記憶―愛されなかった子供―
「いつき。またあの夢見た。怖い」
「めい、大丈夫か。背中を擦るから安心して眠りな」
芽衣は、母の澄子に連れられ、五歳の時に谷田雅則の養女として育てられる事になった。澄子の腹には、既に雅則の子供を宿していた。腹が大きくなる澄子に芽衣は不安を覚えていた。
「お母ちゃん、わたしの事一人ぼっちにしないよね?」
「さあね、もしかしたらお母ちゃんは、お腹の子が芽衣よりうんと可愛くなるかもしれね―な」
この頃の澄子は、雅則と暮らすようになって、歯ぎしりばかりする芽衣に、うんざりしていた。臨月も近いのに澄子は煙草を吹かし、日差しが入らない台所でふんぞり返って座っている。
「お母ちゃん、わたしを一人にしないでよ。赤ちゃんが生まれたら、めいはどうなるの?」
芽衣は、色の白い顔を林檎のように赤くして、シクシクと泣いている。
「うぜ―ガキだな。オメ―が、この家に来たいって言ったんだろうよ」
澄子は、まだ五歳の芽衣に、祖父母の元で暮らすか、谷田家の養女として暮らすかを選ばせていた。
「婆ちゃん」
芽衣は、祖母の美登里に持たされた新品の布団に包まり夜毎不安で泣いていた。美登里は、遠くから芽衣を心配し、時折電話をかけて来ている。
「芽衣。そっちで苦労はないか?」
電話越しで聴こえる美登里の声に、芽衣は心を解きほぐされていた。そんな、芽衣を雅則は面白くなかった。ある夜、芽衣がコタツの上にある、みかんを剥いていた。
「おい養女。随分と偉そうに」
芽衣の頭を丸めた新聞紙で叩いた。
「なんで、父ちゃん叩くの?」
芽衣は、目に涙を溜めながら、みかんをコタツの上に置いた。
「俺の稼ぎで買ったみかんだ。オメ―みて―な養女が食うもんじゃね―んだよ」
芽衣のシャツの首元を掴み、引っ張った。
「父ちゃん。怖いよ。やめてよ」
泣きべそをかく芽衣を雅則は、冷たい廊下へ引きづり出した。
「これからは、この廊下で寝ろ」
襖を閉め、雅則が芽衣を虐める姿を見ても、澄子は平然と居間で煙草を吹かしている。
「あんた。ガキはほっといて酒でも飲みなよ」
咥え煙草で、グラスにウイスキーを注いだ。
「あ~お母ちゃん。悪いね~酒でも飲んで、ガキは放っておこうな~」
芽衣は冷たい廊下で体を震わせながら、頭の中で、美登里の作った甘酒をすする事や、美登里の買ってくれた布団で眠る事を考えていた。
澄子と雅則の間に千明が生まれてからは、芽衣に対する態度が日増しに酷くなった。
「ち~ちゃん、可愛いね~」
澄子は、千明に頬ずりをして雅則と一緒に昼寝をしている。芽衣は、その姿を羨やましそうに体育座りをしながら見つめていた。
『婆ちゃん。わたしはこのお家で一人ぼっちだよ。寂しいな』
心の中で、美登里に言って芽衣は寂しさを解消していた。
芽衣が、小学一年になった冬、テレビでは、大雨の予報を伝えていた。
「おい。芽衣。いつもの魚屋に行って秋刀魚を三匹買って来い」
澄子は、ビニール袋に三百円を入れて芽衣に渡した。澄子から久しぶりに名前で呼ばれて使いを頼まれ、やっと自分の存在を気にしてくれたんだと思った。
大雨の中、傘をさして魚屋へ歩いて行った。鼻歌を歌いながら近道を行き、細い畑道を抜けて行った。大粒の雨は泥水を飛ばし、白いハイソックスは茶色く染まっていった。
「谷田さん所の芽衣ちゃん、こんな雨の中、お使いさせられて可哀相に」
窓の外を眺めていた近所の年寄は、土砂降りの中、袋を下げて歩く芽衣の姿に心を痛めていた。
