商人兼諜報員ディルの場合。下
グラジオラス辺境伯領及び、国内外で有名な商会、タロッテが水商売やサービス業に特化しているのに対し、もう一つの有名な商会、メルクの方は主に物流を専門に取り扱っている。
ディルは、そんなメルク商会の重職に就いている者の息子として生まれた。
ディルは、幼い頃からとても優秀だった。三歳の頃には字が読めるようになり、四歳の頃には簡単な計算ができるようになった。
五歳で四則演算ができるようになった。
六歳になる頃には大概のことは手本を見ただけでこなせ、大人の会話が理解できるようになった。
七歳になると、メルク商会の重役の父に付いて国内外の色々な場所を見て回った。
そして、ディルが八歳のとき。どこかに城を建てたという貴族の子供の噂話が聞こえて来た。
それから一年後の九歳。とても優秀なディルに、グラジオラス辺境伯城砦へ行ってみないか? と、祖父が勧めたのだった。
ディルは、それなら行ってみるか、と軽い気持ちでグラジオラス辺境伯城砦へ行くことを了承した。
後に、ディルはそれを心底後悔したが・・・
グラジオラス辺境伯城砦に出入りするようになったディルは、そこで自分が秀才なのだと悟った。
ディルは、優秀なだけだった。
グラジオラスの城で学ぶ子供達は皆、優秀なことが当たり前で、優秀なだけではない子供達ばかりだった。所謂、天才。または、特異な能力に秀でている者ばかり。
文字を理解することのみに特化した鬼才の少女。格闘術に秀でた青年。特殊な体質で圧倒的な武力を持つ少女。骨を愛する青年。そして、噂に聞いた建築の天才少年などなど・・・
そんな彼らは皆、どこかがおかしかった。物事の優先順位や価値観が、普通ではなかった。
けれど、その誰もが、才能に満ち溢れていた。
そしてディルは、思い知る。
ディル自身は自惚れな性質ではなかったが、客観的に自分のことを優秀だと思っていた。
けれど、自分は他の子供よりも多少賢かっただけだったのだと気付いた。
他の子供よりも、少し早く字が読めるようになっただけ。他の子供よりも数年早く計算ができるようになっただけ。他の子供よりも早く大人の会話が理解できるようになっただけ。
そんなことは、天才達の前では全てが霞む。
年齢を重ね、学べばある程度誰にでもできること。ディルはただの秀才に過ぎなかった自分と、天才と称するに相応しい彼らとの、圧倒的な差を思い知らされた。
同い年のヴァルクと同じことを習っている筈なのに、ヴァルク程に深く理解することができない。
自分の方が学習が遅れる。いつの間にか、ヴァルクの方がディルの先を行っている。
今まで、そんなことは一度もなかったのに・・・
端的に言えば、ディルは彼らに出会って挫折を知った。己の分を、弁えてしまった。
その少し後に、馬が大好きで堪らない少年や、医者になりたい少女、農学を学びたい少女が城へ通うようになった。
ディルよりも年下の彼らだったが、やはり彼らも天才だった。
しかし、そんな天才達の中に、普通の人間が混ざっていた。ディルは自分と同じく、天才ではない優秀なだけの子供を見付けた。そして、安心した。
それは、騎士になりたいという少年と、圧倒的な美貌を持つ大変美しい子供の二人。
騎士になりたい少年ヴィルヘルムは、明らかに努力型。暴食の野獣と称されるベアトリスには、全然届かなかった。
ディルは、ヴィルヘルムには剣で敵うことはなかったが、それでも彼の才能が非凡と称するには値しないことを見てとった。
そして、美貌の子供ヘリオスはロディウスに格闘術を習わされていたが、ディルが見ても才能があるとは思えなかった。だというのに、物心付く前から護身術を叩き込まされ、身体ができたらベアトリスに剣を教えられるのだそうだ。
いきなり普通の幼児が暴食の野獣の師事を受けられる筈もないので、ロディウスでワンクッション入れるのだそうだが・・・
