音楽家セスの場合。Ⅳ
セスが、覚えている中での一番古い記憶は、夢かもしれない……というか、十中八九は夢だろうと思っている記憶だ。
それは・・・一年で最も夜の短い日。
満ちた大きな月が煌々と夜空を照らす深夜、陽気な音楽が聴こえたセスは目を覚ました。
その日、村では夏至の祭りが行われていた。
だからセスは最初、夜遅くになってもまだ祭りが続いているのだと思った。
聴いたことの無い楽しげな音楽に誘われ、セスは寝静まる家族達を尻目に、そっと家を出て、音のする方へと向かった。オモチャにしていた、手作りのちゃちな竪琴だけを手にして・・・
真ん丸の月明かりが煌々と夜空を照らし、地面には濃い影が落ちる程。灯りを点さずに周囲が見渡せる程に、とても明るい月夜だった。
陽気な音楽の流れる中、一度も村人と擦れ違うことなく、誰もいない閑かな村の夜道を、セスは一人歩いて行った。
セスが音楽のする方へひたすら歩いて行くと、村外れの方まで来てしまった。
どうやらこの音楽は、村の外から聴こえているようだった。セスはふらりと音に誘われ、村の外へ出た。そのまま歩き続けると、ひんやりとした夜気にはやがて緑の匂いが漂って来た。
この楽しげな音楽は、近くの森の中から聴こえて来るようで・・・
一年で一番夜の短い夏至の日。
満ちた月が煌々と明るく照らす深夜。
セスは一人、森の中へ足を踏み入れた。
満月の明かりを遮る木の影に、ざわざわと揺れ動く梢。虫の声。暗闇から匂い立つ濃い緑の香り。
それでも、その森の奥からは陽気な音楽が流れ続けていて・・・だからセスは、更に歩を進めた。暗い夜の森を、誘うような音楽と木の葉の隙間から差し込む月光を頼りに。
そしてセスは、其処へと辿り着いた。
急に拓けた視界。森の中に突如現れた其処はぽっかりと拓けた場所で、満ちた月が明るく照らし出す賑やかな宴会場だった。
陽気な音楽が鳴り響き、甘い匂いや酒の匂いが漂い、飲めや歌えと、楽しげに躍り騒ぐモノ達。
小さかったり大きかったり、ひげもじゃだったり、肌が不思議な色をしていたり、手足や目の数が普通の人間よりも多かったり少なかったりする、人のようなモノ達。そして、大きな虫や、二本足で立ち、言葉を話す動植物。見たことの無い程に綺麗なモノや不気味なモノ達が、楽しげに酒を飲み交わし、歌い、躍り、騒いでいた。
おとぎ話のような光景の中、セスは音楽に誘われてその宴の輪へと足を踏み入れた。そして、奏者の方へと真っ直ぐに向かう。
奏者が演奏するのは、以前に村に来た旅芸人や吟遊詩人達が今よりも少し古い時代の楽器だと言って見せてくれた、どこかに傷があったり草臥れていたり、または壊れているような楽器ではなく、綺麗に磨かれた楽器の数々。
葦でできた笛、木でできた横笛、土を焼いた笛、木でできた縦笛、角笛、バルバッド、ヴァイオリン、レベック、ツィター、木琴、太鼓、カスタネット、そしてセスのオモチャとは違う、弦が何本もある大きなハープなどなど、旅芸人や吟遊詩人達に教えてもらった楽器の他にも、セスの知らない様々な楽器が其処には並べられおり、奏者はリクエストに応じて楽器を変えながら陽気な曲を演奏して行く。
セスは奏者の前へ陣取り、その指の長い器用な手から陽気な音楽が奏でられる様を熱心にじっと見ていた。何時間も何時間も、ずっとずっと・・・
飽きることなく楽器が演奏される様を眺めていると、奏者がセスに気付いて言った。
『楽の音が好きか?』
演奏の手を止めることなく問われたその声は頭に響くような不思議な感覚がした。頷いたセスに、
『そうか。なれば、存分に聴くがよい。喰われぬよう、気を付けてな』
上機嫌に笑みを含む声。そして、セスの手にしたちゃちな竪琴に視線を落とす。
『・・・ああ、其も楽師か?』
セスはううんと首を振る。
「まだ、弾けない」