通りに出て『魚武』の看板が見えた頃、更に雨脚は酷くなり、家々の雨どいからは水がこぼれ出していた。
「オッチャン、サンマ三匹ちょうだい」
「なんだ芽衣ちゃん、今日は一人か?こんな雨の中、足も泥だらけじゃないか」
魚武の武田一郎は心配そうに声を掛けた。
「うん。お母ちゃんに頼まれたから芽衣は嬉しくて、鼻歌歌って来たんだよ」
「芽衣ちゃん。なら今日はサービスだ。パンダさんの絵が描いた箱入りソーセージをオッチャンがプレゼントしてやる」
芽衣が、魚武の一郎に三百円の入ったビニール袋を出すと、一郎は袋にハサミで切ったような穴が空けられている事に気づいた。中には、二百円しか入っていない。
寒さで頬を赤くしながら、芽衣が嬉しそうな顔で立っている姿を見て、一郎は一匹九十円のサンマを三匹袋に入れた。
「お母さん。袋に二百円しか入れなかったんだな。きっと間違えたんだ。でも、今日はサービスだ」
「うん。オッチャンありがとう」
芽衣は、箱入りソーセージの箱裏に書いてある、『なぞなぞ』を見ながらニコニコと笑い家へと帰って行った。
「お母ちゃん。サンマ買って来たよ」
「貸しな」
澄子は、袋を奪うように取って、中を確認した。
「おいガキ。金盗んだだろう」
「お母ちゃん?袋の中には二百円しか入っていないってオッチャン言ったよ」
「バカガキ。そんなはずはね―」
「本当だよ。オッチャンがサンマはサービスって言ってたよ」
「ガキ。嘘つくな。私は確かに三百円入れたんだ。や~ぱり、金を盗んだな」
目に涙を溜めて必死に盗んでないと訴える芽衣を澄子は突き飛ばした。
「おい、ガキ。私は間違いなく三百円入れたんだ。百円足りね―ならテメ―が袋にでも穴開けて落としたんだろうが。ほら探して来い」
土砂降りで風も吹き始めた夕刻、芽衣を外に出した。傘もささず芽衣は、魚武へ行った畑道の泥を掻き分け、必死に百円を探した。
その頃、澄子は仕事から帰って来た雅則に穴を空けたビニール袋の話をして、ヤニで黄ばんだ歯を見せながら笑っている。
「お母ちゃんも、なかなかの意地悪だね~」と、雅則もニヤついた。
辺りが真っ暗になった頃、芽衣は手探りだけで百円を見つけた。
「あった~」
泥だらけの手は、冷たくなり、感覚がなくなっていた。
芽衣は、かじかんだ両手で百円を挟み、お釣りを貰いに魚武へ走った。
「オッチャ~ン百円。わたしが落としちゃったんだ。百円渡すから、三十円のお釣りちょうだい」
魚武の一郎は、泥まみれの芽衣に言葉が見つからず、一郎は芽衣を抱き寄せた。
「めいちゃん。母さんと父さんに虐められてるんだろう?」
オヤジは、年甲斐もなくボロボロと泣いて、冷たく真っ赤な頬を、手で温めた。
「寒かったろう~なあ、芽衣ちゃん寒かったな~」
「わたしは平気だよ。お母ちゃんも父ちゃんも好きなんだ」
それでも芽衣は、父母を悪く言わなかった。
一郎は、タライにお湯を汲み、冷え切った芽衣の手を温めさせ、手拭いで泥を流した。そんな芽衣の気持ちとは対照的に、父母の虐めは更に酷くなっていった。
小学二年生の秋――――――
この頃、芽衣は学校を休んで一日中、澄子が請け負った内職の仕事を廊下でやらされていた。固く冷たい廊下に正座で作業をさせられ、痺れても足を崩す事すら許されない。時折、澄子が様子をうかがいに来ては製品の仕上がりをチェックしていた。
「な―に、もたもたやってんだ。クソガキ。朝までに、ぜ―んぶ仕上げてもらわないとね」
そんな芽衣をよそに、父母は、千明をベビーチェアに座らせ、テレビを見ながら夕飯を食べている。
