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「Trap or Treat~擬態の罠」 ヘッドハンター矢吹悟郎シリーズ第2話   作者: 虹岡思惟造(にじおか しいぞう)
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「Trap or Treat~擬態の罠」 ヘッドハンター矢吹悟郎シリーズ第2話 

【目次】

第一章 ヘッドハンター

第二章 白檀の香り

第三章 レトロアメリカン

第四章 着ぐるみのトナカイ

第五章 ゴスロリ

第六章 アビアント

第七章 キャビンアテンダント

第八章 カンフー女拳士

第九章 セクシーメイド

第十章 ハロウィン

第十一章 ルブタン

第十二章 ビタートラップ

第十三章 血まみれナース

エピローグ


第一章  ヘッドハンター


 夏の盛りを過ぎて、夜の国道一四六号は行き交う車も疎らだった。道の両脇は雑木林の黒々としたシルエットが連なっている。その奥には、中軽井沢の高級別荘が点在しているはずだが、針葉樹の深い森に沈んでその灯りが洩れることもない。

 矢吹悟郎は、対向車がないので、先ほどからヘッドライトをハイビームにしてステアリングを握っていた。運転している車は、日本ではマイナーなピックアップトラックである。古い型式のシボレー・シルバラードで、すこぶる頑丈な造りだが燃費はどうしようもなく悪い。夜間のドライブになったのは、急な仕事が明日の午前中に入り、急遽、東京に帰らなければならなくなったためだが、ハイな気分であった。悟郎の仕事は、フリーランスのヘッドハンターであり、三十歳で会社勤めを辞めて、この商売に就いてかれこれ五年が経ったところである。仕事の中身は、エグゼクティブクラスの人材を企業へ紹介斡旋することなので、クライアントやキャンディデイト(紹介候補者)との急な面談要請は珍しいことではない。明日、面談することになった人物は、一年ほど前から外資系化粧品メーカーへの転職を働きかけてきた化学系の研究者であった。大きな獲物を目前にしたハンターのように、悟郎の心は弾んでいたのである。

 カーナビは、あと五キロほど先で、国道十八号に突き当たることを示している。カーナビの画面から目を戻した時、ハイビームが何か動くものを捉えた。目を凝らして見つめる。どうやら人の後ろ姿らしい。ブレーキを踏んで速度を緩めた。

後ろ姿らしきものに近づくにつれ、それが背広姿の男で、白髪頭の老人であると見て取れた。体を前後に揺らしながら、足を少し引きずるようにして歩いている。悟郎はハザードランプを点灯すると、車を道端に止めた。車を降りた悟郎は、老人を追いかけ、驚かせないように横に並び声をかけた。

「大丈夫ですか?」

老人は呼びかけられて初めて悟郎の存在に気付いたようで、ようやく立ち止まった。肩で息をしており、いかにも苦しげである。

「どこに行くのですか?」

老人は、何か言おうとして口を動かそうとするが、わなわなと唇を震わせるばかりである。

「家はこの近くですか?」

老人は何かを訴えるように、悟郎の方に手を伸ばそうとしてバランスを崩しよろめいた。悟郎があわてて受け止める。

「オッと、こりゃ参ったな」

どうやら徘徊老人らしい。悟郎は老人の身体を支えながら、どう処置したらよいか思案を巡らした。

「あなたの家まで送ります。だから、あの車に乗りましょうね」

老人は体力と共に気力も尽きたのか、抵抗する素振りを見せないで、悟郎の腕に抱えられて車に向かった。

 ピックアップトラックは、普通の乗用車に比べて、車高が高い。老人を何とか後部座席に押し上げる。運転席に戻った悟郎は、カーナビを操作して付近の警察施設を探した。上手い具合に近くに駐在所があるらしい。悟郎は、カーナビの目的地をその駐在所に設定すると車をスタートさせた。

 

 三角屋根の可愛らしい造りの建物がライトアップされている。悟郎は、行先を間違えたかと一瞬戸惑ったが、赤色灯が入口にあるので、目指す駐在所に違いないと思い直し、駐車スペースに車を止めた。老人は寝ているようなので、悟郎一人が車を下りて、駐在所の中の様子を窺う。室内の照明は点いているが、誰もいないようである。交番や駐在所の警察官が不在がちであることは経験則で先刻承知済みなので、かまわずドアを開け室内に入りあたりを見渡す。入口近くにスチール机があり、その上に電話と卓上案内板が置いてある。その案内板に、警察官不在の場合の連絡先が記されていたので、受話器を取り上げ、電話番号をプッシュした。

「はい、こちら軽井沢警察です。どうかなさいましたか?」

軽井沢警察署に直接繋がるとは想定外であったが、認知症らしき老人を保護したことを伝える。

「それはご苦労様です。駐在警察官に連絡するので、電話を切らずそのままお待ち下さい」

奥の居住スペースにいる駐在に連絡するのだろうと推量して、受話器を耳に当てたまま待つ。

「すぐに駐在警察官がそこに参りますので、電話を切って、そこでお待ちになって下さい」

了解した旨を告げて、受話器を置くと悟郎は車に戻り、老人を助手席から降ろし、腰に手を回して支えながら駐在所に連れ込んだ。


「あぁ、保護したのはその人ですか?」

制服のボタンを掛けながら、奥から出てきた駐在が声をかけてきた。ドラマなどによく出てくる“駐在さん”のイメージ通りの人物である。

「えぇ、あの、どこか腰掛けるものはありませんか?」

「あっと、その衝立の裏にベンチがあります」

駐在も手伝って老人をベンチに座らせる。

「少し震えています。寒いのかもしれません」

「夏とはいえ軽井沢の夜は冷え込みますからね」

駐在は、部屋の隅の物入れから毛布を持ってくると、老人の肩に掛けた。

「お爺さん、あなたの名前は? お家はこの近くかな?」

駐在はかがみ込み、老人に話しかけるが返事がない。

「どこか怪我していませんか? 気分悪くないですか?」

駐在は老人の耳元に口を近づけ、声を大きくする。それでも、老人は惚けたような表情のままである。

「怪我はなさそうですが、だいぶ歩き回ったようで足を少し引きずっていました」

悟郎が代わりに答えると駐在は振り向いて頷き返す。

「そうですね、まぁ見た様子じゃ救急車を呼ぶほどではないでしょう」

駐在は立ち上がり、壁に立てかけてあった折り畳み式のスチール椅子を二つ取り出すと、拡げて悟郎に座るように勧め自分も座った。

「どちらで保護されました?」

「えーと、ここから四,五キロメートル先の国道です。長野原から軽井沢に抜ける道路です」

「国道一四六号ですな。一人で歩いていたんですか?」

「ええ、なんか様子がおかしいので、車を止めて声をかけたんですが、返事をしないんです。服装も変だし認知症の老人だと判断して保護しました」

「なるほど・・・ワイシャツを着ていませんね。背広の下は肌着だし、ズボンのベルトもしていないな」

「この近くの別荘の住人と思われますが、顔に見覚えないですか?」

「見覚えはありませんが、どれ、おじいちゃん、失礼しますよ」

駐在は老人の背広に手をやり、ネーム刺繍がないか調べる。

「長瀬って刺繍があります。ちょっと待って下さい。身元が分かるかもしれません」

駐在は、書庫から分厚い名簿リストを取り出すと、スチール机に置いて調べだした。

「長瀬、長瀬と・・あぁありました。長瀬家の別荘が上の原にあります。早速連絡してみましょう」

駐在は電話をしていたが、連絡がついたようで、すぐに迎えにやって来ることを悟郎に告げた。

「それは良かった。それじゃ、私は東京に帰らなければならないので、これで失礼します」

「あっいや、時間が許すようなら迎えがくるまでお待ち願えませんか。それから報告書に保護した方の名前を書かねばならんのです。名刺がありましたら頂戴したいんですが」

悟郎は迎えが来るまで待つ事を承知し、車の中のバッグから名刺入れを取り出すために駐在所の外に出た。先程から煙草を吸いたかったところだったので、早速、一服する。いつもの癖で、顔を上向きにして煙をフーっと長く吐く。その目線の先の夜空に青白い月が煌々と輝いていた。


車が駐在所の前に停車する気配がし、ドアの開閉音がして間もなく、一人の女性が入口に現れた。年の頃は三十歳前半といったところか、すらりとした長身に鮮やかなブルーのロングカーディガンを羽織っている。先ほど見上げた玲瓏な月の光を身に纏っているように思えて悟郎は見入ってしまった。

義父ちちは無事でしょうか? 」

緊張しているのだろう、美しいその顔は血の気が引いて青白く、心配そうに眉根を寄せていた。

「怪我はなさそうですが、かなりお疲れのようです」

駐在が答え、衝立の裏側に女性を案内する。そのとき入口から、背広姿で両手に白手袋をした男が入ってきた。実直そうな初老の男で、多分、乗用車の運転手だろうと吾郎は見当をつける。

「お義父とう様、大丈夫?」

女性は、ベンチに歩み寄り、跪いて老人に声をかける。

「おお、あぁ」

今まで誰の問いかけにも応じなかった老人が初めて反応を示す。

「お迎えに来ました。別荘に帰りましょうね」

老人が、二度、三度と頷くのを見て女性は立ち上がり、振り返って駐在と悟郎に向き合った。

義父ちちを国道で保護していただいたと先ほど電話でお聞きしましたが、本当にありがとうございました。保護していただけなかったら、車に轢かれていたかもしれません」

「こちらの方が、国道を歩いていたお父様を保護し、この駐在所に連れてこられたんです」

駐在が後ろに立っている悟郎を紹介する。

「ご親切にしていただきありがとうございました。ご面倒をお掛けしましたが、お仕事の途中ではなかったのでしょうか?」

「いや、今夜中に東京に帰ればいいんで気にしなくていいです」

「義父を早く連れて戻りたいので、このお礼は後日改めてさせていただきたいと思います。不躾ですがお名刺を頂戴できないでしょうか」

名刺入れは、バッグから持ってきて尻のポケットに入れている。

「お礼なんてお気遣いは不要です。でも、名刺を渡さないのもカッコつけるようでなんですから」

悟郎から名刺を受け取りながら、女性は、自分は、長瀬彩乃だと名乗った。

「それでは、父を連れて帰らせていただきますが、よろしいでしょうか?」

「えぇ構いません。ですが、本署に報告書を出さなければならないので、明日別荘に伺い二,三お話をお聞きしますのでよろしくお願いします」

「分かりました、明日、お待ちしています」

彩乃が老人の手をとり、運転手が、老人の体を支えベンチから立ち上がらせる。老人は休息をとったことで、元気を取り戻したらしく、意外と確りした足どりで駐在所を出て、乗用車の後部座席に乗り込んだ。悟郎は、駐在所の外に出て煙草に火をつけ、テールランプが遠ざかるのをしばらく眺めていた。


彩乃たちが乗る黒塗りのベンツは、別荘地の幹線道路をそれて、細い舗装道路に入り、そして今、車一台がやっとすれ違うことができる道幅の砂利道に差し掛かったところであった。砂利道の入口には、浅間石の石積みの門柱があり、左側には、“これより私道、立ち入り禁止”、右側には警備会社のロゴマークの入った小さな看板がそれぞれ立てられている。ベンツが進む砂利道の両側は鬱蒼とした針葉樹の林であり、闇を一層深いものにしていた。左カーブを回り込むと、その先は緩やかな上り坂になっている。ベンツは、なおも徐行して進み、坂の上に建つ別荘の車寄せに至ると静かに停車した。


第二章 白檀の香り


 軽井沢から帰って数日後に、商品券と共に丁重な礼状が届いた。差出人は長瀬竜也と彩乃の連署になっており、悟郎は、彩乃が長瀬竜也の妻であることを知ったのであった。その礼状によると、保護した老人は、竜也の父の長瀬竜造で、大手企業の長竜物流株式会社の創業者であるらしい。今は現役を退いて名誉会長をしているという。あの徘徊老人が大手企業の創業者とは思いもよらなかったので驚いたが、数週間後にはもっと驚くことになる。

 長瀬竜造が、軽井沢の国道一四六号でトラックに撥ねられて死亡したのである。大手企業の会長の不慮の死ということだけでなく、数年前まで、経済界の重鎮として政治にも関与し、女優など多くの女性との交際歴があるなど、話題性の大きな人物であったのでマスコミは競って報道した。

 朝食を食べながら新聞を読んでいて、竜造の死を知った悟郎は、「マジかよ!」と思わず叫び、この驚きを誰かに伝えたい欲求にかられた。しかし独身、彼女なし歴三年の悟郎が思いつくのは、大学時代からの友人で弁護士をしている向井史郎ぐらいしかいない。そこで、早速、史郎に電話したのだが、史郎は「ほぉそうか」と眠たげに言い「用件はそれだけか?」とつれない反応である。拍子抜けして電話を切って、しばらく考えた末に思い至ったのは、人生の喜怒哀楽を共有する伴侶の必要性ということであった。〈よーし、彼女作るぞ!〉心の中で悟郎は叫んだ。


 長瀬竜造の死亡事件は、テレビのワイドニュースでも取り上げられた。夜間、国道一四六号を歩いていた竜造が、大型トラックに撥ねられ、ほぼ即死の状態であったことや、加害者であるトラック運転手の供述などを、レポーターが事故現場からの中継で伝えていた。亡くなった竜造は、立志伝中の人物で、華々しい女性遍歴があったことから、週刊誌各紙が格好の話題として取り上げ、特集記事を掲載していた。軽井沢警察の安西と名乗る刑事から電話があったのは、ちょうどそんな最中であった。

 安西の電話の用件は、数週間前に悟郎が竜造を保護したときの状況を聴取することであった。駐在からの報告書に添えられていた悟郎の名刺を見て電話したとのことで、報告書の記載事項が事実かどうか一応確認させて欲しいと言う内容であった。悟郎がありのままを伝えると、安西は納得したようで、協力に感謝する言葉を述べて電話を切った。刑事が電話してきたということは、あの不慮の死に何か疑惑があるのではと悟郎は思ったりしたが、その数日後に軽井沢署は、トラック運転手を業務上過失致死容疑で送検すると発表し、竜造の死亡には事件性はなく、単なる交通事故であると結論付けた。


 悟郎の事務所に、長瀬彩乃が訪れたのは、竜造が亡くなってから数か月後のことであった。悟郎の事務所は江東区の自宅マンションの一室に、小ぶりの応接セットと執務机を置いただけの簡素極まりないものである。その応接の椅子に座る和服姿の彩乃はいかにも場違いであった。悟郎は、“掃き溜めに鶴”という古い諺を思い起こし、都心のホテルのロビーで会えばよかったと心中悔やんだ。


「わざわざこんなところまでお越しいただいて恐縮です」

「こちらこそ無理に押しかけてしまい申し訳ありません。あのこれ」

彩乃は持参した菓子折りを風呂敷から取り出し差し出した。今日の彩乃は、紺地の大島紬という地味ではあるが大人の女の色香を感じさせる装いであった。

「この度はご愁傷様です。突然のことでさぞかし大変だったでしょう」

「えぇ不慮の事故でしたので、警察から事情を聞かれたり、マスコミが取材に来たりと何かと大変でした」

「そうですか、私のところにも軽井沢警察の安西という刑事から問い合わせの電話がありました」

「それはご面倒をおかけしました。でもあの事故は、交通事故として処理されることが決定したので、もうご迷惑をお掛けすることはないと思います」

「そのようですね、えーっと、ところで、今日は?」

義父ちちを助けていただいたお礼を実際にお会いしてしなければと、ずっと気になっていたのですが、あのような事故があって伸び伸びになってしまいました。それで改めてお礼を申し上げようと思い参りました」

「いやいや、ご丁寧な礼状もいただいています。これ以上のお礼なんて」

「仕事で東京に帰られる途中にも拘らず、わざわざ車を止めて国道を歩いていた義父に声をかけて下さいました。そのうえ駐在所まで義父を送り届けていただきました。誰にも出来ることではありません。本当にありがとうございました」

彩乃に頭を下げられた悟郎は、面映ゆく思い「いや、まぁ、えっと、いま飲み物持ってきます」と言うと、台所の冷蔵庫からミネラルウォーターのペットボトルを取り出し、紙コップを添えてテーブルの上に置いた。どの客に対しても、春夏秋冬、ミネラルウォーターと決めているので、彩乃だからと言って特別扱いはできない。それでも普通は出さない紙コップを添えたのは、彩乃がすこぶる付きの美人であったからであり、無節操な己にあきれる悟郎であった。

「こんなものしかありませんが」

出されたものを見て彩乃は軽く頭を下げ、少しお伺いしたいことがあるのですがと前置きをして「義兄あに義姉あねから問い合わせなど無かったでしょうか?」と聞いた。

「えーと、どういうことでしょう? 」

悟郎は、質問の意味を図りかねて聞き返す。

「失礼しました。身内の恥を晒すようですが実は、遺産相続について親族間でトラブルが発生しました。私の夫は長瀬竜造の次男ですが、その兄と姉が、夫に対して民事訴訟を起こしたのです」

「ということは、彩乃さんの旦那さんが被告、その兄と姉が原告ということですか?」

「そうです。遺言は、義父が亡くなる一年ほど前に、公証人役場で公正証書として作成されたのですが、義兄と義姉は、その有効性を認めようとしないのです」

「はぁ、なんとか概要が見えてきました。でも、それが私に関係あるんでしょうか?」

「もしかすると原告側は、矢吹さんを証人に立てるのではないかと思いまして」

「私に何を証言しろと言うんですかね?」

「義父を保護した時、義父が深刻な認知症を患っていたことを矢吹さんに証言して貰おうとするのではないでしょうか」

「公正証書遺言を廻る裁判ですか・・・」

悟郎は口を閉じると考え込み、しばらくして口を開く。

「そういった裁判では、公正証書を作成した時、判断能力を持っていたかどうかが重要なポイントになるはずです。私が保護した時点の様子などはさして重要とは思えませんが」

「公正証書を作成した一年ほど前は、他人とのコミュニケーションが可能で、判断能力にも問題がありませんでした。でも、その後、急速に認知症が進行したのです」

「そうでしたか、でも証人に立てるのなら、私のような者でなく、一年前のお父様のことをよく知る人が証人になるんじゃないですかね」

「そうですね、つまらないことをお聞きしてしまいました」

彩乃は恥じているのか、アルカイックな笑みを浮かべ軽く頭を下げた。

「いやいや、気にしないで下さい」

「根が心配性なものですから、いろいろと考えてしまって、でも矢吹さんに話を聞いて貰ってすっきりしました」

彩乃は悟郎の答えに納得したのであろう、最後にもう一度礼を言うと、白檀の香りを残して帰って行った。

 

 彩乃が訪れた日からわずか数日後、今度は、向井史郎が、二十歳台と思われる若い女性を伴って悟郎の事務所にやってきた。史郎は仕立ての良い、如何にも高級そうなスーツを着ている。背が低く、がっしりした体格、顔も格闘系のいかつい風貌だが、昔から身に着けるものにポリシーを持つ中々の洒落者であった。服装に無頓着な悟郎とは大違いである。身長百七十八センチと背が高く、どちらかと言えば甘いマスクの悟郎とは対照的だったので、学生時代は、周囲からシロー・ゴローの凸凹コンビと揶揄されていた。


「悟郎、おまえ、長瀬竜造を軽井沢の国道で保護したんだったよな」

挨拶抜きで、いきなり史郎は悟郎に話しかける。

「あぁ、それがどうした」

悟郎が電話した時、無関心で不機嫌な対応をしたくせに、内容は確り記憶していたようだ。

「その時の様子を、聡理さとりさんに詳しく話して欲しいんだ」

「一体どう言うことなんだ。まだ紹介もされてないぞ」

「いや、すまん、そうだった」


 史郎は、同伴した若い女性を、三沢法律事務所の所属弁護士の三沢聡理だと悟郎に紹介した。そして、三沢法律事務所が長竜物流の顧問弁護士事務所であることや、史郎が弁護士としての仕事を始めたとき、三沢所長に大変世話になったこと、更に、聡理が三沢所長の孫娘であることなどを悟郎に話して聞かせた。

