She
___人間が嫌いだった。
男も女も、皆同じ形をしたものが男には恐怖以外の何物でも無かった
その男の目が手を映す、それならば誰もが手の形を把握しようとするだろう。
だが、その男の目に映るものは爪と皮だった。
長い爪は獣の様で、切り揃えた爪は牙にも見える
獣という例えを差し引いてもなお研ぎ澄まされた刃物の様に見えると男は語る。
爛れたような皮は男の目には枯れた花のように見えた。
色が変わり硬くなった手には恐怖しうげた皮の痕は生理的な不快感を覚えた。
"それでも、男は人間達と共に生きると決意した。"
当然な話だが、男は何処にでもいるただの人間だ。
人間に似た形の手、似た形の足を持ち同じように言葉を放つ
男は自分の容姿を知らない、自分の姿を見た事が無かったのだ。
だからこそ、男は自分が全く同じ人間である事に気付かなかったのかも知れない。
彼らが紡ぐ言の葉を握り潰し踏み付けずっと聞こえないフリをしていた。
そうすれば、誰も彼も自分に興味を示す事は無い。
だからこのままで居ようと、自分の世界を創った
雑音だらけだが接触さえされなければ此方のモノだ、邪魔だけはしてくれるな、と。
『見ろよ、アイツまた寝たふりしてるぜ』
嗚呼、いっその事このまま寝てしまいたい、だがそれは許してくれないだろう。
必死に堪えているのを察してくれはしないのか。
『噂じゃ、人間が嫌いなんだってさ』『なにそれ、自分だって人間じゃん』
分からない、何がそんなに可笑しいのだろう。
その噂は本当だから何も言う事は無い
けれど、嫌いなモノは嫌いなんだ どうしてそれだけで哂われなければいけない。
落ちる針の様な些細な音すらこの耳は拾い続ける。
ポツポツポツポツ、音は次第に大きくなっていく、耳障りな音は次々と…
ゴロゴロゴロゴロ、地響き、落雷、例えるとすればそんな音だ。
__静かにしてくれ、そっとしておいてくれ。
握り潰し、踏み潰す。
一つ一つ言葉を殺す、それでもまだ足りない。
零した言葉は再び自分の頭の中で再生される。
『気味が悪い』 『気持ち悪い』 『視界に入るな』
煩い、そう思っているのなら見なければ良いだろう。
そうだ、…そう思っているのなら、お前が引けばいい。
お前が関わらなければ良いんだ、お前が消えてしまえば____。
目の前に立つ女の胸に筆ペンが深々と突き刺さっていた。
白い服に赤い赤い染みが広がっていく、それはゆっくりと布地に馴染ませるような速度だ
苦悶の表情を一度浮かべた女は暫く経つと糸が切れた人形の様に躊躇う事無く地面に叩きつけられ
その直後悲鳴が響き渡った…その声は確かに覚えている
人間達の大合唱、こうして聞くと悲鳴だけは悪くない。
小さくボソボソと雑音を流し続けるよりも腹の底から大きく声に出したほうがどちらも気分は良いだろう。
普段ならばあまり音を発する事のないこの口が密かに声を挙げた。
頬が釣り上がり、ケタケタと微弱な音を出し始める
釣り上がる口は依然元に戻る気配は無い、それどころか口が裂ける勢いで開き続ける
笑っている、と理解出来るまでどれほど時間を要したのだろうか
しばらく天井を見つめ立ち尽くし、それが理解出来た途端疑問が湧いた。
これが自分の『愉悦 興奮 快感』だとしたら…
そんなまさか、生まれて半生程度ではあるが何に対しても興味を示さなかった男が途端に悦びを得たと…?
誤っている、何かの間違いだ。
あれ程までに嫌悪していた人間の声が今や教会の鐘の音に勝るとでも…?
