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白い現 四 前半部

       四


 荒太はキッチンにある生ごみ用のごみ箱の中を見て、首を傾げた。

「真白さん。(かつお)が入ってた空のトレイ、捨てちゃった?」

 訊かれて流しに立っていた真白が、あ、と言う顔をする。

 絞って水を切ったスポンジを置き、エプロンを外しながら答える。

「ごめんなさい、うっかりしてた。リサイクル出来るんだったね」

「うん、良いよ。後片付け、お疲れ様」

「緑茶にする?紅茶?コーヒー?」

「緑茶で」

「はい」

 微笑んで真白が手に取る茶筒は、荒太が吟味した桜皮の茶筒だ。以前、大学の合格祝いを兼ねて二人で旅行した際に訪れた、秋田で手に入れた伝統工芸品は、桜の花が満開に咲いたような細工が美しい上に密閉性が高く、実用的だった。

 真白がお茶を淹れる仕度を整える姿を眺めてから、荒太はリビングのテーブルにコースターを準備した。藍色と空色、そして白のシックな色合いが品の良いコースターは真白の手作りだ。

 本来、剣護の志望先であった大学に、今年の四月、荒太と真白は入学した。それに先立ち、二人共、保護者の了解を得た上でマンションでの同棲生活を始めた。

 引っ越し先を探すに当たり、荒太は陽当たりの良い、室内から桜の眺められる物件を探した。他にもキッチン周りの使い勝手やら収納スペースの広さやら、彼の要求は新婚の妻以上に高く、終いには嵐下七忍まで追い立てての大規模な物件捕り物となった。その最中、職権濫用、公私混同、と兵庫が何度叫んだことか。荒太もまた真白との新居を探すということで血眼(ちまなこ)になっており、任務の内容如何に関わらず主命に黙って従うのも忍びの勤めだろうが、と繰り返し言っては兵庫を黙らせた。

 結果、落ち着いた今の住処に、荒太は非常に満足していた。今年は慌ただしくて余裕が無かったが、来年の春には室内から真白と共に花見が出来るだろう。随分と規模は小さくなったが、当面はここが荒太と真白にとっての桜屋敷だ。

 問題は、と思い、隣でお茶を飲む真白を見遣る。

 視線に気付き、笑顔を向ける真白に笑顔を返し、幸せを噛み締めながら、問題は、と思考を続ける。

 問題は一緒に暮らしながらも寝室は別々、という生殺し状態にあった。学生の二人暮らしにしては余裕のある部屋数が、この場合は仇となってしまったのだ。

 湯上りの真白や寝起きでパジャマ姿の真白を、ただただ見ているだけで何もしないということは、荒太にとってかなり切実に苦しいものがあった。今では荒太を生活のパートナーと見なし、信頼してくれる真白も、荒太が自分の寝室に踏み入ることだけは固く拒んだ。一度、疲れて帰った深夜、自分の部屋と間違えてうっかり真白の部屋に数歩、踏み入ってしまった荒太は、起きて動揺した真白に泣かれそうになり自室に飛んで逃げ帰った。

(おまけに)

 ピンポーン、と明るいチャイムの音が鳴る。

 誰が来たか、荒太には察しがついた。

「次郎兄!」

 玄関から聴こえて来た真白の弾んだ声に、やっぱり、と(しか)(つら)になる。

「入って、入って。どうしたの?」

「サークルでケーキ貰ったんだ。一緒に食べようと思って」

「本当?丁度良かった。今、お茶してたとこだったの。次郎兄のぶんも淹れるね」

 静かに微笑しながら入って来る怜は、三年前よりぐんと背が伸びた。今では大人びたと言うより、頼もしい大人の風格が漂っている。

 自分とどちらが身長が高いか、正確な数値を荒太は是非とも知りたいところだったが、今は「ケーキ」の響きに耳が動いた。真白たちと同じ大学に通う怜は、にこにこコーポを少し前に引き払い、このマンションの、真白たちの住まう階の一つ下の階に引っ越して来ていた。妹の真白を追ってであることは言うまでもない。