 三沢聡理は、初対面の挨拶と自己紹介をし、三沢法律事務所が、長竜物産社長の長瀬竜一郎の依頼により、原告側の弁護を引き受けたことなどを説明した。聡理は、背が史郎より高いので、身長は百六十五センチ以上あるだろう。大きな丸眼鏡をかけ、髪をお団子にして頭にのせている。黒のパンツスーツ、襟に輝く金色のひまわりバッジ、書類がどっさり入りそうな大型のビジネスバッグなど、精一杯弁護士らしくきめているが、態度といい、話し方といいギクシャクしている。緊張しているからだろうと思うものの、こみ上げる笑いを抑えかねて立ち上がり、台所に行き、冷蔵庫からミネラルウォーターのボトルを二本持ってきた。


「こんなものしかありませんが」

いつものように言ってボトルをテーブルに置く。紙コップは無しだ。

「まっ、そういうことで、竜造を国道で保護した時の様子を、詳しく話して欲しいんだ」

史郎の言葉に合わせて、聡理もぺこりと頭を下げる。近くで見ると、目が少し垂れ下がっており、幼い感じがするが整った顔をしている。

「今回の裁判は、認知症だった被相続人の遺言の有効性について争うものです。矢吹さんは、徘徊していた竜造を保護したそうですが、客観的な立場で見て、竜造の認知症はどの程度であったか知りたいのです」

「そりゃ構いませんが」

聡理から真剣に請われて、悟郎は保護した時の経緯を詳しく話して聞かせ、最後に竜造はかなり認知症が進行していたに違いないと結論づけた。

「詳しく話していただいてありがとうございます。それにしても矢吹さんてやさしい方なんですね」

一瞬なんのことやらと思った悟郎であったが「えぇ若い女性にはやさしく接するというのが、私の信条ですから」とボケてみた。

すると史郎が「男友達には、つれない」と、下手な突っ込みを入れる。

「いえあの、私に対して親切ということじゃなくて、矢吹さんが認知症の老人を保護して警察に送り届けたことが親切だって意味です」

聡理が少し慌てた調子で、悟郎の誤解を解こうとする。

「はい、老人にもやさしく接するというのが私の信条ですから」

悟郎の二度ボケに、史郎は馬鹿らしくなったのであろう突っ込むのを止めてそっぽを向いている。そんな史郎と悟郎のやりとりが可笑しいのか聡理は、クスリと笑い俯いた。

「俺の話なんて、大して参考にならなかったでしょう?」

「いえ、亡くなる直前の被相続人の様子が客観的によくわかるお話で、大変参考になりました」

「そう、それならいいんだけど、ところで、長瀬彩乃って知ってますか?」

「えぇ、知っています。その方は被告の奥さんでしょ」

聡理はバッグからタブレットを取り出して、何やら操作していたが「私はお会いしたことがありませんが、とても綺麗な方ですね」と言いながら画面を悟郎と史郎に見せた。彩乃のスナップ風全身写真と顔写真が数枚載っている。今時の若者らしく、裁判に関係する情報は何でもデジタル保存しているのだろう。

「悟郎、この美人がどうかしたのか?」

史郎は、タブレットを見ながら、興味津々といった顔で尋ねる。

「実は数日前に、ここにやってきたんだ」

悟郎は二人に、ことの経緯を話して聞かせる。話を聞き終えた史郎は腕組みをして「ふーむ、そりゃ単に礼を言うために来たんじゃないな」と考え込む風である。

「というと?」

「原告側の動きを探り、場合によっては、おまえを被告側の証人に立てようとしたのかもしれない」

「ふむ、そんなもんか」

「しかしこれで、敵もいろいろと工作していることが分かった。聡理さん、我々も早く手を打たないと、遅れをとることになりかねません」

史郎はいつになく真面目な調子で聡理に言うと悟郎に向き直った。

「そこで、これからが本題なんだが・・・」

言葉を切り悟郎の表情を窺う

「おい、おい、これから本題って、マジかよ」

「実は折り入って矢吹さんにお願いしたいことがあるんです」

聡理も真剣な表情で悟郎の顔を見つめる。

「俺に? 一体どんな」

「原告側証人候補の調査と、証言要請に関することを矢吹さんに手伝ってもらいたいんです」

「俺からも頼む。本来なら俺が手伝えればいいんだが、生憎、公判が幾つも重なっていてな、それにこういった類いの仕事は、俺よりお前の方がずっと向いているからな」

「うむ、まあ、調査ならおまえよりはマシだ」

「是非お願いします」

聡理は、ガバッと頭を下げる。悟郎が承知するまで顔を上げないという決意溢れる頭の下げようである。あっけにとられて悟郎は「まっ、いいか」と思わず言ってしまった。

「あっ! ありがとうございます」

聡理は頭を上げる。その顔は喜色満面、悟郎に断る隙を与えないとでもするように、早口でしゃべり出した。

「裁判で重要なのは一年ほど前の長瀬竜造のことをよく知る人物の証言です。長瀬竜造は、数年前から極端な人嫌いになって軽井沢の別荘に籠るようにして暮らしていました。なので、証人としてふさわしい者はごく限られています。別荘で長瀬竜造の身の回りの世話をしていた長瀬彩乃と住み込みの家政婦、あとは竜造の専用運転手として雇われていた者、それと、数か月毎に往診にくる診療所の医師。それぐらいしかいないんです。その内、長瀬彩乃は、被告人の妻なので、証人には不向きです。残るのは、家政婦と運転手と診療所医師ということになります。診療所の医師は、私が何とか説得して証人になることを引き受けてくれたのですが。家政婦は行方不明だし、運転手は頑なに拒絶していて、私の力じゃこれ以上無理なので、史郎先生に相談したところ、適任者がいるといって、矢吹さんを紹介してくれたのです。なので、お願いです。どうか協力して下さい」

 聡理は一気にまくし立てると、疲れたのか、ペットボトルのキャップをねじ開け、水をごくりと飲み一息入れた。

「それから、もう一つお願いしたいことがあるのですが・・・」

「おいおい、冗談じゃないよ、まだあるってどういうことだ」

悟郎が口を尖らせるを見て、聡理は心細そうに史郎の方を見る。

「分かった。その件は俺から話そう」

史郎が引き取って話したことは、原告の一人である義姉の高橋美鈴からの依頼で、凡そ次のようなものであった。


≪竜造は名うての女好きで、女優など多くの愛人がいた。認知症が進み現役を引退して別荘に籠るようになっても、その性質変わらない筈で、別荘で一緒に住む嫁の彩乃に劣情を抱いたことは想像に難くない。彩乃が、その美貌を武器にして竜造を意のままにし、自分たちに有利な遺言を書かせることは容易であったろう。そもそも次男の竜也が、自分たちを差し置いて竜造の同居介護を申し出たのは、財産分与を自分たちに有利にする企みがあったからであり、それでなければ東京の高級マンションで優雅に暮らしていた竜也夫妻が、軽井沢まで来て痴呆老人の世話をするなんて考えられない。つまり竜造の遺言は、竜也夫妻に誑かされて書かされたものであり無効である。ついては、その辺りのことも併せて調査して欲しい≫


「とまぁ、そういうことだ」

説明を終えて史郎はペットボトルに手を伸ばした。

「へー、ドロドロした話だなぁ、それにしても、あの彩乃さんがそんなことするかねぇ」

「なんだ、不満そうな顔だな。あ、そうか、お前、美人に弱いからな」

「えっ、そうなんですか?」

真面目顔で聡理に聞かれて悟郎は狼狽する。

「違いますよ、美人に弱いのは史郎、お前だろう」

史郎が反論しようとするのを、聡理は手で制して悟郎に言って聞かせる。

「詐欺または強迫などによって、被相続人に遺言をさせた者は相続権を失うという法律上の規定があるんです。認知症であることをいいことに、自分たちに有利な遺言を竜造に書かせたことが立証できれば、勝訴に大きく近づきます」

聡理は悟郎の眼を真っ直ぐ見据えて、熱心に訴えかける。

「分かった、分かった。チョー難しそうだけど、やってみるよ」

悟郎は、今度も聡理の迫力に根負けして答えた。

「わぁ、有難うございます。ホント助かります」

聡理は、ガッツポーズをして喜びを爆発させた。


第三章 レトロアメリカン


 十一月も下旬となり、都心のほとんどの並木は、葉を落としてしまっていたが、今、悟郎が車を進めている道路の両脇は銀杏並木でまだ落葉しておらず、黄色く色付いている。

 悟郎は、聡理との待ち合わせ場所である神楽坂の赤城神社入り口付近の路上に、シボレー・シルバラードを停車させた。道路が空いていたので、予定の八時より十分ほど早い。まだ聡理は来ていないようなので、窓を開けて煙草に火をつけた。深く吸い込み、外に向けてふーっと煙を長く吐く。赤城神社の黄葉した銀杏が目に入る。背景の青空が眩しくて思わず目を顰めた。

 今日は、行方不明になっている家政婦について、軽井沢に出向いて調査することになっていた。運転手の沢柳雅彦に対しては、その後も再三の要請をしたが、法廷で証言するなどという大それたことは、自分には到底できないと、拒絶一点張りであった。そこで、先ずは大里サチの行方を探すことに全力を挙げることにしたのであった。


「お待たせしました!」

小走りに歩み寄ってきたのは、アメリカン・グラフィティから抜け出したようなレトロファッションの女性である。カチューシャ風にバンダナを巻いた髪、ぴっちり半そでの黒いブラウス、ボトムはボリューミーなフレアスカート、そして両手には手袋という出で立ちで、バンダナ、スカート、手袋は同色の臙脂色でコーデしていた。車に近づき立ち止まったその女性は、ダークグレーのコートを左手に、大きな旅行バッグを右腕にかけて息を弾ませている。悟郎は、自分に話しかけられたとは思わず、窓から首を出して周囲見回した。しかし自分の他に誰もいない。

「おはようございます。今日はよろしくお願いします」

もう一度呼びかけられて、どうやらその女性が聡理らしいと気づき、あわてて車から降りる。

「マジ! 三沢さん?? どうしたんです、その恰好」

今日の聡理はメイクもばっちりで、これでは分からないはずだ。素顔は幼い感じの顔立ちとの第一印象だったが、今日の聡理は、下がり気味の眼にアイラインをしっかり入れて、眼力がアップしている。化粧で女性は変わるものだと、その変身ぶりに驚く。

「矢吹さんの車が、外車のピックアップって聞いたので、それに合わせたファッションにしてみたんですが、いけなかったでしょうか?」

「いや、いけないわけじゃないが」

「それじゃ、私に似合わないと」

途端にしょげて、拗ねる風の聡理を見て、悟郎は、〈意外と面倒な女かも〉と心中思いつつ、フォローする。

「いやいや、そうじゃないよ、とっても似合ってる。うん、なかなかイケてるよ」

聡理は、悟郎の言葉に、素直に反応して笑顔になると「素敵な車ですね、私、こんな車に乗りたかったんです。アメリカにいた頃、友達が自慢げに乗り回していました」といかにも嬉しそうである。

「あぁ、三沢さんは帰国子女でしたね、それならよく知っていると思うけど、この種の車はアメリカでは若者を中心に絶大な人気があるんです」

悟郎は、自分の車を褒められて正直うれしい。それに若い女性と二人でドライブすることもうれしい。我ながら、根が単純な奴だと自嘲する。

「よーし、それじゃ行くとするか」

悟郎は右側の助手席のドアを開け、聡理が乗り込むのをエスコートした。


 平日ということもあり、途中さしたる混雑はなく、カーオーディオから流れるオールデイズを聞きながらのドライブはすこぶる快調であった。車で、都心から軽井沢に行くには、首都高速を経て関越道に入り、藤岡インターで上信越道に進む。そこからしばらくすると横川サービスエリアがある。悟郎は、軽井沢に行くとき、このサービスエリアで休息をとり、名物の峠の釜めしを食べることを常としていた。十時少し過ぎであったが、聡理に釜めしを勧めると、ご当地グルメに嵌っているとのことで是非食べたいという。そこでこの日も横川サービスエリアに車を乗り入れ駐車したのであった。

 聡理は、コートを着ることなく、大きなバッグを抱えて車を降りた。半袖じゃ寒いだろうし、周囲の目もある。コートを着ればいいのにと心中思いつつ連れ立ってレストラン棟へ向かった。平日の午前中だが、横川サービスエリアはかなりの人出があり、行き交う人が聡理のことを二度見、三度見している。しかし聡理はそんな視線に全く動じないで、悟郎にまとわりつくようにして歩くのだった。


 聡理は今時の娘らしくほっそりした体形をしていたが、いわゆる痩せの大食いのようで、釜めしをぺろりと平らげると、着替えてくると言って大きなバッグを持ち、席を立った。悟郎が煙草を吸い、コーヒーを飲み、スマホのメールチェックなどをして待つこと二十分程、やっと聡理が戻ってきた。

「お待たせしてごめんなさい」

黒のパンツスーツ、大きな丸メガネ、髪は丸いお団子にして頭に載せている。化粧を落としてほとんどすっぴんのようである。もとの垂れ目顔になったが、それはそれで愛嬌がある。

「ホントはこんな格好したくないんだけど、お祖父様がうるさくて」

「お祖父さんって三沢法律事務所の所長のこと?」

「えぇ、弁護士は信用と品位が何より大切っていうのが口癖なの。特に若い女性弁護士は、相手に軽んじられないように服装に注意しろって、でもこんな格好一時間も着ていると息が詰まる」

「仕方ないだろ、誰だって職業に合わせたそれらしい格好してるんだから。こんな俺だって仕事で人と会う時は、一応ジャケット着てるぞ」

「そうね、我慢するわ。その代わり仕事以外では、思い切り好きなファッションにさせて下さいね」

 聡理はコスプレすることで、日々の自己から解放され、何とか精神のバランスを取っているのではないかと悟郎は見ている。両親の離婚のため、聡理は幼いころから、祖父母に育てられたらしい。親の愛情に飢えた幼少時代を、今も引きずっているのでかもしれない。悟郎はどう返事したらよいか迷う。聡理はそんな悟郎の思惑など知ってか知らずか、大きなバッグを抱えて助手席に乗り込んだ。

 

 碓井軽井沢インターを降り、県道四十三号を経て、軽井沢の街中に向かう。目指すはサカグチ家政婦紹介所である。大里は、この紹介所を経て長瀬家の家政婦になったことが分かっていた。

 サカグチ家政婦紹介所には、簡単に到着することができた。カーナビはこんな時とても重宝する。悟郎は、その狭い駐車場にシルバラードをなんとか押し込んで、聡理と連れ立って紹介所のドアを開けた。訪問することを事前に連絡していたので、所長の坂口が待ち構えていて、二人を室内に迎え入れた。

 坂口は、七十歳台と思える高齢の女性であったが、長年、仕事を切り盛りしてきた人ならではの、貫禄を備えていた。

「ずいぶん若い弁護士先生ね」

坂口は、聡理から渡された名刺を眺め、率直な感想を述べた。

「それで、あなたが電話をくれたヘッドハンターってわけね」

「はい、矢吹悟郎と申します。どうぞよろしくお願いします」

悟郎は、丁重に挨拶した。というのも、家政婦紹介もヘッドハンターも、大きな括りでは人材紹介業であり、坂口は同業の大先輩にあたるからである。

「大里さんについて知りたいんだったわね。折角遠くから来て貰ったけど、果たしてお役に立てるかどうか」

「いえ、調査のとっかかりになるような些細なことでもいいので、是非ご存知のこと教えて下さい」

悟郎の言葉に合わせて、聡理も神妙に頭を下げる。坂口は、そういうことなら、と前置きして話し出した。

「大里さんが私のところに来たのは六年ほど前だったわ。その前は、この近くの菱野温泉の旅館で住み込みの仲居をやっていたんだけど、その旅館が廃業してしまい、どこか住み込みで働ける先はないかって訪ねてきたのよ。年齢は六十を少し過ぎていたけど、家政婦は健康なら高齢でも働けるから、あちこち紹介したの。だけど、どこも断られてしまってね。大里さんには身寄りがなくて、身元保証人が誰もいなかったのよ。仕方ないので、この事務所の二階に住まわせて、病院の付き添い介護とか短期の仕事を、いろいろやってもらっていたの」

「そんな大里さんを長瀬家は雇ってくれたんですか?」

聡理が疑問を口にする。

「そうなのよ、住み込みで働ける家政婦を至急紹介して欲しいって申し込みがあってね、すぐ紹介できるのは大里さんしかいなかったんで紹介したら、すぐにも雇いたいっていうじゃない、でも後で悶着起すの厭だから、大里さんは、身元保証人となるような身内がいませんよってはっきり言ったのよ」

「えぇ、そうしたら」

「それでも構わないって、認知症気味の父親が軽井沢の別荘で暮らすことになったので、世話をする人がすぐにも必要だというの。まぁそんなことで、大里さんは長瀬家の家政婦として雇われたんだけど、その後何事もなく上手くやっていたようね。でも三か月ぐらい前、あなた方も知っての通り、世話をしていた認知症の父親が死んでしまったの、そうなると家政婦はいらないわよね、それでお払い箱ってわけ」

「大里さんは、次の仕事を頼みにここへやってきたんじゃないですか?」

聡理が意外にも的確な質問をするので、悟郎は感心する。

「長瀬家の家政婦を辞めることが決まって、一度、ここに挨拶に来たんだけど、年を取ったし、長年、少しずつ蓄えた貯金もあるんで、もう家政婦の仕事はやらないって言って帰っていったわ」

「身寄りがないってことでしたが、どこか行く宛てがあったんでしょうか?」

「私もそれが気になって聞いたんだけど、行き先はまだ決めてないようだったわ。あまり言いたくないようなのでそれ以上のことは聞かなかったけどね。あぁでも、昔、世話になった人が横浜にいるので、今後の身の振り方を相談してくるという様なことは言ってたわ」

「そうなんですか」

聡理は帰国子女のせいか、喜怒哀楽が表情や態度にすぐ出る。この時も失望感丸出しで肩を落とした。

「でも、私には行く先を言わなかったけど、雇い主だった長瀬さんには知らせているかもしれないわ。長瀬さんに聞いてみたらどう?」

聡理のがっかりする様子を見かねて坂口が言い足す。

「そうですね、それじゃこれから早速、長瀬家の別荘に行って聞くことにします。矢吹さんいいでしょ?」

聡理は、一転元気に悟郎に同意を求める。

「そりゃ行くのはいいけど、こんな季節に別荘にいるかな」

「そうね、父親が生きてらした頃は、一年中別荘に住んでいたけど、亡くなった今はどうかしらね」

坂口が悟郎に同感の意を示すのを聞いて聡理はまたしても悄気返る。

「でも、とりあえず行ってみよう。誰もいないかも知れないけど、別荘の様子を見るだけでも何かの参考になるからね」

悟郎はそう言って励ましたものの、聡理の感情の起伏の激しさに閉口気味であった。


 悟郎が運転するシルバラードは、上の原別荘地の幹線道路から反れて、狭い道路へと進み、今丁度、長瀬家の別荘入り口の浅間石の門柱のところに到着したところであった。左側の門柱には“これより私道、立入禁止”、右側の門柱に警備会社のロゴマークの入った小さな看板がそれぞれ貼り付けられている。