「お母ちゃん。わたしのご飯は?」
芽衣は、痺れて感覚のない足で廊下に立ち、居間にいる三人を見つめながら言う。すると、雅則が席を立って台所へと歩いて行き、米櫃から生の米を握り、庭へと撒いた。
「ほれ、養女。飯が食いたきゃ、拾って食え」
空腹の芽衣は真っ暗な庭に出て、一粒、一粒、米を拾い集めている。
その姿を、澄子はうっとうしそうに見ていた。
「おい。ガキ。米など集めても炊かないよ。生のまま食うんだな」
芽衣の心を粉々に砕いた。
芽衣は砂の着いた米粒を「ふ―ふ―」と息を吹きかけながら口へと運んだ。芽衣は、唾液を飲みながら米粒を奥歯で砕きながら食べた。
「おい。養女。俺は、生の米など食ったことがないが、味はどうだ?」
雅則は、氷の入ったウイスキーグラスを転がしながら芽衣を愚弄した。
「美味しい。お父ちゃん、お米美味しいです」
「お母ちゃん。養女はいやしいね。生の米が美味いってさ。俺達の食う米は光って艶々のフカフカなのに、養女は生が良いってさ」
「あ~そうだね。雅則。ガキはいやしくて見ているこっちが、ムカムカするね」
この頃の澄子は、芽衣の声を聴くだけでも癇に障っていた。家に入っても風呂の湯で体を温める事も出来ない芽衣は、冷たく固い廊下で正座し、内職の続きをさせられる。
「ゴホン。ゴホン。」
「養女。うるせ―。咳をするな」
風邪をひいても、芽衣の休める場所など、この家のどこにもない。咳を我慢して小さな手で口を押えながら明け方まで作業を続けた。
翌日、芽衣は千明のオヤツを買いに出されていた。体は痩せ細り、力なく歩いていた。
『ピッピ―――』
睡眠不足と精神疲労で身体も心も衰弱した芽衣は、うつむいたまま道を渡り、車のクラクションの音すら聴こえていなかった。芽衣と接触事故を起こした男は、慌てながら倒れた芽衣に駆け寄った。
「大丈夫。ねえ、君」
芽衣は、足に擦り傷を負った程度の軽傷だった。
雅則と澄子が家で飯を食っていると、芽衣を連れた男が謝罪に来た。
「御嬢さんと接触事故を起こしてしまって。お詫びに来ました」
男はそう言って肩を縮め、澄子に頭を下げた。澄子は何かを閃いたように、居間にいる雅則元に駆け寄り小声で話す。事情を聞いた雅則は、顰め面で男の前に現れた。
「すみません。申し訳ございません」
玄関先で膝を着く男に、
「家の大事な娘に怪我なんて負わせて。将来後遺症でも出たらどうしてくれる」
と、雅則は怒鳴りつけた。男は仕事上の立場を話し、何とか保険を使わず、家族にも内密にしたいと言い出した。
「なら、それなりに慰謝料を貰いたいもんだ」
雅則は金を要求した。男から十万円を受け取り、その金は雅則のパチンコ代や澄子の美容代に消え、芽衣には何もなかった。
簡単に高額なあぶく銭を手に入れた雅則は悪癖に火がついた。
「養女。飯が食いたきゃ、また接触事故でも起こして来い。テメ―の食いぶちくらい稼いできやがれ。家に置いてやってんだ」
「お父ちゃん。めい、事故は怖いよ」
「オメ―は養女だ。オメ―なんかこの家では邪魔者なんだよ。それが出来ないなら出て行くんだな」
産みの親の澄子も同調し、既に親としての感情はこれっぽっちもなかった。芽衣の顔は、目の周りが薄く黒ずみ、栄養不足で口の中は口内炎が沢山できていた。この頃、学校では職員会議が開かれ、登校してこない芽衣が虐待されているのではないかと、疑念を持つ教師たちが多くなっていた。担任の黒澤が家に訪ねても、澄子は甲高い声で、愛想を振りまき、嘘をついて芽衣を会わせなかった。
