030 黒百合の女
百合とありますが、百合とかそういうのは一切ありません。
この意味がわからない人は、どうかそのままの貴方でいてください。
それは朝の電車内でのこと。
人ごみでごった返す車内で、人が飛んだ。
飛んだというか、吹っ飛んだ。
少なくない乗客を巻き込んで、中年の男性が悲鳴とともに車外へと。
一瞬にして騒然となる駅構内。
駅員が駆け寄ってくるのが遠目に見えた。
その男が怒声とともに起き上がろうとした寸前。
車内から飛び出した黒い風が、男の顔面を蹴り飛ばす。
飛び散ったのは血と白い欠片。
それが歯だと気づいた一人の婦人が金切り声をあげた。
そして---
ダン
と、間断なく白い矢が男の右手を貫いた。
男の断末魔が上がる。
白い矢は一人の女性の足だった。
貫いたかに見えたのは錯覚で、しかし彼女の足は的確に男の手を踏み砕く。
そして、躊躇うことなく抉った。
耳を覆いたくなるような金切り声。
見れば肘から先もあらぬ方向へと折れ曲がっていた。
その光景に誰もが呆然とし、言葉を失っていた。
蹂躙---まさにその言葉が的確であったろう。
しかし誰もが次の瞬間には目を奪われた。
冷徹さと君臨者を連想させる彼女の美貌に。
まるで氷の女王のようであったと、後に人は語った。
氷の女王---姉崎萌絵は刃のような視線を、
血の気をなくし泣き崩れた男に向けた。
凍えるような声質で決然と告げる。
「私に触れるな。下種。悍ましい」
男は呂律の回らない舌から、うめきにも似た返事を返す。
王の前に引きずり出された咎人のように、彼女からの断罪を甘んじで受けた。
しんっと静まり返る構内。
いつもの朝の喧騒に包まれていた場所が嘘のよう。
そんな一種異様な光景の中、
萌絵は男の手から足を離し、振り向くことなく歩き去って行った。
裁定を下した支配者の退場だ。
誰が声を挟むことができよう。
誰もが彼女の背を見送った。
駅員すら彼女の行く手を阻むことはできなかった。
場所は移り、駅の構内にあるトイレ。
その手洗い場で一心不乱に手を洗う萌絵がいた。
熱心に。
ただひたすらに。
その手は擦りすぎて、赤く染まりつつあった。
理由は明確。
一瞬とはいえ、あの汚物を触れた手であったからだ。
触れたことによる嫌悪感と、所有者(翔太)への罪悪感は彼女の眉間に深い皺を作る。
やがて一通りの洗浄を済ませ、ハンカチで水をふき取る。
このハンカチも手近なゴミ箱に廃棄する。
今日は朝からなんという厄日かと、萌絵は独り言ちる。
そんな不機嫌極まりない彼女の背に、声をかける剛の者がいた。
「いやはや、すごいね君は。まるで物語の主人公のようだ」
「・・・・・・」
視線を前方に巡らせる。
そこには鏡があり、振り返ることなく背後をうかがい知ることができた。
知らない女だ。
鏡に映っていたのは見覚えのない若い女だった。
「ああ済まない。驚かせてしまったかな?」
思いのほかハスキーで良く通る声。
視線を彼女の顔から下へと向ける。
萌絵と同じ制服を着ていた。
ということは同じ梵天女学院の生徒。
再び彼女の顔に視線を戻す。
鏡越しに彼女の視線と交差する。
片眉だけを上げて、口角を歪ませる笑いにはどこか不愉快な思いがわいた。
黒髪黒目。肌は萌絵以上に白くどこか病的なものを感じさせるほど。
彼女の髪は首元ですっぱりと切り揃えられており、
深緑の縁が映える眼鏡をかけていた。
なかなかに整った容姿の少女だった。
だけど、と萌絵は付け加える。
傍目には美しい少女だというのに、その仕草にはどこか演技っぽさが垣間見えた。
なんだろう。
理由のない負の感情が沸き起こりつつあった。
ならば、と結論は早い。
萌絵はこういう時の自分の感覚に従って行動を起こす人間だ。
彼女を生理的に受け入れられない人間だと判断する。
タイプは違えど先程の男と同じ部類なのだろうと。
さて、クラスメイトの顔を出席番号順に思い浮かべては見たものの、
彼女に類似する容姿の者はいなかった。
故に萌絵からあえて尋ねた。
今後、会うことのないように。
「どなた?」
「なに名乗るほど者じゃないさ」
「・・・・」
萌絵の鏡越しの瞳に殺意が灯る。
「フフン。冗談さ。一度は言ってみたかったセリフなんだ。
常々言える場所があったならと思っていた。
礼を言おう。姉崎萌絵さん」
「冗談は、嫌い」
殺したい。とは億尾にも出さずに一言返す。
「それは申し訳ない」
そう言って少女はスカートの裾をつまみ、淑女のような礼を返した。
「さて、ボクの名だけど、百合子。黒羽百合子さ。
見ればわかるとは思うけど、君と同じ学校の生徒さ」
やはりイラつく。
不思議だ。
彼女は萌絵に肉体的には何もしていないというのに。
萌絵にとって翔太以外の人間など、塵芥だ。
