布陣 一 前半部
理の姫と対面し、真白が下した決断とは――――――――。
第二章 布陣
茨の道を選び取る
噴き出る色は
赤い色
鉄の靴を履き
踏み鳴らせ
一
理の姫・光は、姉である若雪のことを常に気にかけていた。
若雪が真白として転生してからもそれは変わらず、姉として慕い、安否を気にかけていた。
――――――――だからこそ、彼女にこの、自ら創り出した空間まで足を運ばせた自分を恥じていた。真白たちがここまで来た要件が、理の姫には既に解っていた。
摂理の壁の崩壊は、理の姫の積年の悲願だった。
吹雪の圧倒的な力を利用し、それが叶った時には達成感と高揚感で胸が満ちた。
だが、崩壊は思わぬ存在を生み落していった。
―――――――それは人の世に害を成す魑魅魍魎。
その存在が、吹雪が禍つ力を発揮した時に起こる筈であった、自然災害と同数であると知った時、理の姫は己の詰めの甘さを痛感した。
人を先んじて災いから救うべく成した摂理の壁の崩壊が、異なる災いを呼んだ。
まるで理の姫を嘲笑い、その目を盗むような密やかさで。
妖は、蠢き始めた。
ゆえに、理の姫は自ら起った。
花守を信用していない訳ではなく、自身で事態の回収に当たらなければ、とても自分を許すことが出来なかったからだ。
けれど理の姫は、再び失敗した。
決して油断していたつもりは無いが、人界に降り、魑魅魍魎を狩っていた際に傷を負った。本来、あってはならないことだった。淀みと濁りから生まれた妖が、光を操る全き神である理の姫を害し得ることなど。傷の癒えるまでには時がかかった。その為に、過剰に事態を憂い、心配して先走った花守たちを、自分が責める資格など無いことも理の姫にはよく解っていた。
(しかし――――――――)
真白たちは今、理の姫と花守たちと対話する姿勢で、思い思いに座していた。
真白の手にある雪華を、理の姫は苦々しい思いで見つめる。
(姉上様たちまでをも巻き込むとは)
理の姫の顔をじっと見ていた真白は、何だか苦しそうだと思った。
(傷は癒えたと聞いた…。それなら、なぜこんな表情を理の姫はしているんだろう)
―――――己自身に憤っているからだ。
真白が答えを出すのは早かった。真白にも、よく理解出来る心情だったのだ。
(……やっぱり姉妹ってことかな)
どこか性分に通じるものがあるのだ。
理の姫が自分に見せる顔はいつも柔らかく、親しげで優しい。そんな彼女が、苦痛を堪える顔で自分を見ている。
相手は神だが、妹でもある。
痛ましい、と真白は思った。
そしてそう思った時点で、真白の胸には確信が生まれた。
自分は、誰に反対されても彼女を助ける道を選ぶだろう、と。
たった一人の妹を―――――。
剣護たちだけではない。自分にも守りたい妹はいるのだ。
理の姫が沈痛な面持ちのまま、口を開いた。
「姉上様―――――、魍魎に、お遭いになりましたね」
「……うん」
「恐ろしいと思われたでしょう」
「――――――…」
迫り来る手。崩れゆく皮膚。斬った感触―――――――――。
そそけ立つ感覚が蘇り、真白は理由も無く荒太の顔を探した。
彼は真白の座る左後ろにいた。その顔を見る。
怪訝な顔をするでもなく、荒太は黙って真白を見返し、小さく頷いた。
〝大丈夫だ〟と言うように。
(大丈夫だ。きっと)
真白は自分でも、自分自身に言い聞かせた。
それから、息を吸った。
「――――――思ったよ。とても、怖かった」
「ならば――――――――――」
「でも、次は平気になる。次が無理なら、その次に平気になる」
真白は理の姫の言葉を遮って続けた。
理の姫が目を見張る。
「…そのような簡単な話では」
「…うん。解ってる。でも、平気にならなくても、―――――倒すよ」
話が勇み足になっている、と剣護は感じた。
「おい、しろ―――――――」
ちょっと落ち着け、と声をかけるつもりだった。けれど、声が出なかった。
