白い現 五 前
五
〝剣護は生きているかもしれない〟
荒太にその可能性を考えさせたのは、剣護が自ら結界を閉ざして自分たちの前から消えたあと、手元に残った種の存在だった。
〝荒太。その種、透主が死んでも取っておけ〟
そう言った竜軌の忠告に加え、今後、何らかの役に立つ時が来るかもしれないとの考えもあって、自分を相川鏡子のもとに導いた花の種を荒太は捨てずに取って置いた。
恐らく鏡子の死と同時刻、美しく艶やかな赤い花弁を散らした花は、種の形状へと逆戻りした。それを、荒太は今までずっと律儀に保管していたのだ。
時にはそれを取り出し、眺めてみることもあった。
そして、長い年月の間、何の変化も無かったその種が、今年の桜の時期になって一度、赤く点滅したのだ。それはじっと見ていなければ見逃してしまうような、微かな瞬きだった。たまたま荒太が見ていた時にそれが点滅したのは、運命の悪戯だったと今でも思う。
鏡子が死んだ今、種が点滅した理由を知る為に、高校をやっと卒業したのち、大学に行くでも就職するでもなく気儘に放浪していた竜軌を捜し当てて、久しぶりに会いに行った。
荒太も陰陽師ではあるが、呪物に関しては、それを生成した者に訊くのが最も手っ取り早く確実だからだ。
もしかすると、という予感が胸にはあった。
荒太の話を聴いた竜軌は、一度口の端を軽く釣り上げ、点滅の由来を語った。
相も変わらず傲岸不遜な表情が語る内容に、荒太は聴き入った。
そして今、チェーンに繋いだ種を首に下げ、真白から借り受けた懐剣・雪華を手にした荒太は、波打ち際に佇んでいた。紺色のワークジャケットが風にはためく。背中には非常食や水、軽量の懐中電灯、サバイバルナイフ等に加え、何が役立つか解らないとばかりにしたためて来た護符やら呪符やらの陰陽道系グッズまでが、ぎゅうぎゅうに詰め込まれたナップザックがある。ちょっと欲張り過ぎたな、と反省していた。
目の前には白い砂浜と、透明度の高い海が広がっている。
頭上から降り注ぐ、きつめの日差しに目を細める。
サラサラした砂にめり込むトレッキングシューズが重い。
(どこや、ここ……)
困惑する思いであたりを見回していると、声をかけられた。
「ちょいと、あんた!」
声の方向に首を巡らすと、簡素な着物に身を包んだ、妙齢の女性が立っていた。
少し白髪の混じる黒髪を結い上げ、美しい銀細工の簪を挿している。
荒太はそれをついいつもの癖でチェックして、悪くない趣味だと思った。
女性の濡れたように黒々とした目は、驚きに見開かれていた。
「あんた、その、手に持ってるのは雪華じゃないのかい。真白の……」
この言葉に、荒太もまた目を見開いた。
互いに驚き、言葉を探す二人の後ろで、潮騒が鳴り響いていた。
浜辺には幾隻かの船が泊まっている。博物館で見る模型のような、古風な外観の船だ。海猫が独特の声で鳴きながら、それらの周囲を舞っている。
近くで食事していた、漁師らしき男の集団がジロジロと自分たちに送る視線を、荒太は感じた。
荒太が通された囲炉裏のある板の間で、あごひげを生やし、片目が白濁した老人は嶺守、いかにもしっかりしていそうな風貌の老婆は萱、そして自分に声をかけた女性は澪とそれぞれ名乗った。
「真白様、怜様のお二方には、真に、どれだけ感謝しても感謝しきれません。儂ら、いや、このあたり一帯に住まう者、皆の恩人です。ろくにお礼も申し上げられぬまま、お二人は当地を去ってしまわれましたが。あなた様が、真白様のお知り合いでおられるとは…。久々の客の訪れです。真白様たちが受け取られなかったぶん、感謝の心を尽くして、今宵は盛大に宴を開かねばなりますまいな」
にこやかに語る嶺守に、荒太は、はあ、と相槌を打つ。