『ほう・・・楽が好きならば、其は奏者と成るを望むか? さすれば、我が楽器に触れることを許可しよう。奏者なれば、此処へ長居しても喰われまいし、そうそう無体なこともされぬであろう』
「?」
セスには言われたことの意味がよくわからなかった。けれど、頷けばここにある楽器に触ってもいいのだということだけを、理解した。
セスは音楽が好きで、楽器を弾くことにとても憧れていた。偶に村にやって来る旅芸人や吟遊詩人達にくっ付いて回り、いつまでも演奏を、楽器を眺めていたかった。けれど、そんなことはセスの家族や周囲の村人達は誰も望まなかったし、絶対に許してはくれないことだった。
それが、叶う。
今頷けば、セスは楽器に触れられて、そして演奏することをも、許可される。
だからセスは、頷いた。
「演奏を、教えてください。きれいな音を」
頷いた奏者が、手を止める。
『では、宣誓を。我に続き復唱せよ』
すっと立ち上がった奏者の指の長い手がセスの両手を取り、セスを立ち上がらせる。
『其の身は全て、楽を奏でる為に』
其、とは其方という意味。だから・・・
「此の身は全て、楽を奏でる為に」
『其の頭は、音を記憶する為に』
「音を記憶する為に」
『其の瞳は、楽譜を読む為に』
「楽譜を読む為に」
『其の耳は、音を聴く為に』
「音を聴く為に」
『其の声は、音を伝える為に』
「音を伝える為に」
『其の腕は、楽器を支える為に』
「楽器を支える為に」
『其の手は、楽器を奏でる為に』
「楽器を奏でる為に」
『其の、名は』
「セス」
『宣誓は成った。さあ、奏でよ。我等が楽器よ。我等が宴へ、久遠の調べを。・・・とは言え、ほんに久遠という訳でもないがな。約束じゃ、セス。其が此処に居る間は、主催の我の楽器として其に手出しはさせぬ。飽くるまでゆるりと、心行くまま存分に楽を奏でるがよい。我が許可しよう』
柔らかい上機嫌な声が、セスが楽器に触れることを、そして演奏することを許可した。
それからセスは、楽器の持ち主である奏者を手本とし、楽器へと手を伸ばした。
一年で夜が最も短い夏至の夜。
おとぎ話のような光景の中、何時間も何時間も楽器を演奏しているというのに、煌々と明るい満月は沈むどころか中天から位置を変えず、飲めや歌えの陽気な宴会場を照らし続ける。
セスは宴会場にいるモノ達から示されたリクエストに応じて、葦でできた笛、木でできた横笛、土を焼いた笛、木でできた縦笛、角笛、バルバッド、ヴァイオリン、レベック、ツィター、ハープ、木琴、太鼓、カスタネットなどなど楽器を変えながら、演奏を続けた。
絃楽器や打楽器に比べると、管楽器はあまり上達したとは言えないが、セスは時間を忘れていつまでもいつまでも演奏を続けた。
変わらずの沈まない月、明けない夜。騒がしい陽気な宴会が続けられる進まない時間の中で、不思議と空腹や眠気を覚えず、演奏が続けられた。
そして酷くゆったりとした長い、長い時間の楽器演奏で習熟度が上がって行くと、曲のリクエストを頼むモノに合わせて即興で演奏をしたりするようにもなった。
やがて、彼の中からは色々なことが少しずつ失われて行った。食事を忘れ、睡眠を忘れ、時間を忘れ、家族を忘れ、家を忘れ、住んでいた場所を忘れ、他人との会話の仕方を忘れ、音楽に関すること以外の言葉を忘れ、仕舞いには自分の名前さえも忘れかけていたときだった。
「ぅ、お! なんだここっ!? あれかっ!? アレなのかっ!? さっき食ったキノコに当たった、のか・・・? なんかヤベー幻覚と幻聴症状かっ!!」
騒がしい、声がした。
「人外? つか、メルヘンな幻覚か? ぅっわ、なんか自分にショックだわー」
旅装束のその男はガシガシと頭を掻き、困惑したように辺りを見渡して口を開く。