振り向いた真白の目は静かな湖のようでいて―――――底光りするものがあった。
剣護は、妹の瞳に気圧された。
真白は再び理の姫に向き直って言った。
「私は、理の姫を守りたいよ。花守に頼まれなくても、それは変わらない。……だからもう大丈夫だよ、光。私もいるから」
理の姫は絶句した。
真白は、水臣がちらりとこちらを見るのを感じたが、気に留めなかった。
「―――――――――姉上様は、お変わりないのですね…。いつの世も」
理の姫は僅かに笑いをこぼし、唇に手を当て目を閉じた。
そこからこぼれ落ちた滴を、その場にいた誰もが見ない振りをした。
水臣が、静かに進み出た。
「雪の御方様。我らが滅した魑魅魍魎の数を、お教えしておきたいと存じます」
再び雪華の導きにより、理の姫の空間から市枝の部屋に戻った面々には、互いの顔を窺い合うような微妙な空気が流れていた。
「……何だか予想したより速いスピードで、なしくずしに話が決まった気がするんだけど…」
怜が戸惑いがちに言う。正直なところ、彼は真白の意思の強さに圧倒されていた。また、話の急な流れに懸念を抱いてもいた。
(危ういと感じるのは俺だけか)
隣に立っていた市枝に目を遣ると、彼女にさして動じた様子は見受けられなかった。
「そうね―――――。でも、私は別に構わないわよ?こんなことになるんじゃないかって気はしてたし。……真白が決めたんなら。前生で、市は若雪とは一緒に戦ったことが無かった。…そんな力も、無かったしね。だから今生で共闘出来るのは、むしろ嬉しいくらいよ」
先日、明臣に対して見せた剣幕を忘れたように、市枝があっさりと言う。若雪も真白も、一度決めたことは翻さないと長い付き合いで解っているのだ。加えてお市の方だった前生とは異なり、自ら戦う力を持ち得る現状は、市枝にとって悪いものではなかった。
剣護と荒太は沈黙していた。
とりわけ剣護からは、静かな怒気のようなものが感じられた。
さすがに真白が、小さな声で訊く。
「―――――怒ってる、剣護?」
「怒ってるよ。―――――――――自分に対して」
「え?」
剣護は物騒な顔をしていたが、醸し出す怒りの気配は、どうやら彼自身に向けられたもののようだった。
(…結局、こうなるのか)
真白は、守りたいから、と言いながら自ら火中に飛び込むのだ。庇護しようとするこちらの腕をすり抜けて。
―――――若雪と同じ道を歩んでいる。
そして剣護はそれを止めることが出来ない。
(気圧されて、真白がみすみす危険な事態に身を置くことを防げないとは)
若雪だった時からそうだ。
真白は時々、見る者が従わざるを得ない目をする。それは威風という、彼女の美質かもしれないが。剣護は考えざるを得なかった。
あの目は真白を生かすだろうか、殺すだろうか――――――――。
(危険に近付く術になるんじゃ、真白の為にならない。それはもう、美質ではない)
先の目測が立たない、ということは剣護をひどく不安にさせた。彼は真白に対応しかねている自分を感じた。
「兄失格だな…」
「ああ、そらあきません」
剣護の自嘲の言葉に、即反応したのはそれまで黙っていた荒太だった。
「は?」
剣護を含め、目を丸くする真白たちの中、荒太は続けた。
「せやから、剣護先輩がそない弱気やと、俺ら全員の士気に関わる、言うてますねん。―――――――自分が大将や、いう自覚が無いんですか?」
「……俺たちは真白を中心に動く。…動いている筈だ。だから今、こういう状況にもなってるんだろ」
珍しく苛立ちの混じった剣護の言葉には、荒太も頷いた。
「はい。そらそうですけど、矢面に立つんは剣護先輩、いうことにしといたがええですやろ。真白さんを隠す、カモフラージュとして」
その場にいる全員が虚を突かれた顔をした。
最も早くその言葉に対応したのは、怜だった。