 二年前、秋と冬を真白と寄り添って過ごした怜は、春を迎えるころには精神の安定を取り戻していた。未だ心は荒野の中にあっても、彼本来のしなやかな強さで、息を吹き返すように立ち直った。

〝悪かったな〟

 怜のその一言で、荒太は再び真白を取り戻した。

 それから時間を重ね、二人の日々を育んだ。

 壊れ物を扱うように慎重に、同時に濃い密度で荒太は真白に接した。

 お互いに大学に受かってから、同じ家で暮らしたいと口にするには非常な勇気が必要だった。けれど、断られることも覚悟で申し込んだ荒太に、真白は頷いてしみじみと言った。

〝…嬉しい。これからは、荒太君とずっと一緒にいられるんだね〟

 その言葉が荒太にも嬉し過ぎて、兵庫と片郡を相手にまた飲み過ぎてしまった。

 

 貰ったと言うよりは、恐らく怜が女子大生に貢がれたのであろうケーキを荒太は真剣な目で検分する。〝貢ぎ物〟であることを裏付けるように、箱の中に入っていた三個のケーキは全て、怜の好むチョコレートケーキで統一されていた。

「チョコレートケーキが三個か。…難しいな」

「どうして?三人だし、一種類しか無いのに」

 難問を前にしたように唸る荒太に、真白が不思議そうな目を向ける。

「だって、俺が二個食べて真白さんが一個食べると、江藤のぶんが無くなるだろ?」

「……成瀬。お前、数学と人間交渉術が出来なくて、良く大学に受かったね」

「両方、出来てる」

 怜が首を横に振りながら息を吐く。

「じゃあ倫理がなってないんだな。俺の人権を軽視し過ぎだ」

「莫迦な。ちゃんと考えてるから、無くなったら可哀そうだなーって言ってんじゃないか」

「荒太君が二個食べて次郎兄が一個食べたら良いよ。私は荒太君が作ってくれた美味しいご飯で、お腹一杯だから」

 笑ってそう言った真白を、荒太は優しい主人に注意を受けた犬のような顔で見た。そしてケーキは一人一個ずつの割り当てで落ち着いた。


「荒太君、お風呂、上がりました」

「あ、はい」

 怜の帰ったあと、自室で料理雑誌を読んでいた荒太は、ノックの音に続きドアを開けた真白を振り返った。

「…………」

 パーカーを羽織ったパジャマの上の、まだほんのりと上気した顔が、自分を見て静止した荒太に疑問符を浮かべる。

「え、どうかした?」

「ううん、何でも無い。――――いや、やっぱりある、ある。真白さん、こっちに来て」

 真白が、少しおっかなびっくり、といった様子で室内に入って来る。

 荒太の部屋に入るのは、警戒しながらも許容範囲らしいのが不思議だった。高校のころからの慣れがあるのかもしれない。しかしそれなら、高校時代には荒太が真白の部屋にかなり入り浸りだった状況は、今の真白の中でどう処理されているのだろう。荒太には今一つ良く解らない。実家の自室と同棲先での自室では、ガードの固さに差が出るということだろうか。何せ実家には二人の祖母という強い守護者(ガーディアン)がいたのに加え、隣家にも真白を我が子同然に思う叔母夫妻がいた。