まあ、ヘリオスはあの顔だ。自衛の為の手段としての武術なのだろう。仕方ないとは思うが・・・ディルはヘリオスを憐れに思った。
しかし、天才達の間に秀才である自分が混ざっていることが苦しかったディルは、その普通の範疇にいる彼らがグラジオラス辺境伯城砦に来たことを、嬉しく思った。
ディルはヴィルヘルムとヘリオスという普通の子供が城にいることに安堵を覚えたが、それでもその安堵感は一時のものだった。
やはり、ディルは天才達には及ばない。また、苦しくなって来ていたときだった。
ヴァルクが、「旅に出ないー?」と、ディルに誘いをかけて来たのは・・・
ディルは、ヴァルクのことを少し苦手に思っていたが、嫌いではなかった。
だからディルは、その誘いに軽々しく乗ってしまったのだろう。グラジオラス辺境伯城砦から逃げ出したかったことも含めて・・・
建築家らしく、用意周到なヴァルクが誘ったのは、商人予定だったディル。騎士志望だったヴィルヘルム。獣医師志望だったパトリック。
そして、四人で仲良く? と言えないこともなく、旅に出たワケだが・・・
ヴァルクの諸国漫遊城見学の旅は、なんかこう、凄くアレだった。
ヴァルクの用意周到さは、人選までだった。
ディルに言わせれば、自分以外の全員が、物凄く馬鹿だった。
ヴァルクは最短距離で目ぼしい城や建築物を数多く巡ることだけに邁進し、ヴィルヘルムは腕を磨くことだけに執心し、パトリックは馬のことだけしか考えていなかった。
ディル的には・・・手前ぇら全員、一応仮にも貴族の坊っちゃんだろうがっ!? なんでわざわざ裏道、裏街道、犯罪者共の巣窟を迂回せずに突っ込んで行くっ!? 最短距離? はあっ? 馬っ鹿じゃねぇのっ!? 死んだら意味無ぇだろっ!? ってか、ついでに盗賊団殲滅させるとか正気かっ!? はあっ!? なんか城に泊めてくれた貴族に毒とか盛られてンだけどっ!? なんか暗殺者的なのに狙われたりしておかしくねっ!? という、かなりヤバい感じの、兎角波乱万丈な旅路だった・・・
偶に馬よりも貧相な食事になったり、路銀の確保や安全ルートの確保、その他諸々にディルはとても、とても腐心した無茶苦茶な旅だった。ディルのその苦労を無駄にした馬鹿共を、殺したいと何度か本気で思ってしまう程に・・・
ロディウスに護身術習っていて良かったと、心底から思った。多分、誰か一人でも武術を嗜んでいない奴がいれば、全滅していただろう。それも、片手の数では足りない回数は。
グラジオラス辺境伯領に帰って来て、二度とヴァルクとは旅をしないと決めた。
そしてディルは、ヴァルクがグラジオラス辺境伯城砦に無期限預かりとなったことを慶んだ。・・・のだが、なぜかあの三人とは腐れ縁ができてしまった。なんだかんだで、不思議と付き合いがずるずると続いてしまっている。
更に、図らずもあの旅で色々と学んでしまったディルは、諜報員として非常に有能になってしまったようだった。
諜報員として得た情報を商人として活用したら、メルク商会で出世した。
メルクは実力主義なので、実力が無ければ身内とて優遇はされない。平のままで終わる重役の身内だって沢山いる。
しかしディルは、間違いなく有能だった。
十代が終わる前には重役の席に着いていた。
そして、メルク商会では要職にあるメルク姓を持つ男は、必ずジャンという名前を名乗らなくてはいけない。ちなみに、女の方はアンヌとされている。
ジャン・ディル・メルクと名乗るようになったディルは両方の情報を上手く使って立ち回り、商人としても、諜報員としても出世した。
代わりに、知らなければよかったと思うような情報も沢山知ってしまったが・・・
既に手遅れ。ディルは今更、諜報員を辞めることなどできはしない。
グラジオラスの梟を辞められるとすれば、死ぬときだと決まっている。死にたくないなら、老齢や怪我、病気などで引退するまでは、現状維持を続けるのがベストだ。