極端に言えば、両親もあの近重ですら代用のきく便利ツールでしかなかった。
故に、限度はあれど塵が周辺で湧いていようと何も感じない。
人ごみの中にあっては、ただ汚れているなと思うのみだった。
この時の萌絵は珍しく実力をもって、排除したい気持ちになっていた。
それはすでに確定事項にまで引き上げられている。
故に少なくとも名前だけは知っておかなければならなかった。
名前さえわかれば後は近重がうまく処理してくれるだろう。
もう名は聞けた。
学校も言うに及ばず。
ならば萌絵の用件はこれでお仕舞い。
そのはずだったのに、何故か萌絵は本人も自覚なく言葉を吐いた。
「そう。それで何?」
次を促す言葉。
そのことに気が付いた萌絵は、その疑問を振り払う様にトイレを出た。
「おやおや、何と聞いておいて立ち去るとは、君こそそれはどうなんだい?」
「・・・・・・」
振り向きもせず駅を出ていく萌絵を見て、肩をすくめて後を追う。
彼女のすぐ後ろに駆け寄ると大仰に身振り手振りで語りだす。
「実は以前から君に興味があってね。一度話をしてみたいと思っていたんだ」
勝手に語りだす百合子。
「そんな時に痴漢に遭ってる君を見てね。
どうしようか考えた矢先にあれだ。
これはもう声をかけるしかないと思ってね」
「そう」
めずらしい。
少なからず萌絵は驚いていた。
今の萌絵にこれほど声をかけてくる人間は稀だ。
最近では誰もが彼女を見ると陶然するか萎縮する。
二の句を継げなくなるのだ。
黒羽百合子、彼女はそういう意味では稀有な人物であった。
そこで萌絵はふと先日のことを思い出す。
朗々と語り続ける百合子の声を聞きながら全く別のことを。
それは翔太との一週間ぶりの逢瀬でのことだった。
「そういやお前、その後どんな感じ?」
ゲームの音にまぎれて、翔太の声が萌絵の耳朶を打つ。
「え?何が?」
翔太が持ってきた携帯ゲームで遊んでいる最中でのこと。
ゲームはとある有名なチョビ髭男のレースゲームだ。
緑の亀甲羅をアイテムボックスの直前に配置しながら返答する。
すでに萌絵は数度のレースでコツを掴み、翔太の背後を脅かすまでになっていた。
「何って、学校。友達できた?」
よ、は、と!と声を出し、腕を振りながら翔太。
可愛い翔太を横目で見ながら萌絵は逡巡する。
「・・・・・・・・・・・できた、よ?」
「・・・・・・」
「・・・・・・」
「・・・まぁお前だしな。焦らず行くか」
速攻でばれた。
何故だろう。
この声の様子ならそれほど怒ってはいないようだけど、
彼に言い訳をしてしまったことで萌絵の心は酷く狼狽した。
案の定、NPCのスターによってコース外にふっとばされてしまう。
だったら最初から言い訳しなければよかったのだが後の祭り。
しかしその会話はそれで終わった。
あとは二人で映画を見たり、庭でお茶したりと満喫した。
翔太が帰宅した後、自室に戻った萌絵は考えた。
これは早急に友人というモノを用意する必要があると。
出来ればこちらの都合のいい時だけ、
必要な時だけ言われたとおり動いてくれるような存在が望ましい。
友人にこちらが時間を割くことなどありえない。
翔太以外の為の時間など無駄にも等しいのだから。
だが一方ではもし友達ができたら翔太は喜ぶだろうなと考えた。
もしかしたらご褒美にあの時拒絶されたお風呂に、一緒に入ってくれるかもしれない。
きっとそうだ。そうにちがいない。
萌絵の双眸に決意の炎が灯る。
翔太が知れば、そんなわけねーだろ!と声を大にして叫びそうな妄想だが、
その時の萌絵は確信をもってそう思えた。
「聞いているかな?姉崎萌絵?」
百合子の問いかけで我に返る。
突然立ち止まった萌絵に、百合子もつられて歩みを止める。
「どうしたんだい?」
百合子の声に萌絵は振り返った。
そしてなんの感情も浮かべぬ表情で彼女に告げた。
「・・・なら、私と友達になる?」
突然の出来事に、初めて百合子の顔に感情が発露する。
傍目にも驚いているのが受け取れた。
しかしそれも数秒。
すぐにあのムカつかせる微笑にコンバートして萌絵の心をささくれ立たせた。
百合子が口を開く。
「突然だね。突然すぎて気味が悪い」
「・・・別に。嫌ならいいわ。私も別に貴女でなくてもかまわないのだから」
萌絵がそういうと、百合子は両腕を組んで、何事かを思案しているよう。
ついっと萌絵に視線を戻してから、興味深げに聞いた。
「フフン。それはどういうことかな?」
上から見下ろすかのような物言い。
嗚呼、早まった。
萌絵は早々に己の失策に気付く。
やっぱり、この女、殺したい。
萌絵が感じている不快感は同族嫌悪です。
だからといって性的趣向の方ではなく、考え方、在り方の方です。