白い現 三 後
「真白。今日、俺の家に来ない?」
真白が怜にそう言われるのは、新学期が始まって三回目だ。
放課後の陶聖学園高等部校内。廊下を歩いている時だった。全体的に垢抜けて、且つクラシカルな趣のある陶聖学園校舎内は、多くがコンクリートで作られてはいるが、焦げ茶色に艶光りする塗装の木製の手すりや窓枠などが各所に目立つ。
四人の歩く廊下の頭上に釣られた電気も、半透明の白ガラスで出来た波打つ球形という、凝ったデザインだ。
横を歩く市枝も荒太も、無言だ。
「えっと。うん。…良いの?」
以前はどちらかと言うと、真白の来訪をやんわり敬遠していた怜の態度が一変したことに、真白は戸惑いを感じていた。怜の部屋にいるのは大好きだ。安心するし、心が和む。剣護がアメリカに行って寂しく感じる気持ちが、怜の部屋にいる時は少し薄らぐ。怜もそれと気遣って、真白を招いてくれているのかもしれなかった。部屋で寛ぐ真白を見る怜の眼はとても優しくて、つい甘えたくなる。
「おいでよ」
笑っているのに、なぜか泣いているようにも見える顔で誘われる。
「じゃあ、市枝と荒太君も」
「…私は遠慮しとくわ」
「俺も」
この遣り取りも三回目だった。
真白は急に、二人に突き放された気分になる。
けれど市枝の目には、柔らかく真白を包み込む、母親のような温かさがあった。
その理由が解らずに荒太の顔を見る。笑顔だ。偽物の。すぐに判る。
悔しくなって、真白は荒太の手首を強く掴んだ。自分よりもずっと太く、しっかりした手首に細い指を喰い込ませる。すれ違う男子生徒の目がそれを見て、お、と言う顔をする。元々目立つ要素の多い顔ぶれだ。
「…真白、あとからおいで」
怜は市枝と共に先に行った。
「どうしたの、真白さん?」
廊下の端に寄った荒太は、まだ笑顔の仮面を外さない。
真白はカッとなった。
しかし頭が冷えると、次は悲しみが込み上げた。
荒太に仮面を被られる心当たりが真白にはない。
(嫌われたんだろうか。私のこと、余り好きじゃなくなったんだろうか……)
周囲にはいつの間にか、目立つ二人の姿に足を止めたギャラリーで人だかりが出来ていたが、真白はとにかく夢中でそれが目に入っていない。荒太は気付いているが、彼らを大根や人参と見なしている。
悄然とした真白の口からついて出たのは、自分でも子供じみていると感じてしまう言葉だった。
「荒太君は、私が次郎兄に取られちゃっても良いの?」
良い訳あるかい、と荒太が心中で雄叫びを上げる。
「…真白さんの、お兄さんじゃない」
「そんな分別臭い台詞、荒太君らしくない」
これまでの自分の態度のツケもあるのだが、真白を騙しおおすのは結構な難題だと改めて荒太は悟る。そこで次は感情面に訴える。真白には有効な手の筈だ。
「――――あいつ、あれで結構へこんでるよ。…剣護先輩がいなくなって」
真白が顔を上げる。その瞳には、同じ傷を持つ者への哀れみがあった。
「ブラコンでシスコンの甘ったれだからさ。だから、今はついててあげなよ」
穏やかな微笑が、今度は本物だと真白にも判った。荒太の素顔を見られたことで、少し安心する。
荒太がその隙を突くように、黙り込んだ真白の、まだ自分の手首を掴んでいる右手を人目も憚らずに甘く噛んだ。人が密集した廊下で、どよめきが起こる。
忽ち、真白が逃げるように手を引っ込める。顔は真っ赤だ。
学校の廊下で何てことをするのだ、と思う。ここでようやく周りの注目の目にも気付き、一層、赤面する。
「お、お、大喰らいにも程があるよ、荒太君…っ!お弁当足りなかったの!?あんなにお弁当箱、大きいのに」
これを聴いたギャラリーは、あ、争点がズレてるな、と一様に思った。
このあたりが、女流歌人がやや天然と言われる所以でもあった。
荒太が真顔で応じる。
「知らなかった?俺は狼野郎だから、兄貴みたいに安心してちゃダメだよ。俺、満腹でも真白さんになら手が伸びるからね。―――――もう行きなよ。江藤が待ってる」
荒太の熱くてきわどい発言に当てられた生徒たちは、「あー、部活行かなきゃ」などと言いながら三三五五、散って行く。
真白はその声に押されるように、二、三歩進むと、荒太を振り返った。
荒太の微笑は変わらず、本物だった。
「…行っといで」
真白は頷くと、怜のあとを追った。
怜の背筋の伸びた後ろ姿は、金茶色の長い髪の市枝共々目立ち、すぐに見つかった。
その背中に真白は勢い良くぶつかり、隣を歩いていた市枝をも驚かせた。
「真白?びっくりした」
「次郎兄――――剣護、早く帰って来ないかな」
不意の言葉に、怜も市枝もハッとする。
