011 春
つらいのは終わりですよ。
パーカーのフードを目深にかぶり、商店街のゲートをくぐる。
時折声をかけてくれる知り合いには顔を見られないように、
返事だけをして先を急ぐ。
梵ジュールを通り過ぎて、春の家の裏口へ回る。
そっとドアを開けて、足音を忍ばせて二階の春の部屋へ。
ドアを開けるとそこに春の姿はなく、おそらく店先か配達に行っているのだろう。
ほっと安堵の息を漏らす。
春には見つかりたくなかったからだ。
すぐさまバッグをおろしジッパーを開ける。
「あ・・・」
取り出したものを見て、翔太の動きが止まる。
バドミントンのラケットが中ほどで折れ曲がっていた。
その時、部屋のドアが開いた。
「ん?翔太か?なんだその恰好」
入ってきたのは言わずもがなこの部屋の主である春だった。
いつもはフードなど被らない翔太の格好に少しだけ片眉を上げる。
「あ、うん。借りてたもの返しに来たんだけど、春にぃはどうしたの?」
それでも春は些細なことだと思ったのか、翔太を通り過ぎて、ベッドの脇に置きっぱなしの携帯をとる。
「俺は携帯忘れただけ。なんだよ。声かけりゃいいのに」
着信履歴に目を通しながらそういった。
「あの・・・さ。春にぃ、実はバドミントン壊しちゃって・・・」
「はあ?壊したって・・・ああ、こりゃダメだな」
翔太の手元のラケットを見て溜息をもらす。
「ごめん」
「まぁ気にすんな。そんなに高いものじゃねーし・・・」
「本当にごめん。今度、ちゃんと弁償するから・・・」
フードの切れ間から春を覗くと、見たこともない怖い顔がこちらを睨みつけていた。
びくりと翔太の肩が震える。
「俺、帰る」
ひるがえって、足早に部屋の敷居をまたぐ。
だが、その途中で翔太の腕を強い力が引き留めた。
そして強引に部屋に連れ戻されて、俯いたままの翔太へ手を伸ばす。
何をしようとしているのかを察した翔太が、身をよじって逃げようとするが、有無を言わせない力で振りほどけない。
最後の抵抗としてフードを掴むが、それも軽々と引きはがされてしまう。
「やめてっ!」
翔太の声を無視して、春はフードをめくり上げた。
春の目がスッと細まり、炎のようなものが奥でチラついた。
フードの奥から現れたのは、内出血で青あざの浮かんだ顔と腫れ上がり裂けた唇。
春はすぐさま翔太の服と袖をまくり上げ、腹部と腕の痣を見つける。
ガリッと歯を噛みしめる音。
その間、春はずっと無言で適切に翔太のけがの具合を確かめていく。
関節を曲げ、患部に熱もなく、骨折がないことを確認すると小さく安堵の息を漏らした。
全てが終わり、そこでようやく翔太は解放された。
諦めた心境で裾を直したが、どうしても春の目を見ることはできず、俯いてしまう。
そうして春がようやく口を開いた。
「翔太。これ、どうした?」
『これ』が何について聞いているのかは、翔太にもわかる。
だから---
「・・・転んだ」
「転んだ?・・・お前、今日公園に行ったんだよな?」
顔を上げればじっと翔太を見つめる春がいた。
「もう一度、聞くぞ?これ、どうした」
一言一言、ゆっくり、噛みしめるように問う。
その春の言葉に、一瞬だけ全てをぶちまけたい気持ちになった。
けれど、すんでのところで堪える。
あの時の自分は本当に馬鹿だったから。
偉そうなこと言った自分。
なのに何もできなかった自分。
そして萌絵からも逃げてきてしまった自分。
ダメな自分。
情けない自分。
そんな自分を春に知られたくなくて。
ああ---と、そして今頃になって思い至った。
これはあいつと同じだ、と。
好きな人には見せたくない自分の汚いこと、弱いところ。
嫌われたくない、見損なわれたくない。
だから口を閉ざすしかなくて。
でも、腕を掴む春の手の暖かさは、翔太の心にじんわりと伝わってきて。
翔太はそれでも頑なに答えた。
「・・・転ん、だんだ・・・ふぅっ・・・ふぅううううう」
無理やり口を引き絞り、嗚咽はこらえたはずなのに。
それでも涙は後から後から零れ落ちていく。
無理やり押し込んだ声と、鼻水をすする音が部屋に響く。
「・・・・・・そうか」
春は深く息をつくと汚れるのをかまわずに、その太い右腕で翔太を抱きしめた。
春の暖かさと、微かに香る花の香り。
もう、我慢が効かなかった。
「・・・う、うああああああ!うああああああああん!!」
ただただ、ひたすらに泣いた。
痛みに、悲しみに、自分の弱さに泣いた。
幼児のように泣き声を上げる翔太を、春はずっと抱きしめてくれていた。