それから芽衣は、毎日交通量の激しい交差点に出て往来する車を目で追っていた。迫って来る車を雅則と知り合う前の、まだ優しかった頃の澄子の笑顔と錯覚した芽衣は、車道に一歩足を踏み込んだ。
「お母ちゃん・・・・」
「めいちゃん。危ない」
魚武の一郎が、車に飛び込もうとする芽衣を見つけた。
「めいちゃん。何してるんだ」
一郎は、長時間道路に立っていたのであろう、冷えた体の芽衣を抱きかかえ、自分の家まで連れて帰った。
「めいちゃん。こんなに痩せ細って」
一郎は声を詰まらせ、芽衣に毛布を掛け、魚肉ソーセージを食べさせた。
「和恵。飯炊いてくれ」
一郎の妻の和恵は、飯を炊き味噌汁を作りながら台所で涙を呑んでいた。和恵が、芽衣に炊き立ての白飯を出すと芽衣は、むさぼりつくよう白飯を食べた。
「めいちゃん。今日はオッチャンの所に泊りな」
「めいは平気だよ。お父ちゃんとお母ちゃんが心配するから帰るよ」
一郎は、それ以上言えず芽衣を家に帰した。
『このままじゃ、芽衣ちゃん殺されちゃう』
急を要すると思った魚武の夫婦は、谷田の家から芽衣を保護するよう役所へ要請した。
家に帰った芽衣は、廊下に立って雅則をじっと見つめる。
「おい養女。なんだ、その目つきは。客はどうした?」
雅則は、昼間から酒を浴びて酔っぱらっている。
「お父ちゃん。事故は良くないよ。悪い事はやめようよ」
その言葉に腹を立てた雅則は、持っていたグラスの酒を芽衣の顔にぶっ掛けた。
「もう、婆ちゃんの所に帰りたいよ」
その言葉に、雅則と澄子の顔は怒気をおび般若の様な鋭い眼光を座らせた。
雅則がウイスキ―の瓶を芽衣に投げつけ、瓶は、芽衣の頭に直撃した。その場に倒れ込んだ芽衣を澄子は、玄関に引きずり出した。
通報を受けた役所の職員が、芽衣の家に駆けつけたのは、その数十分後だった。
『ドンドンドン』
職員がドア―を叩くと、玄関の曇りガラスの向こうに女の子の倒れている姿が見えた。職員が中へ押しかけると、玄関先で頭から血を流し倒れている芽衣の姿があった。職員は芽衣を保護し、救急車を呼んで病院へ運んだ。
病院で処置を受けた芽衣は一命を取り留めたが、意識は戻らず眠り続けた。
「芽衣ちゃん。このまま起きないかもしれない」
医師達もそう言って、険しい顔を見せていた。魚武の夫婦も頻繁に病室へ見舞に来ていた。
「芽衣ちゃん。早く助けてあげられなくて、ごめんな」
魚武の一郎は嗚咽を漏らしズボン端を握っていた。
芽衣が目を覚ましたのは、病院に運ばれてから三か月が経った頃だった。
「ここはどこ?」
看護師の富樫は、芽衣の言葉に慌てて医師の片瀬を呼んだ。
「先生。芽衣ちゃんが目を覚ましました」
片瀬が、芽衣の部屋に駆けつけると、芽衣は、自分が何故病院のベッドにいるのかも分かっていなかった。
「わたし、どうしてここにいるの?」
「自分のお名前言えるかな?」
「え?芽衣だけど」
「じゃあ、芽衣ちゃんの家族は?」
「分からない」
幸か不幸か、芽衣の記憶から谷田家での出来事は消されていた。
そして、芽衣は新たに人生をスタートさせる事になった。
退院の朝、迎えに来たのは児童施設で『林檎学園』の父母の先生だった。父は常本、母は石野という先生で、芽衣に優しく微笑んでいた。
「芽衣ちゃん。私達があなたのお父さんとお母さんよ。何も怖い事はないわ」
「うん・・・」
初めて見る父母の先生に戸惑いながらも、芽衣は白いワンボックスに乗り片瀬達に見送られた。
