オルゴール
著者の実体験を元にした私小説です。
拙い文章ですが、今心に残る感情をすべて文章にぶつけてみました。
大切な思い出です。
「僕らは、もう子供ではないんだよ」
そう君に言われ、私はようやく理解できたと思う。私が君と過ごした時間は儚く、もう二度と戻ることはないということ。
私は、君からもらったオルゴールの音を、今も変わらずにずっと握りしめている。
私が最初に君を意識した日はいつだっただろう。
とある春の日。桜の花びらが舞っていた、肌寒い初春の夜。仕事終わりの私と賢太は、二人で車窓から桜を見た。
特別な誰かと夜桜を見るなんていう日が、いつか叶うことを信じていたけれど、まさかこんな唐突に実現するとは想像すらしていなかった。
私は桜の木を見ながら、賢太がそばにいることを強く実感し、同時に彼を特別な存在として受け入れていたと思う。
無意識に、でも力強く、私はあの日見た桜が、いつ見た桜よりも美しく感じた。
賢太の車の中に置いてあったオルゴールは、古いものだった。
けれど、毎日手入れをしてあって、決して埃が被ってはいなかった。
「綺麗なオルゴールですね」
私はそう言いながら、オルゴールに触れる。
小さな木箱を開くと、オルゴールが再生される仕組みとなっていた。
私は黙って、オルゴールを起動する。彼は、私の一連の動作を、黙って見ないふりをしているように見えた。
オルゴールを再生すると、妙に切なく、けれど心地いいメロディが、繰り返し再生される。
「わあ、すごく素敵なメロディ。私、この曲とても好き」
「うん。俺の大好きな曲なんだ」
彼は、私の起動したオルゴールをそっと撫でながら、そう言った。
そこからはお互い、オルゴールが止まるまで、言葉を交わすことはなかった。
刻まれていく彼との一分一秒が、このオルゴールのメロディと共に、私の記憶へ刻まれていくのを感じていた。
きっとこれからもずっと、このメロディを聴くたびに、私は彼のことを思い出すのだろう。そうして、これからも変わらず、今の気持ちも蘇るのだろう。
私は黙ったまま、そう心の中で確信していた。
彼の、このオルゴールの意味も知らずに。
私が彼の傍を当たり前に感じ始めたのは、それからそう遠い話ではなかった。
けれど、当時の私にとっては、そこまでに行きつく期間が物凄く遠く、長いものに感じていた。
彼のことを考え、彼のことを思い、彼と共に過ごしていた時間は、これまで生きてきたどんな期間よりも長く、濃厚に感じていた。
いつしか、彼の声も、顔も、匂いも、時間も、距離も、近いものに変わっていたけれど、確実的な言葉の契りは交わすことができずにいた。
彼の傍にいられるだけでいい。彼の傍にいるこの時間こそが幸せだ。彼以外何も望まない。私は本気でそう思っていた。
けれど、彼にその思いを告げる勇気はなかった。絶対的に彼を結び付けておく手段は思いを告げることだけだったと思う。けれど、私はその一言が、どうしても言えなかったのだ。
彼にとっても私は、きっと近い存在になっていたと思う。
それは、私は彼自身ではないし、言葉で聞くことができなかったから確信は持てない。
けれど、彼はずっと、仕草や動作で、私に訴えかけていたと思う。
私も、決して言葉にはしなかったが、それを感じ、同じように自分の気持ちを彼に訴えていた。
その距離が心地よかった。それだけで通じ合えている私たちを、どこか特別に感じていた。たった二人だけの世界に私たちはいる。そんなくだらないことを、心から信じることができていた瞬間だったのだ。
けれど、とうとうそんな曖昧な時間は終わりを迎えることとなる。
私は貪欲だ。決して必要のない言葉の契りを、どうしても交えたくなってしまったのだ。
それは案の定、彼のことを苦しめ、私の我儘により、彼を縛り付けてしまうこととなった。
「賢太は、私のことどう思ってるの?」
