短編 お正月計画
短編 お正月計画
正月の三日目、市枝、剣護、怜が真白と荒太のマンションの住まいに集った。
市枝を除いた三人は、除夜の鐘撞き、初詣で、初日の出を拝むフルコースを一緒にこなしていたが、その後ある程度おせちなどをつつき合い、男三人が酒に溺れてからは解散となり、真白と荒太は二人だけの元旦を甘い雰囲気で過ごした。
それぞれ二日は実家に顔を出し、改めて三日、揃って宴を催す運びとなったのである。
「成瀬、帯よろしくね」
「はい、はい……」
市枝の声に、気乗りしない荒太の声が、よっこいしょと言わんばかりに重い腰を上げて真白の部屋に向かう。
そのしばらく後。
「荒太君…、帯、お願い出来ますか?」
「はいはい!」
「ちょっとあんた、返事に差があり過ぎよっ。新年早々、態度悪い!」
対して背後の真白からかかった要請に、荒太は勇んで振り返った。
京都の芸妓や舞妓の帯結びをする男衆などに見られるように、着付けは本来、力仕事である。とりわけ帯結びは、しっかり力を籠めなければ全体が締まらず、だらしのない着付けになりかねない。荒太は幼少時から、母親の着付けで鍛えられていた。
これを聞いて「…器用貧乏の極み」と呟いたのは剣護である。
そして女性二人の支度が完成した。
真白も市枝も華やかな振り袖姿を、男性陣に披露した。
真白の振り袖は白地に光琳松と黄、紫などの菊が描かれ、市枝の振り袖には紅の地に牡丹が咲き、唐獅子が勇壮に躍っている。真白は帯の手前までの市枝の着付けをしてやり、それから自分の着付けをした。真白が自分の支度をする間に、その後ろで荒太が市枝の帯を結んでいたのだ。引っ越しの時に母親より譲られ、真白の部屋に置かれた古風で趣のある鏡台が大活躍する一日となった。
荒太は彼女たちの袋帯を、真白はふくら雀結び、市枝は鳳凰結びに仕上げた。
金糸がふんだんに使われた豪華な帯に、真白の帯には紫色の、市枝の帯には若緑色の飾り紐が帯のお太鼓の上に大きく蝶結びで乗り、華やかさの中にも可憐さを添えた。そのままパーティー会場にも直行出来る着飾り振りだ。
「おおー……」
既に些か出来上がっている男性たちも、彩りの異なる美女二人の晴れ姿には相好を崩し拍手を送った。
「綺麗だ綺麗だ、俺の妹は日本一だな、やっぱり」
「……剣護。お屠蘇、何杯飲んだの?」
緑の目の前で、真白は手を振って見せる。
「忘れた!」
「でも本当に良く似合ってるよ、真白。とても綺麗だ。俺も、兄として鼻が高い」
にこやかな怜の賛辞に、真白もはにかみながら答える。
「ありがとう、次郎兄。この振り袖ね、絵里おばあちゃんの若いころの物をいただいたの…。市枝も素敵…!その着物にも全然負けてないよ。すごいね」
「うふ、ありがと。この面子の中で私を褒めてくれるの、真白だけよ?もう。他所じゃ信じられない話だわ!新年パーティーで私がどれだけのくだらない取り巻きたちに囲まれたと思う?」
「ブルジョアの娘も大変だねえ、市枝さん」
さして同情もしていない口調で荒太が言う。
市枝の着物と帯は自前だ。真白たちの住むマンションまで、家の車に自らと共に運ばせて来たのだ。腰紐や伊達締めなどの小物は、真白の物を貸した。荒太との同棲を認めるに当たり、絵里が孫娘に持たせた桐の箪笥や中に詰まっていた着物、和装用の諸小道具類は十分に役立っている。
女性ばかりに窮屈に着飾らせるのは不公平だと言う市枝の意見で、荒太らも皆、今日は着物を纏っている。荒太はもちろん自力で着付けが出来るが、剣護と怜の着付けも真白と一緒になって彼が担当してやった。減らず口も叩くが、集ったメンバーの中で一番働いているのは彼だと言える。