芽衣が、林檎学園で暮らし始めたのは小学校三年の春からだった。林檎学園は収容人数二十人ほどの小さな施設だ。学園で暮らして直ぐに、北村樹という中学校二年の男子生徒と出会った。樹は母子家庭で、病気の母は中学生になった樹を林檎学園に預けた。樹は病気の母親を気遣い、早く学園を出て母親に楽をさせてやりたいと思っていた。芽衣は、樹の事を「いつき兄ちゃん」と呼んで、学園内で、トランプで婆抜きをして遊んだり、クレヨンを使って芽衣は樹の顔を描いていた。樹も芽衣を、妹の様に可愛がり二人は夕食も隣同士で座った。ある夕食時、学園の先生やスタッフと食事を囲んでいると、おぼんを見つめていた芽衣が大きな声を挙げて叫んだ。
「いつき兄ちゃん。怖いよ―――」
「どうしたの?芽衣ちゃん?何があったの」
芽衣の元へ駆け寄った石野は慌てていた。これまで、芽衣は特に大きな声で泣くこともなくこの学園の中でも社交性のある子だった。
「芽衣。どうした?」
樹が芽衣の背中を撫でると、夕食のおぼんにある、デザートのみかんを見て泣きながら震えていた。
「めい。みかん食べたら、ぶたれる」
この辺りから、芽衣の記憶は、頭の中で少しずつ再生され始めていた。夜中に「怖い夢をみた」と言って、常本と石野を呼ぶ事もしばしばあった。
「髭の男と、目のキツイ女が私をぶつんだ。そして、めいはその二人に殺されちゃう」
「芽衣ちゃん。大丈夫。もう怖くないよ」
夢の内容を聞いた石野は胸を痛めながらも、芽衣の手を握り落ち着かせ、眠らせていた。
十六歳になった樹は、地方の新聞屋で住み込みの仕事をすることになった。樹が施設を出て行く時、「お兄ちゃん。めいを、いつか迎えに来てね」と言って、芽衣は手を振りながら見送り、樹とはそれきりになっていた。
芽衣は、十八になるまで学園に残り、十八になっても芽衣は、未だ髭の男と目のキツイ女に暴力を振るわれ、殺される夢を見続けた。
パソコンを覚えた芽衣は、施設から小一時間の距離にある「桜製作所」という、家族経営の鉄工所で事務の仕事をする事になった。常本から芽衣の事情を聞いた鉄工所の主は、二階で住み込みをしながら、皆で暮らす方が彼女には良いだろうと言った。
「芽衣ちゃん。いつも真面目に頑張ってくれて助かるよ~」
鉄工所の女房からはそう言われて、工員の皆からも可愛がられていた。
ある日の午後、いつもの様に青葉運送の年配トラックドライバ―の古川が入ってきた。
「こんちわ―。めいちゃん伝票出来てる?」
芽衣は、古川に用意していた伝票を渡たした。
「めいちゃん。俺、もう歳だから今日限りでトラック降りるんだよ。明後日から若いのが来るから宜しくね」
「古川さん。長い間お疲れ様でした」
少し寂しさを覚えた芽衣の瞳は、かすかに潤んでいた。
翌々日、青葉運送のトラックが表の通りにハザ―ドランプを点けて止まった。
「新人大丈夫か~うちの工場は狭いぞ―」
社長の桜井は心配そうに声を掛け、大きな声を挙げ、バックで侵入してくるトラックを誘導している。桜製作所は、出入り口が狭く、荷積み場までの道は木々が覆いかぶさり、新人の運転手達の登竜門になっていた。
「お兄ちゃん。上手だね~」
桜井の心配をよそに、ピタッと一発でトラックを着けた若い男は運転席から降りてきた。
「こんにちは。今日から、ここを担当する北村です」
事務所に入ってきた運転手に、芽衣は目を丸くした。
「いつき兄ちゃん?」
「え?め・・い?」
