白い現 三 前
三
下界をはるかに見下ろすリビングに、二人の妖は憩っていた。
隣り合って座り、それぞれにソファの背にもたれている。
アオハがギレンの無残な傷口にそっと触れる。
「治らないの?ギレン」
悲しげに顔を曇らせて問うアオハに、ギレンは優しく笑った。
「ああ…。透主の力も、腕の再生には追いつかなかったな。腐っても、神の刃だ」
ギレンの左腕は水臣との激闘により失われたまま、戻ることはなかった。
「泣くな、アオハ」
子供のように、顔をこすりながらアオハが言う。
「片翼でも、ギレンが好きだよ」
「ああ」
「一緒に飛び続ければ良い。ね?」
宥めるような優しさで、ギレンが相槌を打つ。
「ああ。――――――だが、時が来たようだ」
アオハが肩を揺らし、ギレンを見据える。
言葉を聞くまでもなく彼女の怯えが伝わる。
「そうだ。…透主が死んだ」
「キョウコが………、あの子が、死んでしまったの?じゃあ、じゃあ、私たちも」
薄茶色の目に恐怖が宿る。
「いや、いやだよ、ギレン。死にたくないよ、死ぬのは怖いよ」
頭を振り、取り乱す。
元来は、鏡子無しでも生きていた自分たちだった。彼女の力の恩恵に酔い、依存し過ぎた結果、鏡子が全ての魍魎のアキレス腱ともなってしまったのだ。
(私たちは、互いに引き金に指をかけた状態で、ずっと睨み合っていたのだ…。ただあちらが先んじた。それだけの違いだ)
怖けるアオハの身をギレンが片翼で包んだ。
「大丈夫だ。……一緒に飛んでくれるのだろう、アオハ?」
「…うん」
澄んだ薄茶の瞳に、ギレンは微笑を返した。
そして独り言のように語った。
「なあ、君。君の気が向いた時で良い、伝えてくれないか。門倉真白に。我々を忘れるな。忘れないでくれと―――――――――」
起こった悲劇と同じように、起こり得た悲劇も忘れないでくれ。
血に染まった手を見る度に、思い出せ。私は大地を震わせる筈だった。
大地を震わせ、アオハを生じ、大波が地を覆う筈だったのだ。
ここよりも北、東北の地で。
残った右腕でアオハを抱いたギレンは、天を仰いだ。
「―――――私の名は犠連。地の震えの代行者」
崩壊の音が聴こえる。
終末の音が。
ふ、と息を吐いて呟く。
「織田信長…。君とは、戦り合わずに済んだな」
「私はあの人、嫌い」
拗ねたようなアオハの声に、そうだろうなと笑い、喉を震わせる。
裏でこの終末の糸を引いた男の存在を、ギレンは嗅ぎ取っていた。
(透主殺しの真の立役者は、門倉剣護でも門倉真白でもない。白々しい顔をして。……今頃は、ほくそ笑んでいるに違いない)
ギレンは顔を巡らせ、誰もいない空間に向かって声を投げた。
「これで満足かね?」
恐らく今もどこかで耳をそばだてているであろう策略家の巫の耳には、これらの声が届いただろう。
春樹は天蓋つきのベッドに仰向けに転がっていた。
フカフカとした感触の豪勢な寝床の、一体どこが鏡子の気に入らなかったのか、春樹には理解出来ない。
(ギレンに怒られる手間が省けたじゃん。ラッキー)
彼もまた、残り時間の少ないことを悟っていた。
「あーあ、これで終わりかあ…。鏡子ちゃんもあっさり死んでくれちゃってまあ。門倉先輩にしたってさあ、後輩の命が惜しくはないのかね」
もう少し、この人間の世界で、享楽に耽りたかったものだ。
白い少女の顔が浮かぶ。
余り笑顔を見せてはもらえなかったが。
異界で行った共同作戦は、中々に面白かった。
彼女に殺されるものとばかり思っていた。
それならば悪くもないかと。
「嫌いじゃなかったんだけどなあ、ここ」
(…遊びをせんとや生まれけむ、だっけ?)
日本史で習った歌の意味が、なぜだか今、何となく解る。
遊びをせんとや生まれけむ
戯れせんとや生まれけん
遊ぶ子供の声聞けば
我が身さえこそ動がるれ
「あー、死にたくないっ」
そう言って、春樹は足をジタバタ動かした。
同時刻。
〝…元気でね、翔子〟
穏やかな響きに、ピアノを弾いていた翔子は手を止めた。
白鍵と黒鍵に向けられていた意識が逸れて、ピアノ教室の窓から空を見上げる。
青い、青い空の彼方から、ひどく慕わしい声を聴いた気がした。
久しぶりに聴く懐かしい声。いつの間にか姿を消してしまった彼女の。
「あら、どうしたの。望月さん?」
「―――――先生。今、鏡子お姉ちゃんの声が聴こえた」
確信を持って告げた翔子の言葉に、ピアノ教師は首を傾げる。
「望月さんに、お姉さんはいないでしょう?」
「あれ?うん。そう。だよね?変だよね?」
そうだ。
自分は、生まれてこのかた、ずっと一人っ子だ。姉などいない。
その筈なのに。
「……まあ、どうしたの?望月さん」
「え」
恐る恐る、呼びかけられて、翔子は自分の頬を滑る涙に気が付き、自分で驚いた。
「…何、これ」
混乱の中、翔子は逸る動悸と共に心の内で繰り返した。
(誰かが、私にお別れを言った。誰かが、私に)
透主の死に伴い、摂理の壁が崩壊した際に生じた数多の魍魎は全滅した。
それにより発生した個々の小規模な汚濁には、地上で待機していた明臣が随所に駆け、火焔により浄めてこれに対処した。
こうして魍魎と、神と人との戦は幕を閉じた。
しかし花守にも真白たちにも、失われた存在は余りに大きく、双方には深い傷跡が残された。それはまた、消えたギレンの望み通りでもあった。