男性陣の三人共羽織袴できっちり揃え、色は剣護が薄茶、怜が濃い緑、荒太が紫である。この色選びは真白が決めた。これらの着物もまた、絵里の亡き夫、つまりは真白と剣護の祖父が生前に着用していた品々である。若者たちが和装する際、絵里の権威は相当に強まった。
そして羽織をつけることにより礼装が完成する男性の着物を、剣護は早々に羽織りを脱ぎ捨てて寛いでしまっているが、それはいかにも彼らしい仕草であり、誰も注意する人間はいなかった。そもそも、三人の男性の中で最も長身の彼には着物の丈がやや短いのだ。
炬燵に座った荒太が、真白に料理を勧める。真白も彼に合わせ、帯が崩れないように炬燵の脇に正座していた。
「真白さん、はい。数の子と、伊達巻と百合根」
「あ、ありがとう。荒太君」
「こっちの車海老は食べた?」
「ううん、まだ」
「はい、この皿で食べて。殻は俺が剥くよ。お煮しめもついで来ようか?」
「……はい。お願いします」
「どんどん食べてね。ええとあとは、からすみといくらで白ご飯を食べよう。ご飯が進む組み合わせだ。お代わり二杯はノルマね!鴨の燻製は、うるさいギャラリー共が帰ってから切ろうね」
「そんなに食べられないよ、荒太君」
「ダメダメ、お正月なんだから。御馳走食ってなんぼでしょう。そもそも真白さんは元が痩せ過ぎなんだから、着付けでも補正に苦労しただろう?着物はふっくら体型のほうが俄然、着やすく作られてるんだ――――――――」
お説教混じりの、荒太による真白への御馳走攻めを横目に見た剣護が首を傾げる。
婚約者同士の二人に形ばかりの遠慮を示し、剣護と怜、市枝はソファに腰掛け、男二人は盃を手にして、市枝は持参したシャンパンを優雅にグラスで傾けていた。
「…おい、何だありゃ?どうしてあの食いしん坊が、自分そっちのけで真白にばっか食わせてる。改心したのか?それとも真白を太らせて喰う気か?」
「………太らせて食べる気なんじゃないの、まさに」
怜が咳払いのあと、冷静な見解を控えめに述べる。
「はああ?」
「だーかーら、ね。剣護先輩。真白たち、今度の真白の誕生日に、婚姻届出すんでしょ?まあ自分の誕生日を忘れやすい真白には、良い手だわ。結婚記念日ばかりは、真白だって忘れられないでしょうし」
市枝もグラスを左手に掲げて訳知り顔に口を挟む。長い付け爪の装着された人差し指を左右に振るので、爪に乗ったスワロフスキーのラインストーンがキラリと光を反射した。
「ああ。…俺はまだ早いと思ってんだが」
「そうだね…」
怜も頷く。
「だって真白が、俺の妹が〝人妻〟になるんだぞ?〝人妻の真白〟だぞ!?響きが最高に嫌らしいだろ。ドキドキしちゃうだろ!」
「…………」
「…私は剣護先輩の頭のイカれ具合にドキドキしちゃうわ」
正月から不謹慎な物言いを発揮する剣護を、市枝は白けた目で見た。
「だから。それまでに―――――…真白を少しでもふくよかにしておきたいんだろう」
気を取り直した怜が、屠蘇の盃に口をつけながら言う。
剣護にはまだ解らない。緑の瞳をしぱしぱさせて訊く。
「――――――何で?」
市枝が焦れったさを超えて身悶えした。剣護のこうした天然振りは、成る程、真白と兄妹だと深く納得させられるところがある。だが市枝にとって、真白の天然は愛すべき可愛さを伴うが、剣護のそれは可愛くも何ともない。大の男が何をほざく、と背中を足袋を履いた足で蹴っ飛ばしてやりたくなる。美しく結い上げた髪を両手で掻きむしりそうになり、すんでのところで止めた。
「だから、ああもう、この鈍感なうどの大木はもう……っ!暗い中でも真白の手触りを良くしておきたいんでしょうが、あの抜け目のない助兵衛は!!」