そして、非常に不本意なことに、グラジオラス辺境伯城砦に通っていたディルには、変人共の相手は慣れているだろう? と、ばかりに、変人の相手やお守りなどを頼まれることがしばしばある。
シュゼットやエステバン、ベアトリス、フィオナにパトリック、リディエンヌ、そしてヴァルクの幼馴染連中などが気軽にディルを呼び付けて用事を言い付けるのだ。ロディウスは上司なので除外。
迷惑なことに、どうもあの変人共は、なにか欲しい物や大きな買い物をするときにはディルを呼べばいいと思っている節がある。
連中はみんな口を揃え、「ディルが一番話が通じて便利だから呼んだ」と言うのだ。
お陰で、メルクの方でも変な風に気を回して、天才共の妙な依頼を、大概ディルに回して来る。大変迷惑なことに・・・
諜報員としても、商人としても、なぜか幼馴染連中とは縁が切れない。
こうして縁は腐って行くのだろう・・・と、ディルは半ば諦観を抱いている。
※※※※※※※※※※※※※※※
ディルは本の注文と配送の手配を済ませると、ぶつぶつと聖書に謝っているシュゼットに声をかけた。
「・・・シュゼットさん、そろそろ次の書店へ行きますよ」
「っ!? あ、はい! ? ところでディル君、さっきの人はどうしたんですか?」
バッと顔を上げたシュゼットが、きょろきょろとディルの後ろや店内を見渡す。
「ああ、先程の方なら、帰りましたよ。なんでも、急用を思い出したそうです」
「そうでしたか・・・それは残念ですねぇ……」
「・・・なにが、残念だと?」
神聖言語で書かれた稀少本だとして偽書を持ち込み、それを鑑定で指摘されて激昂、シュゼットに殴り掛かって返り討ちにされ、それに対して罵倒と脅迫をしたような男が穏便に帰ったというのに、それを残念だと言うシュゼット。
ディルには全く以て意味不明だ。
「この本なんですけど、神聖言語ではありませんが、それなりに貴重な本なんですよ♪」
にこにこと上機嫌な顔で、男が忘れて行った本を捲るシュゼット。
「私が買い取ります♪」
「・・・それはシュゼットさんへのお詫びに差し上げるそうなので、代金は結構だそうですよ?」
面倒になったディルは、そう答えた。
「わ~♪本当ですかっ!? いい人ですね♪」
本をくれるのならば、悪人でもいい人認定をするシュゼットにディルは呆れ果てるが、言っても詮無きこと。
「・・・ところで、シュゼットさん。その本にはどんなことが書かれているのですか?」
「これはですね、主に甘味となる植物と甘味料の生成方法の構想でしょうか? 世界各地の植物……砂糖きびや砂糖楓、大根や甘葛、蜂蜜、変わりどころだとチューリップの球根などから甘味料の生成を考えてみたという風な文章が、東西南北の少数民族の文字を継ぎ接ぎして記されています。これ書いたの、きっとものすっごく頭良い人ですよぅ♪」
「その情報、買いました! では、シュゼットさん、今すぐグラジオラスへ帰りましょう! そして、その本を直ちに翻訳してください!」
即決したディルは頭の中で必要な物のピックアップと、新商品開発の為の研究予算を弾き出し、開発部署の人選や予定、利益計算、その他諸々を高速で組み上げて行く。
ディルは変人達の必要としている物を見極めて、彼らの望むことを実現可能な範囲に落とし込むことがとても上手い。
だから彼を、皆が重宝して便利に使うのだが、本人はそれに気付かない。それを誉められても本人は全く嬉しいとは思わないだろうが、こうしてディルは自らどんどん深みにはまって行くのだった。
本人に、その自覚は無いが・・・
読んでくださり、ありがとうございました。
ディルとヴァルクは姫と交代前の、ギリギリで賢者の世代となります。
そして、リヴェルドはその頃には既に修道士になっているので、城にはいません。
ちなみに、チューリップの球根は激甘らしいのですが、チューリップの品種に拠っては毒性があったり、農薬という問題があるので、食用に栽培されたチューリップ以外は食べると危険です。お気を付けください。