「ぁ~、対処法はなんだったか……っと、確か……変な場所に出たとき、変な気配を感じたとき、ナニかいたときはとりあえず――――『Quaerimus licentia of obduco.Dicere si sit querimonia est Malum・Draco.』――――って、言やいいんだよな? 何語かも、意味も全くわかんねぇけど」
瞬間、宴会場がざわめいた。そして、
『ふむ・・・我は元より、特に責を問うつもりは無かったが、Malum・Dracoへ貸せるのならば、それはそれで面白い。では、通行人の其には、責を問わぬ。然れど、時を気にするなら、疾く去ぬるがよい』
奏者が男へ応える。
「おう、なんか知らねぇけど礼を言う。ってか、これはまた古い楽器だな? 辺境でなら現役の楽器もあるが、もう生産されてないような珍しい楽器もある。現役の葦製パンパイプなんか初めて見たぜ。今は竹製が主流だろ? 木製フルートなんかも珍しい。今は金属製ばかりだしな。こんな古い楽器弾けるなんてすげぇな、坊主」
朗らかな声が、掛けられたのが自分であることに気付くのに数秒。
「・・・古い、楽器?」
それは、楽器の話題。
「おう。レベックやツィター辺りは博物館に並べられててもおかしくねぇくらい古いかもな。つか、こんだけ楽器あんのに、ピアノは無いのな。外だからか? まあ、ピアノは重いから運ぶのは大変か。とは言え、アコーディオンなんかも無いのか? 屋外で弾く定番だと思ってたんだがな」
「・・・ピア、ノ? アコー、ディオン?」
「あ、知らねぇのか? つっても、ピアノ系統の鍵盤楽器は説明し難いな」
男の言葉に、彼はふと思い出す。前に自分が弾きたいと思っていた楽器のことを。
「・・・けんばん、楽器? ・・・チェン、バロ? オルガン?」
「そうだな。アコーディオンは、オルガンを持ち運びできるサイズにしたような楽器だ。ピアノとチェンバロの違いはよくわからないが、確かチェンバロよりピアノの方が音域が広いってこた知ってる」
「持ち運べる、オルガン……アコー、ディオン……音域……広い、ピアノ……」
「興味があるなら、一緒に来るか? 坊主。なあ、いいだろう? コイツも、迷子な筈だ」
彼と、奏者へ問う男の言葉に・・・
『よかろう。未知の楽器に心惹かるるは楽師の本分。其の好きにせよ。セス』
久々に名前を呼ばれ、自分の名を思い出したセスは此の、月の沈まない宴会場から出て、知らない楽器を弾きに行こうと決めた。
次の瞬間、
『“Feel free til play musicinn without einnhverr worrr.”《なんの柵も無く、自由に楽を奏でるがよい》』
という奏者の声を聞いたような気がして、気付いたらセスは、森の中にいた。
「おお、幻覚と幻聴が消えた! 戻って来れたぜ! よかったな? 坊主。俺はアイザックだ。お前はセス、でいいんだよな?」
アイザックと一緒に。
※※※※※※※※※※※※※※※
それから・・・
「なんか、森ン中で変な毒キノコに当たったらしくて、気付いたら三日経ってた。で、そのトリップ中に拾ったガキなんだが、俺には面倒見切れないからコイツのこと頼むわ。姫さんよろしく」
と、軽いノリでセスはグラジオラス辺境伯城砦へと連れて来られた。
「ちなみに、拾った付近で子供の行方不明及び誘拐事件、事故の話は聞かなかった。捨て子の可能性もあるとは思うんだが・・・白髪頭に碧眼、推定六、七歳の痩せ気味の男児。という特徴を元に、付近の集落を割と丁寧に調べてみたが、坊主の情報は一切無かった。名前はおそらく、セス。で、いろんな楽器が弾ける。が、どうやらそれ以外には記憶が無いらしい。つか、楽器触らせるとガチで寝食忘れてぶっ倒れるまで弾き続ける。本の虫みたいなガキなんだが・・・なぜか音楽以外の会話が、ほとんどできねぇ。ある意味、シュゼット以上に厄介だと思う」
「・・・いいだろう。うちで引き取ろう」
「助かる。ありがとうございます、姫さん」