鬼が出るか蛇が出るかと思い、あらゆる事態を想定して気負って持って来たナップザックが、何とも間抜けに彼の隣に置いてある。
今から三年近く前の夏祭りの夜、異界に流された話は真白からも聞いていたが、実際にその場所に身を置くと、やはり違和感は拭えなかった。どちらかと言えば前生を思い出させる木造の家屋の空気に、時を逆流したかのような錯覚に陥る。真白たちには、そんなことはなかったのだろうか。
澪が口を出す。
「嶺守。剣護にも、知らせてやらないと。真白の兄なら、この子とも顔馴染みなんじゃないのかい」
その言葉に、荒太が全身を硬直させた。
やはり、という思いと、莫迦な、という思いが同時に湧く。
「………………剣護……?」
かすれた声が自分の口から出るのを、荒太は聴いた。
嶺守の顔が明るくなる。
「おお、ご存じでしたか。あの方も数年前にこちらに来られて。ゆっくりと過ごされれば良いものを、それでは心苦しいと言って、今は庭で薪を割ってくださっている筈です。しかし……、」
そこで嶺守は言葉を区切り、言いにくそうに顔を顰めた。
「なんです?」
カンッという小気味良い音と共に、薪が真っ二つに割れる。
斧を振り上げる人間は、長く伸びた焦げ茶色の癖っ毛を一つに束ね、着物を上半身脱いでいた。長身の、昔より更にたくましくなった身体に汗が光る。
浜姫榊が生える傍に立って、荒太はそれを見ていた。
その内、薪を割っていた人間の動きがふと止まる。
「………誰かそこにいんのか?」
低い、穏やかな声。懐かしい緑の瞳も、何も変わっていなかった。
今や立派な大人の男性である。それもその筈だ。嶺守の話では、剣護が流れ着いたのはおよそ三年半前。現世の目盛より半年程長い時を生きており、実年齢ではとっくに成人していることになる。
しかしその立派な体躯を見ても、荒太はすぐに声をかけることが出来なかった。
頭の中では、嘘だという言葉がぐるぐると回り続けている。
「…剣護先輩」
生きていた。
ようやくの思いで声をかけた荒太の方向を、剣護が向く。
二人の間は3メートルと離れていない。
しかし剣護は探るような、信じ難いと言わんばかりの声で確認した。
「―――――荒太なのか?」
荒太は声を出せない。
生きていた。しかし。
緑の目はこちらを向いているのに。
剣護が焦れたように再び問いかける。
「おい、荒太。そこにいんのか?」
自分で確認するまで、荒太は嶺守の話を信じられなかった。
剣護は生きていた。
しかし彼の目は光を失っていた。
剣護と荒太は縁側に腰掛けていた。薪割りを最後まで終えた剣護の手に、荒太は縁側に置いてあった手拭を持たせてやった。そうしなければ、手拭を求めて縁先を手探りする剣護を見なければならなくなる。荒太は、彼のそんな姿を見たくなかった。手拭を持たされた剣護は礼を言うと、それで首や背などを拭いた。
「…どうやらな、相川の奴が、死ぬ寸前に俺を結界から締め出したらしいんだ。あいつは虫の息で、結界内はとうに汚濁が充満していた。一か八かのことしやがって。俺はその弾みで時空のひずみに転がり落ちて、気が付けばこの辺境の地にいた。汚濁も少しばかり持って来て、迷惑かけた。………で。その時にはもう、何も見えなかった。やっぱ、濃過ぎる汚濁がやばかったのかもしれん。嶺守たちに拾われ、話す内に、ここが以前、真白と次郎が流された世界だと知った。あいつらの活躍と俺の持つ神つ力の気配のお蔭で、貴人として厚遇してもらったよ」
話す剣護の目は、どこにも焦点が合っていなかった。
「失明状態に慣れるまでには、相当かかった。今じゃ薪割りが出来る程度にまでなったが。嶺守がさ、嫁さんの世話してくれるとか最近言い出して。さすがに断ったよ」