 一度、荒太は手痛い失敗をやらかしたことがある。

 恋愛に関してかなりオープンな姿勢を持つ真白の父方の祖母・塔子とは対照的に、母方の祖母・絵里は女性の貞淑・貞節を重んじる、古風な考えの持ち主だった。

 高校二年の春、怜の手から真白を取り戻した荒太は、それまで真白との間に空いた時間を取り戻そうと、盲目的に二人だけの時間を欲した。

 孫娘の部屋に連日深夜まで通い詰める荒太に業を煮やした絵里が、真白の部屋で我が物顔で夜遅くまで寛いでいた彼におっとりと声をかけた。

〝成瀬君。そろそろ帰らないと、お家の方が心配なさるんじゃないかしら?〟

 お気遣いなく、と言おうとして部屋の入口に顔を向けた荒太は、そこに静かに怒れる守護者の姿を見た。口調と変わらない、おっとりした優しげな風情の着物姿の絵里の手には、薙刀(なぎなた)がごく自然に構えられていた。それはもう、荒太から見ても惚れ惚れするくらい見事な構えだった。これには真白も驚き、目を丸くしていた。鞘が外され剥き出しになった刃先はきらりと光った。そんな絵里の出で立ちを見た荒太は肝を冷やし、すぐに退散した。さすがに荒太も、そのころの自分の態度が行き過ぎたものであったと反省せざるを得なかった。絵里が若いころ薙刀の名手だったと聞いたのは後のことである。真白と荒太の同棲を最後まで渋っていたのも彼女だったが、結局は孫娘の嘆願に押し切られた。二人だけの秋田旅行さえ許可したものか散々に悩んでいたのだから、同棲を認めるにあたっては相当な思いで決断するまでに至った筈である。

(…全く。俺だけの真白さんにするのは一苦労だ)

 開いた窓からは五月の、爽やかな夜風が吹き込む。

 真白が近付くと、柔らかな芳香が漂った。

 甘い香りに酔いながら、口を開く。

「髪、伸びたね」

 そう言って、肩を越した長さの髪に触れる。―――――まだ許容範囲だ。

 真白が、悲しそうに微笑んだ。

「…剣護と同じこと言うね、荒太君」

 荒太の手が思わず固まる。

「結局、ずっと連絡も無し。帰国もしないで。風来坊にも程があるよね」

 真白はまだ、自分の創った虚構の世界に生きていた。

 荒太は拳を形作った手を下ろそうとして、気が変わり、滑らかな真白の頬に触れた。これもまだ、許容範囲だ。真白はじっとしている。悲しげな目のまま。

「……剣護先輩に会いたい?」

「―――――――うん」

 涙ぐむ目をしないで欲しい。恋い慕う人間を想うような目をしないで欲しい。

(目の前にいるのは俺なのに)

 剣護のほうが良いのかと、子供のように問い詰めてしまいそうになる。

 緑の呪縛は、いつまで真白を捕らえて放さないのか。

「時々、夢に見るの。剣護の名前を呼んでしまってるのが、自分でも解るの。…荒太君、そんなの嫌でしょう?聴きたくないでしょう?」

 荒太がひどく嫉妬深い気質であることを、真白は高校のころから知っている。

 それもあって、真白は荒太の入室を頑なに拒んでいたのだ。

 抱き締めて良いか、尋ねる手順をすっ飛ばして、パジャマ姿の真白を強く抱いている自分に荒太は気付く。真白の身体の柔らかさに、空恐ろしいような心地がする。

「――――――ごめん」

 二人同時に、口にした。

 真白は嫌がる素振りもせず、むしろ荒太に更に強く身を押し付けて来た。

(――――え――――)

 どくん、と荒太の心臓が大きく脈打つ。視界に入るベッドから、慌てて目を背ける。

「荒太君…荒太君……」

 真白は泣いていた。

 涙に濡れた声に、荒太の忍耐の緒が切れかけていた。

(耐久力テストかよ……っ)

 半分本気でそう思う。絵里は同棲するにあたっての心得を、孫娘に言って聴かせたのではないのか。

(――――ああ、もうこの際だ)

 許容範囲を測る慎重さと臆病さを放り投げる。

 荒太は自棄(やけ)になって言った。

「真白さん。キスして良い?」

 そのくらいの責任は取ってくれ、と思った。

 相変わらず、夜風はさわさわと吹いていた。

 真白の焦げ茶色の髪が、揺れる。

 返事が貰えるまで、随分と待った気がした。

 その間もずっと身体は密着したままで、荒太は天国と地獄を行ったり来たりしていた。

「……うん、良いよ」

 忍びでなければ聴き取れないくらいの小声が返った。

 許された唇はしょっぱかった。涙の味だと気付き、荒太は切なくなった。



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