「弁護士先生、この先進んでも構わないでしょうか?」

門柱の看板を見て悟郎は、聡理に聞く。

「ちょっとそれはまずいかも、不法侵入罪に問われる可能性があります」

「でも、用事があって別荘を訪ねるんだから構わないのと違うかな」

「うーん、それもそうね、ちょっと待って下さい」

聡理は、バッグからタブレットを取り出し、何やら検索しているようだったが「用事がある者が、私道を通行しても、道路所有者の受忍限度を超えることはないと思料されます。なので、このまま進みましょう」

「ラジャー、出発進行!」

 車が一台やっとすり違える程の砂利道にピックアップを乗り入れる。両側は鬱蒼とした針葉樹の林で昼というのに薄暗い。左カーブを回り込むと、その先は緩やかな上り坂になっている。その坂の上に、山荘風の別荘が建っていた。


 別荘は平屋建てだが、会社の保養所ほどもあろうかと思われる大きな建物で、玄関には立派な車寄せまで付いていた。しかし、建物全体は寒々としており、誰も住んでいない感を漂わせている。悟郎は念のため、玄関ドアのインターホンのボタンを押してみた。更にドアも何回か叩いてみたが、なんの反応もない。

「やはり誰もいないようだ」

先ほどまで快晴だったが、午後になって雲が上空を覆うようになってきている。おまけに風も出てきて、周囲の針葉樹の林を揺らした。

「人の住んでいない別荘って、なんだか薄気味わるい」

晩秋の軽井沢は、日差しが途切れると急に冷え込む。聡理はコートの襟を立て、身を竦ませて心細げに辺りを見渡した。

「折角ここまで来たんだ。ぐるっと別荘を見て回ろう」

「いやそれは・・・そこまでやると立派な不法侵入になっちゃいます」

「それじゃ三沢さんはここに残っていて下さい。俺一人で見てきます」

「待って下さい。私も行きますよ。置いてけぼりにしないで下さい」

聡理は悟郎のダウンジャケットの袖を掴んで放さない。それにしても、実に情けない顔をしている。

「それじゃ一緒に探検に行くとしますか」

悟郎が先に歩き出す。聡理は、少し躊躇していたが、慌てて後を追った。


 奥へ進んで分かったのだが、建物の周辺の所々に防犯カメラが設置されている。仕方ないので建物に近づくことを避け、遠目にぐるりと観察して元の場所に戻った。別荘の周りは、針葉樹の自然林で囲まれていて、拓けた所といえば、車寄せがあるエントランス部分とその先のカーポート、あとは建物の南側の一角が僅かに芝生の庭になっているだけであった。カーポートは簡易屋根がついており、四,五台駐車できる広さがあった。


 遅めの昼食をとり、次に向かったのは軽井沢警察署であった。聡理が、長瀬竜造の不慮の死について不審な点が全くなかったか、念のため確認したいと言い出したからである。悟郎もかねて気になっていたので、その申し出に異存なく、軽井沢署の安西刑事に面談の連絡を入れたのであった。

 軽井沢警察署は、周辺の景観にマッチさせる意図であろう、一部が三角屋根の形状をした二階建てで、一般的な警察署のイメージから、かなりかけ離れた造りであった。中軽井沢の駐在所も三角形の屋根であったから軽井沢警察署の統一コンセプトによる設計に違いない。

 受け付けで安西刑事と面談の約束をしていることを告げると、応接コーナーに案内された。安西刑事はすぐに現れ、互いに挨拶を交わすと、安西は「その節は、ご協力いただきありがとうございました」と悟郎に向け如才なく言い、次に聡理にも「この季節の軽井沢は寒いでしょう」と、気さくに話し掛けた。歳の頃は五〇歳前後といったところか、当たりは柔らかいが、刑事らしい鋭い眼光の持ち主であった。

「ええ、これほど寒いとは思いませんでした」

「標高がなんせ千メートルですからね、もう夜間は氷点下ですわ。夏はいいが、冬はとてつもなく寒い上に湿気が多くてホント嫌になります」

「そうなんですか!」

聡理は、素直に驚いている。

「ところでご用件は?」

「実は、長瀬竜造氏が亡くなった後、遺産相続についてトラブルになりまして」

と前置きして、聡理は、訴訟に発展した経緯を簡単に説明した。

「成程、それで、長瀬竜造の交通事故の件について聞きたいと」

「ええ、何か不審な点はなかったのかお聞きしたくて」

「ふむ、不審な点とは、具体的にはどのようなことを想定しているんでしょう」

「例えば、保護責任者遺棄罪に触れるようなことはなかったかということです」

「認知症の老人がトラックに轢かれたんだから、家族の責任はどうなんだというわけですな」

「ええ」

「弁護士のあなたには釈迦に説法ですが、認知症の老人が徘徊して交通事故に遭うというのはよくあることで、よほどのことじゃないと保護責任者遺棄罪に問うことはできません」

「保護しないと生命に危険が及ぶ状態での放置しか適用にならないのは分かっています。でも、三ヶ月ほど前に夜の国道を徘徊していたのですから、家族は同様なことが、また起こり得ると予見できたはずです。充分な徘徊防止策を講ずるべきと思いますが」

誠に弁護士らしい指摘である。

「長瀬家では、夜の国道で徘徊して保護されたその以降、掛かり付けの医師から睡眠剤を処方してもらい、就寝前に竜造に飲ませていたということで、その後は夜間に徘徊することはなかったそうです。就寝後も、時々様子を確認するなどの対策を講じていたということなので、それなりに策を講じているんで罪に問うわけには行きません。まさか部屋に鍵かけて、閉じ込めておくわけにもいきませんからね」

聡理は安西の説明に納得したようだが、悟郎は、しぶとく食い下がった。

「しかしですね、長瀬家の誰かが、認知症の竜造を連れ出して国道付近に置き去りにしたらこれは犯罪ですよね」

「おっしゃる通りです。実は我々もその点について調べました。疑わしきは調べる、まぁ刑事の習性のようなもんですな」

安西はにやりと笑い、調査の概要を二人に説明をした。

「事件の数日後、長瀬家の別荘に行き関係者から話を聞きました。聴取したのは,長瀬彩乃、 家政婦の大里サチ、それに運転手の沢柳雅彦の三人です。竜也は、週末にしか別荘に来ないし、事件のあった夜も別荘にはいなかったので聴取していません。彩乃は、事件のあった夜は、いつものように七時過ぎに夕食を取り、風呂に入って後、自分の部屋で好きな音楽を聴いていたとのことでした。家政婦の大里と沢柳は、八時頃、台所で夕食をとり、その後ずっと一緒にフィギュアスケートの中継などを見ていたそうです」

「竜造が家を抜け出したのを、誰も気が付かなかったのですか?」

「家政婦が、夕食を済ませた九時ごろ竜造の寝室を確認した時は、確かにベッドに寝ていたそうです。抜け出したのは、その後ということになりますが、家政婦と運転手は、テレビの中継に夢中だったので、何も気が付かなかったようですな」

「彩乃さんは、音楽を聴いていて気が付かなかったという訳ですね」

「その通りです。何時ものように十時ごろ家政婦が竜造の部屋を確認すると、もぬけの殻なので大騒ぎとなったということです」

「竜造は九時以降に、別荘を抜け出し、徘徊の上、国道でトラックに撥ねられたという訳ですね」

「そういうことになりますな。とにかく特に疑わしいことはないということです。まぁ、以前にも徘徊して国道で保護されたという事実があるので、今回の事件も、徘徊の上、撥ねられたと考えるのが妥当という訳です」

「はぁ、なるほど」

「さてと、私はこれから会議に出なけりゃならんのでこれで失礼します」

「あっ、どうもお忙しいところお邪魔して申し訳ありませんでした」

「いろいろ教えていただきありがとうございました」

悟郎と聡理は立ち上がり謝意を表した。

「しかしなんですな、遺産は莫大でその相続を巡ってトラブルが起きたってことになると、なにやら匂わんでもないですな」

「えっ?」

聡理が驚いて身を乗り出す。

「いや、なんでも疑ってしまうのが刑事の性ってやつでね。聞き捨てて下さい」

安西は、そう言い残して立ち去った。

軽井沢警察署を出た時はすでに午後四時を少し回っており、夕闇がすぐそこまで迫っていた。二人は何か釈然としない気分を抱えたまま、東京に戻るべく二人はシルバラードに乗り込んだ。



第四章着ぐるみのトナカイ


 大里サチが依然として行方不明のため、諦めかけていた沢柳雅彦に対する証人要請を、改めて行なうことになった。悟郎と聡理が長野県の飯田市に出向いて、沢柳に直接会い、説得することにしたのである。

 そんな訳で、今回も悟郎は聡理と一緒にドライブすることになり、待ち合わせ場所の神楽坂の赤城神社に向けて愛車を走らせていた。師走の街は、赤・緑・白などのクリスマスカラーで彩られている。午前十時になり、商店街のシャッターが次々に開き、街頭スピーカーからは、クリスマスソングが流れだした。

 待ち合わせ場所が前方に見えてきたが、聡理の姿は見当たらない。代わりに、着ぐるみのトナカイが、伸び上がるようにしてこちらの方を見ている。嫌な予感を抱きつつ、トナカイの前で停車すると、案の定トナカイは「お早うございます。今日もよろしくお願いします」と言って、にこやかに手を振った。頭に生えている角がゆらゆら揺れている。悟郎は、窓ガラスを下げて、トナカイをよく観察する。着ぐるみではあるが、顔は出るタイプのものなので、それが聡理と知れたのだが、ご丁寧に赤い丸鼻までつけている。

「今日はまたどういうこと?」と悟郎があきれ顔で問うと「もうすぐクリスマスなので、赤いお鼻のトナカイさんになってみました」と嬉しそうに言う。しかし悟郎の浮かない表情を見ると、「いけなかったでしょうか」としょげ返った。ぶりっ子を演じているような気もするが〈まっ、いいか〉と心中で呟き言葉を探す。

「うーん、もうすこし地味なコスチュームにしてくれるとありがたいな」

「えぇ! これ派手ですか? 最初は定番のサンタさんにしようと思ったんだけど、赤い衣装で目立つと思って、茶色のトナカイさんにしたんです」

「わかったよ、それで構わんから、途中のサービスエリアでちゃんと着替えてくれよ」

「イェッサー、それじゃ行きましょうか」

聡理は、足元に置いてあった大きな旅行バッグとコートを抱え上げると、喜々として助手席に乗り込んできた。

 これまでの経験で、聡理がコスプレマニアであることはよく分かっている。でも聡理のコスプレはちょっと変わっている。通常のコスプレーヤーは、アニメや漫画の憧れのキャラクターに扮するものであろう。それなのにトナカイの着ぐるみである。聡理の場合は特定のキャラクターに同化するというよりは、何でもいいから変身して、常日頃の自分から解放されたいという願望が強いのだろう。聡理がコスプレするのは、それなりの理由があってのことに違いないが、一緒に行動する悟郎にとっては、迷惑なことであった。

 前回のドライブは軽井沢であったが、今回は飯田である。同じ長野県だがコースは大きく異なる。軽井沢へは関越自動車道を経て信越自動車道を利用するが、飯田へは、中央自動車道で行く。長野県は北海道、岩手県、福島県に次いで四番目に面積が大きい県であり、県の北寄りに位置する軽井沢と、県南の飯田の間はかなり離れていたのである。

 今回も比較的順調に進んで、午後一時少し過ぎに、諏訪湖サービスエリアに到着した。ここで聡理は、トナカイの着ぐるみのまま、ご当地グルメの野沢菜おやきと牛すじ黒カレーパンを美味しそうに食べた後、渋々ながら弁護士ルックに着替えた。

 沢柳とは、国道一三五号バイパス、通称アップルロードのファミレスで午後三時に会う約束をしていた。そこは、飯田でタクシーの運転手をしている沢柳が指定したのだが、道の両側のりんご並木には、採り残しのりんごが、まだ実をつけており聡理を喜ばせた。

 予定時刻の少し前に、ファミレスに着き、沢柳がやってくるのを待っていると、紺色の制服をきた男が入り口に現れた。悟郎と聡理が立ち上がるのを認めて、沢柳らしい男は二人の席に近づいてきた。軽井沢の駐在所で見かけたときは、実直そうな初老の男性という印象であったが、近くでよく見ると意外に若かった。それもその筈、聡理のデータによれば四十六歳ということであった。

「沢柳です」

物腰は柔らかで、実直そうな印象は変わらない。

「矢吹です。本日はお仕事中にも拘わらず、お会いいただきありがとうございます」

「弁護士の三沢と申します。どうぞよろしくお願いいたします」

悟郎と聡理はそれぞれ挨拶をして、名刺を差し出す。

「あ、どうも、名刺は持ち合わせないので失礼します」

一同は席に座り、それぞれ飲み物を注文すると、悟郎は用件を切り出した。

「しつこい様ですが民事訴訟裁判の証人の件、ご承諾願えないでしょうか?」

「わざわざ遠くまで来ていただいて申し訳ありませんが、それは勘弁して下さい。法廷で証言するなんて考えただけで足が震えます。それより、証人なら私なんかより、家政婦の大里さんが最適任と思いますよ。なんせ、会長の一番身近にいたんですから」

「おっしゃる通りなんですが、その大里さんの行方が分からなくて証人になって貰えそうにないのです」

「えっ、そうなんですか?」

悟郎は、軽井沢での調査結果を伝え、沢柳の他に適切な証人がいない旨を縷々説明し、証人になってくれるよう要請した。聡理も、すべての国民は証人になる義務があると法律で定められていることや、旅費・日当が支払われることなど熱弁するが、沢柳はそれでも頑として拒絶する態度を変えようとしない。

「それほどして拒み続けるのは、被告側からなにか頼まれているとか、特別な理由があるのではなんて勘ぐってしまうのですが、どうでしょう?」

「そんなことはありません。確かに長瀬家の使用人として給料はいただいていましたが、特別な恩義はありません。大旦那様が亡くなられたら、即、首にされて、憤りを覚えているぐらいです」

沢柳は如何にも心外だというように、語気を強めた。

「失礼なことを言って申し訳ありませんでした。気を悪くしないで下さい」

素直に頭を下げる悟郎を横目に見て、聡理が話し出す。

「事情は良くわかりましたので、これ以上の無理強いはしません。ですが、当時の竜造氏の認知症の様子だけでもお話しいただけませんか?」

聡理が、食い下がる。このような時は、聡理は根性を発揮する。

「この場でお話しする分には構いません」

聡理の一種迫力ある懇請には、誰も抗しがたいようでる。

「ありがとうございます。それでは早速ですが、公証役場で遺言がなされた頃の竜造氏は、どんな具合でしたか?」

「どんな具合って・・・・」

「例えば徘徊が始まっていたとか」

「あぁ、徘徊はその当時からありました。尤も、そんな遠くに行かずに、家の周りを歩いていたので、すぐに探すことができました」

「他人とのコミュニケーションはどうですか?家族や使用人の皆さんなどと意思疎通が出来ていたのでしょうか?」

「あの当時も奥様以外の人とは意思疎通が困難でしたね。家政婦の大里さんが、ボヤいていました。食事や下の世話は私がしているのに、奥様のいうことしか聞いてくれないと」

「竜造氏は彩乃さんの言いなりだったのでしょうか」

「言いなりだったかどうか分かりませんが、奥様の言うことは何でも聞き分けていたようです」

聡理がしばし考え込み、口を閉じたところで、悟郎が口をはさむ。

「被告側からこれまでに、何か連絡はありましたか?」

「何もありません。私を証人にしたら、自分たちに不利になると考えているんじゃありませんか」

「成るほど、でももし、被告側から証人要請があったらどうしますか?お引き受けになるのでしょうか?」

「引受けませんよ。何度も言いましたが、私には荷が重すぎます」

 そう答えて、腕時計を見た沢柳は、会社に戻らなければならないと言い置いてファミレスを出て行った。

悟郎と聡里も勘定を済ますと、ファミレスの外に出た。辺りはすでに暮れなずんでいる。飯田盆地の西方向に位置する中央アルプスの山並みはすでに黒いシルエットになっていて、沈んだ夕日の残光がその上空を赤く染めていた。


「上首尾とは行かなかったね」

悟郎が慰めるように言う。

「そうでもないわ。法廷での証言は無くなったけど、さっき話してくれたことは、文書にして裁判所に提出できるもの」

意外やサバサバしており、落ち込んだ風はない。

「それならいいけど」

「それより、夕食なんですけど・・・・」

「えっ、夕食?」

突然の話題転換に思考停止状態に陥る悟郎であったが、聡理はお構いなしに話し続ける。

「わたし、ネットで調べたんだけど、ソースかつ丼が名物らしいです」

「はい!? ソースかつ丼って・・・まっいいか、お付き合いしますよ」

「わぁ、うれしい。ソースカツ丼にするか、ローメンにするか悩んだんですが、やっぱりお肉ですよね」

「ローメン? 」

「ソースカツ丼は駒ヶ根市、ローメンはそのお隣の伊那市のご当地グルメなんです。ローメンというのはですね」

「わかった、わかった、ローメンの説明はいいから、ソースカツ丼食べに行こう」


 駒ヶ根市は飯田市に隣接しており、四十分弱でお目当てのソースカツ丼店に到着した。その店で聡理はメニューから、信州御膳(ソースかつ丼と馬刺と蜂の子更に信州そばのセット)を、悟郎は信州ロースソースかつ丼をチョイスした。聡理は馬刺しと蜂の子にも果敢に挑み、そのすべてを平らげた。店を出たときは六時を過ぎており、周囲はすっかり暗くなっている。ここから自宅到着までは、渋滞や途中休憩を考慮すると五時間程度は覚悟しなければならない。その長い夜間ドライブを思いやり、悟郎は聊かげんなりしてシルバラードをスタートさせた。

「私が運転替わればいいですけど、まったくのペーパードライバーで」

「気を使わなくていいよ、この車は左ハンドルで、慣れない人には運転が難しい」

「でもなんか疲れていませんか?」

「今はそれほど疲れちゃいないけど、中央高速は今夜も渋滞らしい。それを思うとげんなりする」

「あのう、もしよかったら、この近くで泊まっていきませんか?」

「うん? そりゃ構わないけど、聡理さんは大丈夫なの? 仕事の予定とか」

「明日の予定は午後からなので、朝早くに立てば大丈夫です」

「そう、それじゃこの近くのビジネスホテルを当たってみるか」

「どうせ泊まるなら、純和風旅館にしませんか。私、まだ泊ったことないんです」

「いやいや、そりゃまずいでしょう。ホテルならシングル二部屋にすればいいけど、和風旅館はそうはいかないし」

「私は、同室でも構いません。矢吹さんを信じていますから」

「いや、そういうことじゃなくて・・・とりあえずビジネスホテルを探してみよう」

悟郎は、ハザードランプを点灯し車を道路わきに停車させ、スマホでホテルを検索した。駒ケ根市内のホテルを探すが適当なところはなかなか見つからない。その間、聡理もスマホで何やら調べていたが「ねぇ、ねぇ、ここはどうかしら。このすぐ近くの早太郎温泉、露天風呂付純和風旅館ですって。部屋空いているか聞いてみます」

聡理は悟郎の返事も聞かずに電話を掛ける。

「空いているって。夕食は無理だけど、一泊朝食付きならいいって。私、浴衣着てみたいの、ねっ、いいでしょ」

聡理にとっては、旅館の浴衣姿も一種のコスプレなのかもしれない。それに、和風旅館の宿泊経験がないのだとすると、泊まってみたいと思う気持ちも分からないではない。そこで悟郎は、「まっ、いいか」と言ってしまったのだが、聡理は「やったー!」と、子供のように叫び「はい、それでは朝食付き一泊、二人ということでお願いします」などと予約をしてスマホを切った。


 早太郎温泉の旅館には、十分もかからずに到着した。その十分弱の間に聡理は、早太郎温泉は、駒ケ根高原の名刹「光前寺」の周辺にある温泉地で、温泉名の「早太郎」は、その昔に光前寺で飼われていた霊犬早太郎に由来することなどネット仕込みの情報を悟郎に話して聞かせた。