真白は怜の背中にしがみついたまま、尚も続けた。
「帰って来ないかな。荒太君、皆が思ってるよりずっと良い奴だよって教えてあげたい」
教えてあげたい、と繰り返す真白に、怜と市枝は顔を見合わせた。
その晩、〝良い奴〟こと荒太は盃を片手に、傍らには地球儀と月球儀を引き寄せて胡坐をかいていた。兵庫のデスクに置いてあったそれらの模型を、勝手にテーブルの上に移動させたのだ。
「おい、兵庫。お前これ、どう考えても実用じゃないだろ。部屋に来た女に見せる、演出の為の小道具として置いてるだけだろ」
言いながら、地球儀をコンコン、とノックするように軽く叩く。
酔っ払いの口から出た非常に失礼な発言に、兵庫は苦い顔をする。
完全にからみ酒だ。
「俺を色事しか頭に無いボケ男みたいに言わんでください。俺の職業、フリーライターですよ?色んな知識が要求されるんです、飾りじゃありませんよ」
そう言ってさっさと地球儀と月球儀を奪還し、デスクの上に戻す。
兵庫は、自分の家で出来上がってしまった主君を前に、後始末に悩んでいた。
正直言って、面倒臭い。
しかも一見、素面にしか見えないから、一層性質が悪かった。
黙々と盃を傾ける荒太の手首を掴む。
「…そのへんにしといたらどうですか。俺に迷惑かけるの、やめてくださいよ」
荒太は答えずに、節くれだった兵庫の手をじっと見た。固い掌の皮の感触などから、こいつ今でもこっそり鍛錬を怠ってないな、と荒太は思う。嵐下七忍の一員として、見上げた心意気ではある。
しかし密かな感心とは別に、荒太はそのいかつい手をぺ、と振り解いた。
「お前の手なんぞ、飢餓状態でも誰が食うかい」
「何の話ですか。人の手を見て勝手に食べ物判断しないでください、失礼な。おい、片郡。お前からもこの、呑兵衛主君に何とか言ってやれ」
嘗て、本能寺において兵庫と共に討ち死にした過去を持つ片郡は、盃を手に柔和な笑みを浮かべていた。嵐下七忍の中でも、体格の良さは黒羽森と一、二を争う。建築現場で働くには最適だろう。けれど立派な体躯に似合わない子供のように澄んだ瞳は、前生のままだった。
「放っておいて差し上げては。…真白様のことで、色々と心労もおありかと思いますし」
「おい、お前ら。真白さんの手はなあ、柔らかかったぞ!噛み甲斐が十二分にあったぞ、あれを見習え、あの、白い柔肌を!!」
暴言を吐きながらも、荒太の顔は至って真面目で顔色も変わっていない。言う端から重ねられる盃だけが止まらない。
「―――――――心労?」
どこが?と兵庫が冷たい目で荒太を見る。
片郡の見解は甘いのだ。
「って言うか、荒太様。人の主君に何してくれてんですか。噛んだ?噛んだって言いました?柔肌が何ですって?」
「兵庫どの、落ち着いて!」
「放せ、片郡。言うに事欠いてこのガキャ…」
「兵庫どの、御主君ですよ、荒太様もあなたの御主君ですっ」
大の大人二人が揉み合うのを横に、荒太の言葉による暴走は尚も続く。
「………良い奴だなんて思われたら、男として終りだ。俺、思われたかもしれん。ああ、くそ。いくら好感度が上がっても男じゃなくなったら意味ねえー。おい、兵庫。俺を『兎の巣穴』に連れて行け」
脈絡の無い荒太の要求に、主君を諌める務めを投げ出して、一人ウィスキーを呷っていた兵庫が、ごふり、と噴き出す。琥珀色の液体が床にこぼれる。
咳き込みながら、乱れた口調で問い質す。
「どうして荒太様がその名前知ってんですか、山尾ですかっ!?」
「ちげーよ、俺独自の情報網。〝ゆかりちゃん〟の勤め先なんだろ?」
「未成年をクラブに連れてける訳ないでしょうが!大体、真白様が知ったら泣かれますよ、嫌われますよ」
そこで暴走する一方だった荒太の勢いが急激に落ちた。
盃をテーブルに置き、しゅんと肩を丸める。
「…泣かれちゃやだ」
「でしょう」
「嫌われるのもやだ」
「そうでしょうとも」
「……おやすみ。ご静聴、ありがとう」
「ちょちょちょ、ここで寝ないでください!」
誰も何も静聴してないしっ、と兵庫が慌てた。
結局寝入ってしまった荒太の肩に、片郡が甲斐甲斐しくシャツをかけてやる。
兵庫は呆れ顔でまだウイスキーを飲んでいた。ストレートを何杯目かになるが、一向に酔いが回る気配が無い。うわばみ振りでは主君にも負けていなかった。
「あんまり甘やかすな、片郡。ったく、人が虎の子にしてる、純米の大吟醸をカパカパ飲みやがって。…今日は株の相談をしようと考えてたんだがな」
これでは使い物にならない、と健やかな寝息を立てる荒太をちらりと見る。
ふう、と息を吐き出すとやれやれと頭を振った。