納得出来無い、受け入れられる訳が無い。
それでも震える身体は恐怖のそれとは全く違う、明らかな感動であった。
頑なに否定し続けたいわけでは無い。
ただ、それが所謂感動であるならば それを証明する物が必要だ。
例えるならば、テーブルにチーズを出されただけであれば食事に上がりたい気持ちは湧かない。
そう美味である筈だが味気ない、こんな物では食指が動くことなどあり得ないのだ。
…まるでその注文に応えるかの様に、それは添えられていた 極上なまでの"美酒"だ。
足元に倒れ動く事のないその姿はこの地に絶えず振り続ける雪の様に可憐だった。
白い肌を冒し尽す、朱。動かない瞳と無防備な程に広げられた手足。
手を伸ばし美酒に触れる、冷えたその温度は尚更その男の興奮を高めていく
触れる快感に知る愉悦…ヒトは、こんな形をしていたなんて思っていなかった。
食わず嫌いだったのだろうか…違う、男は其処で気付いた。
人の造形を恐れていたのではなく、その裏側に潜む不必要なモノ。
声が、吐息が、言葉が、感情が……考え出したらキリが無い。
男は、動く事のない女の骸を赤子の頭を優しく撫でるような手つきで触れる。
この快楽を長く長く味わう為に。
出会えた愉悦を深く深く味わう為に。
…いや、何よりもその姿形を忘れぬように、と
男は、一人乾酪と美酒に舌鼓を打った。
その光景に誰もが言葉を失った。それは、凌辱以上の狂気。
乱れた髪は丁寧に整えられ、服は再び丁寧に着させられていた
手は丁寧に膝に置き口には紅が塗られ、艶やかな姿は質素な教場に相応しくない程目立っていた
その隣に、身体に触れぬようある程度のスペースを開け座り込んでいた男が居た。
男は学者たちを見ると、面妖な笑みを投げかけた。
そして男はこう語る、"出来る事は全てした、もう疑問は何一つ無い"のだと___。
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日差しが男の瞳を照らす強い光が目を焦がす感覚。
嗚呼、起きている もう朝になっていたのだ
「…夢か。」
それは自分にとって遠い遠い記憶。
たった数年前の出来事がこれ程までに遠く感じる。
満たされなかった日々が、惰性に溺れ続けた日々が今では懐かしい。
あの日以来、元の学生に戻る事は出来なくなり
遠い孤児院に引き取られ厳重に育てられたが、牢獄と変わりは無かった
別に家畜の檻に押し込められた訳ではない、それどころか自由はあった
けれど、そこの笑顔が俺にとって拷問と変わらず……。
「いっそのこと、忘れてしまいたいと言うのに…」
あの日の自分を苛む者達の不自然な笑顔は人間が想像する悪魔よりも恐ろしかった
動き続ける口も、動き続ける表情も全てが悪夢だった。
「もう良い、さっさと朝食を……」
いつもの様に牛乳と、湿気た菓子を口に入れようと机に向かい歩き始める
男は、食にこだわりが無い 遠い街に居る美食家の様に難癖をつける事も無ければ
味の悪い料理を出されようが文句一つ垂れる事もなくよく噛まずに飲み込み栄養を摂取する。
詰まる所、腹が膨れて活動する力が十分に手に入ればそれで良いのだ。
テーブルに置いてある袋詰めにされているクッキーを手に取ろうとする
その横に、一枚の紙が置かれている…内容は。
"甘いのは食べたあときんし"
一般の者なら理解するのに時間が掛かるであるこの書き置き。
理解出来た所で斜め上の解に導かれる可能性がある、言葉の使い方。
「…つまり食後に食べろ、これを朝昼晩の食事に取り入れるな、って事だな。」
こんな頓珍漢な書き置きを残すのは彼女しか居ない。
男は、一つ大きな溜息を吐くと居間へと足を向ける
一度自室の扉を開けば良い匂いが鼻をくすぐる、香ばしい匂いだ。
階段を一段づつ降りる度に胸が高鳴る、当たり前の様に彼女が其処に居るのだ。