 聡理が予約したのは、光前寺仁王門にほど近い、純和風の小さな旅館であった。聡理は旅館入り口の和風な佇まいに接して、すでにテンションがあがっている。玄関に至る石畳には、所々に路地行燈が置かれ、暖色系の淡い光が訪れる者の足元を照らしていた。玄関では半纏姿の番頭風の男性が愛想よく出迎え、靴を脱いで上がるように言い、二人をフロントに案内した。聡理にとっては、靴を脱いで畳敷きの廊下を歩くことも新鮮だったようで、いかにも楽しそうである。

 案内された部屋は、床の間付き八畳の和室で、奥に次の間が付いているらしい。聡理は興味津々という顔つきで、室内のあちこちを点検していたが、次の間の襖を開け、そこに寝具が二つ並べられているのを見て、立ちすくみ「オーマイガッ!」と呟いた。

「びっくりしたようだね。でも心配ないよ、俺はこっちの部屋で寝るから」

「いえ、私はノープログレムです。矢吹さんのこと信じてます」

「そういうわけにはゆかないさ、それより早いとこ浴衣に着替えて露天風呂に行こう」

悟郎は、浴衣と帯それに旅行バッグを聡理に渡し、次の間に押し込み襖を閉めた。

「着替えたら出ておいで、一緒に風呂に行くから」

しばらくたっても、聡理は出てこない。

「おーい、着替えは済んだかい?」

「あのー、露天風呂って男女混浴なんでしょうか?」

そんなことを心配していたのかと可笑しくなり、悟郎は、すこしからかってやろうという気になった。

「もちろんだよ、純和風は昔から混浴と決まってる」

「えぇー、ほんとですか、他の男の客も一緒ですか?」

「あったりまえだよ、みんな一緒さ」

「私、矢吹さんとだけなら入っても・・・あっ、もちろんバスタオル巻いてですけど。でも他の人とはちょっと」

「あはは、ジョーク、ジョーク、男女別々だから心配ないよ、さあ、行くぞ!」


 風呂から出て部屋に戻ったものの、バーもレストランもない小さな旅館では、自室でビールを飲む位しか過ごしようがない。浴衣姿の若い女性と二人で飲むのは楽しくもあり、気まずくもありだったが、聡理は飲むと眠くなる質のようで、しばらくすると居眠りを始めた。それにしても聡理は正真正銘の天然なのだろうか、若い女性としての警戒心が欠如している。しかし、こうまで無防備だと、オスの野生本能よりも保護本能の方が勝ってしまう。悟郎は次の間から一人分の寝具をこっちの部屋に引き寄せた。次に完全に眠ってしまった聡理を揺り起こし、寝ぼけて意味不明なことを呟く聡理をなんとか次の間に送り込み襖を閉めた。

「まっ、いいか」

ほんの数秒、逡巡した悟郎であったが、思い切りよく電気を消して自分の布団に潜り込んだ。



第五章 ゴスロリ


 年が変わって一月になり、東京地方裁判所において民事訴訟裁判が開始された。原告は長男の長瀬竜一郎と長女の高橋美鈴、被告は次男の長瀬竜也であり、双方の間で、公正証書遺言の有効性について争う内容の裁判であった。長瀬竜一郎は長竜物流株式会社の代表取締役社長、竜也は同社の常務取締役で、竜也は竜一郎と美鈴にとって異母弟という関係であった。

 原告側は訴状で、長瀬竜造の公正証書遺言は、遺言者の認知症が進行し、自らの意思による遺言能力がない状態で作成されたので無効と主張していた。また、被告とその妻の彩乃は、介護人という優位な立場を利用して、相続人を騙し、自分たちに有利な遺言を書かせたと主張していた。

一方被告側は答弁書で、遺言書作成当時の相続人の遺言能力は問題がなく、法律に則して公証人により認証された遺言なので、その有効性に疑問の余地はないと主張、被告人とその妻は誠心誠意、竜造の介護をしており、騙して遺言書を書かせたことなど全くないと反論していた。

 その後、何度か、原告と被告側の双方から準備書面の提出があり、裁判官の訴訟指揮のもと、争点が整理されていった。その過程で、被告とその妻が、相続人を騙したという原告の主張は、証拠不十分ということで脚下され、公正証書遺言の作成時の遺言能力の有無が争点として絞られた。その後、七月にようやく証人調べになり、原告側は中軽井沢診療所の医師を証人に立て、被告側は二人の証人を立てた。その内の一人が、柳沢雅彦であることを、被告側の準備書面で知り、聡理は驚いたのだが、更に衝撃的だったのは、陳述書に記された沢柳の供述が、被告に有利なものになっていた事であった。それらは、早速、悟郎と史郎に伝えられ、真偽のほどを電話と文書で沢柳に問い質したのだが、以前に飯田のファミレスで話したことは、自分の思い違いであるとの返答であった。もう一人の被告側の証人は、公証役場における立会人であった仁藤秀栄で、竜也と昵懇の間柄にある経営コンサルタントであった。

 通常、裁判は原告側に立証責任があり、遺言時の竜造が重度の認知症であったことを証拠を示して立証しなければならない。認知症がどの程度進行していたかについては、医師による認知症テストで判断するのが一般的だが、竜造はテストを一切受けておらず頼みの綱は、診療にあたっていた医師の証言であった。

 悟郎は傍聴席に着くと、彩乃が来ているのではないかと見回したが、その姿は見当たらなかった。彩乃が来ることを、心のどこかで期待していたのだろうか、少しがっかりである。史郎は公判が重なったとのことで、こちらには来ていない。

 やがて裁判が始まり、所定の手続きの後に、証人尋問が開始された。最初の証人は中軽井沢診療所医師であり、原告側の主尋問をするのは聡理であった。傍聴席で経緯を見守る悟郎は、聡理がうまく尋問できるか心配で落ち着かない。


 裁判官による人定質問と証人による宣誓が行われ、尋問が始まった。

「証人は、遺言者である竜造氏の往診を、何時頃からなさっていましたか?」

弁護士ルックで身を固めた聡理は、緊張した面持ちで尋問を切り出した。原告席の長瀬竜一郎と高橋美鈴が、そんな聡理のことを心配そうに見つめている。

「竜造氏が軽井沢の別荘に定住するようになってからですから、五年ほど前からですね」

小柄で痩身の老医師は、白い顎鬚を指で撫でながら尋問に答える。

「年に何回位往診していたのでしょうか?」

「竜造氏は、高血圧症と糖尿病を患っていました。薬を処方する必要もあり、毎月一回、程度往診していました。あとは風邪を引いて熱が出た時なども往診していました」

「すると、この五年間、竜造氏の健康状態を見守ってきたわけですね」

「まぁそういうことになりますか」

「竜造氏は、引き籠り、記憶障害、被害妄想、徘徊などの認知症特有の症状が顕著でしたが、認知症の治療はなさらなかったのですか?」

「私どもの診療所は、内科と胃腸科が専門であり認知症に関する診察や治療は行っていません。ご家族からも認知症に関する相談は受けていませんでした」

「最後に往診したのは何時でしたか?」

医師は手元のメモを見ながら答える。

「昨年の九月十六日です。前日の夜、国道を徘徊していて保護されたので念のため診断して欲しいという依頼があり往診に行きました」

「そのときの竜造氏の様子はどうでしたか?」

「かなりの距離を歩いたのでしょう、疲労がまだ抜けない状態で、右足を少し痛めていました」

「往診の際の受け答えはできたのですか?」

「いえ、本人に質問しても返事はなく、触診や血圧測定を嫌がったり、声を荒げたりして、充分な診察は出来ませんでした」

「公正証書遺言を作成したのは、一昨年の六月ですが、この前後に往診したことはありますか?」

「その翌月の七月六日に往診しています」

「その時の竜造氏の様子はどうでしたか?」

「この時も、応答がなく診察を嫌がって充分な診察は出来ませんでした」

「意思疎通ができていないと感じられたのですね」

「異議あり!」

被告側弁護人がすかさず異議を申し出る。いかにもやり手という感じの中年の男性弁護士である。

「誘導質問です。質問の撤回を求めます」

「異議を認めます。原告側弁護人は質問を変えて下さい」

裁判長が異議を認める。

「それでは、質問を変更します。返事もせず、診察を嫌がる竜造氏を診てどのように感じましたか」

「認知症が大分進んでいると感じました」、

「そのような状態で、詳細な遺言内容を公証人に、正確に伝えられると思いますか?」

「私が往診した時の状態であれば、自分の意思を正確に伝えることは困難でしょうね」

「ところで、被告は答弁書で、この一年間で竜造氏の認知症が急速に進行したと主張していますが、この点についてどのように思われますか?」

「進行スピードは、認知症の原因疾患や個人的な状況によりさまざまです。アルツハイマー病の場合、一般にはなだらかに進行していきます。脳血管性認知症の場合は、比較的安定した時期を挟んで、階段を下りるような急な進行をするといわれています。そういうことで竜造氏の場合、原因疾患が特定されていないので何とも言えませんが、一年前と亡くなられた頃と認知症の症状に大きな相違は無かったように感じられました」

「ありがとうございました。それではこれで主尋問を終わります」

聡理は、ずり落ちた丸ぶち眼鏡を元の位置に戻しながら、自分の席に着いた。傍聴席の悟郎も先ず先ずの滑り出しに安堵する。

代わって被告側の弁護人が立ち上った。被告席の長瀬竜也に頷いて見せてから、おもむろに反対尋問を開始した。

「専門は内科と胃腸科と伺いましたが、脳神経など認知症に関連の深い科目は専門外ということですね?」

「はい、そうです」

「先ほど、原告側の弁護人の質問に対して、竜造氏は認知症が大分進んでいると感じたと答えておられましたが、それは医師としての見解ですか?」

「いえ、認知症は専門外だし、認知症テストも実施していないので、あくまでも一般常識的見地からそう申し上げました」

「被告人の妻の彩乃さんの問いかけには反応していましたか?」

「えぇ、私の質問には無反応でしたが、奥さんの言葉には反応していたようです」

「往診されたとき、竜造氏への問診は、被告の妻の彩乃さんの介助のもとに行ったのではないですか?」

「そうです。私が問いかけても反応がないので、奥さんを通じて、症状などを聞きました」

「すると、彩乃さんの補助があれば意思疎通ができていたのですね」

「十分ではありませんが、なんとかやりとり出来たといったところでしょうか」

「それなりに意思疎通が出来ていたということですね?」

「はぁ、そうとも言えます」

「反対尋問を終わります」

被告側の弁護人は聡理の方を見やり、ほくそ笑んで着席した。


次に沢柳が被告人側証人として進み出て宣誓をした。被告弁護人が立ち上がり尋問を開始する。

「証人は竜造氏の専属運転手として長瀬物流株式会社に雇用されていたのですね?」

「はい、そうです」

「雇用期間は何時から、何時までですか?」

「平成二十二年五月から、二十七年十一月までです」

「主な仕事の内容はどのようなものでしたか?」

「最初の頃は、週に二回程度、会長を東京本社に送迎することが主な仕事でした」

「竜造氏の認知症が進んで、東京本社送迎の仕事が無くなったそうですが、その後はどんなことをしていたのですか?」

「運転手としての仕事は、来客の送迎、旦那様のゴルフ場の送迎、それに奥様の美容院や買い物などへの送迎が主なものになりました。運転手以外の仕事としては、別荘設備の修繕、庭の手入れなどをしていました」

「旦那様とは、被告の長瀬竜也氏で、奥様とはその妻の長瀬彩乃さんのことですね?」

「はい、そうです」

「ずっと住み込みで働いておられたのですか?」

「はい、来客用の部屋の一つを使わせていただいておりました」

「だとすると、竜造氏の様子を日頃からつぶさに観察できたのですね?」

「奥様や家政婦ほどではありませんが、その様子は大体わかりました」

「あなたから見て、公正証書遺言時、竜造氏は自らの意思で遺言することができたと思いますか?」

「はい、奥様の介添えがあれば、充分遺言が可能と思います」

「有難うございました。被告側の尋問は以上です」

被告側の弁護人は、自信たっぷりに周囲を見渡して自分の席に戻った。続いて聡理の反対尋問が始まった。

「私が、飯田市内のファミレスで証人とお会いした時、遺言当時の相続人はすでに徘徊が始まっているとの説明でしたね」

「はい、そのように言いました」

「先ほどの被告人側の尋問では、まだ徘徊は始まっていなかったと答えましたが、どちらが正しいのでしょうか?」

沢柳は、一瞬、困惑の表情を浮かべ、原告側の弁護士席の方をチラリと見た。弁護士が小さく頷くのを見て、正面の裁判官の方に向き直り、咳払いをして尋問に答えた。

「飯田のファミレスでの私の説明は勘違いでした。遺言した時期を六か月ほど取り違えていたのです」

「すると、私に説明したのは、相続人が遺言した六か月後のことだったというのですね」

「はい」

「身の回りの世話をする家政婦とでさえ、意思疎通が出来なかったという説明はどうなんですか?これも勘違いだと言うのでは、まさかありませんよね」

「それも、私の勘違いです」

聡理が欧米人のように、大げさに肩を竦めた。そんな聡理の様子を見て、裁判官が証人に注意する。

「証人は真実を述べなければなりません。もし、偽りの証言をすると、偽証罪に問われる可能性があります。証人はそのことを念頭に、慎重に答ええて下さい」

「はい、わかりました」と裁判官に一礼して沢柳は続ける。

「飯田のファミレスで原告の弁護士に話したことは、私の勘違いに違いありません」

沢柳は、勘違いで押し通すに違いないと思った聡理は質問を変える。

「あなたは、私たちの再三に亘る証人要請を固辞しましたね。それは何故ですか?」

「裁判所の法廷で証言するなんて、そんな大それたことは避けて通りたいと思ったからです。一般の人は皆同じではないでしょうか」

「被告側からの証人要請があっても、応じる気はないとも仰っていましたね」

「はい、言いました」

「ではなぜ、被告側の証人になったのですか?辻褄が合いませんよ」

「長瀬家には雇っていただいた恩義があります。奥様にも大変よくしていただきました。

なので、旦那様と奥様の両方から頼まれて、断り切れなかったのです」

「長瀬家には、恩義なんて無い、むしろ憤りを覚えると言いましたよね」

「さぁ、そのようなことは、言った覚えはありません」

傍聴席で聞いている悟郎は、沢柳の白々しい態度に唖然としつつ、尋問の展開を見続けた。

「私たちに説明したことを、勘違いの一言で全否定するのは、人間としての信義則に反するとは思いませんか?」

すかさず「異議あり」との声が、原告弁護人からあがる。

「今の原告弁護人の発言は、裁判上、何の関係もないことです。撤回を求めます」

「異議を認めます。原告弁護人は撤回して下さい」

裁判長が、聡理に発言の撤回を命じる。

「分かりました。先ほどの発言を撤回します。これにて反対尋問を終ります」

聡理は沢柳を睨みつけ、腹立たし気に自分の席に座った。被告側の弁護人は、そんな聡理の様子を見て、ニヤリと笑いながら席を立ち、次なる仁藤への尋問を開始した。

仁藤は、遺言は適正に、法に則りなされており、遺言者の意向が正しく反映されているとの陳述書通りの証言をした。聡理はその反対尋問で、仁藤が竜也の経営する会社と顧問契約を結ぶなど利害関係が密であり、証人としての中立性に疑義があると申し立てたが、被告弁護人は、仁藤が法律上の証人要件を具備しており何ら問題ないと一蹴した。

 この後、裁判長から、この日をもって弁論の終結とするとの宣言がなされ、判決言い渡し期日が指定されてこの日の裁判は閉廷した。

 

 それから数か月後の十月になって、東京地方裁判所において、原告敗訴の判決が言い渡された。公証人遺言の訴訟の場合、その有効性を否定する判決が出ることは稀であったので、このような結果は覚悟をしていた。公証人は、裁判官など三十年以上の実務経験を有する専門家が任命されるのが殆どであり、法曹界の大先輩である公証人が認証したものを現職の裁判官が否定することは、ほとんど無いのが実情であったからである。しかし沢柳の裏切り的な証言は想定外のことであった。悟郎としても沢柳と実際に面談し、誠実で真面目な人物と信じていただけに、意外であり腹立たしい思いであった。聡理はそれ以上に大憤慨の体である。


「私、ショックです。あの沢柳さんが裏切るなんて」

裁判所を出て、悟郎に会うなり聡理は憤懣をぶちまけた。両手にいつもの大きな旅行バックを下げている。

「いやまったく、真面目で誠実な人と思ったんだがなぁ」

「一番重要な証人と目された家政婦の大里さんを、証人に立てられなかったし、敗訴するのはある程度覚悟していたけれど、沢柳さんが裏切るなんて」

「信じていた人に裏切られるというのは辛いよな」

「そ、そうなんですよ。ホント気分悪い」

「このまま帰るのもなんだし、これから飲みに行くか」

腕時計が五時を少し過ぎているのを見て、悟郎が気を遣った。

「えぇ行きます。やけ酒でも飲まなきゃやってられない」

「それじゃ、史郎にも連絡してみよう」

悟郎はスマホのラインにメッセージを入れる。

「あの、お願いがあるんですが、その先にあるカフェに寄ってくれませんか?」

「うん? あぁまだ酒飲むには早いからいいけど」

「私、そこで着替えますね。こんな格好じゃ気が滅入るので」

「おいおい、今度は何になるつもりだい? あまり変な恰好は困るよ」

「大丈夫です、すごく地味な衣装ですから」


 カフェのトイレで着がえた聡理は、ゴスロリ風コスチュームで悟郎の前に現れた。黒を基調としたジャンパースカートには白いレースのフリルが付いており、髪はウィッグを付けたのだろう縦ロールの長いヘアスタイル、靴は編み上げのブーツといった具合であった。トナカイほどは驚かなったものの、充分に変な恰好である。

「どうですか? これなら地味だからいいでしょう? ほんとはミニハットを頭に乗せたかったんだけど我慢しました」

白塗りのファンデーション、濃いアイシャドウ、ダークなルージュというまるで悪魔か死人のようなメイクで、ニコリともせずに同意を求めてくる。聡理はすでに、ゴスロリの世界に浸っているようで、表情がいつもと一変していた。

「いや、まぁ・・・」

何か圧倒されて、悟郎は思わず口ごもる。


 聡理に案内されて入った店は、ゴスロリ好きの人が集まるという六本木のバーであった。聡理のようなゴスロリファッションの客ばかりかと思ったが、ほとんどは会社帰りの女性社員などで普通の格好をしていた。ただ、店の従業員は男女ともにゴスロリ風にきめている。

