白い現 四 後半部
〝哀しみの女流歌人〟
それが、キャンパスで真白についたあだ名だった。
真白は今でも五行歌を続けていて、大学入学の少し前に、小さな歌集も出版した。歌集の後半部分には挽歌らしき歌が多く載り、詠んだ真白本人は首をひねり、身内の人間は沈黙した。その歌集から得られる印税と両親からの仕送りで、荒太との生活費を賄っている。入学前から少し名の知れた存在だった真白は、その容姿においても学生たちの注目を集めた。
憂いを含んだ、白く儚げな顔。
幼さが僅かに残るものの大人びた面立ちは整い、少女らしさを含みながら大人の女性の雰囲気を漂わせて仄かな色香がある。しかしすんなりと伸びた立ち姿から醸し出される空気は、まるで帰らぬ誰かを待ち侘びているようで、いつもどこか哀しい。
周囲の人間から見た真白像は、核心に近かった。
「僕が守ってあげたい」
彼女の佇まいは、多くの男性にそんな思いを喚起させた。
当然、寄って来る立候補者はいたが、成瀬荒太という、押しも押されもせぬ同棲相手が学内にいることも知れ渡っていた為、しつこく迫られることは無かった。
広いキャンパス構内、クリスマスには盛大な飾り付けの施される大きな樅の木の側のベンチに、真白は一人座って自動販売機で買ったココアを飲んでいた。目はぼうっと虚ろだ。
(あ…、燕が飛んでる)
抜けるように青い空が眩しい。その青空をポツンと飛翔する、黒い小さな点。
実家の軒先に毎年巣を作っていた燕は、今年もやって来ただろうか。
今住んでいるマンションの、荒太の部屋の窓の外側にも、燕が巣を作っている。
荒太は雛の鳴き声がうるさいと言いつつ、我慢しているようだ。
(荒太君――――――)
同棲しているのに、寝室が別だというのはおかしいと、同じ国文学科の上野みちるに言われてしまった。
〝多分ね、成瀬は我慢してるよ、しろりん。…ちょっと可哀そうだって〟
そうだろうか、と思う。
思って下を向くと、肩からサラリと髪が滑り落ちた。
紙コップの中のココアの、まったりと濁った茶色を見つめる。
きっと、みちるの言うことは正しい。
荒太がずっと、自分に対して大きく譲歩して来てくれていることに、真白は気付いていた。気付きながら、それに甘え続けて来た。
本当はキス以上を待たれていると知りつつ、そこまでの領域に踏み込むことをまだ恐れている。自分は同年代の女の子より臆病なのだ。
そして欲しがりながら、真白に無理強いするような真似を、荒太は一度もしたことがない。急かす言葉も口にしない。焦がれるように求められていることが、真白にもひしひしと伝わって来るのに。
(…荒太君は私を傷つけない。何が何でも、傷つけまいとしてる。いつも)
短気で我が強い自分を弁えているぶん、ありったけの思い遣りをかき集めて真白を包もうと努力している。
燕の雛の声のうるささに眉間に皺を作りながら、決して巣を取り除こうとはしない荒太。
(荒太君は自分が優しいってこと、知ってるのかな)
器用なようでいて不器用な彼は――――――――。
ふと顔を上げて、視線の先を歩く荒太の姿を見つける。
怜にしろ荒太にしろ、姿勢の良い後ろ姿というのは思いの外、目立つ。
嬉しくなって声をかけようとした真白の口から、声は発せられなかった。
荒太の隣には、見知らぬ女性がいた。荒太と並んでも見劣りしない、スラリとした長い手足。大人っぽい、洒落た服装はそれに見合ったスタイルとも相まって、スタイリスト並みに評価の厳しい荒太でも太鼓判を押しそうだ。
長い髪を風に靡かせた彼女は親しげに、荒太の腕に手を添えている。
凍りついた真白の目はその手に吸い寄せられ、動けなくなった。
(…あ、…動悸が激しい。どうして。苦しい)
喉が詰まったように、息が苦しい――――――――。
帰宅した荒太はあれ、と思った。
もう日も落ちたのに、家の電気が一つもついていない。