「あっ、やっと起きたのね もう、お寝坊さん。」
階段が軋む音で此方に気付いたのか
彼女は呆れるフリをしつつ朝食の準備をしていた。
「丁度良い時間だと思うんだが」
「駄目、本当なら私より早く起きなきゃいけないのに」
「無茶を言うなよ、それこそお菓子に手を出しかねない」
彼女はムッとした表情でカタカタと此方に歩み寄り口元をじっと見つめ冷たい指先で唇に触れる。
「…うん、食べてない もうドキッとするでしょ?」
「なら、少しの寝坊くらい許してくれ 空腹は別に構わないが吐き気まで感じるなら自然と手にしてしまうぞ」
忌々しいと言わんばかりに二階を見つめた後、彼女は意地悪く舌を突き出して見せる
本来ならばきちんと自分の管理は自分でしなければならないという事は理解している。
だが、彼女がこの家に住む前から俺はだらしのない生活を送って来た
一度慣れた生活スタイルを見付けてしまえばヒトだろうが獣だろうが抜け出す事は困難だ。
「全く…俺は、栄養摂取が出来れば何でも良いと言うのに…」
「もう、またそんな事言うんだから。私が嫌なの放っておいたらずっと自室に居るじゃない」
「…仕方が無いだろう、もうすぐで服が完成するんだ。」
彼女は驚いたようにえっと声に出すと木製の皿にシチューを入れ
パタパタと此方へ近づいて来た。
「それって、もしかして…私の服?」
「…チッ。」
気付くのが早いと胸の底から生じた嫌悪の音が彼女にその通りだと告げる。
言わなければ良かった、と頭を抱えこむも時すでに遅し。
彼女は飛び跳ねその勢いを残したまま抱き付いて来た。
……軽い、やはり彼女はとても軽い。
「また新しく作ってくれるのね、私これからも一生懸命お世話を頑張るわ!」
「今のままで十分だ、それ以上張り切られると困る。」
彼女から返答は無く、再び踊る様に台所へ向かうと話題を変えた
「本当に嬉しいわ、私の楽しみの一つだもの。いつも商売の為にしか作らないんだから。」
「…仕方が無いだろ、お世辞にも収入は良いとは言えないんだ この街には碌な奴が居ないからな。腐った貧困者と我儘な成金どもばかり、一日でも無駄にすれば路地裏に居る連中の仲間入りだ。」
彼女は、手を止めると男へ視線を向け悲し気に言葉を放つ。
「やっぱり、ヒトは嫌い…?」
「…奴らは何を考えているか、分かったモノじゃない…。」
「お店に来た時はあんなに笑顔で歓迎しているじゃない…隣人のおじ様だって…」
「演技に決まっているだろ、気にかけているフリだ あの男に関しては商売敵だから技術を出来るだけ盗もうとしている、ただそれだけだ。」
彼女は、更に問いを返すわけでも反発する事も無く男の言葉を聞いていた
先程の笑顔が嘘の様に表情は暗く此方の目を見つめ椅子へと向かい座った。
「でも…でもね、皆、貴方に感謝しているのよ。」
「別に感謝されたいわけじゃない。」
目線を落とす、この街の人間の話をおかずに朝食など取りたくない。
男は適当に返していれば良いと近くにある水を飲む。
「いつも贔屓にしてくれてる人だって、貴方を尊敬しているわ。」
「思うのは勝手だ、俺がどうこう言う事じゃない。」
尊敬や感謝される覚えも無い
一度会えば忘れる人間の賛辞は逆に不愉快だ。
「ねぇ覚えてる? 私の提案で貴方が作った毛布、路地裏で凍えていた人達に配ってあげたじゃない?その人達、そのお礼にって皆で集めたお金でエールをくれたのよ。」
「家の無い連中のエール、か…安い感謝だ。」
「握手もしてくれたの、凄く凄く感謝しているんだよって私初めて___」
「待て。」
言葉を遮り、男は立ち上がり口に出す
「今、…なんて言った。」
その声は黒くどす黒く濁り怒りに満ちていた。
女は男のその気配に気付き隠そうとする事も無く言葉を放つ
「握手、してくれて__。」
その答えが男の逆鱗に触れ、女の答えを強制的に中断させた