ここでようやく、剣護にも合点が行った。瞠目する。
「おおおっ!」
「おおお、じゃないわよ……」
年の割りにひどく鈍い年長者の反応に、市枝も怜もぐったりと疲れてしまった。
「成る程。委細、承知した。けしからん話だ」
全てを理解した剣護が憤然と言う。それから立ち上がり、袴の腰に左手を当て右手はビシリと荒太を指差し、大声で勇ましくのたまった。但しその内容は、市枝たちが想像した物より斜め向こうにずれていた。
「おい、荒太。しろが見事、肥えた暁にはまず俺にかじらせろ!」
ガンッと鈍い音が響く。
酔いの止めに頭に一撃を受けた剣護は、呆気なく伸びてしまった。
真白の手により正月飾りなどの配置されたおめでたく和やかなリビングに、大きな身体がゴロリと邪魔臭く転がる。伸びた本人は繭を思わせる質感の、卵型のフロアライトの横に頭を置き大いびきをかいているから呑気なものだ。
「ごめん、真白。鏡餅にひびが入った」
白く丸い凶器を手にした怜は、無表情に詫びを入れた。
「剣護、大丈夫だったかな。荒太君」
その日の晩、真白の口から出た言葉に、荒太は片眉を上げた。
とりあえず笑顔を作りはするものの、目はひどく醒めている。
「先輩の発言を顧みると、別に大丈夫じゃなくて良かったんじゃないかと俺は思うよ、真白さん。むしろ江藤、良くやった。俺、兄に対しても厳しいとこは厳しいあいつのああいうとこ、高く評価してるよ。ま、鏡開きが少し早まったってことで」
「……あの、何か変なセクハラ発言してたのは、酔っ払ってたからだよ。剣護、今日は朝から飛ばしてたもの。たんこぶになってなければ良いけど」
二人共、お雑煮の残りと切り分けた鴨の燻製を食べながらの会話だった。お雑煮には予定より早めに解体された鏡餅の欠片が入っている。無論、剣護の頭を殴打した凶器に使われた為である。
犯罪に鈍器として利用した餅を、何も知らない人々に振る舞い食べさせることで、事件の凶器を消失させてしまう。そんなミステリーを以前読んだな、と頭の隅で思いつつ、真白が剣護を案じる様子は大いに荒太の気に食わなかった。
大体、まず自分に真白をかじらせろとは、発言内容の許容範囲を軽く超えるにも程がある。先だろうとあとだろうと、誰が自分以外に真白に触れることを許すと言うのだ。ましてや〝かじらせる〟など言語道断だ。年始から悪い酒だ、と荒太は剣護に対して非常に腹を立てていた。
(あの、緑の目ん玉野郎)
そしてあろうことかそんな剣護を、真白は先程からずっと心配しているのだ。余りに癪に触るので、彼女の着物を無理矢理に脱がせてしまおうか、などという凶暴な考えすら頭をよぎってしまう。着物を着た真白の、いつもより増している色気がそんな考えに拍車をかける。
(…問題無いよな。婚約してるんだし。……真白さんが、悪いんだし。そうだよ。少しばかり早く、いただくだけだ。ちょっと計画が狂うけど)
身勝手な自分の考えに、荒太は疑問を抱かない。
彼の中では既に元凶は真白であるという結論が出ていた。
「真白さんは、優しいね」
荒太の言葉の響きに、真白はギクリとして箸を止める。彼は機嫌を損ねた時、こんな声を出すのだと真白も今では学んでいた。ぎこちない口調で答える。
「そんなことは、ないよ…」
「やだな、何怖がってるの、真白さん?」
荒太が笑うが、その笑いが真白には怖かった。リビングは暖房で暖まっているのに、ヒンヤリと心持ちが寒くなる。
(怖い…)
自分の言葉の何が地雷であったのか判らない今、真白に出来ることは逃亡の一手だった。
「ごちそうさまでした」
「もう終わり?」
「―――――うん。これから着物、脱ぐから」