これだけを告げ、アイザックはセスを置いて去ってしまった。
「さて、君は自分の名前は言えるか?」
「リクエスト?」
見下ろすのは金色の瞳。そのとき、セスの脳裏に音楽が浮かび上がる。タイトルを付けるなら、『姫』という可愛らしさではなく、『女帝』という荘厳な曲になるだろう。
「色の抜ける程の歳月か・・・成る程。まさしく人間としての尊厳の回復が必須だな」
ぼんやりと金髪金眼の見目麗しいレディを眺めながら頭の中でメロディーを紡いでいると・・・
「では、君のことはアウレーリオとアウレーリアに任せるとしよう。あの二人は、弟妹を養子に出してからずっと寂しがっている。仲良くするといい」
「?」
こうしてセスの世話役として引き合わせられたのが、双子のアウル達だった。
推定年齢七歳程。けれど、楽器を触るとき以外は常にぼーっとして、言葉や常識を知らない赤ん坊のようなセスに、双子は話し掛け、食事を食べさせ、一生懸命世話をして、実の弟のように可愛がった。
そんな甲斐甲斐しい双子のお陰で幼児並みの自我を取り戻したセスは、ある日、ふと気付く。
鏡に映るのは新雪のような髪に新緑の瞳の子供。けれどセスは、その姿に違和感を持った。瞳の色は兎も角、自分の髪は白髪だっただろうか? 自分の髪は、こんな風に目立つ色ではなく、もっとありふれた色で・・・とは思ったが、何色だったかなど、そんな昔のことは思い出せなかった。
そして、そんなどうでもいいことなんかより、グラジオラス辺境伯領城砦にはセスが憧れていたチェンバロやオルガン、そしてアイザックの言っていたピアノがあり、直ぐに夢中になった。
更には、パイプオルガンが弾いてみたいと言ったらヴァルクが、「いやぁ、いつか絶対造ってみたいと思ってたんだよねー。というワケでセス君、建築家のお兄ちゃんにドーンと任せなさい♪」と張り切って、城の敷地に本当にパイプオルガンの入った建物を建ててくれた。
セスは、昔には無かった新しい楽器との出逢いと、楽器を弾ける環境を慶んだ。
※※※※※※※※※※※※※※※
パン! と、目の前で大きな音がして、セスは新緑の目をパチパチと瞬いた。
「はい、お帰りセス」
「演奏はもうお仕舞い」
「そろそろ授業が終わる時間だから」
「もう放課後になっちゃうよ」
「「ほら、楽器は片付けて」」
「ん~」
楽器に触ると直ぐに夢中になり、放って置けば時間を、そして寝食を忘れてぶっ倒れるまで止まらないセスを、その前にこちら側によく引き戻してくれるのはアウル達やグラジオラスの人達だ。
あの夜のことは、きっと夢。
長い長い、夢。
今でも耳に残るのは、演奏の一音一音その全てが圧倒的に美しい、奏者の奏でたあの音。
鍵盤楽器や見たことの無かった新しい楽器はここ数年でそこそこ弾けるようになった。そして、入学試験のときにセスの出したピアノの音は美しい音だと称された。
しかし、セス自身は知っている。自分の演奏が、あの音にはまだまだ届かないことを。
セスが一番得意な楽器は、あの進まない時間の夢の中で長年弾き続けた絃楽器だが、あの奏者が奏でた素晴らしく美しい音色には遠く及ばない。
だからセスは、いつもあの音を目標に音を奏でている。いつか、あの奏者に自分の創った曲を弾いてもらいたいと思いながら、自分の知らなかった音楽の勉強をしている。此方側で・・・
読んでくださり、ありがとうございました。
セスの回想が、思ったより長くなりました。
そして、アイザック再び。
セスを拾ってグラジオラス城砦に連れて来て姫に丸投げ。その後、セスはアウル達と出逢いました。
ちなみに、ヴァイオリンやピアノを弾くには爪は短い方がいいらしいのですが、セスがある程度爪を伸ばしているのは撥絃楽器が一番得意だからです。長過ぎず短過ぎずを保つ為、爪のお手入れは欠かせません。
そして、奏者のあれは古ノルド語です。