもりだ。
「待って、僕は無駄な争いはしたくない。それに、まだ勝也君の理解者にもなれていない。この世界でやり残したことが沢山あるんだ!」
「そんなことは、ファンタジアを救ってからにしてくださいな。救世主様」
ある日突然、都会に唄が鳴り響き、少年は消えた。
その異変に気付いたのは勝也のみ。その他の者たちは、何事もなかったかのように、冷たいアスファルトを踏み鳴らしてコツコツと歩いていた。
「畜生。アイツ、どこに行きやがった」
かすかに残る虹色の粉を吹き飛ばすかのように、周囲を見回る勝也。追いついた仲間たちと共に彼らは、優斗のことを探していたが、時が経つにつれて、彼の存在は忘れ去られていった――