「…なんでですか」
剣護が笑う。
「俺が相手じゃ可哀そうだ」
まだ上半身を空気に晒したままの剣護の右肩には、赤い、花びらのような痣がついている。荒太は剣護の右側に座り、その痣をじっと見ていた。これが無ければ、雪華の力をもってしても、ここまで辿り着くことは出来なかっただろう。
「お前は?どうやってここまで来たんだ、荒太。おいそれと来られる場所じゃないだろう」
暗くなりそうな雰囲気を振り払うように、剣護が尋ねた。
「…相川さんの肩に咲いた花、覚えてますか?」
荒太は剣護の肩の痣から、庭先に戯れる雀たちの姿に視線を移して問いを返した。
この雀たちも、剣護の目には映っていないのだ。ただ鳴き声だけが、聴こえている。
「ああ、あれな。綺麗だったな。発信機みてーなものだったんだろ?」
思い出すように、剣護の顔がほころんだ。
「あれの花びらの一枚が、剣護先輩の肩にくっついてます」
「え、マジで?」
剣護が右肩、左肩、と慌ただしく手を遣る。
「…右肩です。ほぼ先輩に同化してるみたいですね。それに、俺の手元に残っていた花の一対の片方だった種が反応したんです。赤く点滅して。この次第を信長公に話したら、剣護先輩の生存の可能性を示唆された。元々が、身近な人間に寄生する性質を備えた呪物やそうです。花を肩に咲かせた相川さんと最後まで一緒におったんは先輩です。透主が生きていない現状、種が点滅するいうことは、先輩に寄生した花の一部分に反応してるんやないか。種が先輩まで導くやろう。…そう言われました。それで真白さんに雪華を借りて。ようやく、ここまで来ることが出来ました。―――――種の話を聴き出す為に俺は、あいつの依頼を受けなならんかったんですからね」
真白は雪華を貸すことを嫌がらなかった。飛空だけでは心許無いから、護身用に借りて行きたいと言う荒太の無理のある嘘を素直に信じ、進んで差し出した。
「依頼?」
荒太が溜め息を落とす。
「濃姫捜し、です。嵐下七忍を動員してでも見つけ出せて。全く。信長公の、唯一の泣き所ですわ」
日本各地を放浪する竜軌の行動の、裏にある彼の目的に荒太は勘付いていた。
そして少しだけ、良い気味だと思っていたことは否めない。
「……あいつ結構、可愛いな」
意外そうな表情で剣護が呟く。
それから、悪戯を仕出かした子供のような顔で尋ねた。
「―――――一磨さんは、何か言ってたか?」
「…ただ、残念やと一言。それだけです。あの人は、大人やから」
「ほんと、その通りだよ。俺、結構あの人に憧れてたんだ。かっけーよな」
決まり悪そうに焦げ茶の頭をガリガリと掻く。
彼が妻子を守るように、真白や弟たちを守ってやることが剣護の理想だった。
荒太はその顔を見る。返って来る眼差しが無いことが、今でも信じられない。
だが荒太は、剣護の逃げを許すつもりは無かった。
現から目を逸らしてでも、ずっと剣護の帰りを待ち侘びている真白の姿を、彼は見続けて来たのだ。時には胸がひりつくような痛みと共に。
「剣護先輩。帰れなかったんですか?帰らなかったんですか?」
頭を掻く手が止まる。
「――――――帰れなかったし、帰らなかった」
変わっていない、と荒太は感じた。
例え光を失おうと。一方では思惑を胸に秘め、周囲を欺き通す顔を持ちながら、それでいて不器用とも思える程に真っ正直な心根と芯の強さは。
「臥龍では、俺を現世まで導くことは出来ない。それに…こんな有り様を、真白に見られたくなかった。荒太。俺は、今まで望めば大抵のことが出来た。それを叶える力があった。何があっても真白を守ってやれる自分が誇りだったし、その事実が俺の生きる喜びでもあった」