「…片郡、マンションの下まで送って行ってやれるか?」
片郡が人の好い笑顔で頷いた。
「はい。…今日は、山尾どのはお留守のようで」
「ああ。何でも、猫の集会に顔を出すとか言ってたよ」
片郡が、目をしぱしぱと瞬かせる。
「ははあ。―――――付き合いですねえ」
変わらず純朴な同輩の言葉に、兵庫が軽く笑った。
秋の赤い紅葉が散り、冬の白い雪が舞うころになっても、怜はまだ妹を放せずにいた。真白も怜に頼り、もたれることが自然になっていた。長兄に置き去りにされ、身を寄せ合うように生きる兄妹は、美しく、痛ましかった。荒太と市枝は、それぞれの距離の取り方を測りながら、彼ら二人を見守っていた。
九月の誕生日、真白から贈られた家族の人数分のコースターを、荒太は一人で大事に使っている。藍色と白と空色のステンドグラスで作られたそれは、中央部に薄くて丸いコルク板が敷かれ、ガラスコップを載せても滑らないようにと工夫が施されていて、真白らしい濃やかな心遣いに荒太は微笑ましい思いがした。
最初、真白はそれを白い花びらだと思った。
白い花びらが、天から降って来ているのだと。
だがそれは雪だった。
白い花びらのような雪が、真白の上から、あとからあとから、絶え間なく降っていた。
音も無く、しんしんと。
真白は子供のように両腕を大きく広げて、それを受け止めた。
コートを着ているとは言え、余り病弱な身体を冷やしてはいけないと思いながら、それでも全身で雪を受け止めたい気分だったのだ。
〝俺、季節の中では、冬が一番好きだな〟
〝どうして、剣護?〟
〝だって雪、降るじゃん。花びらみてーのが、特に好きだ〟
けど、と剣護は笑顔で言ったあと、顔を曇らせた。
〝けど真白は、風邪ひいてきついよな。ごめんな〟
そう言った兄の顔を、真白は良く覚えている。
大雑把な性格なのに、時々、人にとても気を遣う一面を見せた。
雪が降る。
〝真白にあげるよ〟
彼の声が聴こえた気がした。
〝真白にあげる〟
降りしきる雪の花の中。
(剣護。剣護。剣護…帰って来て)
天に向けられた真白の両目から涙が溢れる。
(帰って来てよ、剣護)
〝しろ〟
〝しろ〟
〝しろ〟
降り注ぐ雪の花びらは、剣護の呼ぶ声のようで。
剣護の声が降り注ぐようで。
〝俺はお前が大事だよ、真白〟
それなら帰って来て欲しい。
自分の傍に。
あの緑の瞳が恋しい。
―――――――――恋しい。
「…剣護………」
雪の花びらは薄く開いた真白の唇にも舞い降りて、真白の舌に冷たい感触を残して溶けた。
先に部屋に入っていた怜は、中々来ない真白を心配して、アパートの二階から降りて来た。
雪の降る駐車場で、泣きながら立ち尽くす妹の姿に目を見張る。
「何してるんだ、真白!風邪をひくだろうっ」
叱るように言うと、急いで真白の身体を包むようにして部屋の中へと導いた。
部屋を空調で強めに暖めたあと、怜はホットミルクを作って真白に差し出した。
「次郎兄。…やっぱり、剣護がいないと寂しいね」
ホットミルクを少しずつ口に含みながら、電気カーペットの上に座った真白は言った。
「―――――そうだね」
最近では、怜たちも真白が剣護を語る不意打ちな言葉に、だいぶ対応出来るようになっていた。
ポタリ、とホットミルクに涙が落ちる。広がるミルククラウン。
「真白……」
一緒にいるのが怜であることも手伝い、真白は子供のように泣き出してしまった。
「寂しいよぅ。剣護、何でまだ帰って来ないんだろ。ねえ、次郎兄、どうして?冬になったら牡蠣鍋、するって言ったのに」
泣き顔の真白に問われて、怜は言葉に詰まる。
「真白―――――真白。太郎兄が…戻るまで、俺が真白を守るよ。兄として。何からも守るから。だから、そんなに泣かないでくれ。お願いだ。真白に泣かれると、俺はどうすれば良いのか解らなくなるんだ」
夏の終わりから怜は、一磨に頼んで碧に、度々遊び相手として会わせてもらっていた。荒野に戻った怜の心が縋れるのは、残った弟妹である真白と碧の存在だけだった。
剣護を失った心の傷は今も癒えることなく、彼もまた苦しんでいた。
(次郎兄。次郎兄を、私が困らせている。次郎兄だって、寂しくない訳ないのに)
遠慮がちに自分を包み込む腕の持ち主は、優しいのだ。
(優しい兄様)
「ごめんなさい…」
怜が俯かせた頭を横に振る。
真白は兄の頬に涙を見た。前髪の下、静かに滑る雫を。
「良いんだ。………良いんだ」
(次郎兄…。どうして?どうして泣くの)
白い雪は一晩中降り続き、翌朝、真白は銀世界で目を覚ました。
そして、剣護がいれば大はしゃぎするだろうに、と思った。