 史郎からは、遅くなるかもしれないが、仕事が片付き次第やってくるとの連絡があったので、悟郎と聡理は、カウンターに横並びに座り、マティーニをオーダーした。

「今日はほんとお疲れ様、ところで、上告はするのかい?」

「原告の二人は上告するって言ってます」

「公証人が認めたことを否定するのは並大抵じゃないんだろう? 勝ち目のない勝負を続けるつもりかい?」

「あの遺言が認められると、長竜物流の株式の二十パーセント以上が竜也のものになってしまい、会社の実権を竜也に奪われかねないの。原告側は必死ってわけ」

バーテンダーが、テーブルに置かれた二つのカクテルグラスに、マティーニを注ぐ。

「ふーん、そりゃ分からんではないが前途多難だな、でもまぁ取り合えず乾杯するか」

「裏切りの苦い思いに乾杯!」と聡理は呪詛を吐くかのように言い、マティーニを一気に飲み干した。

「おいおい、そんな飲み方して大丈夫かい?」

「私、こう見えてお酒強いんです」

聡理は、バーテンダーにお代りを注文する。

〈そうだろうか?〉と悟郎は少しのビールで居眠りしていた早太郎温泉の聡理を思い出し、疑問を抱いたが、それは口に出さず「何か作戦はあるのかい?」と聞いた。

「今度こそ、家政婦を探し出して、何が何でも証人にすることね」

「うん、そりゃそうだ」

「家政婦をする前、軽井沢近くの温泉旅館で住み込みの仲居をしていたと紹介所の所長が言っていたの覚えている?」

「うん、覚えているよ、じゃ、その線をあたってみるか」

「また、一緒に行って下さいね」

「あぁ、あのおんぼろ車でよければ、どこまでも行きますよ」

こうなればとことん付き合ってやろうと、悪魔めいたメイクの聡理に、魂を売り渡す思いで答えたのだが、今夜は悪酔いするような予感がする。


第六章アビアント


 長瀬竜也の死体が、南麻布の狸橋付近の古川に沈んでいるのが発見されたのは、第一審の判決があった日の三か月ほど後の一月のことであった。この事件はニュースでも取り上げられ、死亡時の竜也はジョギングウェア姿で、財布などは盗られていないこと、橋から転落し、川底のコンクリートに衝突した後に溺死したこと、狸橋は竜也がいつも夜間にジョギングしているコースの途中にある橋であること、また、この付近の川は都心ではあるが深く抉れた渓谷のような形状をしており、雨量の少ない時期は橋から川面まで、十メートル近くもあることなどが報じられていた。このような状況から警察は、他殺の可能性があるとして捜査を進めているとマスコミは伝えていた。

 悟郎は、ニュースで事件を知ると直ぐに、被告が死亡した場合の今後の対応について聡理に問い合わせた。聡理によれば、民事訴訟裁判の被告が死亡した場合、被告の遺産を相続する彩乃が、被告となり裁判が継承されるとのことで、引き続き協力して欲しいと依頼された。それにしても気になるのは、竜也の死亡原因である。自殺か他殺か、はたまた事故死か。もし他殺なんてことになれば、民事裁判にも大きな影響を与えるはずである。このため、先ずは警察の捜査の動向を把握することにしたのだが、幸いなことに所轄署は六本木警察署であり、刑事の我妻とは旧知の仲であった。聡理と共に話を聞くべく、銀座のクラブ「アビアント」で我妻刑事と会う手筈を整えた。「アビアント」は我妻の行き付け、御用達の店である。


「いらっしゃい、お待ちしていました」

クラブのママの由香里が、笑顔で悟郎を店に迎え入れる。

「いや、ご無沙汰してます」

悟郎は面目なさげに頭に手をやってママに挨拶する。

「アガちゃんは、少し遅れるって。まぁいつものことだからご存知よね」

「えぇ、まぁ」

悟郎は、扉の後ろに立っている聡理に声をかけ、一緒に店の中に入る。今日の聡理は当然ながら弁護士ルックである。度なしの丸眼鏡を外してクラブの店内を興味深げに見回している。

「あら、珍しい! 今日はお連れさんとご一緒なのね」

「うん、こちら弁護士の三沢聡理さん、それでこちらがこの店の由香里ママ」

紹介された二人が、初対面の挨拶を交わした後、悟郎たちは店の奥まったボックス席に案内された。


「おう、久しぶりだな、元気か」

遅れてやってきた我妻刑事は、席に着くなり悟郎に話しかけ、隣の聡理を見やりながら「あぁ、こちらが例の弁護士さん?」と聞いた。

「初めまして、三沢聡理と申します」

聡理は立ち上がり、名刺を差し出す。

「まぁ、座って、座って」

席に座り直した聡理に我妻は名刺を手渡し、悟郎にも差し出した。

「ほおー、我妻さん警部補に昇進ですか?」

「いやまぁ、そんなことはどうでもいいじゃないか、先ずは久しぶりの再会を祝して乾杯しようや」

我妻が人並みに照れているのが可笑しかったので、ことさら大声で「警部補昇進おめでとうございます」と乾杯の音頭を取ってコップを目の高さに掲げた。

「早速ですが、長瀬竜也の事件についてお伺いしたいのですが」

乾杯が済むと単刀直入に本題に入る。これもいつものことで我妻も先刻承知している。

「ふむ、実はな、あの事件の捜査主任はこの俺なんだ」と少し自慢げに言う我妻に「えっ、そうなんですか」と聡理が喜色も露わに反応する。

「それは好都合です。我々が持っている情報もあるので、必要ならそれらの情報を提供します」

「ふむ、ガセネタじゃなきゃいいがな、で、何が聞きたい?」

 悟郎は事件の捜査の進展状況の説明を求めた。我妻は情報源について他言無用と断りながらもかなり詳しく説明をしてくれた。


≪竜也は夜の九時ごろにジョギングするのが習慣となっており、天候がよほど悪い時以外は毎日のように、港区白金台の自宅マンションを出て、フィンランド大使館、有栖川宮記念公園、フランス大使館などを廻って狸橋を渡り自宅マンションに戻るというコースを三十分ほどかけて走っていた。狸橋周辺は、夜間通行する車は稀で、行き交う人も少なく、事件当夜の有力な聞き込み情報は得られなかった。また、竜也の人間関係についての調査では、長瀬家の兄弟間で遺産相続を廻って深刻なトラブルが生じており、民事訴訟中であることが判明した。竜也の腹違いの兄の長瀬竜一郎と姉の高橋美鈴には、殺人動機があると見なされ、更に、長瀬彩乃も竜也が死ぬと莫大な遺産を相続することになるので、殺人動機があるとされた。しかし、これらの三人には明確なアリバイがあり、少なくとも直接手を下しての殺人を行っていないことが明らかであった。従って、嘱託殺人や通り魔的殺人の線、更には事故死の可能性についても捜査が進められていた。しかし最近になって、殺人及び事故の双方の捜査が思いのほか進展しないので、署内では、自殺説が急浮上している。自殺の根拠としては、竜也が軽度のうつ症状であったことが挙げられた。無論、自殺説に疑問を呈する捜査員もいて〈自殺しようとする者が、都心の、しかも高さ十メートルほどしかない狸橋から飛び降りるか?〉あるいは〈自殺するならもっとふさわしい場所がいくらでもあるだろう〉との見解を捜査会議で述べていた。自殺説が優勢を占めつつあるが、反論もあることから、近く心理学者など専門家の意見を聞いて是非を判断することになっている≫


「とまぁ、捜査の状況はこんなもんだ」

我妻は、長い説明を終えて、コップのビールを一息に飲み干した。

「詳しい説明ありがとうございました」

聡理が、深々と頭を下げる。

「それでは、今度は、そちらさんの情報を聞こうじゃないか」

悟郎は促されてこれまでの経緯と民事裁判の結果について話をした後で「今回の事件とは直接関係しないかもしれませんが、竜也の父親の死亡について不審な点はないか確認したので、参考までにお話しします」と、軽井沢警察の安西刑事から得た情報を説明した。


「安西刑事は、最後にこう言ったんです。〈しかしなんですな、遺産相続を巡ってトラブルが起きたってことになると、なにやら匂わんでもないですな〉って」

 聡理が、安西刑事の声色を真似て話すのがなんとも可笑しい。

「〈いや、なんでも疑ってしまうのが刑事の性ってやつでね。聞き捨てて下さい〉なんて言うものだから、かえって気になっていたんです」

 聡理は、それなりに必死に我妻に訴えているのだろうが、それにしても、安西刑事の言ったことを、一言一句よく覚えているものと悟郎は感心する。これに似たことは過去にも何回かあった。聡理は、ちょっと見は、不思議キャラのコスプレマニアのように見えるが、実は、東大卒で、在学中に司法試験に合格、英語も堪能という超秀才なのである。そう考えれば、記憶力抜群なのは至極当然なことに違いない。そんなことを考えながら、我妻がどういう反応をするかと窺い見ると、意外や真剣な表情で聡理の話を聞いている。

「ふむ、同じ刑事としてその気持ち分からんではないな」

「というと、我妻さんも何やら匂いますか?」

「父親が不慮の事故で無くなり、残された莫大な遺産を廻って遺族間でトラブルが起こった。そして、今回、係争者の一方の息子が突然死亡した・・・・」

「確かに匂いますねぇ」

悟郎は、自分の言ったことに頷いて、我妻にも同意を求める。聡理は、真剣な眼差しで悟郎と我妻の二人を見つめる。

「親父の事件と、息子の事件は関連付けて洗い直す必要があるかもしれんな」

「それって刑事の勘ってやつですか?」

「まぁ、そんなところだ。とりあえず軽井沢警察に連絡を入れてみる」

「是非、そうして下さい。いや今日は、ほんと有意義な情報交換でした。我々は、これで失礼しますが、我妻さんはゆっくりしていって下さい」

「うん?そりゃいいが、カレンちゃんに会わずに帰るのか? カレンちゃん会いたがっていたぞ」

「カレンちゃんって誰?」

聡理が関心を示す。カレンは悟郎に気のある、馴染みのホステスであった。

「えーっと・・・」

答えに窮している悟郎を尻目に、我妻が大声でホールスタッフにオーダーする。

「おーい、カレンちゃん呼んでくれ、それからビール」


 しばらくして露出度の高いドレスを着た若いホステスがやってきて嬌声をあげる。

「わーっ! 悟郎ちゃんじゃないの、久しぶり」

悟郎の隣に座ろうとして、悟郎の横で隠れるようにしている聡理に気付く。

「あれ、この地味な人、お連れさん?」

聡理は地味と形容されてムッとして、頬を膨らませる。

「あっ、うん、そうなんだ」

カレンは、強引に悟郎と聡理の間に割り込んで座る。

「もう、悟郎ちゃんたら、このところさっぱりなんだから」

カレンは、悟郎と我妻に馴れ馴れしくビールを注ぐと、聡理に向き合い「ビールでよろしいでしょうか? それともお好みの飲み物などございますか?」と馬鹿丁寧に聞いた。

 聡理は、慣れないアウェイということもあり、終始、カレンに圧倒され続けている。注がれるビールを、ムキになって飲み続ける聡理の様子を眺めて我妻は楽しんでいたが、悟郎は何とも居心地悪い。聡理に帰る旨を告げて、ほうほうの態でアビアントから撤退した。

 店を出ると聡理は、「この次にあの店に行くときは、コスプレしてカレンと対決する」と息巻いた。すっかり出来上がっていて、一人歩きも覚束ない。

〈おバカかなんだか、利巧なんだか分からんよ?〉

内心呟き、しなだれかかる聡理を抱きかかえるのであった。



第七章キャビンアテンダント


 上告審は、被告人死亡という事態を受けて、その開廷が大幅に遅れる見通しになったが、その裁判で勝つには、家政婦の大里を探し出し、証人に立てなければならない。悟郎と聡理は、家政婦の大里の行方を調べることに、一層の努力をすることにした。

 先ず大里が昔、働いていたという菱野温泉の廃業旅館を調べることにし、小諸市の観光協会に電話で照会を入れると、その旅館が高峰荘という名前であることを知ることが出来た。更に、菱野温泉の八幡館には、高峰荘の元従業員が現在も働いているとの情報も得た。そんな次第で、悟郎は聡理と八幡館に行くべく、三回目のドライブをすることになったのだった。

 綾野温泉は、軽井沢の北側に位置する小諸市の高峰高原付近にある温泉郷で、現在営業中の旅館は菱野館と八幡館の二軒だけであった。東京から車で行くときは、軽井沢同様に関越道から上信越道を利用する。小諸インターを出て八幡館までは、通常なら二十分足らずで到着する距離である。ところで、聡理はいつものように、コスプレ姿でシルバラードに乗り込んだのだが、「今回は、ビジネス向きのコスチュームだから」と言い訳して、途中のサービスエリアで弁護士ルックに着替えることをしなかった。今回はキャビンアテンダント風のコスチュームであったから、一応はビジネスウエアである。トナカイやゴスロリよりは、ずっとマシである。なので、悟郎も着替えることを強く求めなったのだ。

 季節は2月の厳寒期、ここ数日来の降雪で、旅館に向かう道路の周囲は一面の雪景色である。東京生まれ、東京育ちの悟郎は、雪道の運転にはまるで慣れていない。標高千メートルのところにある旅館までの道路は除雪してあるが、日陰部分はアイスバーンになっているので、そんなところは徐行して進まなければならない。装着したタイヤチェーンを気にしつつ慎重に運転しながら、〈こんなことなら、新幹線とタクシーを使って来ればよかった〉と心中ボヤクことしきりの悟郎であった。そんな悟郎の思いを知ってか知らずか、聡理は窓の外に広がる雪景色に見入ってご満悦の態である。

 到着した旅館は、近年改築されたのだろう、和洋折衷の白い外壁の建物で、イメージしていた鄙びた温泉宿とういう風ではなかった。聡理は、用意してきた暖かそうな淡いピンクのファーコートを着て車から降り立ち、雪道をハイヒールで旅館の玄関に行こうとする。おっかなびっくり、今にも転びそうである。見かねた悟郎が歩み寄ると聡理は、悟郎の腕に縋りつき何とか旅館の玄関に辿り着いた。

 フロントで来意を告げると、ロビーの奥まった一角に案内された。聡理はコートを脱いで、ソファーに座ったが、キャビンアテンダントお決まりのスカーフを首に巻いたその姿は、山奥の温泉宿ではやはり浮いている。ロビーには団体客が居て、大勢の眼が聡理に注がれているような気がして、悟郎は何か落ち着かない気分であった。と間もなく背広姿の中年の男性がやってきて、「当館の専務取締役の尾形です」と自己紹介した。悟郎と聡理もそれぞれ、名刺を差し出して挨拶と自己紹介をする。尾形は聡理のコスチュームと渡された名刺に目を何回か往復させていたが、「まっ、どうぞお座り下さい」と着席するよう勧めた。

「車でいらっしゃったそうですね。雪道大変だったでしょう」

「ええ、慣れていないもんで、タイヤチェーンを装着するだけでも一苦労でした」

「この辺りは、例年ですとそれほど雪は積もりません。ですが、ここ数日、続けて降ったもんで、お客様のキャンセルが入るは、除雪しなけりゃならんわで大迷惑です」

「でも雪景色素敵です」

聡理はそう言って窓の外に広がる風景に目を向けた。

「すべてのお客様が、この雪を喜んでいただければいいんですが・・・えーっと、ところで人をお探しでしたね」

「えぇ、以前、この付近に高峰荘という旅館があったそうですが、その旅館に仲居として働いていた大里という者についてどなたかご存知ではないかと思いまして」

「あぁそれでしたら、うちの仲居頭の中畑が知っているかもしれません。昔、高峰荘で働いていましたから」

「そうですか、その中畑さんとお会いすることは出来るでしょうか?」

「えぇ、すぐにここに呼びましょう」

尾形は気安く請け負うと、立ち上がり、フロントに指示して中畑にここに来るよう伝えた。

やがて、年配の着物姿の女性がやってきた。互いに簡単な自己紹介が済むと、中畑は尾形の隣に座った。待ち兼ねたように悟郎が早速質問する。

「大里サチさんのことご存知でしょうか?」

「はい、知っています。以前、一緒に高峰荘で仲居として働いていましたから」

「実は裁判の証人になって貰おうと思いまして、行方を捜しているのですが、何かご存知ではないでしょうか?」

「大里さんなら軽井沢のお金持ちの別荘で家政婦をしているはずですよ。そちらはもうお調べになったのですか?」

「はい、確かに軽井沢の別荘で六年ほど働いていましたが、そこは二年前に辞めています。その後の足取りがさっぱり掴めないのです。まったく身寄りがいないので、調べようがなくて困っています」

「私も大里さんから、身内のことや知り合いの人のことなど何も聞いていないんですよ、一体、どこへ行ったんでしょうね、私にも見当がつきません」

それまで、会話に参加せず聞き役に回っていた聡理であったが、何か思いついたように口を挟んだ。

「あのう、大里さんが昔世話になった人が横浜にいるようなんですが、何かご存じありませんか?」

そういえば家政婦紹介所の坂口がそんなことを言っていたことを悟郎も思い出す。

「あぁ、横浜なら高峰荘の元女将のところかもしれないわ。横浜の中華街の近くで、小料理屋やっているから」

「現在もその小料理屋やっているでしょうか?」

「やってると思うわ。毎年、年賀状の交換をしているけど、商売止めたなんてどこにも書かれていないから今も続けているに違いないわ」

「年賀状交換しているなら住所分かりますよね」

「ええ、勿論、自分の部屋から住所録もってきます。少しお待ち下さいね」

 

 数分後に戻ってきた中畑から、元女将の横浜の住所と店の名前を教えて貰いそれで用は済んだのだが、温泉旅館にきて湯に入らず帰るのは勿体ない。尾形に日帰り入浴が出来るか尋ねると、OKだというので、湯に浸ってから帰ることにした。早太郎温泉郷の旅館で、温泉をすっかり気に入った聡理にとっても異存のないところであった。



第八章カンフー女拳士


 悟郎の本来の仕事であるヘッドハンターの案件が立て込んだ関係で、横浜に向かったのは3月の上旬であった。赤いチャイナドレス姿の聡理を乗せて、教えられた横浜の中華街近くの小料理屋に向かったのだが、聡理のコスプレ・フリークには、もう慣れっこになっている。それに今回は、横浜中華街近くに行くということで、チャイナドレス姿でやってくるに違いないと読んでいたので、聡理の姿に驚きはなかった。しかし格闘ゲームの登場人物であるカンフー女拳士のコスプレだそうで、通常のチャイナドレス以上に深いスリットが両側にある。助手席に座った聡理の太ももが気になる悟郎であった。


 開店する一時間前の四時ごろにその小料理屋に到着したが、店は閉じられて誰もいない様子である。仕方がないので、コインパークに車を入れて開店するまでの間、中華街をぶらついて時間潰しをすることにした。中華街は平日というのに、観光客が大勢いて街は祭りのような賑わいである。薄手のロングコートを着た聡理は、先ほどからスマホをなにやら操作している。どうやら中華街グルメ情報の入手をしているようだった。

「おいしそうなものが、たくさんあって迷います」

町中の至る所に、中華まんじゅうなどを店頭で売る店があり、聡理は何を食べるか迷っているのだ。

「私、この馬拉糕(マーラーカオ)っていうの食べてみたいです」

悟郎としても小腹が空いているので、幾ばくかの食べ物を口にするのは吝かではないのだが、〈馬拉糕??〉と心中疑問符を浮かべる。

「中華風蒸しカステラのようです。おいしそう! この先の店で、蒸したてを食べられるみたいです」

聡理は、どんどん先に歩いて行く。

「あー、ここです。行列が出来ているけど私たちも並びましょう、時間はたっぷりあるし」

 それほど、時間に余裕はないのだが、このぐらいの行列ならと思い「まっ、いいか」と悟郎が呟くと「それじゃ早く並びましょう」と悟郎の腕を引っ張って列の後ろに並んだ。腕を組んで列に並んだのだが、ごく自然な流れであったために、悟郎もそのままにしていた。傍から見れば仲睦まじいカップルに見えたことであろう。

 蒸したて、熱々の馬拉糕はとても美味しかったが、順番が来るまで、予想以上に時間がかかってしまい目当ての小料理屋に戻ったのは六時近くになっていた。


 おでんの匂いが漂うその小料理屋は、カウンターだけのこじんまりした店で、七,八人も入れば一杯になってしまいそうであった。カウンターの中に、今時珍しい白い割烹着姿の七十歳前後の女性がいて、どうやら女将らしい。一番奥のカウンター席に常連らしき客が一人座っている。入ってきた悟郎たちを、女将は「いらっしゃい」と、愛想があるとは思えぬ口調で迎えた。コートを脱いで壁のハンガーにかけて、入り口近くのカウンター席に座る。聡理のチャイナドレス姿を見ても見慣れているのか、気にする様子はなく、女将は無言でおしぼりを差し出す。一見いちげんさんは歓迎しないというような雰囲気があり、悟郎はこんな店は苦手である。とりあえずビールを注文すると、聡理に本題を切り出すよう、肘でわき腹を突かれた。


