白い現 三 中
それから数日が経ち、夏休み最終日。
幼少から成人を過ぎた年齢を含む多くの学生たちが、終わらぬ宿題の山の前で青ざめ恐怖しているであろう日、荒太はそれを他人事にのんびりクッキーを焼いていた。
そこに母が、何やら慌ただしく駆け込んで来る。
「ちょっと、荒太!荒太!」
「――――何」
不機嫌な顔でそれに応じる。専業主婦である母親以上に料理研究に熱心で、のみならず菓子作りや果実酒作り、果ては漬物やジャム、ピクルス等の保存食の製作にまで手を広げる一人息子のいる成瀬家において、荒太が立っている間はキッチンは彼の城だ。調理中に気を散らされるのは嫌だと常日頃から言ってあるのに、能天気な母はその言葉をすぐにけろりと忘れてしまうのだ。
「江藤君って同級生が来てるわよっ。江藤君って同級生が」
「………一度言えば解るよ」
母の頬はピンク色に染まっている。
考えるまでもなく理由の解る荒太はうんざりした。
「すごい美少年ねえ!すっごい美少年ねえ!少女漫画に出て来そうっ。きゃっ」
なぜか照れながら大いに盛り上がる若々しい母親を前に、荒太は逆に冷める一方だった。
「…それも一度言えば解る」
「それに何だか、真白さんに少し似てるし!」
「…………」
その言葉だけは繰り返されなくて良かった、と荒太は思う。
チン、とオーブンの鳴る音が響いた。
まさか怜が自分を訪ねて来るとは思わなかった。
荒太は意外な思いで、部屋の窓際に立つ彼を見ていた。
束ねられた薄茶色のカーテンの手前に佇む姿は、いつも通り端整で隙が無い。そのままで絵になる様子が小面憎い。
(……相変わらず、能面な顔。つまらへん)
少しは憔悴した姿を見せるなり、しろと言うのだ。
―――――――兄を、剣護を亡くしたあとなのだから。
「…カルピスに美の神髄でも発見したんか?」
それは、荒太の出したカルピスを手に持ったまま、それにじっと視線を注いでいる怜への嫌味だった。
怜が静かな目を荒太に向ける。
「そうだな。乳白色が大理石を連想させて綺麗だと思う」
真顔だ。
荒太は苛立って舌打ちした。
「ボケにマジで返すな、阿呆」
「マジレスを期待されてるのかと思って」
「するか」
その言葉に笑った怜は、カルピスを数口飲むと、荒太の勉経机にコップをコトリと置いた。
「成瀬。お前に頼みがある」
そう切り出した怜の顔は、真摯且つ殊勝だった。
どういった風の吹き回しだと荒太は面食らっていた。
「――――――なんや」
「…真白を」
その名前に、荒太の身体がピクリと反応する。
「あの子を、しばらく俺に預けてくれないか」
荒太の顔が警戒に険しくなる。
「……どういう意味や?」
「今までより真白の側近くに、長い時間いることを許して欲しい」
長い時間、真白の側近くに―――――――。
「剣護先輩の代わりでもするつもりか」
無理だという響きを籠めて強く言い放つ。
怜が首を横に振る。
「そうじゃない。そういう、おこがましいことは考えていない。………ただ、今の俺に、あの子の存在がどうしても必要というだけの、情けない話だ」
怜は今、荒太に自分の傷口を晒していた。
「―――――…」
(中身まで能面な訳、ないか)
剣護が結界を閉じたのち、気を失った真白を抱いた怜と荒太は、見知らぬビルの屋上に立っていた。あたりは既に真っ暗だった。車で駆け付けた兵庫に送られどうにか真白を家まで連れて帰り、市枝と一磨、要に辛い報告を終えた二人は、そのまま眠る真白の傍で一夜を明かした。何があったのだと問い質す真白の祖母たちに、二人は何も答えることが出来ず、ただ彼女の傍についていさせて欲しいと懇願した。逼迫した顔つきの彼らの頼みを、真白の祖母・塔子と絵里は逡巡の末に受け容れた。
目覚めた真白はきっと激しく泣くだろうと、二人共覚悟していた。
それぞれ真白の部屋の床に座り込み、荒太も怜も、まだ茫然自失の状態だった。絵里が差し入れてくれたお握りにも、ほとんど手が伸びなかった。剣護の死がもたらす喪失感は、強く二人を打ちのめしていた。無言のままに、重苦しい闇夜は過ぎた。怜は気付けば枯れていた竜胆の花を、真白の目につかない内に処分した。
だが翌朝、心配そうに顔を覗き込む荒太と怜を見た真白は、戸惑いの表情を見せた。
〝…あれ、どうして二人がここにいるの?〟
そこに悲痛な嘆きの気配は無かった。
〝どうしてって…、だって、剣護先輩があんなことになって〟
具体的な内容を濁す荒太を、真白はきょとんとした顔で見た。