二人は、樹が施設を出てから運命的な再会をした。その時の樹の顔は真っ赤になり、十八になった芽衣の姿に心を奪われた。芽衣も、樹を見て惹かれて行き、芽衣は樹とメ―ルの交換や、携帯で話すようになる。 樹は、芽衣と再会してから三か月後、桜製作所へ荷積みで行けなくなっていた。不思議に思った、樹が芽衣に聴くと、これまで聴こえていたはずの、鉄骨の擦れ合う音も、機械の音も静まり返っている事に気づき、芽衣に聞いた。
「ウチの工場。もう終わりかもしれないの」
樹は、電話越しから芽衣を心配になった。工場が倒れたら芽衣の行場所がないと思った樹はこう言った。
「俺の住む街で一緒に暮らさないか?」
そう切り出し、芽衣を自分の元へ連れてこようと休みの日、桜製作所へ向かった。その前に、樹には寄る場所があった。林檎学園を出てから遠方に働きに出ていた樹は数年ぶりに学園の門をくぐった。中には、暫く見ないうちに白髪の増えた石野が樹を見て目を細めていた。
「樹君?」
「はい。ご無沙汰しています」
「な~に。こんなに立派なって。随分カッコ良くなっちゃったね」
「先生・・・・・」
「どうかしたの?何か、向こうで困った事でもあったの?」
「いえ。先生。俺、芽衣と暮らそうと思うんです」
「え?芽衣ちゃんと?芽衣ちゃん、確か・・桜さんのとこで働いていたわよね」
「はい。俺、最近まで、桜製作所に出入りしていて、芽衣と再会したんです」
「あら、そうだったの。樹君は今どこに住んでいるの?」
「はい。あれから仕事は変わって・・今はアパートで独り暮らしです」
「そう・・それで、今はどんな仕事してるの?」
「大型トラックの運転手です」
「あら、そうだったの~みんな樹君の事どうしているかなって心配してたのよ」
「ご心配かけて、すみません」
石野は、樹の姿に目頭を熱くし、メガネを外してハンカチで目を抑えた。
「先生。今日は、芽衣の事で気になる事があって来たんです」
「樹君。もしかして芽衣ちゃんと結婚するの?」
「はい。俺はそのつもりです」
「そう。あの子ね、両親に虐待を受けていたの。瀕死の状態で市の職員が見つけて」
「そうだったんですか・・・・・」
「病院のベッドで三か月間寝たきりで。もうダメかもしれないってところだったのよ」
「芽衣の、夢によく出てくる髭の男と目のキツイ女の話知っていますか?」
「うん。それ、きっと芽衣ちゃんの両親の事よ」
「そうでしたか」
「あの子と結婚するんだったら覚悟が必要よ。樹君」
「分かっています。でも俺、芽衣を一生大事にしますから」
樹はこの時、芽衣は記憶を失くしてから、夢で過去の出来事を再生していたいたんだと思った。
樹は、石野に見送られ桜製作所へ向かった。移動の車中で幼かった芽衣を思い出していた。あの頃の樹は、毎晩芽衣の泣き声で目を覚ましていた。まだ中学生の樹には、芽衣は両親に捨てられて寂しいのだろうとしか想像もつかなかった。芽衣の過去を大人になって想像すると、芽衣の両親に対する憎い気持ちが零れだした。いてもたってもいられず運転席のガラスを握った拳で何度も叩いた。
桜製作所に到着して、最初に出迎えたのは社長の桜井だった。
「芽衣ちゃんから聞いたよ。北村君、芽衣ちゃんと暮らすんだってな」
「はい。社長。芽衣を今までありがとうございました」
「ウチの工場もこの有り様だ。せめて北村君が芽衣ちゃんと一緒になってくれるならな。北村君。芽衣ちゃんを頼んだぞ。君と一緒なら芽衣ちゃんも心配ないな」
桜井は、実の娘を嫁に出すかのように、男泣きしている。
「社長」