荒太は洋服に着替えているが、彼の要望で真白はまだ晴れ着姿のままだった。
「じゃあ俺、手伝おうか。帯を解くのも、力が要るでしょ」
当然のようにやんわりと言って自分も箸を置こうとする荒太に、真白は固まる。理には適った言い分だ。本来であればそうしてもらえたほうが、真白も助かる。
しかし真白は固辞しよう、と思った。今の荒太にそれを求めるのは、何となく危険に思えたのだ。いつもは優しい彼の目が、なぜか今は猛禽類の目に見えてならない。
「…あの、良い。要らない。大丈夫だから」
「どうして?俺、かなりの力で締めたのに」
断られる理由が解らない、ととぼけたような荒太の声に、理由も解らず怯えさせられて理不尽だという思いも手伝い、真白の身体がカッと熱くなる。荒太に言われるまでもなく、彼が隙無く締めてくれたふくら雀結びを、真白一人の力で解くことがいかに困難かは良く解っている。円滑に解くには男手が必要なのだ。
(剣護がいたら、きっとすぐ、笑って解いてくれるのに)
だがそれを口にしてはならないことくらい、真白も心得ていた。
ところがそんな真白に、続く荒太の台詞は駄目押しとなった。
「あとで泣きついても知らないからね」
(――――!!…意地悪っ)
「良いのっ!一人で出来ます!…荒太君なんか、こ、荒太君なんか、嫌いっ」
「え」
荒太の手から、白木の箸がポロリと落ちた。
真白はパン、と炬燵の台を両手で叩いて立ち上がる。若い女性にしては和装に慣れている真白でも、長時間の正座でさすがに足が痺れ、よろめきそうになるのを意地で堪えた。
真っ赤な顔で真白は自分の部屋に駆け込むと、ドアを閉め、次いで鍵までかけしまう。
かなりの時間、真白は部屋の電気もつけずにドアを後ろ手に突っ立ったまま、唇を噛み締めて、荒太君の莫迦、意地悪、意地悪、嫌い、と胸の内で悪態をついていた。
(嫌い……、…)
けれどその単語に反発する自分を、真白は感じてしまう。そんな筈はないと湧き上がる声を。
荒太の笑った顔。すまして、取り繕った顔。怒った顔も。自分を呼ぶ声も。
(嫌い、なんかじゃない。嫌いじゃない。――――――大好き。もう。悔しい)
大好きだと言う言葉が、何度も頭の中でリピートされて彼を目がけて飛び出してしまいそうだ。
そして次には、荒太君はずるいと言う言葉がリピートされる。
(あんなに意地悪で、我が強い人なのに。私はどうして好きになったんだろう……)
振り袖姿で慎重に座り込み、自分の婚約者について考えを巡らせる。
彼は決して人格者ではない。
(でもだって荒太君は、お料理上手で、強くて、頭が良くて―――…違う、そこじゃない)
能書のような、そんなところではない。惹かれたのは。
自分を向いて笑った顔を思い描くだけで、息が苦しくなるくらい強く惹かれたのは。
コ、コン、と控え目なノックの音が響き、真白は身じろぎした。
「真白さん」
ドアの向こうから迷子の子供のような声がかかる。
(あ…、この声。困ってる。荒太君、とっても困ってる)
「あのさ…、ごめん。もう意地悪しないから、怒らないで。いつもみたいに焼き餅、焼いたんだ。莫迦だって自分でも解ってるよ。ごめん」
神妙で勢いに欠ける声だ。本当に反省してるらしい。
滅多にかからない真白の部屋のドアの鍵に、驚いているようだ。
(…不器用だなあ。この人。すごく、不器用)
最初からしなければ良いことを、感情に任せてしてしまう。特に真白に関してはその抑制が効かない。
(私に、関しては――――――)
真白はふっくらした唇に指先を当てる。今日はお正月用に、いつもより濃い色のルージュを塗っている。彼女がそうすることを予め知っていた荒太は、剣護たちが来る前に真白の唇をひどく強引に欲しがり結局、奪ってしまった。ルージュを塗ったあとにそれをすれば、色々と支障が出ると解っていたからだ。