女の頬に鋭く強い衝撃が襲う、その勢いに任せ女は地面に倒れ込み男の様子を見る。
「…その手で、俺に触れたのか。」
「……ごめんなさい。」
男は容赦なく追撃を片足へ与える大きく足を上げそして勢いよく踏み付けた
女の足はバリッと歪な音を鳴らし二つに分かれるそれと同時に女は先程漏らす事の無かった悲鳴を加減する事無く上げ始めた。
「脆くなっている丁度良い、替えの時期か…。」
男は壁にもたれ掛かる女に近づき腕を掴む。
荒い吐息を必死に止めようとする女に男は質問を続ける。
「どちらの手で握手をした、正直に答えろ。」
「…っ、みぎ、て。」
女は偽りを口にする事無く、正直に男の問いに答える
男は汚れた場所を把握すると女の上腕部分を掴み力を込める。
「あ"ぁッ…腕ごと、取っちゃうの…?」
男は躊躇う事無くそうだ、と口にする
残酷なその言葉へ女はごめんなさい、と返答し再び襲い掛かる決して逃れる事のない痛みを受け入れる体勢になった
一度強く引っ張られるだけでは腕は取れる事など無かった
二度三度と繰り返す度に女の悲鳴は激しさを増していく
六度目になったその時、女は初めて悲鳴を確かな痛みへの訴えに変更した。
耐えられない、痛い、苦しい…
それでも女は止めて欲しいと懇願しない。
男の深い深い傷を抉るような真似をしてしまった自分が悪いのだから。
数分にも及ぶ作業、十三度目 遂に女の右腕が取り外された
ゴトンと腕が取り外され最後の痛みを一心不乱に耐える
男はその腕を地面に置くと両腕で彼女をそっと抱きしめた。
「俺には、お前だけが居ればいいんだ …それだけで、俺は十分だ。」
「ご、めんなさい心配させてしまって、ごめんなさい…っ。」
微かに震える男の身体を左腕で抱き返す。
こんな事をしても、君だけは消えない
こんな男を放っておいてくれない、嫌ってくれない。
だからこそ、男はその身を焦がすような酸の愛に堕ちていく。
けれど、女は男が自らを愛する事を望まない…
そう、二人にはヒトが望む愛が存在しない
そして、この二人には愛しかない…狂人と割れ物のお話。
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女の身体に触れるその身は硬く、柔い
どうしても、彼女の願いへ近づける事が出来ない
男の感じる安心を得るために、またこれでは足りないのだ。
もっと柔く、そして中はもっと固くなくてはならない
脆い、どこまでも脆いその姿は完璧では無い。
自分の未熟を男は悔いる、本物に近づけられたのだから
それ以上の領域へ足を踏み入れる事など容易い筈なのだ。
それでも尚、未だ到達する事は叶わない。
「…壊してしまった腕と足は新しく作れた、繋げるぞ」
「はい、お願いします…。」
どうやら腕や足を付ける際にも痛みは生じるようで女はただひたすら、声を押し殺す。
男はそこで初めて自分の行いに対する謝罪をした
あれ程までの愉悦が彼女の悲鳴では感じられない、それどころか内側から壊れそうになる。
もしも、その悲鳴だけを残し君が動かなくなったとしたら…考えたくも無い。
「お前は、俺を置いて行ったりしないよな…」
傷付けたくない、危険に晒したくない
だからこそ歪んだ心は彼女へ訴え続ける、女は目を逸らす事無く彼に告げる。
「何処にも行かないわ。」
ずっと傍に居ると、彼女は新しい手足を動かしゆっくりと男に歩み寄る。
崩れかけた体勢を支え男へその身を預ける。
「…貴方を、貴方だけを愛しています。」
喉元まで登って来た言葉は空に吐き出されず喉に留まる。
伝えられないこの思いをいつか必ず彼女に、彼女だけの為に…。
その光景は男と女だけにしか知れぬ、狂気。
遠い街に佇む歪んだ二人の愛の形を知る者が事が居るとするならば
___辺りに、飾られた人の形だけだった。