「…成る程。適任では、ある」
「―――――――――お前ら、俺はどうなっても良いってか」
剣護がぼそりと落とした呟きに対する反応は、乾いたものだった。
「そらまあ、男性と女性では違いますし」
「太郎兄、良い見せ場が出来たね」
荒太と怜が、妙に息の合った声を剣護にかける。
「………お前たちが仲良くなってくれて、俺は嬉しいよ」
止めとばかりに、市枝が言う。華やかな笑顔で。
「騎士は姫を守るものでしょう?剣護先輩」
「…………」
(誰が騎士だ)
ガリガリと頭を掻いて、剣護が盛大な溜め息を吐いた。
じろり、と荒太を睨み上げて尋ねる。
「んで、お前は何の役割だ?脚本家」
荒太はにっと笑った。
「俺は元忍びですさかい。陰で暗躍する遊撃手が向いてます。自由に動かさしてもらいますわ」
「―――――――俺も基本は自由に動くぞ。当面は、妖に対抗する為の格別な動きは起こさない。向こうの出方を待つ。……俺たちが理の姫の陣営に加わることを、遠からずあちらさんも知るだろう。透主の耳にも入る筈だ。――――――何らかの接触も、あるかもしれない。しばらくは現状維持で、降りかかる火の粉は協力体制で払う。…良いな、真白?」
剣護の、あくまで真白に主導権はあると言う姿勢を見て、やっぱ適任や、と荒太が茶化した。真白が深く頷く。
「うん。これからは、出来る限りこの中のメンバー二人以上で行動することにしよう」
これには剣護が異論を唱えた。
「いや、真白と市枝ちゃんは、極力単独で動かないこと。俺と怜、荒太は単独でも動く」
当たり前のように頷く男子二名とは反対に、真白と市枝が同時に眉を顰めた。
「何それ。倒した魍魎の数は、この中で私が一番多い筈だけど?」
市枝が突っかかる。
「だからさ、少しは俺たちの顔を立てろよ」
剣護が宥める口調で言った。
「………男女差別」
ぼそ、と不満を漏らしたものの、それ以上は真白も言わなかった。納得しきってはいない様子だ。
「…まあ良いわ。とりあえずは、そういうことにしておきましょう?」
市枝が髪を払いのける。
「水臣の話では、花守の倒した妖の数は総勢で二十。剣護先輩たちと真白、それに私の倒した数を含めると二十八。残り八十三か。だいぶ、捌けたわね」
「………八十だよ、市枝さん」
「あ、そうだった?」
市枝の計算に、囁くような声で怜が訂正を入れた。
やや後ろめたそうに、真白が告げる。
「……今更、私一人で理の姫を助けるなんて言っても、聞き入れてもらえないだろうからお願いするんだけど。自分の身をしっかり守ってね。危ない状況に陥らないよう、注意して、皆。――――――――お願いします」
真白が、深々と頭を下げた。
(私の選択が、皆を巻き込んだ。…―――――私には皆を守る責任がある)
けれど一人空回るだけでは、成し得ないこともあると真白にも解っていた。それぞれに、自衛の意識を上げてもらう必要がある。
当然、と頷く面々の中、こつん、と軽く剣護が真白の頭を小突く。
「お前もだぞ、真白。お前がもし魑魅魍魎に傷つけられたら、俺はそいつを八つ裂きにしてやるからな」
そう言った剣護の瞳に、冗談めいたものは微塵も無かった。
「もう、こうなったものは仕方ないから、表看板は俺が背負ってやるよ。けどこの集まりの、核になってんのは自分だって自覚だけは忘れんなよ」
「…うん。ありがとう、剣護。私も剣護を守るから」
微笑む真白に、だからそれはいらないんだって、と剣護が呆れたように言った。
その日はそれで解散となり、真白は市枝や荒太と別れて剣護と共に家に帰ったが、怜だけは真白に話がある、と言って一緒について来た。怜の言葉に、剣護は一瞬思案するような顔を見せたが、結局何も言わず自宅に入って行った。禊の時を経て真白が眠り続けていた間から、怜は何回も真白の家を訪ねていたので、真白の両祖母とはすっかり顔馴染みになっていた。