〝俺はまだあとでも別に良いけど、真白さんは困るだろうし、皆に見られると恥ずかしいでしょう?〟
真白の抵抗を封じて存分に唇を頂戴したことで満足し、しれっとそう言ってのけた荒太を思い出して真白は赤面した。卑怯な言い分だと呆れもした。真白は、剣護が家を訪れて真白の着飾った姿を見るより前に、彼女の唇を自分のものにしておきたかったという荒太の心情を知る由も無い。真白は自分の物であると、荒太は自信を持って意識しておきたかったのだ。荒太がこの先もずっと剣護に対抗心を燃やし、男として意識し続けるであろうことも、真白は解っていない。彼女はそれを理解しないままに生きて行く。真白の兄を称する剣護の緑の瞳には、今も変わらず彼女への愛情が溢れている。自分の婚約者を平然と命懸けで愛する男を、どうして警戒せずにいられるだろうか。際どい冗談を笑い飛ばせないのもそのせいだ。
荒太の強引さの向こうに、真白のあずかり知らないことは多くある。
荒太もあえて自分の内情を真白に晒そうとは思っていない。
だから真白の結論も手短な物に納まってしまう。
(自分が抑えられない。荒太君は、我が儘)
かと思えば見上げた忍耐強さを見せるところもある。
いずれにしろそれは、荒太の中心に真白がいることの証明となっている。
真白の胸に湧くのは、甘やかな自覚だ。気付いてしまったら許さないほうが難しい。
真白は鍵を開け、ドアノブを回してそっと押した。
気泡の多く入った、淡いラベンダー色と透明の二色で作られたステンドグラスの、小振りなペンダントライトの下、萎れた表情の荒太がしょんぼり立っていた。
「何も変なことしないから。…帯解くの、手伝わせて。本当に固いから、真白さん、指を傷めてしまうよ。それは俺が嫌だ」
不器用で、自分がやり過ぎたと思った時には、無性に優しくなる。根っ子に持つ彼本来の優しさが顔を出す。
――――――その優しさが、癖になる。
松と菊の文様が、荒太の胸に飛び込む。樟脳の匂いが、ふわりと荒太の鼻をかすめた。
腕に白い蝶が舞い込んだ錯覚を荒太は覚えた。柔らかな明かりに照らされ、儚い羽を閃かせて。
(情けない。私こそ荒太君に〝骨抜き〟にされてる)
一人の女性として、それがとても悔しくてならない。
「―――――真白さん?」
真白は目を閉じて謝る。
「嫌いなんて言って、ごめんなさい。荒太君」
荒太がホゥッと息を吐く気配を感じる。真白の背に、彼の手がおずおずと回される。
「良かった。あれ、嘘だよね?」
「そう。嘘。――――大嘘」
「…………ひどいな。婚約者に、嘘吐かないでよ」
「じゃあ意地悪しないで。私はあなたに捕まってるんだから。とっくに」
部分的に結い上げられた焦げ茶色の髪を撫でながら、荒太が優しい笑い声を上げる。
結われた箇所の髪には黒い漆塗りの、竜胆の柄の櫛が美しく飾られている。
(あ……、この声、好き)
荒太の裏の無い、素直に嬉しそうな笑い声は真白をも嬉しくさせる。
「そこはお互い様だね」
「お互い様?」
「そうだよ。俺は真白さんの囚人。世界で一番、幸福な。…帯が崩れるから、強く抱き締められないのが着物の難点だね。ああ、もう崩れても良いんだっけ。どうしよう――――…崩したいな…」
「……荒太君。崩さないで。解くのを、手伝ってください。お願い」
「もちろん」
目もあやな真白の振り袖の、滑らかな両肩に荒太は穏やかに手を添え、彼女の向きを緩く反転させた。
そして今度は二人で真白の部屋に入り、ドアは静かな音を立て閉められた。