〝あんなことって…。剣護は、アメリカ留学に行っただけでしょう?〟
これを聞いた怜と荒太は、揃って息を呑んだ。
真白の話によれば、鏡子が全てを終わらせる為に一人、結界内で自死し、傷心の剣護は国外に発ったということだった。目的は父親であるピーターの母校である大学で学ぶ為の、アメリカ留学だ。昨日は三人で、彼を飛行場まで見送りに出かけた。
強引ではあるが、真白の中ではそのように話が形作られたのだ。
耐え難い現実から逃がれる為に、真白は虚構の物語を創り上げた。
彼女は今、真に目覚めてはいない。慎重に絶望を遠ざけた眠りの中にいる。
荒太は怜を睨んだ。
「――――なんで俺に許可を求めんねや。俺に訊いたら、あかん言うに決まってるやろ!どんな事情かて関係ない。真白さんに近付く輩を、なんで俺が許すんや!!」
「俺だけの話じゃない。―――――真白にも、俺が必要だ。例え忘れた振りをしようと、記憶の中枢には、あの日のことが深く刻み込まれている。…胸の内側に残ったひどい傷が、今でも血を流し続けているよ。今のあの子の笑顔は……、あくまで仮初めのものだ。いっそ泣いてくれたほうが、まだ対応の仕様もあった――――――」
そのことは荒太も良く了解していた。
それだけに、真白の傷を持ち出す怜に激しい怒りが湧いた。
「卑怯やぞ、江藤」
怜は否定しなかった。
「解ってる。……すまない」
荒太は歯噛みして悩んだ。
怜であっても、限られた時間であっても、真白を譲りたくはない。
しかし、真白の心に空いた、長兄を失った穴を少しでも埋められる存在がいるとすれば、それは恐らく次兄である怜しかいない。真白が怜に寄せている信頼も、どれだけ慕っているのかも荒太は知っている。認めたくはないが、真白は怜が大好きなのだ。そして、真白と怜にとって剣護は血肉にも等しい存在だったが、荒太にとってはそうではない。好ましく思い、尊敬もしていた相手ではあったが、真白たちが彼に対して抱いていた情の強さには及ぶべくもなかった。より近しい痛みを持つ者同士のほうが、慰め合えるところは大きいだろう。
「―――――学校の奴らには何て言う。もう、俺と真白さんはほぼ恋人同士に見なされてたんやで?そこにお前が割り込んだら、下手したら真白さんが、俺ら二人を両天秤にかけてるて見る奴かて出て来るぞ」
「俺がそれらしく言い繕う。どこにも角が立たない話を、皆には信じてもらう」
荒太は静かに言い切った怜の顔を眺め回した。
〝今、私は世界の平和について思いを馳せ、悩んでいるのです〟とこの秀麗な顔で憂いがちに語られて、それを疑う人間が果たしてどのくらいいるだろう。
内容に関わらず、彼がひどく真実味を帯びた声で語れば、聴く側は大抵の話を信じてしまうだろう。怜には詐欺師の才能もありそうだ。
「…江藤お前、クッキー好きか」
「ん?うん」
「さよか。やらん」
荒太はぷいとそっぽを向いた。
(嫌な奴……。ほんま、嫌な奴)
「実は俺、門倉さんとは血の繋がった実の兄妹なんだ。誕生日とか本当の親とか、誤魔化されていたことを全部、俺は知ってしまった。それでこの学校に編入して来たんだよ」
案の定、夏休み明け、二学期が始まって一日目のホームルーム前、怜がまことしやかに語った韓流ドラマばりの作り話は、驚かれながらもクラスメートたちにすぐに受け容れられた。
「ああ、だから時々、なんとか兄とか、真白とか呼び合ってたのかっ」
「道理で親しげだと思った~。編入の時期も、微妙過ぎたもんねえ」
「顔も似てるしね。私は、前から怪しいと睨んでたよ!」
「ね、ね、じゃあさ、しろりんと成瀬が良い雰囲気になって、兄としてちょっと面白くないなあとか、あった?」
最後の発言は、上野みちるによるものである。
怜は微笑んで答える。
「うん、ちょっとね。俺だって長いこと離れてた妹と、兄妹らしく過ごしたいのにと思って焦れたりしたよ。だからこうやって実情を暴露して、妹を確保しようって作戦に出たんだ」
成る程成る程、と頷き合う同級生たちを、荒太は呆れて見ていた。
(簡っ単に丸め込まれやがって…。江藤は狐だ狸だ、ペテン師だ)
同級生たちが皆、お人好しでおめでたい人種揃いなのではなく、寂しげな色を含んだ怜の面持ちと声に説得力があり過ぎるのだ。しかもその醸し出す空気が、演出ではなく、彼の真情から生まれたものであることが、説得力に拍車をかけていた。
