白い現 五 後
口笛を吹きながら、畑中冬人は浴槽を洗っていた。
男の一人暮らしとは言え、なるべく清潔感を保っていないと、せっかく出来た彼女に愛想を尽かされてしまう。浴槽はちょっと手を抜くとすぐに垢がこびりついて取れなくなると、実家の母親が口を酸っぱくして言っていたのを教訓にしているのだ。
洗いながら、左手首に巻かれた色とりどりのミサンガが目に入る。中学の時からしているミサンガだが、一向に切れる気配が無い。どれだけ頑丈なのだと呆れてしまう。
(俺の願いを一個も叶える気が無いってか?)
高校時代に消えた親友のことを思い出し、口笛が止まる。
剣護がアメリカ留学したという話を、畑中は今でも素直に信じることが出来ないでいた。その疑いを裏付けるように、彼とはあれ以来音信不通だ。正月に、剣護の実家に出した年賀状にも返事は来なかった。
(…あいつにも、もう会えないのかな)
「ふゆくーん、終わった?」
「あ、美由紀ちゃん。ごめん、まだ」
風呂掃除が終わったら、ブルーレイを借りて家に来た彼女と、映画を見る予定なのだ。
美由紀はそう、と笑うと顔を引っ込めた。
可愛いなあ、とやにさがる畑中は、左手首に微かな違和感を覚えた。
「あ」
思わず大きな声を出してしまう。
当然、美由紀が再び顔を出す。
「何?どうしたの?」
「――――ミサンガが、切れた」
「おー、やったね。願い事、叶うよ。どれ?何色のが切れたの?」
にこにこした顔で訊かれ、千切れて浴槽に落ちた紐を見る。
洗剤の泡にまみれたその色は。
「…緑」
「剣護。嘘。…どうやって?だって相川さんと、結界の中に残ったでしょう?」
荒太と怜が顔を見合わせる。
その言葉は、真白が虚構の世界から戻って来たことを意味していた。
剣護の帰還。それに伴う真白の、現への帰還。
荒太は真白の顔を見ながら、ナップザックを床に降ろした。ドサ、と音が鳴る。
(真白さんが、目を覚ました…………)
やっと。
剣護も気付いたようだった。
「――――あいつに、最後の最後に締め出された。俺の子守唄はいらねえってさ。…母親の代わりに、お前が抱き締めてくれたからって」
(相川さん…)
剣護は荒太に頼み、嶺守たちの家の庭にある、澪の夫の墓の隣に、彼らの了解を得て鏡子の小さな墓を作ってもらった。盛った土に石を置いただけの素朴な墓の下には、骨ではなく荒太を導いた種が埋まっている。もしかしたらいつの日か土を割って芽吹き、育った蕾が赤い、綺麗な花を咲かせる日が来るかもしれない。
「…真白」
最大限の慈しみと愛しさが籠められた声。
ずっと夢の中で聴いていた声と同じ響きで呼ばれて、顔を上げる。
夢ではない。
もう、夢ではない。
「おいで」
広い腕の中に、真白は泣きながら飛び込んだ。
その瞬間、真白の世界に欠けていた太陽が戻って来た。
(――――私のお日様)
実家への連絡は明日することにして、ひとまずその日、剣護は怜の家に泊まることになった。今晩は剣護と一緒にいたがるだろうと思っていた真白が彼について行かなかったことが、荒太には意外だった。
――――――剣護が帰って来た。
レシピ本や大学の教材などが並べられた机の前の椅子に座り、その事実を、荒太は改めて噛み締めていた。宴でのご馳走も含め、嶺守らの家では十分な量の食事を提供してもらった。入浴を済ませたことで、異空間を往来したことによる疲労も消えた。達成感とある種の虚脱感の両方が、彼の中にはあった。
後悔はしていない。
そしてこののちに起こり得る事態は、とっくに予測していたものだった。
ふう、と息を吐く。
なぜだか部屋がいつもより、静まり返っているように感じられる。
長くはない期間だったがこの家で、真白と過ごした幸せな記憶を、荒太は今思い出していた。
部屋のドアが遠慮がちにノックされる。
来た、と思った。
「荒太君。ちょっと良い?」
「――――――うん、入って」
おずおずと、入って来る真白の様子を見て、拳を握る。
「…ベッドに、座っても良い?」
これには少し驚いた。真白にしては大胆だ。禊の時を終えて初めて会った高校の時はまだ彼女も無防備で、勧めると荒太のベッドに無邪気に腰掛けていたものだが。
「良いよ」
ピシリと皴一つ無く整えられたベッドカバーに、真白がそっと腰を下ろす。
「荒太君。剣護を連れ帰ってくれて、どうもありがとう。本当に感謝してる。一生、恩に着ます」
真白はそう言って、腰掛けたまま、深々と頭を下げた。サラサラと焦げ茶色の髪が鳴る。
「…良いよ」
「私の為、だよね」
顔を上げた真白が、悲しみとも喜びともつかない表情で呟いた。
「…………」
「今まで私、自分の物語の中で、眠りこけてたんだね。それで、皆が私の為に、私の眠りを必死で守ってくれた。…申し訳なくて、いたたまれない。次郎兄がどうして泣いてたのかとか、今なら解ることがたくさんあるの。そして荒太君は、一番近くで見守り続けてくれた。きっと何度も、傷ついたでしょうに。離れないでいてくれて。その上、剣護まで私に戻してくれた。…私にそれと同じくらい大きな、返せるものがあれば良かった。あなたに。本当に、―――――――本当にそう―――――思ってるの」
真白らしい発想だと荒太は思う。彼女は知らないだけだ。
見返りは貰う。真白の笑顔。真白の幸福。
