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短編 婚姻の夜

短編 婚姻の夜


 真白と荒太が婚姻届を役所に出したのは、二人が同棲を再開した翌年、真白が大学二年、荒太が四年になった年の、真白の誕生日だった。その日、真白は成瀬真白となり、正式に荒太と夫婦になった。荒太は高校時の願望通り、真白と学生結婚を果たしたのである。

 周囲からは時期尚早なのではないか、真白の大学卒業まで待ってはどうかと言う声も上がった。荒太も、そうしたらどうだろうと真白に薦めてみた。けれど真白は、これ以上荒太を待たせるのは心苦しかった。自分が待ってくれと望めば、きっと荒太はいつまででも待ち続けてくれるだろうと思うだけに、一層その思いは強かった。その代わりに結婚式は、荒太とも話し合い、真白が大学を卒業してから執り行うことにした。

 母にそのことを伝えると、黙って抱き締められた。

 それから、一緒に母娘として過ごした時間は短か過ぎた、まだ手放したくないわ、と涙声で言われて真白も少し泣いてしまった。

 幸い荒太の料理研究家としての活動は順調で、もう少しキャリアを積めば、真白が実家からの仕送りを頼りにしなくても、彼女を養うだけの収入を得て行けるだけの見通しも立つ。それに真白が出版を重ねる歌集の印税を加えれば、若い夫婦が暮らしを営むには十分の生活費が得られる。

 婚姻届を出した帰り道、荒太は無言だった。

 幸先良く、空は晴天だった。二人で手を繋いでマンションまで黙って歩いて帰った。

 一言も口を利かない荒太の心中がどれだけの喜びで占められているか、真白には察して余りあるものがあった。

 真白の誕生日プレゼントに、荒太は繊細なレースの丸襟に上質な麻素材で仕立てられた品の良い白いワンピースを贈り、二人の結婚記念日のお祝いには張り込んで一対の美しいシャンパングラスを揃えた。

 荒太は二人の記念すべき日の為に、真白の好物を多く拵えた晩餐を用意した。

 上機嫌の夫を前に、真白の胸は緊張に高鳴っていた。

 口数も少なく、荒太と話している内容も頭に入っていない。

 今日、初めて自分は荒太の妻になる。つまり、結ばれるのだ。

 荒太は長い年月、ひたすら真白を待ち続けてくれていた。

 今更、まだ怖いのだとはとても言えず、余り食も進まないまま風呂に入り、寝室で荒太を待つことになった。

 夫婦になるとは言ってもそれまでの住居を移る訳ではなく、空いていた客間にダブルベッドを運び入れ、新婚の部屋としての体裁を整えて使うことにした。いつものことだが、荒太によるそれらの手配は素早く、委細、抜かりが無かった。

 座り心地の良いベッドに真白は一人、腰掛けていた。緊張を紛らわせる意図もあり、荒太はどこでこんなダブルベッドを見つけて来たのだろうかと考えながら、ベッドの縁を撫でていた。ここに今夜、荒太と裸で横たわるのだということが、真白にはまだ実感出来ない。

 ノックの音がして、真白の手が止まる。

 風呂上りの荒太が入って来た。血色が良くて、見るからに嬉しそうな顔をしている。

 真白の鼓動が早まり、矛盾するように、荒太の姿を見たことで彼に対する愛しさも胸の底から湧いた。

 荒太の妻に成る日を、真白も確かに望んでいたのだ。

(彼が、荒太君が、私の夫になる。―――――――生涯の、伴侶になる)

 真白も荒太も、この日の為に荒太が見繕った揃いの白いパジャマを着ていた。

 真白は両手を握り、思わず心細げに荒太の顔を見上げる。

 縋るような眼差しに、荒太が優しく笑いかける。

「真白さん」

「はい」

「…大丈夫?」

「うん。大丈夫」

(強がってるなあ)

 そうは思うものの、荒太にもこれ以上の譲歩は難しかった。

 荒太はサイドテーブルの上の明かりだけを残し、部屋の電気を消した。

 それだけで真白は、頼りない子兎になった気分だった。

 逃げる場所はどこにも無い。逃げたいと強くも思わない。

 控えめな暖色に染まる空間に包まれ、荒太が真白の隣に腰を下ろす。彼女の身体が硬直するのが伝わる。

 サラ、とその髪をかき上げてやると、少しだけ真白の表情が和んだ。

(怖がること、ない。荒太君の胸に飛び込めば、それで)

「荒太君…」

 桃色の唇に荒太の目が吸い寄せられる。

「うん?」

「大好き……」

(俺の奥さんは可愛い…)

 心の中でのろけながら、焦げ茶色の瞳に問いかける。

「――――――貰っても良い?」

 ずっとこの日を待ち望んでいた。

 焦がれて焦がれて、やっと、彼女が手に入る。

 小さな唇が答える。

「………はい」

 その唇にそっとキスを送る。ついばむように、もう一度。更にもう一度。

「…もう止められないよ?」

「――――うん」

「…真白」

 低く、初めて名前だけで呼ばれ、真白はドキンとする。

「はい」

 荒太は男性なのだと、今更に意識させられる。

 優しげに整った顔立ちをしていても。自分より肩幅は広く、皮膚は固くて力強い。

 手が、大きい。

「真白…―――――――――愛してる、真白」

 泣いているかのような切ない声で、愛を打ち明けられるのも初めてだった。

 自分の想像をはるかに超えて、真白は荒太に望まれていた。

(荒太君―――――――……)