どこにも角が立たないと怜は言ったが、怜が実家とほぼ絶縁状態であるからこそ、出来る離れ業だ。真白の親や祖母と怜の家族が接触したところに、一年A組の生徒が居合わせれば露見しかねない嘘ではあるが、その可能性は極めて低い。そして周囲は、長年離ればなれになっていた兄妹を、温かい目で見守るだろう。
「でも双方の親には、俺たちがこのことに気付いてるって内緒だから、もし顔合をわせる機会があっても、何も知らない振りで通してくれないか?もちろん先生たちにも同じように」
「オッケー、オッケー」
「特クラ一年A組の団結力の見せどころって訳ね」
アフターフォローまで抜かりが無い。
真白はその光景を見てポカンとして立っている。
予め、このように話をするということは怜から言い聞かされていたものの、ここまで呆気なくクラスの人間を信じ込ませるとは思っていなかったのだ。兄の巧みな話術に、半ば慄くような思いでいた。
「こ、荒太君、荒太君」
席に着き、左手で頬杖を突いて怜の人心掌握術を白々とした目で傍観していた荒太は、横から慌てた様子で声をかけて来た真白に顔を向けた。
「何?」
「次郎兄が将来、詐欺罪で捕まったらどうしよう。私、ちゃんと警察署までお迎えに行ってあげなくちゃ。あ、有罪判決が出たら留置場?差し入れの仕方とかどうやるんだろう。ああ、斑鳩や黒羽森にも、その時は相談に乗ってもらわないと」
驚きの余り、考えがかなり先走っている。
「迎えに行かなくて良いし差し入れも要らないよ。それより真白さん、はい」
そう言って真白の両手に、鞄から取り出した、透明な袋にラッピングされたクッキーを渡す。
「…荒太君が焼いたの?焼けるの?」
真白が袋をじっと覗き込む。
「…色んな形がある。お人形とか熊さんとか。マーブル模様もあるね!」
「うん」
「美味しそう。すごいねえ、荒太君。ありがとう」
無邪気に笑う真白を見て、満足する。
怜が兄妹の時間を欲しがる気持ちは認めるが、自分が真白に示す好意を控える気も無い。
(だから好きなだけ兄妹やってろ、莫迦野郎)
少しだけ拗ねている荒太を置き去りに、怜の告白を聴いたクラスメートは、次に真白に押し寄せ、彼女を質問攻めにした。真白は一生懸命、怜に話を合わせて質問に答えながら、その間中ずっと、クッキーの袋を死守するかのように大事に抱えていた。
剣護の両親は、息子の捜索願を警察には出さなかった。
真白の祖母たち、両親たちと話し合った末の結論だ。
捜索願を出せば、真白の創り上げた物語は突き崩される。そうならざるを得ない。
剣護は留学しているのだという、真白の思い込みを乱暴に壊すような真似をすれば、彼女の精神が崩壊してしまうかもしれない。
剣護は元気にしているだろうか、と笑顔で語る真白を見て、彼らはそう思ったのだ。
苦渋の末、今いる真白の心を守る道を選ぶ決断をした。これが剣護の覚悟の失踪であれば、いずれ彼が自発的に戻る日も来るかもしれないという、僅かな望みにも賭けてのことだった。
〝剣護、クリスマスには帰るよねえ、ピーター?〟
そう、期待に満ちた顔で叔父に尋ねる真白を見て、叔母は顔を伏せ、肩を震わせた。
〝剣護〟
その名前を真白が語る度、家族たちは怯み、言葉を失くした。
学校や周囲には、真白の思い込みをそのまま適用した。
急な話ではあったが、元々破天荒な面を持つ剣護の留学話に、別れを惜しみながら教師も生徒もそれなりに納得する表情を見せた。しかし学校側としては、極めて優秀な生徒だった彼が卒業を待たずに発ったことへ、遺憾の意を表した。退学手続きも何も済ませずに学校を出た剣護は、放校処分にならざるを得ない。生徒会長をも務めた過去を持ちながら、名門・私立陶聖学園高等部の卒業資格を持たずに飛び出した剣護の行動は余りに軽はずみだ、せめて一言、自分に相談してくれていれば、と数学教諭であり生徒会執行部の顧問でもある山崎は悔しそうに言葉を重ねた。
そしてただ一人、剣護のアメリカ留学の話に納得の表情を見せなかった生徒がいた。
畑中冬人だ。
剣護の親友として、畑中の名前を度々聞いていた真白は、三年の教室まで出向き彼に直接、従兄弟の留学話を伝えた。最後に挨拶もせずに発つことを詫びていた、と言い添えて。
真白が語るその話を、難しい顔をして黙って聴いていた畑中は、最後に眉を寄せて訊いた。
〝……真白ちゃん。それ、ほんとの話?〟
畑中の疑念に満ちた問いに対し、自分自身、その虚構の物語を全力で信じ込んでいる真白は、その反応に瞬きし、頷くより他無かった。