「俺は好きで真白さんの傍にいた。…真白さんが、俺の作った飯、美味しいって笑って食べてくれて、食後には温かいお茶を淹れてくれて。少しくらいきついことがあっても、…幸せだったんだ。嘘じゃない。だから返すとか、考えなくて良い」
「…荒太君、自分が優しいって、そろそろ自覚したほうが良いよ」
「俺のは真白さん限定なんだってこと、真白さんもそろそろ自覚してよ」
「―――燕の巣は?」
「真白さんが知らなけりゃ、とっくに他所に移してた」
「…………」
真白はそこで間を置いた。
「あのね、荒太君――――」
「真白さん、実家に帰ったら?」
耐えられずに、自分から突き放すように口にして、荒太は後悔した。
真白がひどくショックを受けた顔で、荒太を見る。
「…わ…、私も、そう思ってた。剣護を、私、支えないといけないから」
「そうだね」
荒太は唇を噛んだ。
「これから、点字とかの勉強も、しようと思うの」
「……うん」
それから真白は、泣きそうな顔で微笑んだ。
「指輪、返すね」
左手の小指に嵌めていたタンザナイトは、今も変わらずそこにあった。真白は、いずれその指輪を荒太の手で、薬指に嵌め変えてもらうつもりだった。荒太がピンキーリングに調節してくれた時から、ずっとそのつもりでいたのだ。
抜き取ろうとする真白の手を荒太が止める。
「返さないで。持ってて」
真白は首を横に振った。
「甘えて、荒太君を縛ることは出来ないよ」
「そういうことじゃない、それは真白さんにあげたものだ。真白さんの為だけの指輪だから、返されてもどうしようもないんだ」
他に言い様があるだろう、と荒太は自分に突っ込んでいた。
余裕が無くて、真白に優しく接することの出来ない自分がもどかしい。
真白はしばらく荒太を悲しそうに見ていたが、俯いた。
「…荒太君は格好良いし、お料理も、何でも出来るから、」
「すぐに良い人が出来るとか言わないでね、怒るから」
本気の響きに、真白が口籠る。
「俺は、真白さんのでしょう?ずっと、そうだろう?」
真白が唇を結んでいる長い間、荒太は彼女の顔から目を逸らさなかった。
真白は目を閉じて、首を横に振ろうとした。
けれど荒太が掴んだ右手の感触に目を開け、動きを止める。荒太の左手は弱々しく握り返され、一度は固く引き結ばれた唇が、震えながら動いた。
「剣護の目が治るまで、私、戻らないよ?」
「うん」
「……治らないかも、しれないんだよ?」
「うん」
「それでも?」
「うん」
ついに真白が泣いた。
(泣き虫だなあ、真白さん)
優しい気持ちが込み上げて、荒太は焦げ茶色の頭を撫でた。
その優しさに誘われるように、真白が荒太を見上げる。
ベッドに座った彼女に、荒太はずっと立ったまま応対していた。
焦げ茶色の瞳が静かに瞬いた。
「荒太君に私をあげます」
唐突な発言に、一瞬、荒太は頭の中が空白になった。
「…え?」
真白が、目を彷徨わせながら口を開く。
「ずっと以前、荒太君、言ったでしょう。…私が許すなら、私の全部が欲しいって。だから。…だから…」
やっと真白の言っている言葉に理解が追いついた。更に、真白が今日に限ってベッドに座った理由が解り、荒太は唖然とした。真白の身体の柔らかさが蘇る。唇の甘さや、しょっぱさも。そうして思い出しながら、彼女の身体に無意識に伸ばしかけていた右手を、バッと引っ込める。危なかった、という言葉を胸の内で何度も早口で繰り返す。荒太の心臓はバクバクと暴れていた。
「――――――駄目だよ、そんな。別れる前の最後の、みたいな」
真白の顔と身体から視線をもぎ離しながら、乱れた口調で言う。顔が熱い。
「違う、そんなんじゃ。あなたのところに、帰って来たいから」
「ちゃんと、俺と結婚する時にちょうだい!絶対、その時は貰うから」
荒太はこれだけの言葉を言うのに、一生分の克己心を使い果たした気がした。言葉を発した為に、肩で息をする羽目になる日が来るとは思ってもいなかった。
(―――――莫迦か俺は。いや。これで良い。やっぱり莫迦だ――――いや)
葛藤する荒太の前で、真白は黙り込んだ。
非常に惜しいことをした、という思いが荒太の頭に居座ろうとしたが、無理矢理にそれを追い払う。代わりに、真白に請う。
「…キスして良い?」
「え、うん」
真白が言い終わる前に、荒太は真白の唇に覆い被さるようにくちづけていた。
キスだけだ、それだけだ、と自分に言い聞かせながら、そのままの勢いで真白の身体をベッドカバーに倒す。白に、焦げ茶色の髪がふわっと散る。微かな怯えが走った真白の目を見て、キスだけだ、と再び強く念じる。
頬に、首の付け根に、唇に唇をつけると、耳たぶを噛み、唇を噛んだ。ブラウスの襟元から覗く、白く浮き出た鎖骨にも歯を当てる。
ガバッと真白が跳ね起きた。勢い、荒太の身体が転がる。
「ど、どうして噛みつくの?」
「え、と。美味しそうだったから?」
「えええ?」
「痛かった?…甘噛みした、つもりだけど」
荒太が上目遣いになる。
「そ、そういう問題じゃ、なくて」
「ダメだった?」
「……ううん」
お互いに赤面して、気まずい空気が流れる。
間抜けな発言だと思いつつ、荒太は確認を取る。
「――――あの、続けても?」
「あ、はい…。……あんまり、噛まないで」
荒太の確認に答える真白の唇に、やはり荒太は性急に迫った。