「実は私たち、菱野温泉で仲居頭をなさってる中畑さんに話を伺ってやってまいりました」

「あっそう、中畑にね、彼女元気にしてたかい?」

「えぇ、元気そうでした。女将さんによろしく伝えてくれとのことでした」

「そうかい、そりゃよかった。ところで何か用があってきたんだろ?」

「ええ、私、弁護士をしている三沢と申しますが、大里サチさんについて教えていただこうと思いまして」

聡理は、中華風のビーズのポーチから名刺を取り出して女将に手渡す。

「へぇあんたそんななりして弁護士なの?」

「えぇ、今日は訳あってこんな格好していますけど、本物の弁護士です」

「うん、まぁそんなことはどうでもいいけど、何故大里のことを知りたいんだい?」

「私、民事訴訟事件の弁護人をしていまして、裁判の証人になって貰おうと思って大里さんのことずっと探しているんです。でも行方がさっぱり分からなくて」

「うちの旅館が廃業になって、大里は軽井沢で家政婦をしていたんだけど、知ってるわよね」

「えぇ、知っています。家政婦を辞めた後の消息が掴めなくて困っているんです。何かご存知ではないでしょうか?」

「軽井沢の別荘の家政婦を辞めたときに、一度だけ電話があったわ。これからどうするつもりって聞いたら、身寄りがないので、有料老人ホームにでも入ってのんびり暮らす積もりだって言うのよ、結構なご身分よね。私なんかこの年でまだ働いているんだからね」

それまで黙って二人のやりとりを聞いていた悟郎が口を挟む。

「民間の老人ホームに入るとなると、入居金やらなにやら、そこそこ金がかかりますよね」

「そうでしょ、そこんとこ気になったからズバリ聞いたのよ。お金の方は大丈夫なのって」

「えぇ」

「長い間蓄えた貯金と、家政婦を辞めた時に、思いがけず多額の退職慰労金を貰ったのでそれは心配ないって答えだったわ」

「思いがけず多額の退職慰労金ですか、どの位貰ったんでしょうね?」

「いくらあたしだって、そこまでは聞けないわよ。でも、あの話しぶりだとかなりの額を貰ったんじゃないかしらね。別荘の主というのは、大企業のお偉いさんだったんでしょう。亡くなるまで、親身になって世話をしたので多額の慰労金をくれたんだろうって大里は言ってたわ」

「そうですか、ところで、どこの老人ホームに入居するか言わなかったのでしょうか?」

「それは言わなかったわね。郷里は秋田だけど、親兄弟はもちろん親しい親戚は誰もいないはずだし、結婚して長く暮らしていた宇都宮は、嫌な思い出ばかりで二度と行きたくないようなことだったからねぇ。結局は長野県のどこかの老人ホームに入るつもりだったんじゃないかね、老人ホームが見つかるまで、軽井沢のアパートで仮住まいだって言ってたから」

 その時、客が立て続けに入ってきた。常連の客らしく、女将は愛想よく迎える。悟郎と聡理はそれを機に、これ以上の情報は得られないと判断し礼を言って店を出た。


 中華街に来たからには、中華料理を食べずに帰るなんてあり得ないという聡理の申出により、聡理が推薦する粥が美味いと評判の店に向かうことにした。その道すがら「これだけ調べても、大里サチの行方が、分からないということはひょっとすると・・・」と言いかけて、聡理は言葉を飲み込んだ。「この世にはもういない」と悟郎が、聡理の思いを口にする。二人は、胸中に抱いた疑惑について思いを巡らし、しばらく何も言わずに歩き続けた。

 目当ての中華料理店に着くと聡理は、数点の点心それに中華粥をオーダーした。やがて運ばれてきた点心を前にして聡理が先ず口を開いた。

「大里さんは、家政婦として長瀬家の内情を知り尽くしていた」

悟郎も歩きながら考えていたことを口にする。

「多額の退職慰労金というのも、なんか口止め料のようで気になるな」

「大里さんは、原告側の証人になられては最も困る存在」

「行方不明になっても不審に思う身内や親せきが誰もいない」

二人は互いの眼を見つめ頷き合う。

「我妻さんに相談してみよう」

「えぇ、軽井沢署の安西刑事にも」


 中華粥は評判通り美味しく、ヘルシーでもあるので悟郎は気に入った。聡理は点心と中華粥では足らないと言い、デザートに中華風エッグタルトを食べてやっと満足したようであった。

 いつものようにシルバラードで、聡理を神楽坂の自宅近くまで送ったのだが、助手席のチャイナドレス姿の聡理がいつになく色っぽく感じられて、悟郎は自分自身の心の動きに動揺していた。聡理のことを女性として意識しているのだろうか? それとも、スリットから覗けた太ももに性的興奮を覚えただけなのか? 

 赤城神社の近くの路上に車を止める。聡理はコートを抱えドアを開け降りかけたが、振り向くと悟郎にキスをして「今日はありがとう」と言い降り立った。軽いキスであったから、帰国子女の聡理にとっては挨拶代わりかもしれない。しかし純粋日本男子の悟郎にとっては衝撃的な出来事であった。


第九章セクシーメイド


 大里はアパートに転居したとすれば、不動産屋を介したに違いないとの読みから、軽井沢市内の不動産屋に片っ端から電話して、大里サチらしき人に心当たりはないか聞き取り調査をしたが、有力な情報は得られなかった。そのような結果も踏まえて、大里は殺されたのではないかという疑惑を我妻と安西に話して、警察による捜査を要請したのだが、両刑事ともにそれは憶測に過ぎないとして直ちに捜査に着手するのは困難との見解であった。やはり警察に動いて貰うためには、大里殺害に関する何らかの傍証がなければならならないようだ。行き詰まった事態を打開するために悟郎と聡理は話し合うことにし、今、二人は神楽坂のカフェで向き合っている。悟郎としては、この前の別れ際のキスが気になるところであったが、十代の男の子ではあるまいし、それぐらいのことでオタオタしていられないと自分に言い聞かせ、大人の男らしくさりげない風を装っている。

 神楽坂の赤城神社や毘沙門天の境内の桜は今を盛りと咲いており、街は華やいでいたが、二人が話している内容は殺人についてであって春風駘蕩とは程遠い。


「大里は殺されたとの前提で話を進めるよ。先ずは大里を殺したのは誰かということだけど」と悟郎が聡理に話を振る。

「殺人動機があるのは長瀬竜也とその妻の彩乃」と答える聡理は、自宅の近くということもあるのか、細身のジーンズに白いセーター、その上にグレーのパーカーという至ってカジュアルな恰好である。いつもお団子に丸めている髪も今日は自然な髪形にしている。普通の女子の服装をしている聡理を見るのはこれが初めてであることに悟郎は気付き、とても新鮮に思えるのだった。そんなことに注意がとられて「うーん、彩乃さんもか」と不用意につい言ってしまった。

「あら、ご不満ですか?」

聡理は皮肉っぽく言う。

「いや、不満なんてないよ」

「そう?それならいいけど」

悟郎は聡理の追及を避けるべく急いで話題を変える。

「えーっと、次は大里が殺された時期だけど、大里が挨拶の為、サカグチ家政婦紹介所を訪ねた後ということになるね」

「そうね、家政婦紹介所を訪ねた後に、消息がぱったり途絶えている」

「それじゃ、どこで殺されたかだけど、やはり軽井沢周辺か」

「えぇ、弁護士の職権で大里さんの住民票を確認したんだけど転居届を出していないわ。大里さんは老人ホームが見つかるまで、軽井沢市内のアパートに仮住まいする積もりのようだったし、軽井沢に留まっていたはずよ」

「となると殺害場所として可能性が高いのは矢張りあの別荘・・・あぁ、そう言えば、あの別荘を調べた時、何か気づいたことない?」

「うーん、特にないけど」

「車寄せの先にカーポートがあっただろう。あそこだけ何か違和感があって、引っかかっていたんだ」

「そういえば、重厚な山荘風の別荘には、不釣り合いのチープな感じのカーポートだった」

「見栄えや体裁など度外視して、突貫工事で拵えたんじゃないかな」

「つまり、ということは、大里さんは殺されてその遺体は・・・」

二人は見つめ合い、大きく頷く。

「軽井沢にもう一度行こう。あのカーポートについて調べなきゃ」

「わかった。行きましょう」


 かくなる次第で悟郎と聡理は、再度軽井沢に向かうことになった。聡理は今回も、コスプレの定番と言うべきメイド風の装いでピックアップに乗り込んできた。コスプレ用のメイド服だけあって、中々セクシーである。当初、聡理のコスプレを迷惑に感じていた悟郎であったが、最近はそのコスプレ姿に、男心をくすぐられる自覚があった。これがいわゆる「萌え~」ってやつかなどと自身の心の変化に戸惑いながら「まっ、いいか」と小さく呟いて、悟郎はシルバラードをスタートさせた。

 

 今回も前回同様、横川のサービスエリアで釜めしを食べ、そこで聡理は弁護士ルックに着替えて軽井沢に到着した。それから二人は、上の原別荘地の管理事務所を訪ねて、ガレージなど外回りの工事をする業者について聞き取りし、それが関口エクステリアという業者であることを突き止めた。更にその業者のもとに行き、長瀬家から、従来あったガレージの取り壊しと、その跡地に、五、六台の駐車が可能なカーポートを作るオーダーを受けたとの情報を得ることができた。


「兎に角、大至急、工事して欲しいというんですよ。カーポートの屋根は既製品の安物でも構わないというので、不本意ながらやりましたがね。やっぱり、あの重厚な山荘風の別荘には不似合いです。あなた方が、あのカーポートを見て、違和感を覚えたのは尤もです」

受注業者の社長である関口は、面目なさそうに悟郎と聡理に頷いてみせた。

「参ったのは、工事を急がされるだけでなくてね。あの別荘の旦那、えーっと、自殺だかなんだか知れないけど、川に嵌まって死んでしまった・・・」

「長瀬竜也ですか?」

名前を思い出せないでいる関口に悟郎が助け舟を出す。

「あっ、そうそう、その竜也って旦那がね。現場に付ききりで、あれこれと指図するので往生したんだ」

「ほお、どんな指図をしてきたのですか?」

「大至急と言ってるくせに、土台の下の地面を二メートルほど掘下げて、砂利とコンクリートで確り固めろなんてね。無茶苦茶だよ。戦車を駐車させる訳でもなかろうにって、職人仲間のみんなあきれたもんです」

「成るほど、それは面倒でしたね」

悟郎は言葉を区切り、咳払いをして本題に踏み込んだ。

「ところで私たちはあのカーポートの下に死体が埋められているんじゃないかと思っているんです」

「えーっ、まさか!だって、あそこを掘り返すなんて大変だよ。大型の重機使ってコンクリートぶち壊さなきゃならないからね」

「いやそうじゃなくって、カーポートの工事中、地面を掘下げたときに埋めたのではと見当をつけているのですが、何か思い当たることはないでしょうか?」

「あー、そういうことか。うん、そう言えば・・・」

そこで関口は話しを中断し、目を閉じて何やら考え込む風であったが、しばらくして目を開け、続きを話し出した。

「地面を指図通り、二メートルまで掘り下げた日だったなぁ。夕方だったけど、まだ日が明るいので仕事を続けていたんだ。すると工事の様子を見ていた旦那が、近所から騒音の苦情が来ているので、夕刻以降の工事はしなくていいって言うんだよ。他の工事を断って無理しているこちらの事情なんかお構いなし。いささか不貞腐れて、工事を終いにして帰ったんだよ」

「えぇ、それで」

悟郎が先を促す。

「翌朝、現場に来て掘下げられた地面を点検したんだけど、何やら掘り返されたような跡があったんで首を傾げているとね、あの旦那がやってきて、早く工事を進めろって大声で喚くんだよ。仕方ないやね。職人たちに指示して砂利を敷き詰めてコンクリート流し込んだんだよ」

「ありがとうございます。今の話しで事件解決への筋道が見えてきました」

この情報を我妻や安西に伝えれば、警察も家宅捜索など強制捜査に踏み切るだろう。

「今、私たちに話していただいたこと、警察にも話していただけますか?」

聡理が、身を大きく乗り出して警察への情報提供の協力を求める。間近に迫る聡理の迫力に、たじろいだ関口は「そりゃ、構わないけど」とのけ反りながら答えていた。

聡理は、不思議キャラ、おバカキャラのように見えるが、肝心なところでは抜け目ない。仕事上のバディとしては頼もしい。



第十章ハロウィン


 悟郎は東京に帰ると早速、今回の軽井沢行きで得た情報を我妻に伝え、長瀬家の別荘の家宅捜索を要請した。我妻は安西刑事の協力のもと、カーポート施工業者である関口から得た情報等を分析し、強制捜査可能と判断した。所定の手続きの後、大型重機を投入して、別荘のカーポートの下を掘り返すと、果たして大里サチの遺体が現れた。

 警察は当初、遺体遺棄事件として捜査を開始したが、大里は殺害された可能性が極めて大きい判断され、捜査本部が軽井沢警察署に設置された。また、長瀬竜也溺死事件との関連性から、六本木の捜査本部と密接に連携して捜査をするとの方針も決まった。

 長瀬竜也が、大里サチの殺害及び遺体遺棄の容疑者に挙げられたのは当然の成り行きであった。しかし、その後の捜査は思の他難航した。安西を始めとする地元警察の刑事が聞き込みを行い、大里サチの死亡推定日に竜也が運転する車に、サチが乗っていたことなどが判明したものの、竜也を犯人と断定する決定的な証拠を見つけられないでいた。

 一方、六本木警察の捜査本部でも、我妻の懸命の努力にも拘わらず、他殺事件としての捜査は遅々として進まなかった。他殺説に反して自殺説は、竜也が大里サチ事件の容疑者になったことから、従前に増して勢いを得ていた。その根拠は、竜也が大里を殺したとするなら、遺産トラブルに加え、殺人という大きなストレスを抱え込んだに相違なく、精神を病んでいた竜也が自殺することは充分考えられるというものであった。他殺説に拘る我妻にとっては不本意ではあったが、当面は、軽井沢警察における大里サチの事件解明を待つ他なく、手持無沙汰な日々が続いていた。


 長瀬家の別荘への家宅捜査をした翌月の十月、六本木ヒルズ内にある外資系ホテルで、殺人事件が発生した。我妻は長瀬竜也溺死事件の専任であり、正式な捜査要員に加えなれなかったが、余力があると看做されて、応援に駆り出され現場に向かった。

 殺害現場は、十八階のツインベッド、スタンダードタイプの客室であった。すでに先行した刑事や検視官が一通り現場検証を済ませており、鑑識が指紋採集や写真撮影などの作業をしている最中であった。白手袋をし、部屋の入口に立つ制服警察に敬礼して室内に入り込む。部屋の内部は特に乱れた個所はなく、中央の床に被害者が血を大量に流してうつ伏せに倒れていた。絨毯には、どす黒い血痕が広がっており、鑑識が写真撮影するために、ナンバープレートをいくつも床に置いている。我妻はそれらのプレートを踏みつけぬよう回り込んで、死体の頭部近くに屈みこんだ。


「ナベさん、致命傷はこの首の傷かい?」

鑑識主任の渡辺とは、ツーカーの仲である。

「あぁ、鋭利な刃物で首を掻き切られている」

「頸動脈切断か、大量の血が噴き出るわけだ」

「そうだけど、腹部や胸部も無数に刺されていて、そこからも大量の血が流れ出しているんだ」

「ふーむ、執拗に刺されたんだな、とすると怨恨か?」

「財布などは盗まれていないので、物取りの犯行の線は薄いそうだ」

我妻は頭を低く下げて、被害者の顔を覗き込む。被害者は、側頭部を床に着けているので顔面の凡そは確認できる。

「ほー、相当な悪党面だな」

「アガちゃん、ホトケに向かってそれはないよ」

「ご尤も、俺の失言だ。ところで、身元は分かったのかい?」

「運転免許証があったらしいから、分かるんじゃないの。署に帰って聞いてみたら」

「あぁ、そうする。仕事の邪魔したな。署に帰るわ」

 ホテルを後にした我妻は、帰りの車中で、この事件の正式な捜査要員に加えてくれるよう署長に頼み込もうと決意していた。凄惨な殺人現場を見て、刑事の血が騒いだのだ。

 

 この事件は、その後、意外な展開を見せる。被害者は仁藤秀栄。仁藤は長瀬家の遺産トラブル訴訟における証人で、竜也とは昵懇の間柄の経営コンサルタントであることが分かったのだ。殺された仁藤秀栄も、殺害され埋められたと思われる大里サチも、長瀬竜也の関係者であり、長瀬竜也溺死が他殺である可能性が俄然高まった。こうした情勢から、これらの三事件は広域連続殺人事件に指定され、警視庁捜査一課の管理官を本部長とする合同捜査本部が六本木警察署に設置されることになった。そして我妻は、これまでの成り行きで、その捜査主任に任命されたのである。

 合同捜査本が設置されて間もなく、悟郎は我妻の要請を受けて、六本木警察署の合同捜査本部にやってきた。外資系高級ホテルの防犯カメラに写っている人物の中に、顔見知りがいないか点検してくれという要請であった。


「いやー、忙しいところ済まんな」

何時になく我妻は、愛想が良い。

「全くですよ、こんな忙しい時に、こちらはエライ迷惑です」

悟郎は、我妻に対して遠慮ない。

「まぁ、そう言うなよ。長い付き合いじゃないか」

「なんで私が防犯ビデオ見なきゃならないんですか?仁藤に親しい者は他にいるでしょう」

「仁藤に関係する者には、もう大方このビデオを見て貰っている。しかし、不審人物は見つからないんでな、長瀬家の相続トラブル関係者が写ってやしないかと思ってあんたに見て貰うことにしたんだよ」

「はぁー、そういうことですか。あまり期待しないけど念の為ってやつですね」

悟郎はむくれる。

「そんなことはない。あの彩乃って奥さんが写ってるかも知れんじゃないか」

我妻に指摘されて、ギョッとする。警察は仁藤殺しの容疑者の一人として彩乃をマークしているらしい。

「分かりました。協力しますから、何をすればいいか言って下さい」

「電話でも伝えたように、パソコン画面で、防犯ビデオを見て欲しいんだ」

我妻は机の上のデスクトップ型のパソコンを指さす。

「はぁ、なるほど」

悟郎はパソコン前の椅子に座り、画面を眺める。

「ちょっと時間かかるかもしれんが、最後まで頼むよ。それから、パソコンの操作は分からないので、係の者に任せるので、よろしくな」

我妻はそういうと、悟郎の返事を待たずに部屋を出て行ってしまった。代わって入ってきたのは、制服姿の若い婦人警官だった。背格好が聡理と同じ位だったので、コスプレした聡理がやってきたのかと一瞬思ったが、よく見れば、きつそうな感じの全くの別人であった。

 大久保と名乗った婦人警官のテキパキとした指示に従い、悟郎は録画ビデオを見始めた。しばらく見続けたが、どういうわけか映っている人物の大多数が仮装している。場所はロビーやエレベーターのエントランスなどホテルの施設内なので、被写体がホテルの宿泊客であることは間違いない。仮装をしていない人も中にはいるが、ほとんどがベルボーイなどのホテル従業員であった。

「なんでみんな、仮装しているんですか。これじゃ誰が誰だか分からないよ」

悟郎の後ろに立ち、腕組みして画面を一緒に眺めていた大久保が頷く。

「そうですよね。分かりませんよね。実はこの日、ハロウィンだったんです」

「マジか!えーっ、ハロウィンは渋谷で若者が仮装して騒ぐもんじゃないの?」

大久保は宥めるように、悟郎の肩をポンポン叩き答える。

「それがねぇ、数年前から所轄内の六本木ヒルズでもハロウィンのイベントをやるようになってね。周辺のホテルが宿泊客に、仮装に関する様々なサービスを提供するようになったのよ」