荷物を持った芽衣が桜井の前に立ち、二人は桜井夫婦に深々と頭を下げた。桜井はゴツゴツとした分厚い両手で、樹の手を握った。
「北村君、頼んだからな。芽衣ちゃん、絶対に幸せになれよ」
「はい。社長も奥さんも、お元気で。ありがとうございました」
芽衣は樹の車に乗り込み、樹の暮らす街へと初めて行った。
芽衣は、樹との暮らしの中で幸せがいっぱいに詰まった。樹の、トラックの助手席にはいつも芽衣が座り、芽衣は、透き通る海を見て目を輝かせ、夜の街を見る芽衣の瞳は色とりどりを映していた。二人は、共有するトラックの狭い車内の中で言葉を交わす度に、将来を考え始めた。芽衣の眠るトラックの寝台で「いつき。また、怖い夢をみた」と泣く夜もあった。それでも樹は、芽衣の背中を撫でながら髪に口づけをして安心させて眠らせた。
「芽衣。話がある」
二人の生活が三年を迎えた頃、樹は、ある決意をして芽衣に切り出した。
「いつき?どうしたの?改まって」
「芽衣。過去を聞いても、何を俺から聞いても怖くないか?」
「私には樹がいるから何も怖くない」
「芽衣が見る夢の男と女は、芽衣の父さんと母さんだ」
「分かっていたよ。樹。お酒の瓶、投げられてわたしは倒れたんでしょ?」
「なんでそこまで、知っていたんだ?」
「昨日の夢で見たわ。でも。わたし、もう怖くない。だって樹が居てくれるんだもん」
樹は、言葉に詰まりながらも、芽衣にプロポーズをした。
「芽衣。結婚してくれるか?」
「うん。勿論」
芽衣も樹に改まった様に樹の両手を握りながらこう言った。
「樹。どうしても、お礼を言いたい人がいるの。今度の休みに一緒に来てくれる?」
「うん。いいけど。誰?」
「うん。酒板市に住んでいる人で、ここから遠いけど大丈夫?」
樹は、顔色を曇らせた。酒板市と芽衣の口から聞いて、あそこに行けばまた幼少期の事を思い出してしまうと、不安になった。
「樹。私がお父さんとお母さんの事を思い出してしまうって思っているでしょ?」
樹は暫く黙ったままだった。
「私は、平気だから。言ったでしょ、樹がいれば何も怖くないって」
樹は、次の休みに芽衣を連れて酒板市に車を走らせた。芽衣の暮らした酒板市を初めて走って、樹は胸が重くなった。
「樹。そこで止まって」
芽衣が指したのは、すっかり古びた看板の魚武の前だった。芽衣が車を降りて、魚武の店に入った。
「お客さん、美人さんだから秋刀魚安くするよ~」
すっかり様変わりした芽衣には、気づきもしなかった。
「オッチャン」
芽衣を見返し、一郎は持っていた秋刀魚を手から滑り落とし、目を何度も擦った。
「まさか・・・芽衣ちゃんか?」
「オッチャン。ありがとうって言いたくて」
「芽衣ちゃん。オッチャンを覚えてくれていたのか?」
「うん。オッチャンの両手とても温かかったよ。忘れていないわ」
一郎は、歓喜余って涙を流しながら、芽衣の脇で立つ樹に目をやった。
「わたし、この人と結婚するの」
「そうなのか芽衣ちゃん。今、幸せか?」
「うん。とても幸せよ」
「そうか。よかった・・・」
一郎は、今朝水揚げされた、大きな真鯛を芽衣と樹の前に出した。
「オッチャンからの祝だ」
芽衣は一郎に頭を下げた。樹も、芽衣につられる様頭を下げ、二人は一郎に見送られ店を後にした。
そして、芽衣は樹と空き家になった谷田の家の前に立った。樹は、谷田の家を直視出来ず、芽衣の背中をそっと撫でた。芽衣は、家をじっと見つめた後にこう言った。
「樹。帰ろうか」
芽衣は後ろを振り返らず、樹と酒板の街を見下ろす様に二人の暮らす街へ帰って行った。
完