今日、真白が受ける講義は午前中までだった筈だ。とっくに帰っているだろうに、姿も見えない。帰った時に、彼女が笑顔で〝お帰りなさい〟と出迎えてくれないのは非常に寂しい。まるで中毒のように、荒太にはそれが馴染んでしまっているのだ。怜のところだろうか。とりあえず廊下とキッチンの電気をつけ、買って来た食料品を冷蔵庫に入れるなりして、自室に鞄を放り込んでからリビングの電気をつけた。真白の部屋のドアも念の為にノックする。――――――返事は無い。
「…真白さん?いる?」
そおっと覗き込むと、ベッドの布団が膨らんでいた。
「真白さん!?もしかして、具合悪いの?」
遠慮も忘れて室内に踏み込み、ベッドの傍にひざまずいた。
電気を一切つける余裕も無いくらいに体調を崩してしまったのだろうか。
「――――――悪くないよ。大丈夫」
くぐもった返事に、ホッと息を吐く。
「良かった。…でもどうしたの?家中、真っ暗だったよ」
「うん。ごめん。何でもないの」
何か様子がおかしいということに、荒太も気付いた。
「真白さん。顔、見せてくれる?」
「…どうして?」
「今、怒るか悲しむか、してるでしょ」
返事は無かった。
荒太は躊躇ののち、掛布団をそっとめくった。
幼児のように丸くなった真白が、そこにいた。両足を曲げ、腕で抱え込んで壁側を向き、こちらに背を向けている。
柔らかい綿のクルーネックの長袖シャツ、ゆったりした綿麻素材のズボンは、真白が好む部屋着スタイルの一つだ。色はどちらもオフホワイト。彼女が心を落ち着けたい時に良く手に取る色だ。
「―――――…ま、真白さん。俺、何かした?」
強固な壁のようにも見える真白の背中に問いかける。
焦げ茶色に流れる髪の向こうから声が届く。
「してない―――――した。ううん、してない。してないの」
絶対、何か気付かない内にやらかしたのだと荒太は確信した。
顔を見せないことは彼女の意思表示だ。
何だ、俺、何をした、と記憶の中を大捜索する荒太の耳に、真白の硬い声が響いた。
「荒太君。私のこと、嫌になったのなら言って」
「な―――――、」
「もっと大人の、お付き合いが出来る女性が良いのなら――――――」
「真白さん!」
荒太の怒鳴り声に、真白の身体がビクッと揺れる。
「…怒るよ」
しかし、真白が恐る恐るこちらを向いた顔を見た途端、荒太は怯んだ。
「ごめん。今の無し。怒らない」
(ちくしょう。勝てない)
「…こっち、こっちに来て」
ベッドの隅に籠城する真白に、怯えさせないよう優しく声をかける。
手を取って真白をベッドに腰掛けさせ、自分はひざまずいたままの姿勢で、目を合わせて尋ねた。
この焦げ茶色が大好きだと思いながら。
「……何でそんな莫迦なこと、考えたの。俺の眼中に真白さんしかないことくらい、三歳児だって見りゃ解るよ」
「昼間、」
「昼間?」
「見た」
「見た…」
鸚鵡返しに言葉を聴き出す。
「―――何を?」
ここで真白がキュッと握り拳を作る。
「荒太君と女の人が、歩いてるとこ。………荒太君の腕に、…触ってた」
荒太は、真白以外の女性には相当にドライだ。一緒に並んで歩いたり、まして腕に手を添えるようなことは許さない。
だから真白が見た光景は、彼女にショックを与えた。荒太が臆病な自分に合わせ、無理をしているのだろうと考え事に耽っていた折も折だ。
「あぁ―――――あ…」
荒太が額に手を置いた。
「……俺としたことが。良かれと思ってベタな失敗を。そっか。真白さん、あの樅の木の側のベンチ、お気に入りだったね」
「――――…うん?」
荒太が顔を歪め、首の後ろをがしがしと掻いている。変わらない彼の癖を見て、真白の心がほんの少しだけ解れる。
荒太が顔を上げた。そこに後ろめたい色はなかった。
「…サプライズにしたかったんだけどなあ。ねえ、真白さん。来月、六月の十日、何の日か解る?」
きょとん、とした顔で見返す真白に、荒太は内心でやっぱりな、と思っていた。
自分の誕生日を忘れるのは彼女のお家芸だ。昔から変わらない性分に苦笑してしまう。