「あぁそう言えば、ヒルズのハロウィン、テレビのニュースで観たことがある気がする」

「ご理解いただきありがとう」

「まぁ、それは理解したけど、仮装した人を見続けても仕方ないんじゃない?素顔が分からないのだから」

大久保は、悟郎の前に回り込み、じっと悟郎の眼を見つめる。

「あなたがそう言うに違いないけど、最後まで見させるようにって我妻主任から厳命されているの。上司の命令だし、公務を最後まで確りやり遂げなけなければなりません。これもご理解いただけますよね」

強引に申し渡されて、ご理解するしかない悟郎であった。


 一時間ほども画面を見続けただろうか、眼がショボショボしてきた頃、一人の仮装していない人物がいて注意を引いた。それはノーネクタイ、ジャケット姿の男で、混み合うロビーを急ぎ足で歩いており。ふと見上げた顔になにやら見覚えがあった。

「そこ止めて下さい」

近くの椅子に座りウトウトしていた大久保がビクッと肩を震わせて頭を上げる。

「はいはい、どこですか」

そばに寄ってきた大久保が、パソコンのマウスを握る。

「ちょっと巻き戻してくれませんか・・・あっ、そこです」

男が防犯カメラの方を見上げた場面で画像はストップした。

「この画面のズーム、できますか?」

「はい、よいしょっと。こんなもんでいいですかね」

大久保が、マウスを操作してズームアップした画面を悟郎は凝視する。

「この男、知り合いですか」

考え込み、黙り込んだ悟郎の返答を急かすように大久保が問いかける。

「えぇ、画面が不鮮明なので、よくは分からないけど、知り合いの人物に似ているような気がするんです」

悟郎の答えを聞いて、大久保は喜色を露わにして立ち上がる。ダメ元で始めた作業がヒットしたので嬉しかったのだろう。

「ホントですか。それじゃ我妻主任を呼んできます。すみませんが続きを見ながらお待ち下さい」

大久保が部屋から出ると、悟郎は、眼精疲労気味の眼を手で擦り、再び静止画面を食い入るように眺めた。クローズアップされているのは、沢柳雅彦によく似た男の顔であった。

「なぜ沢柳が?」

思わず呟き、首を振る。悟郎は、冷静になれと自分に言い聞かす。まだ沢柳と決まったわけではないのだ。混乱する心の中のどこかでは、画像が彩乃のものでなくて良かったという思いもある。訳が分からなくなり、悟郎は椅子から立ち上がると、檻の中の熊のように歩き回った。


 それから数日後、悟郎が防犯カメラの動画記録から見出した人物は、沢柳雅彦であると断定された。科学警察研究所の専門官が、ビデオ画面と沢柳の顔写真を比較検討するなどして沢柳に間違いないと太鼓判を押したのだ。その知らせを我妻から内々に受けた悟郎は、早速、聡理と史郎にその旨を伝えた。聡理と史郎も驚き、三人であれこれ話し合ったのだが、当面は、沢柳に対する捜査の行方を見守るしかないとの結論に達した。

 その後の捜査の様子が、順次、我妻から伝えられた。記者会見などを通じ、マスコミにも情報が公開されたのだが、その内容とは次のようなものであった。


≪合同捜査本部は、沢柳から事情聴取するべく飯田市の自宅や、勤務先のタクシー会社、その他の立ち寄りそうな先に捜査員を向かわせた。しかし、いずれも不在であった為、令状を取り、自宅などの関係先を家宅捜査した。自宅から採集した指紋と、殺害現場に残された指紋を照合した結果、双方の指紋が一致した。沢柳と仁藤は、二人共に長瀬竜也と密接な関係があり、互いに面識がある間柄であることなどが判明した。殺害動機は分からないものの、ビデオの画像と指紋一致という二つの決定的な物証があり、沢柳を仁藤殺害の容疑者として、全国に指名手配するに至った≫


 これらの警察情報を得て、マスコミ各社は、容疑者の沢柳と被害者の仁藤の過去を調べて報道した。沢柳が長瀬家の会長付き運転手であったこと。仁藤は経営コンサルタントと称しているが、元暴走族のホストあがりで、暴力団との関係も噂される人物であることなどが、テレビのワイドニュースや週刊誌の特集で報道された。また竜也の妻の彩乃も、美人妻としてマスコミの注目を集め、元銀座の高級クラブのホステスであった過去の経歴が報道されたのである。そこにはホステス時代の彩乃と、ホスト時代の仁藤が親密な中であったことを匂わす報道も混じっていた。



第十一章  ルブタン


 長瀬家の遺産相続を巡る民事訴訟の上告審は、彩乃を被告に変えて行なわれる予定であったが、関係者が次々に死亡するという異常事態を受け、その開催が更に遅れていた。原告の長瀬竜一郎と高橋美鈴は、竜也は、大里を殺した疑いが持たれていることや、第一審で、裏切り的な証言をした沢柳も殺人犯として指名手配された情勢に鑑み、自分たちが圧倒的に有利になったと確信しているようだった。しかし聡理は、上告審勝訴のためには、被告の竜也が、彩乃、仁藤、沢柳等と共謀、あるいはそれらを使嗾して、違法な遺言証書を作成したという証拠を示す必要があるとの見解であった。史郎も全く同様の見解で、弁護士二人が口を揃えて原告側に説明した結果、勝訴するのは簡単なことではないことを竜一郎も美鈴も納得したのであった。

 原告二人の理解も得たので改めて、史郎、聡理それに悟郎を交えた三人で今後の方針を検討した。沢柳が逮捕されたら、民事裁判に関する有利な供述が得られる筈なので、それが強力な証拠となると史郎は指摘した。悟郎も聡理のその指摘に同意したが、沢柳が逮捕されるまで何もしないで待ち続けるのはどうかということになり、銀座の高級クラブのホステス時代の彩乃と、同じ頃、銀座でホストをしていた仁藤がどのような関係であったかを調査することになった。彩乃と仁藤が、マスコミの報道するような間柄であったら、竜也、彩乃、仁藤の三人は、奇妙な関係で結ばれていることになり、共謀して違法な遺言証書を作成した可能性が高くなると考えたからである。

 

 悟郎は夜の銀座八丁目の街角に立ち、聡理がやってくるのを待っていた。銀座のクラブに関することなら、アビアントの由香里ママに聞くのが一番と思ったからだ。

 十一月に入り夜間はかなり冷え込む。コートのポケットに手を突っ込み、電飾看板が華やかな夜のクラブ街を先ほどからぼんやり眺めている。こんな時、無性にタバコを吸いたくなるが、昨今の街中は何処も路上禁煙なので我慢するしかない。タクシーが時折やってきて、クラブのママらしい和服姿の女性や、ホステス風の女性を降ろして走り去って行く。聡理もタクシーで来るとのことだったので、タクシーが停車するたびに注意を払っていたが、まだやって来ない。腕時計を見ると約束の時間五分前であった。その時、一台のタクシーが数メートル先に止まり、丈の長いトレンチコートを着た女性が降り立ち、近づいて来た。その女性の顔は、逆光のため判然としないが、聡理に違いないと思い、悟郎もその女性に歩み寄った。しかし近づいた女性は、かなり背が高い。百七十八センチある悟郎と同じ位かもしれない。

〈人違いか〉

と思ったその時、声がかかった。

「お待たせしました」

矢張り聡理であった。美容院でセットしたのだろう、髪をアップにし、濃い目の大人メイクをしている。

「背丈が高いので、一瞬別人かと思った」

「今日は気張って、ルブタンの十五センチのピンヒール履いてきたんです」

トレンチコートの裾をあげて、真っ赤なハイヒールを悟郎に見せる。

「へぇ、そりゃすごいや」

答えたものの、ルブタンが何なのか分かっていない。

「アビアントは、どのビルかしら。すぐ近くなんでしょう?」

ピンヒールを履きなれていないのだろう、聡理の歩行は覚束ない。

「うん、その目の前のビルの八階さ」

悟郎は聡理のをエスコートして、目指すビルのエントランスに進んだ。


「いらっしゃい、お待ちしていました」

クラブのママの由香里が、笑顔で悟郎を店に迎え入れる。

「無理なお願いをして、申し訳ありません」

悟郎は面目なさげに頭に手をやってママに挨拶する。

「そんな他人行儀はなしにして下さいな。それより、早く、中にお入りになって」

悟郎は、扉の後ろに立っている聡理に声をかけ、一緒に店の中に入る。

「あら、今度も女の方とご一緒?」

すらりとした高身長の女性が入ってきたので由香里ママは悟郎に聞く。裾丈の長いトレンチコートを着た女性が、聡理だとまだ気が付いていないようである。

「以前、こちらにお邪魔した時は酔ってしまい、醜態をお見せしました。大変失礼しました」

聡理がコートを脱ぎ、黒いイブニング姿になったところで挨拶する。

「えっ!ちょっと待って、あなた、あの時の弁護士さん?」

さすが銀座のママだけあって、観察眼が鋭い。聡理であることをすぐに見抜いた。

 ママに案内されて、奥のボックス席に向かう。聡理が着ている黒いドレスは、Vネックで、深く胸元が抉られているが、長袖でありエレガントなものだった。しかし後ろ姿を見て悟郎はギョッとする。背中が大きく空いていたからだ。そのうえロングスカートの片側に大きなスリットが入っていて、歩く度にピンヒールを履いた白い脚が見え隠れする。

「そのドレス、とってもお似合いよ」

二人を席に案内し、自分も席に着くと、ママが本気顔で言う。

「有難うございます。銀座の高級クラブに相応しい格好と考えて、イブニングドレスにしました」

高級クラブと言われて気を良くしたのだろう、ママは上機嫌である。

「こんなに綺麗でセクシーなら、うちの店で働いて貰いたいぐらいだわ」

その時、フロアスタッフがウイスキーや氷などを持ってきてテーブルに置く。ママは話すのを中断して、水割りを作り始める。

「あのう、早速なんですが、仁藤と彩乃さんのこと、お願いできますか?」

「はい、はい、分かっていますよ。単刀直入は何時ものことですからね」

ママはウイスキーの水割りを二人に差し出すと、これは銀座の親しい信頼の置けるママ仲間から聞いた話なので、それなりに信ぴょう性があると思うと前置きして話し始めた。


≪子供のころの仁藤は、近所でも有名な悪ガキで、中学を卒業すると暴走族の仲間となり、数年後には周辺一帯の不良少年を束ねるリーダーとなった。暴力、傷害、恐喝などの行為のため少年院に収監されていたこともある。十代後半になると、年齢偽って銀座のホストクラブのホストとして働き始める。イケメンではないが、影があり、凄味のある風貌が、玄人筋の女性に受けて短期間でその店のナンバーワンとなる。客は、高級クラブのホステスや風俗業の女性がメインで、その人気は高く、ホスト業界でも有名な存在であった。

 銀座のクラブのママ仲間では、仁藤は要注意人物とされていた。売れっ子ホステスに近づき、手練手管を駆使して夢中にさせ貢がせる。そのホステスは、貢ぐ金を稼ごうとして、品性に欠ける営業をして店の評判を落とした。また多額の移籍料を狙って、店替えをさせるので警戒されたのである。

四十代になると、ホスト稼業を辞め、風俗営業向けの経営コンサルタント会社を設立したが、裏であくどいことをしているとの、専らの噂だった≫


説明を終えて、由香里ママは、フロアスタッフに運ばせた烏龍茶を飲んで一息入れて続ける。

「結婚前のお嬢さんを前にして、話すのはちょっと憚れるのだけど、いいかしら?」

「私なら構いません。弁護士として様々な事例を見てきていますから」

聡理はセレブな大人になりきったかのように、毅然とした態度で答える。弁護士になったばかりで、事件の経験などあまり無いのを知る悟郎は、ママが何を話し出すか少し心配になる。

「それなら話すけど、仁藤は、天性のジゴロだったらしく、相手の女性の好みに上手く合わせるのに長けていたらしいの。あっちの方のテクニックも並離れていたから、みんな参ってしまうのね。M的な資質と分かれば、倒錯的な調教をして、マインドコントロールしてしまうのよ。そうしておいて店を移籍させてしまうのだから、私たち銀座のクラブのママにとっては天敵よ。ほんと始末が悪いわ。ホステス時代の彩乃も、仁藤のいいなりで店を辞めて、他の店に移籍したらしいわ。これは彩乃が務めていたクラブのママの話しだから本当だと思う」

かなり際どい話であったが、聡理は相変わらず平然として聞いていた。

「有難うございました。仁藤と綾乃が、密接というか大変特殊な関係にあったことがよく分かりました」

悟郎が頭を下げて礼を言うと、聡理もエレガントな仕草で頭を下げた。

「さてと、私の話しはこれでお終い。今日はゆっくりしていけるんでしょう?」

「いや、その・・・」

悟郎がすぐ帰ると言いかねて、モゴモゴ口ごもっていると、聡理がママに話しかけた。

「あのう、カレンさん今日いらっしゃれば呼んでいただけますか?」

「あぁ、カレンちゃんね。今日は出番よ。すぐ呼ぶわ」


 しばらくして露出度の高いミニスカート姿のカレンがやってきて嬌声をあげる。

「わーっ! 悟郎ちゃんじゃないの、久しぶり」

カレンは、いつも同じセリフだ。

「あら、今日もご同伴?」

悟郎の隣に優雅に座る聡理を見て、首を傾げる。

「この前の人は地味だったけど、今度は随分お綺麗な人ね」

カレンは悟郎の隣に座るべきか迷い、立ち続けている。

「その節は、酔ってしまい失礼しました」

聡理が立ち上がり軽く頭を下げる。カレンよりも十センチほども背が高い。

「いえ、そんな・・・!?」

カレンは曖昧に答えて、悟郎の空いている方の隣席に腰を下ろす。聡理がその反対の隣りに座ったので、悟郎にとっては両手に花だ。カレンは、イブニングドレス姿の女性が聡理とは気が付いていないようである。由香里ママの観察眼にはまだ遠く及ばない。

 それでも、しばらくして、カレンは、その女性が聡理であると気が付いたが、時すでに遅し、聡理に圧倒され通しであった。聡理は見事リベンジを果たしたと言えるだろう。

 


第十二章 ビタートラップ


 十一月も中旬になったある日、衝撃的な出来事があった。逃走中の沢柳から悟郎のスマホに電話が掛かってきたのである。


「もしもし、矢吹悟郎さんのスマホですか?沢柳です」

音声が余りよくなくて聞き取り難いが、沢柳と言ったように聞こえたので悟郎は驚く。

「矢吹です。沢柳さんって、ホントですか?」

「えぇ、飯田のファミレスでお会いした沢柳です」

「今どこにいるんですか?私に何か御用ですか?」

興奮して矢継ぎ早な質問をしてしまう。

「居場所は言えません。あなたに話したいことがあるんです、私は無実です。罠に嵌められたのです」

疲れた声音ではあるが、必死さが伝わってくる。

「分かりました。そういうことなら話を聞きます。仰って下さい」

「いや、電話では詳しいことは話せません。会って話したいのです」

「会うってどこで?」

「中軽井沢の長瀬家の別荘まで、一人で来ていただけますか。そこで全てをお話しします」

「承知しました。一人で行きます。いつ行けばいいですか?」

「急ですが、今晩の七時にきていただきたいのです。それから、警察にはまだ連絡しないで下さい。あなたに全部話し終えたら、必ず自首するのでお願いします」

どのように返答すべきか少し考えこむ。腕時計を見ると、まだ昼前なので時間的には問題ない。

「もしもし、聞こえますか?」

間が空いたので、沢柳は焦れたのだろう。

「分かりました。警察には連絡しません」

悟郎は沢柳の申し出をすべて飲もうと決心した。

「今晩、七時、長瀬家の中軽井沢別荘でしたね」

「はいそうです、くどいようですが、私と会うことは、警察には絶対連絡せずに、一人で来て下さい。約束が破られた事が分かったら、私はすぐさま逃走します」

「約束は必ず守ります。沢柳さんも、警察に自首するという約束を守って下さい」

「私も約束します。それでは、今晩」

電話はそこで切られた。受信記録を見ると、発進元は公衆電話と表示されていた。


 悟郎は迷った挙句、聡理にだけは伝えておこうと思い、聡理のスマホに連絡を入れた。電話に出た聡理は、事の成り行きに驚くが、悟郎が一人で殺人容疑者と会うのは危険だとして、警察に連絡するべきと主張した。沢柳との約束なので警察には連絡できないと答える悟郎に対して、聡里は強く訴えかける。

「せめて何処で会うかだけでも教えて。お願い。何時、何処で沢柳と会うの?」

「今夜七時に会うけど、場所は言えないよ。沢柳は、自首すると約束したんだ。俺も約束を守らなければならない」

「でも心配だわ。どうしよう。私、じっとしていられない」

「沢柳から話を聞いたら、すぐに連絡するよ。それまで、心配だろうけど待機していてくれないか」

「わかった、だけど決して無茶しないと約束してね。お願いよ」

「うん、約束する。無茶はしない。じゃ電話切るよ」

 悟郎は一方的に電話を切ると、軽井沢行きの準備に取り掛かった。


 軽井沢へは、マイカーで行くことも考えたが、交通の渋滞や、万が一の事故などがあるといけないので、新幹線とレンタカーを使って行くことに決めた。新幹線を使えば、三時間もあれば充分であったが、余裕を見て午後三時に家を出ることにした。

 次に、別荘に着いたらどのような展開になるのか予想してみた。沢柳は別荘で会うと言っただけで、別荘の室内で話し合うとは言っていない。落ち合った後、別の場所に移動する可能性もある。あれこれ考えていると、別荘が現在どうなっているのか無性に気になり、ふと気が付いたのが、以前訪ねたことのある別荘管理事務所であった。そこで早速電話して別荘の様子を聞くことにした。

電話に出たのは運よく、訪ねた時に会った男性職員だったので、悟郎の問い合わせに対し快く答えてくれた。その電話で知り得たことは概略、以下のようなものであった。


≪長瀬家の別荘はその後、誰も住んでいない。売りに出されているが、殺人があった事故物件との風評が広がって買い手はついていない。建物の維持管理は、管理会社が長瀬家に頼まれて、月に数回、建物内に入り窓を開けて換気したり、室内を掃除したりしている。数日前に、管理会社の清掃人が、建物内に入ったが、誰かが入り込んだような痕跡はなく、何の異常も無かった≫


 丁重に礼を述べて電話を切り、改めて考えを整理してみたが、今晩、沢柳と出会った後、何処で、どのように話合いがなされるのかは、依然として予測不能であった。


 その夜、悟郎は軽井沢駅前のレンタカー会社で借りた車を運転して、中軽井沢の長瀬家の別荘に向かっていた。途中のドライブインでコーヒーを飲んで、時間調整したので、別荘には、七時少し前に到着する見込みであった。別荘までの道は、以前、行ったことがあるのでカーナビをセットするまでもない。

 別荘地の幹線道路を外れて、細い舗装道路に入り、しばらくすると見覚えのある砂利道の入口に差し掛かった。浅間石の石積みの門柱があり、ヘッドライトに“これより私道、立ち入り禁止”と書かれた小さな看板が、照らし出されている。悟郎は、慎重にハンドルを操作して、砂利道に車を乗り入れた。両側は鬱蒼とした針葉樹の林であり、闇を一層深いものにしている。左カーブを回り込むと、その先は緩やかな上り坂になっている。なおも進むと坂の上に、月光に照らされた黒く大きな別荘のシルエットが現れた。