翔太が泣き止むまで、ただ静かにそこにいてくれた。
「それで、お前が転んだこと芽衣は知ってるのか?」
しばらくして、翔太が落ち着いたのを見計らって春が聞いてきた。
「・・・まだ、知らない」
「わかった」
春はそういうと立ち上がって、ジーンズのポケットから携帯を取り出した。
どこかへ電話をかける。
相手はすぐに出た。
『・・・なに?』
漏れ出た声は芽衣のもので、どことなく不機嫌そう。
「俺だ」
『知ってるわよ。それで、何?』
「今日、翔太ウチに泊まらせるからよ」
翔太が驚いて顔を上げると、春がニッと笑顔を見せた。
任せろと言っている気がした。
『はぁ?何言ってんの?』
「いいから。おじさん達にそう言っとけ」
『待ちなさいよ!なんでそうなんの?私、翔太から何も聞いてないし』
「今、決まったんだよ」
『ダメに決まってるでしょ!なんで翔太だけ---じゃなくて!』
「あん?なんでお前が決めてんだよ」
『いいから!翔太帰して!』
「・・・わかった。なら、かわりに今度お前を水族館だっけ?それに連れてってやるから」
『gおいgいpgあし!!』
なんか凄い悲鳴が聞こえてきた。
「じゃあ、あとはよろしく」
それだけを言って通話を切る。
呆然とたたずむ翔太を脇に抱えると、今度は安岐家の風呂場に向かう。
「まずは風呂だな。汚れを落とさないと」
お湯が傷にしみた。
風呂から出ると春が待ち構えていて、よく効くという軟膏を怪我した場所に塗り込んでくれた。
「たぶん明日になったらもっと腫れる」
「うん」
「とりあえず、家の階段で転んだことにしておけ。それで少しは疑われない」
「・・・うん」
「しんどかったら俺に言え。なんとかしてやる」
その不意打ちに翔太の目尻にまた涙が浮かぶ。
それを無理やり拭って。
「はは。やっぱり春にぃは凄いね」
「?」
「うん。俺は・・・言えなかったんだぁ」
その翔太の呟きに何かを察したのか、少し笑った。
「そうか」
全ての治療が終わった頃、ぺしんと額を叩かれた。
「いったぁ・・・なにすんのさ」
春はそれに答えることなく、翔太の目を見て別のことを口にした。
「俺も最初からこうだったわけじゃねえ。今だって出来ないことなんざたくさんある。
俺が出来ない時、そういう時はどうするか知ってるか?」
翔太は首を振る。
「まず、ちょっと時間をおいてみる。別の方法を試してみてもいい。わかるか?」
「・・・うん」
「視点なんかも変えてみてな、そうしたら意外と簡単にできることかもしれねえ。
一番まずいのは出来ねえって目を閉じちまうことだ。
落ち着いて、それで諦めなきゃ、大抵のことはなんとかなるもんだと思うぜ」
「・・・それでも出来なかったら?」
「そんなん決まってる」
自信満々にフンと鼻で笑って春は言った。
「助けてって叫んでみればいい。そうしたらきっと、お前の仲間がきっと助けてくれるはずだ」
翔太の頭をぐしゃぐしゃと乱暴に撫でる。
でもそれが今は心地よかった。
ようやく翔太の表情に笑顔が戻り始めた。
「うん。ありがとう。春にぃ」
「それにな。お前は同じころの俺よりは、よっぽどマシだと思うぜ。」
白い歯を見せて子供のように笑う春。
翔太はそれを眩しいものを見るかのように、目を細め見上げる。
そこには翔太が幼い頃から憧れたヒーローがいた。
その日は鈴芽と三人で夕食をとり、春が借りてきた映画を見て寝た。
鈴芽は特に聞かないでいてくれて、その辺が春と親子らしいところ。
翌朝やっぱりというか、特に顔が腫れてしまい、日曜ということもあり、安岐家にもう一泊することになった。
熱も上がってきてしまい、春の部屋で寝ていると、
店先では芽衣の声が聞こえたりして、いつ芽衣が上がってくるかとびくびくしていた。
その後、なんとか春が上手く交渉して事なきを得たらしい。
なんでも水族館の後、ランチをおごることになったとか。
本当に春には世話になりっぱなしで頭が上がらなくなってきた。
さらに翌日、顔の腫れは引いてきたものの、青痣は消えることはなかった。
どうしようかと考えあぐねていると、思いもしない場所から救いの手が現れた。
救世主の名は鈴芽。
「あら~。そうね。ファウンデーションで多少は隠せると思うわよ~」
「え?えええええええ!?」
背に腹は代えられないと、翔太は人生初のお化粧をすることとなった。
眠っていた狼が目を覚ました。
この後、別の視点からのを1話入れてから本編に戻ります。
飛ばされた日曜のことです。
タイトルは『011.5 side:May』←誤字ではありません