「真白さんが、十九歳になる日でしょう?」
「…あ………」
それだけで、真白には聴くまでもなく、何となく事情が呑み込めてしまった。
しかし荒太はきちんと言葉を使った説明をした。
「だから俺としては、誕生日プレゼントの仕込みを入念にすべく、社交辞令も使って色々と情報を得ようとしてた訳で。…押しつけがましいかもしれないけど、今年は洋服をプレゼントしたいって思ってたんだ。昼間会ってたのは、海外のナチュラル系ブランドにも詳しい相手でね。女性のそういう情報通って忍び以上だからさ。彼女の服装とか俺の合格圏内だったし、話を聴く価値があると思ったんだけど」
真白に誤解された挙句、〝大人のお付き合い〟を薦められるに至っては、失態を仕出かしたと思う他なかった。誤解が解けた今に至っては、真白も赤面して気まずい表情をしていた。荒太が、真白の目をじっと見る。
「俺が他の女に触られるの、嫌だったの?」
真白が右に逸らした目を追い、更に左に逸らした目を追うと、観念したように真白は正面を向いて荒太の視線を受け容れた。もちろん荒太に逃がすつもりは無かった。
「……うん。嫌。嫌。すごく辛くて、自分でもびっくりした。だって―――――――」
事情が明らかになった今でも、やはり荒太に触れないで欲しいという強い思いは変わらない。これまでに、これ程激しい嫉妬の感情と独占欲を抱いたことのない真白は、自分自身に当惑していた。混乱と羞恥の余り、顔のみならず、常には白い首筋までうっすら赤く染まっている。その有り様と真白の率直な言葉は、荒太を喜ばせるに十分だった。
「だって?」
荒太は頬に笑みが浮かびそうになるのを抑えながら、余裕を持って訊き返す。
直接、真白の口から聴きたかった。そして返って来た言葉は、予想より赤裸々だった。
「わ、私の荒太君だから」
「―――――――」
ベッドで問答していたのがまずい、と荒太は思う。
両手で真っ赤な顔を隠した真白を、押し倒さない自制心と克己心を、荒太は試された。
「荒太君、紅茶が入ったよ」
いつもよりも和らいだ真白の声がドアの間からかかる。
(…雨降って、地が固まったな)
そう思いつつ、荒太も笑顔で応じた。
「うん。今、行く」
机の上に置いていたプラスチックケースに荒太が入れようとした物に、真白の目が向かう。
「……種?赤いね」
興味を引かれたように、部屋の中に入って来る。
「あ、うん」
それは、相川鏡子へと荒太を導いた種だった。一度は芽吹き、花が咲いたのだが、鏡子の死と同時に枯れ、また再び種の形に戻った。荒太はそれを見ながら、ずっとあることを考えていた。
失われた緑の瞳。
荒太にとって慕わしくもあり、また恐ろしくもあったその存在。
それがもし万一、戻り得るとしたら。
その時、真白は。真白は――――――――――。
「ベランダに植えるの?なら鉢植え、買って来なくちゃ」
「…あー、どうしようかな」
「植えたら良いのに」
真白がふわりと微笑む。荒太は眩しげにその顔を見る。
決めた、と思った。
「真白さん。俺、数日、家を空けるよ」
軽い調子で言った荒太に、真白の笑顔が凝固する。
「…どこか旅行に行くの?」
「――――そうだね」
「遠いところ?」
「かもしれない」
「いや!!」
激しい拒絶の言葉に、荒太は驚く。
「行かないで。いや。荒太君まで帰って来なかったら、いやだ」
「真白さん、真白さん。落ち着いて。大丈夫、そんなことにはならない」
取り乱す真白の両腕を掴んで、荒太が言い聞かせる。
「俺は、何があっても絶対に真白さんのもとに戻るよ。手ぶらでもね。……でも、もしかしたら…、洋服なんかよりもずっと真白さんに喜んでもらえるような、誕生日プレゼントにあげられるお土産を、捜し当てることが出来るかもしれない」
それは自分自身にも言い聞かせる言葉だった。
そうすればもう、真白が〝哀しみの女流歌人〟と呼ばれることもない。
荒太はにっこり笑いかけた。