「話って何?次郎兄」
怒られるのかもしれない、と思いつつ、自分の部屋に入ると、真白は早速彼の用件を尋ねた。自然、上目遣いになる。
机に置かれた盆の上には、祖母が淹れてくれた緑茶の湯呑が二つ、湯気を上げていたが、真白も怜も、それを手に取ろうとはしなかった。夕刻と言って良い時間になっても初夏の日はまだ高く、気の早い蝉の音が少ないながら鳴り響いていた。
「うん。とりあえず、ここに座って、真白」
そう言って、怜はベッドの上をポンポン、と叩いた。
ベッドの枕元には、依然、剣護と怜、市枝が真白にプレゼントしたテディベアが置かれている。それを見た怜の目元が、一瞬和む。
大人しく腰かけた真白に向かい、怜はひざまずくような姿勢で彼女の顔を見上げ、目を合わせた。
「まず、これから俺が言うことは、真白の決断に怒っての言葉じゃない、ってことを理解して。良い?」
穏やかな声で前置きする。
「―――うん」
真白は顎を引いてコクリと頷く。
同時に真白が少しホッとした気配を感じて、怜は優しい笑いを浮かべた。それから顔を引き締めると、静かに語り始める。
「……真白は、今回の件で参戦を決めた。市枝さんはそれで良しとしたし、俺や太郎兄は元々魍魎を殲滅するつもりだったから、やることは今までとあまり変わらない。成瀬は元から、異存無いだろう」
「うん」
「ただ、自分の決断が招く結果は、ちゃんと受け止めるんだ。自分を責めることも立ち止まることもせず、そのまま、真白の意思を貫いて欲しい。今から俺たちは戦に臨むんだ。…誰一人、無傷で済むとも思えない。最悪の場合は俺たちの内、誰かが命を落とすことだってあるかもしれない。前生で俺は戦に参加したことは無かったけど、味方の人死にが出ない戦なんて、奇跡だってことくらいは解る」
真白が目を伏せ、唇を噛み締める。
怜はその顔をじっと見たまま続けた。
「もちろん真白はその奇跡を願って戦うんだろうし、俺たちだってみすみす死ぬつもりは無い。だけど真白には、どんな時でも後悔しない覚悟を決めておいて欲しいんだよ。自責の念に、溺れ過ぎない覚悟を。市枝さんだろうと、成瀬だろうと、俺や太郎兄だろうと、万一のことがあっても、嘆くなとは言わない。でも、自分を過剰に責めないで」
怜は、今後真白が陥るかもしれない最悪の状況に際して、真白が自分を責めることを恐れているのだ。自責の念に駆られる余り、悲嘆に足を取られ、動けなくなることを何より危惧している。
真白は怜の顔を凝視した。
鋭敏な頭脳を持った、繊細な次兄の顔を。
「――――――若雪が三十三歳までしか生きられなかったこと、実は俺も太郎兄も結構ショックだったんだ。俺たちよりは長生き出来たから良いとか、そういう理屈じゃなくて」
怜は真白の髪にそっと触れると、その頭を優しく撫でた。
「……真白には、もっとずっと長く生きて欲しい。真白がお婆さんになるまで。その時、真白の隣にはきっと成瀬がいるだろう。俺と太郎兄は、そんな未来を守る為に戦う。……幸せな時間が長く続いて、悪いってことは無いだろ?」
微笑を浮かべながら話す怜の姿が、急にぼやけた。
「……泣き虫だね、真白は」
「…泣いてない……」
「――――じゃあ、この滴は何かな?」
「……雨だよ…」
言い張るものの、真白は頬に流れる涙を止めることが出来なかった。
「ごめん、次郎兄。心配かけて、ごめん」
ポタ、ポタ、と涙が控えめな音を立てながら落ちてゆく。
「良いんだ。俺も太郎兄も、好きな道を選んで生きてる。だから良いんだよ、真白」
「――――――次郎兄は、優しい…。そんなに優しいと、生きにくいよ」
真白の言葉に、怜はどこか勝ち気な面持ちで微笑んだ。
「大丈夫。俺は、いざとなったら切り捨てることの出来る人間だ。太郎兄も、情は深いけど同様にね。真白が俺たちの心配をする必要は無いよ」
「―――――ありがとう」