たった二人の、特別な時間。私たち二人だけの世界。二人だけにしか、理解できない関係、言葉、感情。それが、言葉というありきたりで滑稽なガラクタによって、無意味で容易い、くだらないものへと一瞬で姿を変えた。
彼は私の言葉に対して、何の確信的な返答も残さず、ただ困ったように笑っていた。けれど私は、そんな彼にさらに言葉の拘束を強要してしまったのだ。今思えば、言葉などなければ、心だけで通じ合うことができていたならば、それでよかったのではないかと、後悔している。
後悔しかない。けれど、この後悔は私たちの関係において必要不可欠なものであったと、今なら言うことができる。
私と彼のふわふわした関係は、言葉という絶対的且つガラクタ的なものによって、形式上の“恋人”という関係に成り果てた。
「ねえ、このオルゴールっていつ買ったものなの?」
私は、そんな意味のない質問を、必要もないのに彼に投げかける。
その瞬間、彼は一瞬固まり、そのあとボソッと言葉を漏らした。
「これは、俺の思い出のオルゴールなんだ」
彼は時々、質問の返答になっていない言葉を返してくる。
私たちの関係は、雰囲気やニュアンスで十分なはずだった。
けれど私はいつしか、それでは物足りなくなって、彼にどんな手段を持っても確信を生ませようとした。
「なんの思い出なの?」
私はしつこく彼に問い詰める。恐らくその答えは、知らない方がいいことなのに、私はそれをわかっていながら、どうしても質問することをやめられなかった。彼は、私に決して目を合わせることなく、こう答える。
「昔、好きだった人」
私はその瞬間、背筋が凍ったことを、確かに感じた。
頭が真っ白になる。動きが止まる。手が震える。顔が引きつる。言葉が出ない。たくさんの感情が頭の中で渦巻く。そんな、あからさまにいっぱいいっぱいになった時、私は、先ほどとは対照的に、何も言葉にできなくなる。言葉にしたくなくなる。
これ以上、言葉はいらない。
「そうなんだ」
私はそっとオルゴールを開いた。
私の大好きなメロディーだ。私の大好きな、彼との思い出のメロディーだ。このメロディーを聴く度に、彼との思い出を一つ一つ丁寧に思い出す。
けれど、彼にとって、このメロディーは、決して私などの思い出ではなく、遠い誰か、私の知らない女の人との思い出であった。
それは今もなお彼の中に根強く残り、彼を呪縛し続けている。そんなメロディーを、彼は今も大切に、埃一つ被せることなく残し続けている。
ああ、羨ましい。彼の記憶に、何の契りもなく居座り続ける彼女が。
私はオルゴールを閉じた。
決して、彼の中の人には敵うことはないのだと、強く確信してしまった。
彼から別れを告げられたのは、そう遠くはなかった。
言葉の契りとはいかに脆いものであるか、非常に痛感することができたと思う。
どれほど強い言葉の契りを交わしたところで、彼の心を掴むことができなければ、そんな言葉には何の意味もないのだと知った。
ある日動画サイトで、あのオルゴールのメロディの原曲を見つけた。
再生したとき、自分でも無意識のうちに涙が零れた。
大好きだった。私には彼しかいなかった。
いつまでも、私はこのオルゴールのメロディを聴く度に、この気持ちを思い出すのだろう。
それはとても残酷で、卑怯なものであると感じた。
翌年の春、彼のいない桜を見た。
あんなに綺麗に見えていたあの日と同じはずの桜は、何の意味も持たずに、私の前に静かに立っていた。
これから何度春が巡っても、きっと彼のことを思い出すのだろうと思うと辛かった。私は、彼がオルゴールを手放すことができないのと同じように、私も彼の呪縛に捕らわれてしまったのだと実感した。
今、彼と過ごした一年間とは比にならないほど短い体感の一年が終わろうとしている。
滑稽なことに、この一年間、彼を思い出さなかった日は一日たりとも存在しなかった。
去年からずっと、私の毎日の至る所に、彼の存在がいるのだ。
切っても切っても切れない、見えない糸で、私を縛り付けているのだ。
オルゴールはまだ鳴りやむことを知らない。