 こんなにも待たせてしまったことへの申し訳なさが、真白の心に強く湧いた。

 微かに震える真白の身体を押し倒すと、荒太は彼女のパジャマのボタンに手をかけた。

 真白は美しかった。

 衣服を全て取り去った、無防備な真白の身体はどこもかしこもまっさらで、雪原のようだった。

 しかし時により薄く、濃い桃色に染まるその雪原はどこまでも温かく柔らかかった。荒太は真白の華奢な身体に我を忘れて溺れた。

 真白にも荒太にも、驚きの体験の連続だった。

 その中で二人は時折確かめ合うように互いの名を呼び、手の指を絡ませ合った。

 瞬く間に、夜は過ぎた。


 そして荒太は今、こちらを向いて眠る真白の顔に見入っていた。サラサラの髪が、少しだけ開いた唇にまで数本かかっている。そこから紡がれる健やかな寝息。

 一日にキスをして良い制限回数というものを、荒太は推し測っている最中だった。真白さえ許してくれるものなら、荒太としては何回してもし足りないくらいである。

(真白さんが、名実共に俺の奥さんになった……。彼女の全部が、俺のものに)

 布団からはみ出る、真白の白い肩にも見惚れていた荒太だったが、これでは風邪をひくかもしれないと思い布団をかけ直してやる。その際に真白の白い胸が露わに見えてしまい、目を固定させるか逸らせるかで葛藤した。

「…荒太君…?」

 真白が荒太の動きに目を覚ました。

「―――――お早う、真白さん」

「…おは、よう」

 真白の顔に朱が上る。寝起きだからか行為の名残りゆえか、目が少し潤んでいる。

 色気の漂う新妻の風情に、荒太は再び動き出しそうになる手を押し留めた。

 大事な朝だ。夫として、余裕を持った表情を見せなければならない。

「気分はどう?……だるいとかきついとか、……ない?」

「あ、う、うん…………」

 真白はどちらともつかない返事をして、目の下までベッドに潜ってしまった。

「あの、荒太君」

「何でしょう」

「――――――あの、何度も、するものなの?」

 出来れば触れないでいて欲しいと願っていた際どい質問に、荒太はギクリとした。

「えーと。何のこと?」

 それでも悪足掻きにとぼけてみるが、真白は追及を続けた。

「私、初夜は一度結ばれて、それで終りなのだと思ってた…。そういう、ものかと」

 自分の抱いていた印象とは違った現実に、真白は戸惑っていた。

「…………」

「荒太君?」

 真白の身体の柔らかさに陶然となった荒太は、新婚初夜に、彼女を何度も欲しがってしまった。しかも途中からはかなり我が儘に振る舞った。初めての経験に怯える真白に対して、相応しい態度だったとはとても言えない。実は最初から、余裕も何もあったものではなかったのだ。

 真白の身体が見えないように、彼女をギュッと抱き締めて懺悔(ざんげ)する。

「ごめん。真白さんに無理させ過ぎました。余りに、…真白さんが魅力的だったので。抑制が効きませんでした。俺の未熟です。ごめんなさい」

 腕の中の真白から、怒気のようなものは感じられない。

 ただ赤くなって沈黙している。

 ぼそ、と真白が何か言った。

「え、何?」

「…こんなこと言うの、良くないのかな。あのね、何だか頭に薄い膜がかかったみたいで…ずっとこのままでも良いって、少しだけ思ったの…」

「―――――――本当に?」

 荒太の目が意表を突かれた喜びで丸くなる。

「うん。呆れる?」

「全然。全然!」

(聞いたか、兄貴共っ!!)

 当然、聞いている筈がない。

 しかし荒太はこのまま剣護や怜に喧伝してやりたいと思った。

 何だかもう真白のその言葉だけで人生の勝者になったような気分で、荒太は込み上げて来る笑みを抑えることが出来なかった。

(真白さんも朝日も、今日ばかりは俺のものだ!)

 そう豪気に思ったあとで、いや、真白さんは一生、俺のものかと思い直す。

 荒太の腕から、真白が顔を出す。身動きする身体がくすぐったい。

「荒太君、そろそろ起きよう…?」

 寝室に置かれた真白の亡き祖母・塔子形見のアンティークの金の置き時計がコチコチと律儀な音を刻んでいる。その針は現在、午前八時を過ぎている。

 今日は土曜で大学の講義は休みだが、普段ならとうに起きている時間だ。

 しかし荒太は妻の言葉をにこやかな声で却下した。

「ダメ」

「だって私たち、まだ服も着てないよ?」

「うん。新婚の朝だよ?何も不都合無いよ」

 そう言って荒太は満足げな顔をして悪戯っ子のように笑いながら、逃げられないようにベッドの中の真白を更にかき抱いた。真白の体臭をこんなに近くで嗅げる機会は今までそうそう無かったのだ。もちろん、これから大いにその機会を増やす予定だ。

 白い素肌に鼻を寄せる。

「―――――真白さんは良い匂い」

 結局、その日の昼近くになるまで荒太は真白の身を抱いて離さず、二度寝、三度寝する妻の顔を眺めては幸せに浸った。



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