剣護は、右の掌を握って、開き、また握った。今度は強く。
「でも今は、もう出来ない。解るか、荒太。俺はずっと生き甲斐にしてたもんを失くしてしまったんだ。俺がこんな状態で戻れば、絶対に、真白は俺を支えようとするだろう。叱っても宥めても、あいつは聴かない。――――――まっぴらだ、そんなの。だから俺はここに残るよ」
真白に哀れまれることは、剣護には耐え難かった。
この先、何より愛した焦げ茶色の瞳を見ることも叶わない。
あの澄んだ目が曇らないよう、現実の醜い何物からも庇い守ってやりたかった。
そして自分が生きている限りは、それは可能であり続けるのだと信じて疑わなかった。
〝僕の目が代わりに映すから〟
(…それも、もう出来ねえ)
荒太の目には、様々な感情の色が浮かんでは消えた。
剣護の言葉は、男として非常に理解出来るものがあった。
大事な存在をその手で守れないという無力感は、理屈抜きに男を打ちのめすのに十分だ。
逆に庇護しようとされかねない屈辱は、それに輪をかけて苦痛だろう。
本人が言う通り、これまで大抵のことを可能にする力を持っていた剣護であれば猶更だ。
だが荒太は同情に流されずに踏み止まった。
そうであっても剣護には、この難関を超えてもらわなければならないのだ。
(ここがあんたの正念場や)
それは荒太自身にも当てはまることだった。
荒太は口を開き、ゆっくりと告げた。良く聴きやがれと思いつつ。
これを聴いても、同じ言葉が言えるものかどうか――――――――。
「……〝剣護は、アメリカ留学に行っただけでしょう?〟」
「―――――何だ、そりゃ」
剣護が不審そうな声を出す。
「真白さんが、剣護先輩の消えたあと、目を覚まして言った台詞です」
剣護が息を呑む。その台詞を聴いた時の、荒太や怜と同様に。
「解りますか。彼女には、あんたがおらんようになるんが、耐えられんかったんですよ。せやから、辛くない物語を自分で創り上げて信じ込んでしもた。今でもです。二年経っても、真白さんは夢の世界を生きてる。まだ、本当には目が覚めてへん。剣護先輩が帰らんかったら、ずっと眠り姫のまんまや。あんた、それでもええんか」
剣護は沈黙した。
波の音が聴こえる。
浜姫榊が葉擦れし、磯の香が鼻につく。
雀が、近くで鳴いている。
だが世界は暗闇に閉ざされている。
〝今、見たいの?最後の仕上げが終わったら、どうせ皆に披露するのに。せっかちねえ〟
剣護は、舞香の描いた真白の油絵を、頼み込んで他の連中より一足先に見せてもらっていた。鏡子と逝く、覚悟を決めたあとだ。
着物姿のモデルを油絵で描くことに疑問を感じていた剣護だったが、白い布が取り外された絵を見た瞬間、良かったと思った。見ておいて良かったと。
絵の背景は写実ではなく、空想の世界を思わせる抽象画だった。
ステンドグラスのような色の洪水が、キャンパスいっぱいに溢れていた。
その、輝くような色彩の祝福を受けて。
幸福そうに笑う真白がいた。
紫に、桜が咲いた柄の着物に身を包んで、微笑む少女がそこにいた。
とても綺麗だった。画材を超えた美が見事にそこに具現していた。
絵そのものに、本当に光が差しているように見えた。
絵に魂を奪われるということを、剣護は生まれて初めてその時、体感した。
(―――――してやられたな)
心の底から自慢の妹だと思った。
真白を花嫁として迎えることの出来る男は、世界一の果報者だと羨んだ。
(俺じゃなくて残念だ)
しばらくの間、声も無く絵を見つめてから剣護は言った。
〝……ありがとうございました、舞香さん。これで悔いは無いです〟
〝いやあね。あなた、今から戦地にでも行くつもり?〟
笑う舞香に、苦笑を返すしかなかった。