 悟郎は車寄せに車を止め、エンジンを切り、ヘッドライトを消した。途端に辺りは深い闇に包まれる。ドアを開け降り立つが、そこは深い闇が蟠っている。車寄せの覆いに遮られて月の光りが差し込まないからだ。闇に目が慣れるのを待ちながら、聞き耳を立てる。聞こえるのは、針葉樹の梢を揺らす寒々とした風の音だけであった。

 その時、辺りが急に明るくなった。玄関灯が点灯したのだ。ガチャリと音がして、扉が開き、中から人が歩み出てきた。

「一人ですか?」

声を潜めて問いかけてきたのは、沢柳であった。

「私、一人です。他に誰もいません」

沢柳は、車に近づき車内を覗き込む。

「警察にも連絡してないでしょうね?」

「勿論です。約束は守ります」

「いいでしょう。では、別荘に入って下さい」

 沢柳が開けてくれた扉から、別荘の建物内に入る。玄関フロアは薄暗く、廊下の先にわずかな光が漏れている。沢柳は、靴を履いたまま付いてくるように言い、先に立って光が漏れてくる方に歩いて行く。

「どうぞ、こちらへ」

 室内は、シャンデリアが灯されており明るかった。そこは重厚な感じがする大きな部屋で、来客の応接などに使われる部屋のようであった。十人以上は座れそうな革張りの大きな応接セットが中央にあり、左側の壁には山小屋風の暖炉、もう片方の壁際には、バーカウンターがあって、その横には隣室に通じるドアがあった。そして正面の窓には分厚いカーテンが引かれていた。


「ずっとここに隠れていたのですか?」

ソファーに座った悟郎が聞く。

「いえ、ここではなく、付近の無人の別荘に潜んでいました」

沢柳も向かい側に腰かけて答える。無精ひげを生やし、頬が削げている。

「そうですか。この辺りの別荘のことはよく知っているんですね」

「えぇ、この別荘に住み込んでいたので、この辺りのことは良く知っています」

「この別荘には、どのようにして入り込んだのですか?」

悟郎は抱いていた疑問を投げかける。

「それは簡単なことです。裏口のスペアキーを、返さないで持っていましたから」

「なるほど」

「それよりあまり時間が無いのです。実は、一時間後に真犯人がこの別荘に来ます」

「ホントですか?真犯人がここに来るのですか?」

予想外の成り行きに、悟郎は戸惑う。

「必ず来ると私は信じています。それでお願いがあるのですが、真犯人がやってきたら、隣の部屋に隠れて、私と犯人のやり取りを聞いて欲しいのです。やり取りが済んだら、合図するので出てきて下さい」」

「なんでそんなことを。私が納得できるように詳しく話して下さい」

沢柳の意図が良く分からない。

「わかりました。彩乃さんが来るまで、まだ余裕があります。私の知る全てをお話します」

「えっ!今なんて! 彩乃さんがここに?」

悟郎は驚きのあまり、声が引き連れる。

「ええ、彩乃さんが仁藤殺しの犯人です。少し長くなりますが順序建てて話します」

沢柳はそう前置きして話し出した。


「長瀬家の運転手になり、彩乃さんと最初に会ったその時から、私は彩乃さんに憧憬の念を抱くようになりました。最初の頃は、会長もまだ確りしていて、会長を東京本社へ送り迎えすることが、私の主な仕事でしたが、会長の認知症が進むと、別荘に引き籠ってしまったので、私の仕事は、彩乃さんのエステ、美容院、フィイットネスクラブ、買い物などへの送迎が主なものになりました。私は彩乃さんと二人きりで車で過ごす時間が長くなるにつれ、彩乃さんへの想いは更に膨らみました。そんな私の想いを、家政婦の大里は、女の勘というんでしょうか、気付いたんですね。私に忠告したんです。彩乃さんは、表面上は美しいが、内面は淫らで醜い女だと」

沢柳はそこで言葉を区切り、顔を歪めたが、気を取り直して話を続けた。

「私が彩乃さんはそんな人ではないというと、大里は証拠を見せると言って、ある夜、会長の寝室の隣にある書斎に私を誘ったのです。書斎の壁に掛けてある絵画の裏側に穴が開いており、覗いてみろというので、その穴に目を当てると、その先にあったのは、会長と彩乃さんのあられもない姿でした。彩乃さんの淫らな姿を目にして衝撃を受けましたが、彩乃さんは、夫に強要されて仕方なくしているのだと思いました。大里にそう言うと、彩乃さんは、自らの意思で淫らな関係を続けているんだと言ってあざ笑いました。それでも、私の彩乃さんに対する想いは、色褪せることはありませんでした。私の想いは、かえって妖しく燃え上がるのでした」

沢柳は、苦し気な表情を浮かべ、下を向いた。悟郎は問い返す言葉もないまま、黙って沢柳が話を再開するのを待った。

「会長の認知症はその間も進行していました。毎日の散歩が習慣でしたが、帰り道がわからなくなることがあるようになり、夜間の徘徊も始まりました。丁度そんな時期に、会長が国道百四十六号であなたに保護されたのです。そして、あなたもご存知のように、その数か月後、会長は同じ国道でトラックにはねられて死にました」

沢柳は腕時計を見て、まだ時間に余裕があるか確認し話を続ける。

「会長の専属運転手として雇われていたので、会長が亡くなるとすぐに解雇されました。それで飯田に帰郷して、タクシーの運転手をしていると、あなた方が来て、裁判の証人になるよう要請されました。しかし、どうしても証人になる気になれなくて、お断りしたのです。すると、しばらくして今度は彩乃さんが飯田にやってきました。市内のホテルで会ったのですが、部屋に入ると彩乃さんはいきなり服を脱いで私をベッッドに誘ったのです。情けない話ですが、私は夢中で彩乃さんを抱きました。その数日後、竜也さんの弁護人から連絡があり、証人要請されたので引き受けました。彩乃さんの意図を察したからです」

沢柳は当時を思い出したのか、首を小さく振り、口を閉じてしまう。

「話しを続けて下さい。あまり時間がないんでしょう」

悟郎が促す。

「そうですね。もう少しですから辛抱して聞いて下さい」

悟郎は黙ったまま頷き返す。

「ご存知のように、法廷では被告人有利の証言をしました。私の証言が少しは役に立ったのでしょう、裁判は被告側が勝訴しました。これでもうすべて終った、彩乃さんのことは忘れて、生まれ故郷の飯田で静かに暮らそうと決意していたのです。ところが、竜也さんが溺死し、更に大里の遺体が別荘のカーポートの下から発見されたことをニュースで知り、動揺し、不安になりました。彩乃さんが事件に関わっているかもしれないと思ったからです。そんな時でした。彩乃さんから、東京のホテルで会いたいと連絡があったのです。上告審の法廷に今度も、証人として立って欲しいので、相談したいというのです。もう会うべきではないと、自分自身に言い聞かせたのですが、会いたい気持ちを抑えきれず、六本木のホテルに向かいました。彩乃さんから知らされ番号の部屋に着いたのですが、ドアが少し開いていて、不審に思ったのですが、ドアチャイムを押しました。返答がないので、ドアを開けて部屋に入ると、そこには彩乃さんの姿はなく、床に血だらけの仁藤が倒れていたのです。大量の血が流れていたし、ピクリとも動かないので、既に死んでいるに違いないと思いました。慌てうろたえた私は、とにかく逃げるのに必死でした。今思えば、その時、警察に通報してありのままを述べれば良かったのですが、その時は、警察に捕まれば、殺人犯にされてしまうとの恐怖ばかりが頭にあったのです。逃走を続けながら、いろいろ思い悩みましたが、どう考えても、彩乃さんに嵌められたのは、紛れもない事実です。その思いが、私を打ちのめしました。しかし、このまま逃げ続けてもいつか警察に捕まるでしょう。かといって自首して彩乃さんが犯人だと訴えても、彩乃さんが否定したらどうなるでしょう。現場に残った指紋や防犯ビデオの映像などから、私は殺人犯とされてしまうに違いありません。どうしたらこの危機を乗り越えられるか。必死で考えました。そして考え付いたのが、彩乃さんと直接会い、事件の真相を訊ねて、その模様をあなたに物陰で聞いて貰い、警察への証言をお願いしようと思ったのです。お願いです。私に協力して下さい。あなただけが頼りなんです」

話し終えた沢柳は、両膝に手を添えて頭を下げた。

「俄かには信じがたい話と思いながら聞いていましたが、すべて聞き終わり納得しました。協力しましょう」

「有難うございます。それでは、彩乃さんが来たら、隣りの部屋に隠れて下さい。こちらの部屋の会話は、聞き取り難いかもしれませんが、ボイスレコーダーで、私が録音しているので大丈夫です」

「分かりました。何かあったら合図して下さい。すぐに飛び出しますから」


 打ち合わせは終わった。後は彩乃が来るのを待つばかりである。悟郎はタバコを取り出し、ライターで火をつける。〈冷静に、落ち着いて行動するんだ〉深く煙りを吸い込みながら、悟郎は自分に言い聞かせるのだった。


第十三章 血まみれナース


 十時が少し過ぎたころ、自動車が近づく微かな音聞こえてきた。沢柳は、窓に近寄り、カーテンを少し開けて外の様子を伺った。

「どうやら、来たようです」

悟郎は黙って頷き、立ち上がると、バーカウンターの横のドアから隣室に入った。ドアを閉めると中は真っ暗である。スマホの電源を切らなければと気が付き、スマホを取り出し電源を切る前にメールを確認する。聡理から沢山のメールが届いている。一番直近のメールには≪バカバカバカ!! 今どこなの。すぐ連絡して、すごく心配してる》という文言があり、聡理が心配してくれているのが、ひしひしと胸に伝わった。そこで、《今、中軽井沢の別荘にいる。電源を切るけど無事だから心配しないで》と返信し電源を切った。


 彩乃が部屋に入ってくるのを、沢柳は、固唾をのんで見守っていた。彩乃は、青灰色のロングコートを着ている。室内をゆっくり見まわしてから、歩み寄るとコートを脱いで、ふわりとソファーに投げかけた。コートの下は、タイトなノースリーブのワンピースで、身体の線がくっきりと分かるものだった。


「何かお話があるんでしょう? お座りになったら」

彩乃は、ソファーに座り、長い脚を優雅に組んで話しかける。沢柳は綾乃に言われて、やっと向かいの席に座る。

「あなたは、仁藤を殺し、その現場に私を呼び出して、私を殺人犯に仕立てました」

沢柳は、気圧されてしまいそうになる自分を叱咤し、声を絞り出す。

「私が仁藤を殺した証拠はあるのかしら? 」

「ホテルの防犯カメラにあなたの姿が映っているはずです」

「そのビデオには、あなたの姿の他に不審な人物は映っていなかったと警察が発表しているけど」

「あの日は、ハロウィンのパレードがあった日で、ホテル内は仮装した人がたくさんいました。あなたは、仮装して顔を隠していたので警察も気づかなかったのでしょう。でも、防犯ビデオを専門家が鑑定すれば、仮装した人の一人が、彩乃さんだと特定できるでしょう」

「そうね、あの日はハロウィン。大人も子供も、仮装して六本木の街を楽しそうに歩いていたわ。私もパレードに紛れ込んで歩いたけど、本物の血の付いた私のドレスを見ても誰も怪しまなかった。血まみれのナースが歩いているってね。“トリック・オア・トリート、トリック・オア・トリート”みんな陽気に騒いでた・・・」

彩乃はどこか遠くを見る目付きで黙り込む。沈黙にたまりかねて沢柳が口を開いた。

「あなたに嵌められたと知って私はどんなに苦しんだか、あなたは本当に冷酷で残酷な人です」

「ええ、その通り、認めるわ」

「その上、あなたは、ふしだらな女です。家政婦の大里が私に教えられて見てしまったのです。あなたは、義理の父親と淫らな行為をしていた」

「竜也が覗いていた穴から見たのね。竜也は、私が他人に犯されるのを見て興奮する性的異常者だったの。義父の相手をするように私に強要したのは、有利な遺言をさせるためばかりでなく、自分の性的欲望を満たす目的もあったの」

「しかしいくら強要されたにせよ、普通の人はあんなことをしない」

「そう、私も普通じゃない。でも、さすがに痴呆症の義父ちちを相手にするのは、嫌で仕方なかったわ。もう止めにしたいと竜也に何度も懇願したら、それなら殺すしかないと言い、義父の殺害について協力させられたの」

「もしかしたらとは思っていたけど、会長を殺したのは、矢張り、あなたたちだったのですね」

「私は、寝室で眠っていた義父を起こして車に乗せただけ。殺したのは、竜也と仁藤よ」

「義理の父親殺しに手を貸した貴女は共犯です。竜也さんと仁藤の二人を殺したのも貴女ではありませんか?」

「私は、それほど酷い女じゃないわ。竜也を殺したのは仁藤が勝手にやったこと。遺産を相続した私を脅迫して、骨までしゃぶるつもりだったのよ」

「それで、仁藤を殺したんですね」

「仁藤はね、私がホステス時代からつきまとい、私の身体とお金を奪い続けた本当の悪党よ。殺されて当然だわ」

「しかし、なんで私を犯人にしようとしたんですか。ずっと貴女のことを想い続けていたのに」

「さっきから、私を責めてばかりね。そんなことより、私をわざわざこんなところに呼び出したのは、何か要求があるんでしょう。お金が欲しいとか、いつかのように私を抱きたいとか」

彩乃は立ち上がり、沢柳の右側のソファに座り直すと、肩を寄せて沢柳の手を両手で握った。沢柳は、彩乃の手を振り払う。

「私の望みは、あなたが自首することです。潔く刑に服して下さい」

「それは出来ないわ。やっと男たちの束縛から解放され自由の身になったばかりだもの、刑務所で何十年も拘束されるぐらいなら、死んだ方がましだわ」

「どうしても自首しないというなら、仕方ありません。警察に出頭して、何もかも話します」

彩乃は沢柳の手を再び取り、自分の左の胸に誘う。

「私があなたを一生涯、匿い続けるわ。海外でも東京でも、あなたの好きなところで私と暮らすの。一生遊んで暮らせるお金だってあげる。だからお願い、私と一緒に暮らして」

「やめて下さい!そんなこと、とても信じられません」

彩乃を突き放し、叫ぶように言う。

「あなたが、運転手として雇われた時から、私に想いを寄せていたのは分かっていたわ。あなたの一途な思いに今度こそ応えるつもりよ。約束するわ」

彩乃は、泣き叫ぶ子供を宥めるように、やさしく囁く。

「あなたは憧れの人でした。雲の上の人でした。飯田のホテルでベッドを共にして、天にも昇る心地でした。それだけに、騙されて殺人犯に仕立てられたのが悔しくて、気が狂いそうでした。もう決して騙されません。自首して下さい。お願いします」

「あなたなら私の願いを聞き届けてくれると信じていたのに・・・残念だわ」

彩乃は、憐れむように言うと、沢柳から身体を離して、自分のバックの中から包丁を取り出した。

「自首するくらいなら死んだ方がいいって言ったはずよ。私をこれで刺して」

彩乃は包丁の柄を沢柳の方に向けて、テーブルの上に置いた。

「あなたを刺すなんて、私にはできません」

予想外の展開に沢柳は慌てて、包丁を彩乃の方に押し戻す。

「あなたが私を殺さないなら、私があなたを殺すしかないわ。それでもいいの」

「そんな無茶なこと。包丁をしまって下さい」

「なんて意気地なしなの」

彩乃は、包丁を取り上げると立ち上がった。


 悟郎は隣室の扉の隙間から、様子を伺っていたが、声は途切れ途切れにしか聞こえない。彩乃の姿は、こちらを向いているのでわずかに見えるが、沢柳は後ろ姿の一部しか見えなかった。隙を見て、中の様子がよく見える位置に移ろうと機会を窺っていると、彩乃が沢柳の隣りに移動したので、悟郎は思い切って、隣室からそっと抜け出し、バーカウンターの陰に隠れた。二人の緊迫したやりとりがよく聞こえる。彩乃が包丁を取り出したことが分かり、すぐにも飛び出そうと身構えていた。しかし、沢柳の合図はない。じりじりして聞き耳を立てていたが、これ以上猶予できないと判断し、カウンターの下から飛び出した。


「私を罠に嵌めたのね!」

彩乃は、突然現れた悟郎を見て叫んだ。両手で包丁を握りしめ、沢柳と悟郎を睨みつける。

「えぇあなたを騙しました。本当にすまないと思います。でも、私は貴方と二人きりで会うのが怖かったんです。誰か、傍にいなければ、あなたの誘いに乗ってしまいそうで」

沢柳は心底、済まなそうに言って唇を噛んだ。

「さぁ、もうお終いにしましょう。包丁をテーブルに置いて下さい」

悟郎はそう言うと一歩前に歩み出た。彩乃は怒りの表情で立ち尽くしている。数分、もしかすると数秒だったかもしれない。誰も話さず、身じろぎもしなかった。


「そうね、何もかもお終いね」

 口を開いたのは彩乃であった。どこか吹っ切れた様子で、アルカイックな笑みを浮かべると、包丁を自分の首に当て、一気に掻き切った。頸動脈から血潮が噴き出る。その場に倒れる彩乃を沢柳が抱き起し、ハンケチで傷口を抑える。悟郎は慌ててスマホを取り出し、電源を入れ、百十九番通報をした。

「しっかりして下さい。もうすぐ救急車がきます」

ぐったりした彩乃が、何か言いたげに口を開くのを見て、沢柳は彩乃の口元に耳を寄せる。

「あなたと暮らしたいという気持、嘘じゃない、本当よ。今までいろんな男と付き合ってきたけど、みんな、最低な悪党ばかり。あなたのように純粋な人は初めてだったの」

彩乃の眼が静かに閉じる。

「噓だ、そんな筈ない。貴女は悪い女だ。本当に悪い女だ」

悟郎は、号泣する沢柳を呆然として見下ろしていた。




エピローグ


 彩乃は救急車で緊急搬送されたが、出血多量で死んだ。沢柳は、駆け付けた警察の取り調べを受けたが、その後、無実であることが判明し釈放された。また、一連の殺人事件は以下のような結末を迎えた。


「竜造轢死事件」

 竜也と仁藤は、竜造を国道に運び、突き飛ばしてトラックに轢かせ、死に至らしめたことが、沢柳と悟郎の証言と周辺捜査により判明。

 彩乃は竜造を車に乗せ、殺人に加担したことにより共犯とされた。被疑者いずれも死亡したが立件され書類送検された。

「竜也溺死事件」

 仁藤が竜也を橋の上から突き落として死に至らしめたと推量されたが、証拠不十分、被疑者死亡のため立件できなかった。

「大里サチ遺体遺棄事件」

 死体遺棄については、竜也の犯行である証拠や証言もあり、立件され被疑者死亡のまま書類送検された。大里の殺人については、竜也と仁藤による犯行の疑いが強いが、証拠がなく立件見送りとなった。

「仁藤殺害事件」

 詳細なビデオ鑑定の結果、血だらけのナース姿をした彩乃が写っていることが判明し、沢柳と悟郎の証言もあり、彩乃による殺人罪として立件。被疑者死亡で書類送検された。彩乃が仁藤から恐喝されていたことが捜査でも裏付けされ、それが殺人動悸と推量された。


 相続を巡る民事裁判は、被告が死亡したことに加え、竜也と綾乃が民法で定める相続欠格者となったことで、竜一郎と高橋美鈴が竜造の遺産を相続して一件落着した。


 それらはさておき、肝心の悟郎と聡理がどうなったか気がかりですよね。でも読者の皆さん、ご安心ください。二人は、相思相愛の恋人同士になりました。めでたし、めでたし・・・な・ん・で・す・が、二人共に、なかなか結婚に踏み切れず、煮え切らない状態が続いているんので、この先、どうなることやら

                                                                           完




 

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